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今日もいつもと同じ日のはずだった

 楽しんで頂けたら幸いです。

 覚えているのは、どん、と誰かに押されたことと、飲み込まれそうなほど眩い光。

 それだけだった。




 ――な、な、なんだこれは……。

 ――ひ、ひぇ、ひぇえぇ……。

 ――ファアル、見るな。俺の後ろに隠れていろ。ターフィル、これは一体どういうことだ。

 ――申し訳ありません。私にもよく……。


 まるで耳を塞がれているように微かな人の声が聞こえる。

 今彼女は自分がどうなっているのか、理解できなかった。意識が曖昧で、瞼ひとつ動かせないのだ。

 それどころか自分の体の輪郭すらはっきりしない。まるで溶けてしまったかのようだ。


 ――おそらく、こちらの方は召喚に巻き込まれたのだと思います。

 ――これは……。助かるのか。

 ――難しいかと……。これほどの重傷を治せるとしたら聖女様だけです。

 ――そちらの方が聖女様だろう? 起きて頂いて……。

 ――いえ、それも……。聖女様には、魂が、ありません……。

 ――な、何⁉︎


 言葉の意味が理解できないまま、音だけが耳を通り過ぎていく。体だけでなく意識まで散漫としているようだ。

 名前すらはっきりしない有り様に強烈な焦燥を覚え、必死で頭を動かそうとする。

 

 彼女の名前は、斎藤香代(かよ)。二十七歳。

 両親に兄と弟の五人家族で、香代は現在家を出て、ひとり暮らしをしている。

 食品メーカーで働く、普通の会社員だ。


 今日も彼女はいつも通りに出勤した。

 定時までにきっちり仕事を終わらせ、最寄り駅のホームで電車を待っていたはずだ。

 スマホを見ながら立っていたことは覚えている。

 その後、どん、と背中を押され、彼女はふらついて……。

 そこから先は強い光に飲み込まれて思い出せない。


 ――賭けになりますが……。

 ――なんでもいい、可能性があるならやってくれ!


 ひと欠片ずつ記憶を集めてなんとか自分を留めようとしていた香代をぼんやりと温かいものが包んでいく。

 それが彼女を繋ぎ止めてくれるものに思えて、自然に受け入れた。


 ――女神よ、どうかお力添えを。


 温かいもののおかげか、先程よりもはっきりと聞こえた。男性の声だ。低く、絹のようなすべらかな響きをしている。


 ――そして、異なる世界からのお客人。生きたい、と願うなら、どうか私に答えてください……。


 彼女の期待に反して意識はすとんと暗いところへ落ちていった。




「香代ちゃんはえらいねぇ」


 老婆が頬に皺をいっぱい寄せて笑い、彼女の頭を撫でた。

 父方の祖母だ。たまに遊びに行き、些細な手伝いをするたびに大袈裟に褒めてお駄賃をくれた。


 目の前にいるはずなのに顔がぼんやりとしてよくわからない。

 仕方ないのかもしれない。父方の祖母は香代が小学三年生の時に亡くなったのだ。


「肩たたきが一番うまいのは香代だなぁ」


 そう褒めてくれたのは母方の祖父だ。

 専業農家で毎日朝早くから畑に行く祖父はいつも腰や肩が凝るとぼやいていた。

 整体やマッサージに行ったほうがよっぽど効果があるのに、それでも一番は香代だと笑っていた。


 しかし、その声は靄の向こうから聞こえてくるように曖昧だ。

 最後に祖父の声を聞いたのはいつだっただろう。

 小学五年生の頃に亡くなったからもう十五年以上昔のことだ。


「今日は素晴らしかった。よく頑張ったな」


 彼女自身より誇らしげに笑ったのは父親だ。

 好きで習い始めたピアノはコンクールで入賞することはついぞなかったけれど、父親は彼女の一番のファンでいてくれた。


「そんな不安そうな顔するなよ。大丈夫、ちょっとずつでも点数は上がってる。香代ならできる」


 根気よく励ましてくれたのは兄だ。

 高校受験を前に彼女の苦手な数学を面倒くさがらず教えてくれた。

 志望校に受かった時は我が事のように喜んでくれて、香代は兄の期待に応えられたことが何よりも嬉しかった。


「おー、真面目にやってんじゃん」


 にやにやしながらそう言ったのは弟だ。

 ケーキ屋で初めてのバイトをしていたとき、上がる少し前に現れては彼女をそう冷やかした。

 そんな憎たらしいことを言いながら、帰る時間が遅くなる姉を心配して迎えに来てくれたことを、ちゃんと彼女は知っていたのだ。


「こんな……。こんなに、大きくなって……」


 目を潤ませて彼女の頬を両手で包んだのは母親だ。

 成人式のために着た振袖を見たときの反応だった。

 これから式なのに、母親にもらい泣きしてしまいそうになり、化粧が崩れると我慢した。


(……あれ、まずくない?)


 ぼんやりと過去の記憶を受け入れていた香代は不意に不安を覚える。


(これ、走馬灯っぽい……)


 そう思っても記憶はどんどん流れていく。

 大学のサークルで知り合った友人たち。

 入社して最初に仕事を教えてくれた先輩。

 初めて世話を任されたかわいい後輩。

 給料を貯めて両親と行った沖縄旅行。

 兄の結婚式と、その後生まれた目に入れても痛くない姪。


 楽しい、幸せなことばかりが思い出されるのに焦りばかりがつのっていく。

 このまま、今に記憶が追いついてしまったら……。


(やだ! まだ死にたくない‼︎)


 強くそう願った。

 だってまだ後輩の相談に乗ってあげたいし、先輩に色々教わりたい。友人たちと旅行に行きたいし、両親にももっと親孝行をしたい。

 何よりかわいい姪に初めての誕生日のプレゼントをあげていない。


 今死んだら絶対に死にきれない。


(助けて!)


 誰に向けてかわからないまま、香代は助けを求める。

 カッと強い光が香代を飲み込みまた意識が途切れた。




(あれ……)


 次に意識が回復したとき、香代は謎の場所に立っていた。

 目の前には吸い込まれそうなほど大きな満月。

 足元には銀色の砂がいくつものなだらかな丘を作る砂漠がどこまでも続いている。


 そこでハッと気づく。

 さっきまでバターのように蕩けて曖昧だった体がしっかり地に足をつけて存在している。

 服装は今朝選んだベージュのトレンチコートに、白いカットソーとオリーブグリーンのパンツだ。

 オフィス向けの固めな服装はこの夢のような空間でとてつもなく浮いていた。


 あの走馬灯はなんだったのだろうか。

 朧げだが、その前にも何やら話す人々が彼女の側にいたはずだ。

 あれは現実だったのか。


(そもそも、ここはどこ? 夢を見てるの?)


 戸惑いのまま、周囲を見回す。

 この世のものとは思えない美しい景色が広がっているが、月と砂漠以外は何もない。

 生き物の気配もなく、耳が痛くなるような静寂に包まれている。


(や、やっぱり、わたし、死んだ?)


 認めたくなかったが、こんな場所は世界のどこにも無さそうだ。

 ならあの世ではないかと考えてしまい涙ぐむ。

 吸い込まれそうなほど輝く月が滲んで見えた。そのせいか、ぽつんと墨を落としたような影が光の中に現れた。


「……とり?」


 久しぶりに出した声は意外にも滑らかだった。

 そんなことも気にならないほど、視線は月を背負った影に吸い寄せられる。

 ブーメランのようなシルエットのそれは確かに時々羽ばたいてこちらに向かって飛んでくる鳥だった。


 近づくにつれはっきりするその姿は鶴に似ている。

 ただ羽毛は影になっているからではなく、烏のように艶やかな黒で、風にたなびく長い羽冠と尾羽を備えていた。

 初めて見る鳥だ。


 香代は思わず見惚れた。

 羽は黒いだけではなく光を浴びると星屑を纏っているように煌めき、瞳は光の反射で白っぽいのかと思ったら、元々銀色らしかった。

 美しい、幻想的な生き物だ。

 鳥は香代の頭上で旋回してから目の前に降り立つ。


 近くで見ると、大きさに驚く。

 香代より頭ふたつ分は大きい。見た目は鶴だがほぼダチョウサイズだ。

 ダチョウと違って、長い首を慎ましく下げて大人しく立っているからそこまで怖くはない。


 一体、この生き物はなんなのか。固唾を飲んで見守っていると、小枝のような脚がみるみるうちに肉づきがよくなり、すべらかな褐色肌の、ほっそりした人間の脚になる。

 それが見えたのは一瞬で、天幕のようなドレスの裾が降りてきて美しい脚を隠してしまう。


 脚の次は丸く形の良い尻。くびれた腰。はち切れそうなほど豊満な胸。大きな翼はしなやかな腕に変わった。

 羽毛と同じく星屑を散りばめた黒いドレスが肉感的な肢体を覆う。

 風に靡いていた羽冠が引きずりそうなほど伸びた黒髪になって、最後に長い(くちばし)がなくなった顔が香代のほうを振り向く。


 ぽってりとした唇の妖艶な美女が、鳥のときと変わらぬ銀色の瞳で香代を見た。

 目が合っただけでゾクゾクするような色気に言葉が出ない。

 夢にしてもありえないことの連続に、香代はまともなことが考えられず、ただ呆然と銀色の瞳を見返した。


 スッと美女が身構える。

 きりりと眉を上げた彼女の様子に、ぼんやり見惚れていた香代にも緊張が走る。


 ズシャアッ‼︎


「誠に申し訳ありませんでしたァ!」

「へっ……?」


 突然砂が吹き上がり、何故か謝罪まで聞こえて、何が起こったかわからなかった。

 恐る恐る視線を下げると、爪先数センチのところに黒い後頭部があった。


 身を折りたたむように頭を下げるその姿勢は、明らかに土下座だ。

 先程美女が立っていた場所から香代の前まで砂に轍のようなものができている。


(す、スライディング土下座って……ほんとにできるんだ……)


 謎の場所で謎の美女にスライディング土下座をされる。

 そんな訳のわからない状況に、つい香代は現実逃避をしてしまった。

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