失ったもの
意識を取り戻した俺の目に飛び込んできたのは、イケメンの顔だった。
イケメンは俺を見ると、少し目を見開いてから、イリスさんの名前を呼び慌てて部屋を出て行く。
ぼーっとする頭で周りを見渡す。
見覚えのある部屋、恐らく俺たちの新しい拠点にしようとしていた物件の一部屋だ。その部屋の中にある白いベッドの上に俺はいた。
そうだ。確か、俺はイリスさんを助けようとして、それで……。
自分の手を見つめる。
綺麗な肌色の手だ。指が五本あって、決して手から粘液が出ることもない。伸びることも無ければ、ピンク色でもない。
紛れもなく普通の、人間の手。
「……っ。行かねえと」
奥歯を噛みしめてから、ベッドの上から降りる。身体には予想以上に疲労が溜まっているのか、足元がふらついたが、壁に寄りかかりながら出口へと足を進める。
そして、ドアを開けて部屋の外に出ると、俺を見て驚きを露わにするイリスさんの姿があった。
「タッ――」
タッコンと言いかけたイリスさんが首を左右に振る。それから、険しい顔つきで俺を睨みつけて来た。
「どこへ行くつもりかしら?」
「イヴィルダークの基地です。タコを、取り戻さないと……」
そう言って、イリスさんの横を通り過ぎようとする。だが、俺の腕がイリスさんに掴まれた。
「やめなさい」
「嫌です。あのタコを見捨てるわけにはいかない……。ここにいる皆だって、あのタコの力を、触手を待ってるんだ」
「いい加減にしなさい!!」
足を止めようとしない俺にイリスさんが怒鳴り声をあげる。振り返ると、そこには強く俺を睨みつけるイリスさんがいた。
「シャーロンとタマモから聞いたわ。あなたが言うタコという存在のこと、そのタコのおかげで私とあなたが無事でいられることも」
「なら!」
「でも、あなたはもう一般人なの。イヴィルダークなんて関係ない、普通の人になったのよ。今のあなたに出来ることは無い。大人しくあなたを待っている人の下に帰りなさい」
イリスさんの言葉に俺は何も言い返せなかった。
事実、今の俺には何の力もない。イヴィルダークの基地に行っても、下っ端一人にボコられて終わりだ。
「それでいいんですか? イリスさんは、ここにいる皆はそれでいいんですか!? あいつが、あのタコの触手があったから俺たちはここに集まってるんでしょ!?」
俺がそう言うと、イリスさんは苦虫を噛み潰したような表情に変わる。だが、それは一瞬で直ぐに鋭い目つきに変わる。
「ええ、そうよ。だからこそ、尚更あなたはもうここにはいなくていいわ。私たちは触手を持ったあなたを必要としていた。今のあなたはただの足手まとい。さっさと出て行きなさい」
必死に感情を押し殺したような声でイリスさんはそう言い放った。図星とも言える言葉に、思わず後ずさる。
助けを求めるように周りを見るが、周りの下っ端たちも静かに首を横に振った。
いや、当たり前だ。
こいつらを繋ぎとめていたのはタコの触手。そこに俺の力は欠片もない。
触手少年なんて言っておきながら、俺は殆ど何も出来ていなかった。俺は器の役割しか果たせていなかったのだ。
「それに、話を聞けば私を助けようと動いたのはあなたらしいじゃない。なら、あのタコを失うことになったのは――」
「イ、イリス様!」
下っ端の一人がイリスさんの言葉を止めようとする。だが、イリスさんは止まらない。
「――あなたのせいじゃない」
ドクン、と心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる、何かを言おうとして、結局言葉が出てこず、口の中が急激に渇いて行く。
「俺の、せい」
やっとの思いで出した言葉はそれだった。
「そうよ。あなたのせい。あなたが私を見捨てていればタコを失うことは無かった」
それは、そうだ。だが、そんな選択選べるはずが無かった。
いや、だからこそか。
タコは言っていた。何かを得るということは、何かを失うことでもある、と。
タコには分かっていたのかもしれない、敵はそこまで甘くないと。だからこそ、俺はタコを失うことになった。
「出て行きなさい。もう顔も見たくないわ」
イリスさんの言葉に反論する気力は残っていなかった。
フラフラとした足取りで、建物の外に出るとタバコを加えるタマモの姿があった。
「あら、酷い顔ね」
「タマモか……」
「ええ、そうよ」
タマモの姿を見た瞬間、タマモとの約束を思いだした。
タマモは待ってると言った。それはタコを待っているということだ。でも、それは俺のせいでもう叶わない。
気付けば俺は土下座をしていた。
「……なにしてるのかしら?」
「すいませんでした」
「それは、何の謝罪?」
「俺のせいで、タマモにタコと、タッコンと合わせてやれることが出来なくなった。すみませんでした……」
タマモの顔は見えない。いや、見たくなかった。
「つまらない人」
タマモは良く通る声ではっきりとそう言った。
「その謝罪は受け取らないわ。これから先、一生ね。本当に私の大好きなタッコンだったのか疑わしいくらい、今のあなたにはときめかない」
タマモはそう言って、俺に向けて吸殻をピンと飛ばして、物件の中に消えていった。
俺はただ俯いて、今にも零れ落ちそうな涙をこらえることしか出来なかった。
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悪道がよろよろと立ち上がり、歩き出すところをイリスは二階の窓から見ていた。
「ごめんなさい」
そう呟くイリスの目から一筋の涙が零れ落ちる。だが、直ぐに彼女はその涙を拭う。
本当に泣きたいのは、彼の方だ。彼を傷つけ、彼が大切にしていたタコという存在を失う理由となった真の元凶たる私に泣く資格などない、と。
「泣いちゃうくらいなら、言わなきゃよかったのに」
背後から聞こえてきた声にイリスが振り向く。そこには、タマモの姿があった。
「彼、相当酷い顔してたわよ」
タマモの一言にイリスが悲痛な表情を浮かべる。イリスとて、悪道を責めるようなこと言いたくはなかった。
「本当に申し訳ないことをしたわ。でも、あそこまで言わないと彼が止まらなかった。きっと、自分の危険を顧みずにイヴィルダークに突っかかっていたわ」
そして、そうなれば悪道がただでは済まないこともイリスには想像がついていた。
だからこそ、イリスはあそこまで突き放したのだ。
悪道が深く傷つくことになったとしても、彼の心が折れることになったとしても、イリスは彼に傷ついて欲しくはなかった。
これ以上、何かを失って欲しくはなかった。
「エゴね」
そんなイリスの行動をタマモはその一言で切り捨てた。
だが、イリスは言い返さない。その言葉があながち間違いではないと自分でも気づいていたから。
「それにしても、少し意外だったわ」
この話は終わり、そう言わんばかりにイリスが話題を変える。
「何がかしら?」
「あなたよ。私は、あなたは直ぐにイヴィルダークに戻っていくと思っていたわ」
「あら、それは心外ね。そんなに私は薄情者に見える?」
およよ、と泣きまねをするタマモにイリスはジト目を向ける。
イリスからすればタマモは胡散臭い存在だ。はっきり言って、タッコンが直談判したからこそ、彼女をあの組織から連れ出すことに同意したが、今でもイリスはタマモを怪しんでいる。
そんなイリスの視線を受けて、タマモは泣きまねをやめる。
「まあ、これまでの私を知っていたらそう思うわよね。でも、残念ながら今回は本気よ。本気で自分以外に愛することが出来るものを見つけたの」
タマモはそう言うと、悪道が寝ていたベッドの枕を優しく撫でて微笑む。その微笑みはイリスから見ても偽物には見えなかった。
「そう。でも、それならあなたにも謝らなければいけないわね」
「その必要は無いわ」
イリスの申し出をタマモは窓の外を見て笑いながら断る。
「私、待つことは慣れてるのよ」
そう言うとタマモはサッと身を翻し、部屋を後にする。
その後ろ姿が見えなくなってから、イリスも窓の外に目を向ける。
そこにはふらつきながらも歩き続ける悪道の姿があった。
その姿を見たイリスは窓を開ける。春から夏への変化を感じさせる生暖かい風がイリスの頬を撫でた。
「幸せにね」
その呟きは風に吹かれて宙に消えていった。
次回、メインヒロイン登場。