イリスの思い
今回長台詞があるので、もしかすると読みにくい部分もあるかもしれません。
イリスの一人が語りは本編のイリスの過去と殆ど変わらないので、サラッと見るくらいでも大丈夫かもしれません。
イヴィルダークの基地に戻った頃には、もう太陽が東の空に見え始めていた。とはいえ、まだ人は寝静まっている頃だ。
悪の組織だろうとそこは変わらないようで、基地の中は随分と静かだった。
イリスさんの部屋の扉をノックする。返事は無い。
恐る恐る扉を開くと、中にはベッドの上で寝ているイリスさんの姿があった。
それを確認してから、扉を閉じて部屋を後にしようとしたところでイリスさんが声を出した。
「タッコン……?」
その声に足を止め、イリスさんのベッドに目を向ける。そこには、身体を起こしたイリスさんの姿があった。
「戻ってきてたのね。丁度良かったわ。少しだけ話をしましょう」
イリスさんはそう言うと、俺を手招きした。
「はい」
「ありがとうございます」
イリスさんが渡してきたティーカップを触手で受け取る。温かい湯気と供に紅茶の良い香りが俺の鼻をくすぐる。
「ねえ、タッコン。少し私の話を聞いてもらってもいいかしら?」
ティーカップに一度口を付けた後、イリスさんはそう言った。イリスさんの言葉に頷きを返すと、彼女は「ありがとう」と呟いてから、ゆっくりと語り始めた。
「私はね、望まれなかった命だったの。私の両親は、世間でいうところのできちゃった婚をした二人だった。それでも、私の両親は私を愛していると言ったわ。そして、私も両親に愛されていると思っていた。両親に愛されたいと願っていた。だから、両親の言うことをよく聞いたわ。父親が連れてくる下卑た笑みを浮かべる男たちの相手をした。唐突に振るわれる暴力にも耐えた。母親に家事をしろと言われれば全部した。おつかいと言われて怪しい薬品を運んだこともあるわ」
「それって……」
イリスさんの話を遮る。
それでも問いかけたかった。それは本当に愛だったのか、と。
だが、俺が問いかけるよりも先にイリスさんは俺の返答に言葉を返した。
「私にとっては、それでも両親は愛すべき人だった。よくやったと褒められることが嬉しかった。頭を撫でられる、それだけで私は愛されていると思った。いや、そう思いたかっただけかもしれないわね……。結果から言えば、私は愛されてなんていなかった。私は人身売買に出され、両親に捨てられた。両親を憎んだわ。そして、愛なんて言葉が大嫌いになった」
イリスさんはそこまで言うと、一度紅茶を飲んでから、俺の目を見つめてきた。
「あなたには分からないかもしれないけど、この世界にはそういう人がたくさんいるわ。愛という言葉に踊らされ、愛に裏切られ、愛に傷つけられた人たちが。そういう人たちが集まってこの組織が出来た。でも、きっと私たちは愛されたかっただけなのよ。愛されたいけど、愛されてこなかったから、愛を憎むことしか出来ない。愛が素晴らしいものなのだとしたら、その愛を与えられなかった私たちは可哀そうな存在なの? 憐れみの対象でしかないの? それだけで見下されてしまうの? 違う。私たちは可哀そうなんかじゃない。愛なんて必要ない。そう思うことで、自分たちを必死に正当化しようとしている。それが私たち」
イリスさんが自嘲気味に笑う。
好きの反対は無関心というが、実際そうなんだろう。
きっと、この組織にいる人たちは誰よりも愛に飢えている。だけど、その飢えの満たし方を知らないから、周りから愛を消そうとしている。
皆が同じ飢えを味わっていれば、自分だけがおかしいとはならない、そもそも愛が無ければ愛への渇望を感じること自体なくなるのだから。
「でも、それは間違いかもしれない。公園で楽しそうに遊ぶ子供たちを見てそう思うようになったわ。私たちがしていることは結局のところ、愛という言葉を使って私から色んなものを奪ってきた両親たちと何も変わらないんじゃないかって。滑稽な話よね。自分たちが正しいと信じていたのに、いつの間にか憎んでいた間違っているはずの相手と同じことをしているんだから」
そこでイリスさんは口を閉じて俺の触手を掴んだ。
「でも、あなたは違う。あなたは誰かに愛されている。そして、あなたはきっと誰かに愛を与えることが出来る。この手は私たちの様に誰かを傷つけるためにあってはならないわ。だから、あなたはやっぱりこの組織から出て行くべきだわ」
そう呟くイリスさんの瞳にはイリスさん自身への諦めと寂しさが混じっているように見えた。
その目とよく似た目を、俺は知っている。
世界を恨んで、運命を憎んで、何も出来ない自分をどうしようもないくらい嫌って、絶望していた男がいた。
そして、そんな男を絶望の淵から救い出してくれた一筋の光があった。
だから、俺はこの人を見捨てるわけにはいかない。
「そんなことはないはずです」
俺の言葉にイリスさんが顔を上げる。
イリスさんの手を触手で包み込み、真っすぐ彼女の目を見つめる。
「イリスさんはこの俺の触手を取ってくれたじゃないですか。醜くて、誰もが嫌うような姿を見て尚、イリスさんは俺を守ってくれようとした。今だってそうだ。俺のことを思ってくれている。イリスさんだって、俺となにも変わらない。誰かを愛することが出来る、誰かに愛される人ですよ」
「それは違うわ。あなたを助けたのは、ただの罪滅ぼしよ。愛なんて素晴らしいものじゃないわ」
イリスさんはそう言うが、俺はそうは思わない。
いや、俺だけじゃない。だよな?
『当たり前さ。それに彼女は大きな勘違いをしている。誰も彼女を愛さない? そんなわけないだろう』
タコの声には僅かな怒りがにじみ出ていた。
その怒りに応えるように俺の触手が荒ぶる。
「分からないなら分かるまでその身に叩きこむ。君は誰からも愛されない存在じゃない、誰も愛せないはずがない」
それは多分タコの言葉だった。
「あっ! タ、タッコン!?」
触手がイリスさんの身体を優しく包み込む。そして、まるで子供を抱える母親の如く優しく彼女の頬を頭を撫でる。
「ほら、ここにいる。君を確かに愛している存在が」
「タッコン……?」
「君の心の傷がどれほどのものかは僕に分からない。だけど、君が満たされていないと言うなら、愛されたいと願うなら、僕の全てをもって君を愛そう。この触手はそのためにある」
「……っ! でも、私はたくさんの人を傷つけてきたわ」
「関係ない。触手の前に人は皆、平等さ」
「本当にいいの? 愛を憎んでいた私が、愛されたい、愛したいなんて……」
「今更何を言っているのさ。言っただろ。もう君は愛されているんだ」
触手がより一層強く、優しくイリスさんを抱きしめる。
その愛は確かにイリスさんに届いた。
「……本当は、私も愛されたい。嬉しいことも、辛いことも、悲しいことも、楽しいことも、全部共有して、一緒にいたい。それだけで、いいの。タッコン、お願い。今だけでいいから、私を愛して」
「お願いされることじゃない。僕はただ君を愛したいから愛する。それは絶対に変わることはないよ」
「……ありがとう」
イリスさんの瞳から涙が零れ落ちる。
きっと、その涙には色んな思いが込められている。だけど、その涙を拭く必要なんてないということだけは、俺にもタコにも分かった。
******
暫くして、イリスさんが落ち着いたのか、俺から離れていく。
「タ、タッコン、今回のことは誰にも言っちゃダメよ!」
そして、恥ずかしそうにしながらそう言った。
まあ、言う相手もいないし、そもそも言えるはずがない。
『君の幼馴染にバレたら面白いことになりそうだけどね』
頼むから言わないでくれ。てか、殆どお前のしたことだけだからな。
『でも、君もそういうつもりだったろ?』
まあな。
俺は星川に恋をしている。だが、イリスさんは既に俺にとって特別な存在だ。
愛することと恋愛感情はまた別の話である。
まあ、イリスさんへの思いはタコの方が上だろうからタコに任せるがな。
『そりゃ、どーも。それより、そろそろ彼女に話したいことを話した方がいいんじゃない?』
確かに。
折角、今は二人きりだしこれを機に俺の計画をイリスさんに伝えておくとしよう。
「イリスさん、少しだけ相談したいことがあるんですけどいいですか?」
「え、ええ。何かしら?」
それから、俺はイリスさんに俺の計画を伝える。
俺の計画、つまり一週間以内にこの組織を潰す、もしくは出て行くというものだが、そのためにはイリスさんの協力が必要不可欠だ。
「つまり、あなたは新しい組織を作るつもりということかしら?」
イリスさんの言葉に頷く。
この一週間で出来る限り、タコの力を使い、「触手を愛する会」の会員を増やす。その人数が組織内の過半数を超えれば組織の乗っ取りを図る。
だが、一週間ではそれも難しいと思われる。
だから、越えなければイリスさんたちを含めた「触手を愛する会」の会員を連れて組織を出て行くという計画だ。
組織を潰せれば、星川たちが戦う理由は無くなる。潰せずとも、俺たちが出て行けば組織の戦力は大幅に低下するため、星川たちの役に立つという完璧な計画だ。
「一週間後なのね……」
イリスさんが神妙な顔で呟く。
実際、一週間は短すぎると思う。だが、星川と約束をしてしまった以上その約束は守らなくてはならない。
「お願いします!」
「分かったわ」
俺が頭を下げると、イリスさんは意外なことに迷わず返事を返してくれた。
「あなたは私の子供……ではないけれど、あなたの面倒は最後まで見るわ。だって、私はあなたの上司だもの。それに、あなたが組織を出て行くことには私も賛成だから」
イリスさんはそう言って微笑んだ。
吹っ切れたような、混じりけのない綺麗な笑顔に思わず見惚れてしまったことは、俺とタコ二人だけの内緒である。
次回はコメディに戻れるはず……。