スーパーセイバー
スーパーセイバーの操縦教本を参考に執筆しました。時代設定は1960年代から70年代くらいをイメージしています。
「ごめんなさい、もうあなたとはやっていけないわ」
そう言って三年付き合った彼女は彼の前から去っていった。
フライトを終えて一緒にビールを飲もうと、最愛の彼女のアパートを訪れた時に告げられた別れの言葉だった。
「僕のどこがいけなかった。僕は君を精一杯愛したのに」
「いいえ。あなた自身はとてもいい人よ。私のことをこんなに愛してくれる人なんて世界中探してもあなただけ」
「なら冗談はやめてくれ。今日だって君に会いたくて訓練を頑張ってきたんだ。飛んでいる時だって君を忘れた事は一度もなかった」
彼は必死に彼女を説得しようとした。そんな彼を見ていられなくなったのか、彼女は涙をこらえ理由を告げた。
「そう、それが嫌になったの。飛んでいるあなたを待っていることに耐えられなくなってしまったのよ」
「え…」
「私、いつもあなたが飛んでいる時が不安なの。あなたはいつもの訓練だと言って平気な顔をしているけど、ほら、この前ジェニーのパパが帰らなかったでしょう」
彼女はハイスクール時代からの親友のジェニーの父親の話をした。ジェニーの父親は海兵隊のパイロットでF-8クルセイダーに乗っていたが、海上での訓練飛行中にマシントラブルが発生し、ベイルアウトしたものの、ついに発見されなかった。
その出来事が彼女を変えてしまったのだ。
「ジェニーのパパの事は残念だった。でも僕は海兵隊じゃなくて空軍だ。任務によっては海上に行くこともあるだろうけど、ほとんどが地上の上を飛ぶんだ。もし機体から脱出することになっても陸地なら平気さ」
「私には軍の事はよくわからないけど、ベトナムの事もあるのよ。あなただっていつどんなことになるか」
「君のためなら空軍を辞めたっていい。君より飛ぶ事が好きなんてことはあり得ない」
「それじゃもっと嫌よ。あなたから空を奪うことなんて私にはできない。あなたは、小さな頃から戦闘機で飛ぶことが夢だったって出会っとき言っていたでしょう」
「旅客機のパイロットだっていい」
「嘘おっしゃい。あなたは飛ぶのなら戦闘機しかないって言っていたじゃない。大戦に参加した祖父や父のようになりたいとあなたは言っていたわ」
彼女もまた必死だった。彼から戦闘機に乗る自由を奪う事は彼の四肢を切り落とす事と同義だった。
「だからお願い。私達、もう会わないようにしましょう。ここにも来ないで」
その後も少し話は続いたが、遂に彼女の心を変えることはできなかった。最後に抱き合い、キスをしてアパートを後にした。
それが一昨日の出来事。自宅に帰ってから浴びるように酒を飲んだ。それでも眠る事はできなかったが。
そして今、彼はパイロットスーツを着て愛機の前に立っていた。
機体はF-100D スーパーセイバーだ。45℃の後退角を持つ主翼に先端の大きく開いたエアーインテーク。見るからに超音速戦闘機と分かるスタイルだ。
ラダーを使ってコックピットに乗り込む。
パラシュートやシュート・セパレーター、キャノピーの外部非常レリースハンドル等の射出座席とキャノピーのチェック。(ジェニーの父親の話を聞いてから、この辺りはより念入りに確認した。)キャノピーを閉じる。
続けてコックピット点検に入る。サバイバル装備は揃っているか、耐Gスーツは万全か。ショルダー・ハーネスを締めて調節。スーツの確認をした後、コックピットの左のパネルを点検する。スロットルをOFFにしてスピードブレーキスイッチもOFF。燃料調整スイッチやエアスタートスイッチ、エンジンマスタースイッチ等の操作後に正面の時計とフットウォーマーをセット。続けて右側に目をやる。ACジェネレーター及びDCジェネレーターをON。航法支援装置をOFFにし、IFFスタンバイ。etc.
最後に酸素システムを点検してエンジン始動に入る。
回りに整備員がいない事を確認してスターターと点火ボタンを押す。今回はカートリッジ方式だ。
機体が振動したのを感じ、彼女の顔を思い出す。あの好きだった顔を泣かせたくなかった。
スロットルをアイドルに入れ、油圧チェック。
スピードブレーキUP。トリムのテイクオフボタンを押す。スティックとラダーペダルの動作確認、etc.
先ほどOFFにした航法支援装置をON。緊急燃料システムとユティリティ油圧システムを点検してヨー、ピッチ・ダンパー点検、トリム点検のあと、いよいよタキシングに入る。
酸素100%。(君に会うために生き抜く、だから酸素100%の表示は僕と君を繋ぐための数値だった。)
エンジン好調。ブレーキを放してスロットルをアフターバーナーへ。加速。
エンジンの圧力比を確認してスピードを上げる。
スティックを引き、機首上げ、上昇。ようやく離陸した。飛行するのに十分な高度に達してから機体を水平に保つ。
視界良好。機体異常無し。キャノピーの外には蒼天が広がっていた。
余裕が出てきて地上を見下ろす。まるで巨大な世界地図を広げているかのように見えた。
この光景は何物にも代え難い。もし、彼女とこの光景を天秤にかけるとしたら自分はどちらを選んだだろうか。
いや、あの夜、すでに自分は天秤にかけていたのだ。
そしてこの空を選んだ。彼女を選んだのなら、今、この空には自分はいない。ジェニーの父親も空母から離陸したとき、同じ光景を目にした筈だ。一度、この光景を見てしまうと、パイロットを辞める気にはなれない。自分を待つ人がいなくなってしまってもこの気持ちは変わらない。
「僕は幸せだったよ。君と別れてもこの空を飛んでいたい。君と過ごした日々は最高だった。だから、さようなら」
もう、彼にとって彼女は過去の思い出の産物となった。パイロットという地上の人間とは別の生命体となって大空を舞う。
この空では彼はスーパーセイバーの装備の一部でしかない。
それだけでいい。
彼はそうなることを自ら選んだのだから。