第49話 紅まきなと文ひづきと
クルーエルとプリザーブドとの対決から、すこし時を遡る。
地下道へ入る直前、文ひづきはとある少女を止めるため、一行から離脱していた。
その少女は彼女がまきなに産ませた子のうち、人の形を成していたふたりのうちの妹。
名前は紅なつきといい、彼女は天使たちに対する激しい憎悪を抱いていた。
なつきからしてみれば、エーロドージアとなってひとりの天使を死なせたひづきがよぞらたちに手を貸す理由がわからない。
それと同時に、少なくとも目の前に立ちはだかれば刃を向けるだけの敵意はある。
なつきは手にしたチェーンソーを駆動させ、触手の群れを従えたひづきと相対した。
まず動くのはひづきの配下たちだ。粘液をまとったそれらはなつきの身体を縛り上げようとしてくる。
が、軌道は思いのほか単純で、粘液だってチェーンが多少空回りするのみだ。
いくつかはなつきによってねじ切られ、踏み潰され、不快な音や感触を伴って無力化されていった。
ひづきの目的は足止めである。狙ってくるのは四肢の拘束で、それがわかれば容易に対処ができるはずだ。
感情的になるほどの殺意が伴わないぶん、このときのなつきは冷静でいてしまった。
本気を出せないひづきに対応できないはずもなく、迫ってくる触手をくぐり、彼女にチェーンソーを突き立てるまでに至ったのだ。
むろん防御のために回すしもべたちも存在しており、ひづきの身体に傷がつくことはなかったが、ふたりの距離がほとんどゼロになった。
肉親だというのにこうして向き合うのははじめてのことであり、一瞬のことながら時が止まったようだった。
その瞬間、互いに目があって、それぞれの感想を抱いたことだろう。
なつきには、ひづきの瞳はひどく臆病なように見えた。
彼女は思い出してしまっているのだろうか。自分が殺した、まきなのことを。
なつきにその面影をかさね、今度は殺してしまわないように、なんて考えるのだとしたら。
そんなに面白いことは、ほかに知らないほど愉快ではないか。
なつきが口角をあげ表情を歪めたのと同時に、触手の壁は彼女を押し返して突き飛ばす。
戦いはまだまだこれからだというのにひづきはすでに肩で息をしており、なにやら苦しそうにしているではないか。
ここぞとばかりに、なつきは声を張り上げた。
「もしかして。いまさらあたしを助けたいとか思ってる? それ、明星よぞらよりお花畑だよ、あんた」
ひづきが怯み、触手の動きが止まった。
効果があるとみると、畳み掛けるように言葉を紡いでいく。
「まきなおかあさんのことを死なせちゃったあんたが……なに、今さら母親面でもしたいの? あたしたちを捨てて快楽ばっかり求めてた奴のくせに、こんなときになって出張ってきてさ」
何も言い返してこない。どころか、攻撃もしてこない。
なつきが無防備に歩み寄っていっても、捕まえようとすらしてこなかった。
「……なにか言えば。あたしたちになにも与えてくれなかったくせに……あたしの邪魔しないでよ」
再びチェーンソーが駆動し、けたたましい音が鳴り響く。
それでもひづきは動かない。まるでなつきに傷つけられることを望んでいるように、うつむいたまま何の反応もよこさない。
あんなに語りかけてやったのに、それで罪滅ぼしのつもりだろうか。
お望みならば殺してやろうと思い立ち、その腹に刃を押し当てた。
じっとしている相手なら、簡単にかみあい、抉りはじめてくれる。
それでも相手は生きている身体であり、簡単に切れてはくれない。
ほんとうに、少しずつ肉を削ぎ落としていくようにして腹が崩れ、内臓が露出し、それでもひづきは呻くだけだ。
半分ほど裂いたところでなつきは我慢できなくなって、ひづきに向かって叫んだ。
手にべっとりと血がつくことなど気にも留めず、衝動のままにひづきの子宮を掴んで引きずり出す。
全身に根を張っているらしい細い触手が絡み付いているそれを、目の前の相手に繋がったままチェーンソーで引き裂いてやる。
痛みとともに、刻みつけてやるのだ。なつきの嘆きを、恨みを。
「なに考えてるかぐらい言ってよ、あたしを作らせたのはあんたでしょ!?
頼むからッ、教えてよ……なんであたしにはこんなことしか、殺すことと憎むことしかないの!?
あたしだって、あたしだって、天使どもみたいにきらきらのステージに立つお姫様になりたかった、友達といっしょに過ごす時間を大切に思いたかった!
こんな世界に生まれなきゃ、あんたがあたしなんて作らなきゃ……!」
気がつけばなつきの視界はぼやけていた。
涙のせいだ。行き場のない感情は、叫びだけでは発散しきれず、涙腺からも外に出ようとしている。
ぎゅっとまぶたを閉じて溜まった涙を流してしまい、ふたたび目の前で死にゆくひづきを見る。
もう虫の息だというのに、彼女は身体の苦痛よりもなつきの言葉を悲しんでいるふうに見えた。
そして、やっと動きはじめたかと思うと、そっとなつきを抱き締めてきたのだ。
はじめてふれる血のつながった相手の身体は生温かく、鉄の匂いばかりが染み着いている。
「……そんなにかなしいこと、言わないで」
血を吐きながら、かすかな声がなつきに届く。
死に瀕した彼女の声は、チェーンソーの音に掻き消されてしまいそうなのに、たしかに響いてきた。
「私が悪いことぐらいわかってる。あのとき、消えておけばよかったことくらい。でもあなたには、未来があるから……どうか、生きて」
その言葉を最期にして、すべての体重がなつきに預けられた。
一度死に損なった彼女だが、ついに絶命したのだろう。
死因はもちろん、なつきが彼女を殺すつもりで引き裂いたからだ。
望み通りにしてやったはずなのに、目下に血と臓物が散らばっているのに、なつきの心は晴れていない。
それどころか気分が悪くなり、思わず遺体を振り払って逃げ出してしまう。
適当な建物の壁に手をつき、吐き気に任せて胃の中身をぶちまける。
自分でも気づかないうちに失禁でもしていたのか、返り血だけでなく下着も不快だった。
「……わけ、わかんない」
人を殺しただけなのに、こんな気持ちになるとは思ってもみなかった。
全部の殺意が、いまのなつきにとっては重荷となっている。
よぞらを追いかけることなど忘れなければ、これ以上吐いたり失禁したりしないでいられないだろう。
「おかあさん」
ふと呟き、思い出したのは甦らされた天使たちの存在だった。
そのなかにきっとまきなもいたはずだ。ファム・ファタールはその居場所を教えてくれていたし、なにかあったらそこへ行けとも言われていた気がする。
それに従うほかあてもないなつきは、その通りに歩き出す。
こうして、紅なつきはめるくとまきなのいる場所にたどり着いたのだった。
◇
なつきが訪れたことにより、まー子に埋め込まれていた赤い石へ突きつけていた剣をめるくは下ろすことになった。
彼女がたどり着いて、あんなに血まみれということは。きっと、ひづきはあそこを死に場所に選んだのだろう。
彼女が命と引き換えになにかを遺そうとしたのなら、まー子にもそれを見せてやりたかったのだ。
なつきはまっすぐにまー子のもとへとすがりつき、その手を握った。
「お、おかあさんっ……あたし、あたしっ、どうすれば……!」
彼女が混乱しているのは目に見えている。
血に濡れたなつきの髪を、まー子はそっと撫で、微笑んでみせた。
「あたしの娘……なつきちゃん、だったよな。ごめんな、なにもできない母親でさ」
触れたまー子の手に、いとおしそうに頬をすりよせるなつき。
涙があふれて止まらないのは、きっと自分というものを見失いかけているからだ。
めるくが黙っていても、まー子はそれをわかっている。
「ぜんぶ見えなくなってわかんなくなったときは、まず自分の好きなもの、やりたいことから見つめてみて。何が好きか、何がしたいか……そいつは自分ってもんになってくからさ。
今すぐに思い浮かばなくたっていい。そこのお姉さんが、いろんなものを見せてくれるって」
まー子はまぶしい笑顔でめるくの方を見る。
つまり、なつきのことを頼む、ということだろう。
自分はもう死んでいて、天使なんかでもなく、ファムの力の一端でしかないのだと。
つまり、ここにいていい存在ではないといって、未来をめるくに任せたいと言っているのだ。
まー子の頼みを、めるくが断る理由などない。
すぐに頷くと、安心したようすでまー子は続けた。
「ねぇ、なつき! きっとなりたいものになれるって、あたしが保証するよ!」
笑顔をみせた彼女は、自ら胸元の宝石を掴み、そのまま自らの手で引きちぎった。
クルーエルとして再構成されていたまー子は灰となって崩れ去っていき、なつきがいくらすがりつこうとそこにはすでにいなくなっていた。
呆然とたたずむ遺された少女。まー子は消え、ひづきが死んだのなら、彼女は自分がひとりきりだと思ってしまうだろう。
そこへ差しのべた手がめるくのものでも、なつきはついてきてくれるだろうか。
いや。託されたのだから、めるくはしっかりしなければ。
「……あの、なつきさん」
意を決して、なるべく自然な笑顔で話しかけようとした。
それだけなのに。いつの間にか、めるくの頬にもひとすじの雫が伝っていた。




