第1話 はじめまして、私!
世界は閉じていた。
あるのは白い部屋、白い壁、白い床。白のほかには影と『私』しかなくて、外へと通ずる唯一の扉はいつも閉ざされていた。味気のないそれらしか体験したことがなくて、時間も空間も自分とは遠い存在としか思えない。
外を知ることができるのは、時おり送られてくる本からでだけ。知識のみで実体のない空想の世界ばかりを頭に詰め込まされて、私はなにもない場所に閉じ込められていた。
だから、今までの時間を知らなくて、自分の背中に羽ばたくための力が秘められているなんて、考えもしなかった。
でもその日、扉は開いていた。
いつもならば『父の声』であるらしい少女の言葉と、無機質なエレベーターが本や効率化されたたべものを運んでくるだけの部屋のはずなのに。
ずっと閉じ込められていた私も初めて知る、外につながる道が、確かにあった。
私はためらいを少しと、好奇心をたくさん抱いた。自分の脚で立って、外のほうへと歩き出した。
いつもならただ動くだけの一歩にはやくなる鼓動の音が重なって、私のなかに広がる味気ない世界を打ち壊してくれる裂け目が生まれた気がした。
私は、一歩、また一歩と踏み出して、その裂け目を広げて、ついにその先へと進む。
私が入ったのは人間が乗るためのエレベーターであるらしく、ものを運ぶだけのものよりずっと大きかった。ひとりでに扉が閉まって、行き先が決まっているらしく勝手に動き出した。
機械に連れられ、白い部屋から遠ざかっていく。
再び扉の開いた先は、すでに見たことのない世界が広がっていた。
すぐ先に『青空』を映している硝子が張られている。私がいる建造物のふもとを見下ろせるらしい。
私は街を見た。目下で小さな人々がうごめいているのが見えた。そこに、自分も混ざってみたいと思った。
行き交う車、目が痛くなりそうなほどにめまぐるしく映される広告。
地面の色、草木の色、建物の色。そしてなによりも、青空の色と、太陽の色。
そこにあるすべてが新鮮で、くすんでいる写真で見せられた景色とはまったく違う。あの一員になれたら、どれだけすばらしいだろうか。
窓辺にまで駆け寄って、硝子の冷たさを知る。
そして窓を開き、風の涼しさを知った。
最後に窓から飛び出して、空の感触というものを知る。
重力に従い身体が落ちてゆく。
私は好奇心のままに動いていたのをここでやっと自覚し、このままだと地面に激突してすべてが終わってしまうことを悟った。
まだまだ知らないことはたくさんあるけれど、忙しない街の変化の中に混ざって消えられるのなら、悪くないのかな、と思った。
「何をしているのですか」
誰かの声がした。機械を通さない他人の肉声というものを、はじめて耳が捉える。まるで、さっきまで感じていた風の涼しさみたいに、澄んだ声をしていた。
「命を粗末にしないこと。それは、清廉に生きるための鉄則です」
ふわりと、私の身体は支えられる。あたたかさを持っている腕が差し出されて、受け止めてくれたのだ。
声色の涼しさとは違い、やわらかく、やさしく触れていた。
同じように彼女は私を地面におろして、立たせてくれた。
何度か足踏みをしてコンクリートの感触を確かめ、自分があの遠く見えていた街に立っていることを実感する。
「……あ! 助けていただいてありがとうございます」
「どういたしまして。天使の仕事は、みなさんを正しい方向へと導くことですからね」
「天使?」
私は首をかしげる。確かに上空で私を受け止め、地面に叩きつけられることなく下ろすことができるのだから、彼女は飛んでいたのだろう。
その証拠にいまも背中に何かの機構が備わっており、それが彼女に飛行能力を与えていたとみえる。
彼女がありえない、という顔をしているのに、私はやっと気がついた。その視線は間違いなく私に注がれており、すごく見られている。
あんまりじろじろと見つめられているので、こっちも見つめ返すことにした。
つんと外に跳ねた毛先が特徴の、さらさらとして空に融けていってしまいそうな髪だ。わき腹のあたりまで伸ばされている。
その髪がかかっている服装もまた幻想的に美しく、白と金のカラーリングは天使にふさわしい高貴さを醸し出していた。
「……相当な箱入りムスメさんのようですね。しかたありません、教えてあげます。ですがその前に」
「その前に?」
「あなた、名前は?」
彼女は私に名前を問う。
人に名前を名乗るどころか、実物の人間を見たことさえなかった私には、自分の名前が出てこなくて、恥ずかしながらわかりません、と答えた。
「記憶喪失……ですか?」
「いえ、えっと、私ずっとあの建物で暮らしてて……」
またしても驚いた顔をして、ため息をついた。
「特殊事例すぎます……ともかく、調べてみますね」
「あの、天使さんはなんていうんですか?」
私自身としては、私なんて見飽きたものよりも、彼女のことが気になっていた。
彼女のことを知りたくて、自然と言葉が口をついたのだ。
「私ですか? 私は『多々良めるく』と申します。天使隊所属です」
めるくの言う天使隊というものがなにかはわからなかったが、名前は覚えられた。
あとはめるくと別れて、また目新しいものを探しに行こうと思ったところ、しばらくはついてきてくれるらしい。危なっかしくて放っておけないという。
そんなに気を使われなくても、と思ったが、無知な自分だけだと不安なのも確かにある。めるくの好意は受け取ろうと思った。
私が了承すると、めるくは通りを歩くには翼は邪魔ですねと言い、深く息を吐いた。
同時に翼の機構が変形し、彼女の肩甲骨へ収納されるようにしてなくなり、衣装もまた一瞬のうちに変化する。髪の毛も肩のあたりまでに短くなっていた。
めるくは天使だ。それほど不思議には思わない。
それより、お姫様めいた衣装は往来ではかえって目立つと思う。そちらの方が気になった。見る限り、めるくはかなりの人に視線を向けられているのだ。
飛び降りて着地した通りを歩き出す。
途中、あたりを見回していると、ふしぎと目につく少女がいる。緑と赤のオッドアイに、クリーム色の髪の毛を編んでいる少女である。大きな外套を羽織っているが、ベルトを何本もつけているのか外套は広がっていなかった。
薄暗い路地裏にいながら、私にもはっきりと見えた。めるくと同じように、しかし真逆の要素をもって人混みの中でも目立っている。
めるくは天使ゆえの清純さで。少女は、底知れぬ敵対の気配で、である。
じっと少女を見つめていたところ、少女はこちらへ気づいたようだったが、どこかへ歩き去っていってしまう。
どうしても、彼女のことが気になった。思わず人混みの中に飛び込んでいく。
後ろを振り向くことなくひたすら彼女の姿を追い続ける。気づいたときにはめるくは自分の後ろにはいなくなっていた。
先程の少女には追い付いたが、少女はひとりの男性を捕まえて、なにかを話しかけているようだった。
ささやき声はさすがに私のところまでは聴こえてこなかったが、その後に少女が声を張り上げたので、私にも聴こえるようになった。
「性欲、解放。行きなさい、ゲレツナー!」
にやりと笑った彼女の服よりベルトが1本ちぎれ飛ぶ。見ると、それはベルトなどではなく、吸盤の並んだ蛸の足であるらしい。
それが捕まえられていた男性に飛び付き、その口から体に侵入してゆく。男性は倒れ、体から光を飛び出させた。
上空でなにかの形を形成し、完成するのは細長い体をもった蜂の姿だった。
あれが、少女のいうゲレツナーであったのか。
本で得た知識の蜂にあれほど大きなものはない。人間ほどの大きさの虫が巻き起こす羽音はもはや騒音であった。
周囲に警報が鳴り響き、人々は悲鳴をあげて逃げ惑う。
しかし蜂は容赦なく動きだし、女性のみを集中して追い回しはじめた。尾に備わった針の先は注射針に似ており、毒の注入よりも産卵のための管であろう。
それを向けているということは。想像できるのは、卵を産み付けられた虫のような末路である。
そのとき、身体が勝手に動いていた。狙われた女性を突飛ばし、私は腹を刺された。異物の侵入する感覚は、できれば知りたくない激痛と違和感ばかりであった。
◇
めるくが駆けつけたときにはもう遅かった。性欲より産まれたがゆえに少女を求める怪物は、さっき助けたはずの彼女を突き刺し、血の海に沈ませていた。
その腹部からはすでになにかが顔を出しており、彼女のことを貪っている。
めるくの瞳を奪う金色の髪も、めるくのことをじっと見つめてきた好奇心にあふれる紅の瞳も、彼女の着ているお嬢様らしい衣服も、すべてが血に染められている。
そして、その血でさえも、煌めいた星明かりのように見えた。
「……こうならないために私たちがいるはずなのに」
気づけば、後悔を呟いていた。
残っているのは目の前の事実と、倒すべき敵であるゲレツナーと、名前も知らない少女の遺体だけ。
いくら衝撃を受けていたって、あの蜂と戦えるのはめるくしかいない。
戦闘のために構え、呼吸を整えようとしたとき。
めるくの視界の端でなにかが動く。血溜まりの煌めきが増し、清廉なる輝きとなって少女を取り巻く。
その瞬間、彼女は立ち上がった。
肉を貪っていた幼虫は破裂し消え、破れて露出していた少女の中身や血液がもとあるべき場所へと戻ってゆく。
傷口は塞がって、衣服は分解され、そこにめるくのものと同じ戦闘服が形成されてゆく。桜が散りゆくように優しく、しかし導きの灯火のように力をもって、である。
髪の毛も、元より長い金髪だったのがハーフアップめいてまとめられ、さらに一束の髪が跳ねてハートを形作る。
さらに彼女は純白の翼を広げ、その手に弓を出現させた。武器は歪んだ欲望と戦う意思であり、翼は彼女が紛れもなく『天使』であることの証明であった。
「……信じられない。まさか、変身を遂げてしまうなんて」
めるくの言葉がすべて言い終わるよりも先に、天使となった彼女は矢をつがえた。
蜂が彼女に気がつき、向かってくる。一直線に勢いをつけて飛来していく。
弓を持った相手にそれは格好の的となる。めるくの想像通り、蜂は容易に撃ち落とされ、その羽が半分消し飛ばされた状態で地を這うしかなくなった。
次につがえられる矢には、純潔の力が込められる。天使がその衣装にまわしている力を集約し、一気に放つ必殺技の用意である。
光を蓄え、限界まで引き絞られた弦から浄化の一撃が放たれる。
「ピュアハート☆シュートッ!」
解き放たれた煌めきは蜂を貫き、崩壊させる。
そこから漏れたものは浄化されて、欲望は悪の形をとらなくなってゆく。
ゲレツナーの消滅を見届けると、少女は力を使い果たしたのか変身が解ける。
さらには立っていることができなくなったらしく、ふたりと倒れかけた。それをめるくが支えて、意識を失っている彼女を背負う。
戦う、という天使の仕事は、彼女が代わりに遂行してくれた。
しかし、敵に襲われた、あるいは欲望を利用されてしまった一般の人の介抱に加え、天使であった彼女のことについても調べなければならない。
外の世界を知らない天使と、時に欲望を暴走させてしまう世界。
彼女たちの物語がここから新たな展開を迎えるとは、めるくもどこかで予感していたことだろう。






