2.自己紹介
状況を整理しよう、と彼は言った。まずは何よりも自己紹介だ、とわたしは頷いた。
「相馬夕梨です。……自己紹介、ええと、何の情報が必要ですかね?」
「神崎晴夏。うーん……、あ、日本人です。相馬さんもそう? 年は二十二歳、大学生」
「はい。わたしは二十歳になりました。わたしも大学生やってた……はずなんですけども」
どうにもドラゴンの相対する羽目になった直前の記憶を思い出せないのだ。それは目の前の青年――神崎さんも同じらしい。巨木の根に腰をかけ、わたしたちはうーん、と頭を捻ったが、思い出せないことを思う出そうとしても時間を無駄にするだけだ。
一旦脇においておいて、とついと視線を動かした。
装飾が最低限に施された剣である。刃に零れなく、神崎さんが手に取り翳したならば、呆けた彼の顔が映る。
「何なんだろうな」
「心当たりは?」
「ない。……つかめっちゃ重い」
ぷるぷると震える二の腕を下ろして神崎さんは剣を鞘に戻す。いかにもおっかなびっくりという武器の扱いは、彼が剣を使用したことがないことを顕わにしていた。
間違えなかった。とんでもない過ちを、わたしは犯さずにすんだのだ。はぁー、と深く深く息を吐いたわたしに、彼は心配そうな顔をする。たぶんすごく――良いひとだ。
ずっと気遣ってくれている。木の根に座る前には自分のシャツを敷いてくれようとしたし、全く自慢にならないがわたしの運動神経はすこぶる鈍い。走って逃げている時だってわたしの足の遅さに焦れたはずだ。彼だけで逃げた方が、よっぽど早く走れたはず。
でも、この人は握った手を離さなかった。この優しい人に、――その剣であの化け物を追い払ってください、なんて。
「疲れたよな? ごめんな、水でも持ってたら良かったんだけど、かばん持たない主義で財布とスマホしかないわ」
「ペットボトル、カバンにあります。ストレートの紅茶なんですけど、喉乾いたらよかったら飲んで下さい。…………あの」
「なぁ」
言葉を同時に発して、どうぞどうぞと違いに譲り合う。少し困った顔をして、神崎さんはじゃぁと口を開いた。
「ありがとう。言っといた方が良い気がして」
「――紅茶へのお礼ですか? あ、飲みます? どうぞフタ開いてないので」
「あー、違う違う。コレ……」
コレ――指示されたのは件の剣である。
「気付いたら持ってた。信じられる?」
「気付いたらわたしはあそこに居ました。信じられます? わたしと神崎さん。同じ状況だったでしょう? 信じますよ」
「戦え。剣持ってんだろ、早く追っ払えよ、って言われたら、心折れてたよ、俺。出来ないわ、んなこと。体育の授業で竹刀握ったことしかないのに」
喉まで出かかってました本当にすみません。
言えず曖昧に笑ったわたしに、ちょっと思ってた? と彼は場を和ますよう軽口を叩いた。
「おとぎ話の騎士のように、制服に身を包んだいかにも強そうな金髪のマッチョが隣にいたら、絶対助けてくれって泣き叫んでたと思います」
そんなことでお礼なんて言う必要なないのだ。むしろ、と私は苦笑する。一方的に支えてもらってるのはわたしの方だ。外国人風のマッチョではなかった。いっしょに、隣に呆然と立ちすくんで居たのはどこからどう見ても荒事に慣れていない日本人の青年だった。
それでよかった、と今思う。
「ありがとうございます。手を引いて下さって。わたし、腰抜けてたので。今も、たくさん優しくして下さって。一人だったら、死んでるか、死んでなくても大号泣していずれ野垂れ死にです」
「めっちゃ落ち着いて見える」
「神崎さんこそ」
「女の子の前で情けないとこ見せたくないっていう意地があるだけだな」
気を張っていないと崩れ落ちてしまいそうな現状で、誰かのために踏ん張っていられるのはとても誇らしいことに思える。にかっと微笑んでくれた神崎さんにわたしも微笑み返すと、ところで、と先ほどまでよりも少し固い声色で神崎さんは疑問を投げかけた。
「俺就活に向けて髪を黒に染め直してたんだけど。剣に映った自分みて思わず二度見したわ。……茶髪になってるよな?」
「なってます。結構淡い柔らかい茶色、ですね」
「相馬さんは」
「なんか灰色がかってません?」
「染めてなかったのか?」
「わたしは茶色に染めてたんですけど。――あの、剣貸してもらえませんか」
わたしの髪は胸の下あたりまで伸ばしたストレートだ。木々が空を覆う鬱蒼とした森の中では、おひさまの光も届きにくい。影が落ちているせいかと考えていたが、残念ながら違うらしい。髪を一房まじまじと見つめるが、どうみても見慣れた茶色ではない。
剣を受け取り――う、重い、と取り落としそうになったのを神崎さんが慌てて支えてくれて、何とか剣もわたしの腕も無事であった。これを片手に抱えながらの全力疾走を披露した神崎さんは、もしかすると中々に力持ちなのかもしれない。
慎重に鞘から剣を抜き出し覗き込む。見慣れた自分の顔、見慣れない髪と――瞳の色。薄い灰色。
「うわぁ」
うわぁ、としか言えない。何だこれは。
「目も変わってるのか。何か色が薄くなってる気がする……」
「ですね。――夢……」
「だったらいいなぁ、って俺は思ってるけど」
「覚めないですもんねぇ」
腹をくくらねばならない時が近づいている。お約束にほっぺたをつねっても、ただ痛いだけで一向に夢が覚める気配はない。不安が募り、憂いが増す。だが不思議とわたしに心細さはなかった。
「どこまでの旅路かわからないけど、行けることまでは明るくやろう、相馬さん」
「はい! 考えてみれば竜を見れたなんて中々できない体験です。見たいとも思ったことがなかったのがアレですけど」
「俺もだ。男だけど恐竜やらには惹かれなかったんだよな」
「ちなみに何がお好きで?」
「スパイもの。秘密組織とかに憧れてた」
「ああ、恰好良いですねぇ」
ダークヒーローというやつか。それは残念ながら剣のロマンとは相容れないだろう。
重い腰を上げ、砂を払うと、神崎さんもよっこいせと剣を杖がわりに立ち上がる。華美な装いはないにしても、そういう使い方をして良いものなのだろうか。
「持っていくんですね」
「重要アイテムっぽいしな。使えないけど貴重な武器だし。重いけど」
「疲れたら言って下さい。両手でかかえたら何とか持てると思います」
「うん」
頼りにしてる、と神崎さんは言ってくれたが、果たして頼ってくれることはあるか。いざという時は諦めて捨てるという潔い相談をして、わたし達は森の奥へと足を進める。草原に戻ることは考えられなかった。次にアレにあれば間違いなく捕食の未来が待っている。喜ばしい奇跡は早々起こるものではないのだ。
「なぁ」
「はい」
「今更だけど、本当に一人じゃなくてよかった」
「……また、先に言われてしまいました」
それはわたしの台詞である。気恥ずかしそうに告げる神崎さんに、つられてわたしも小声になる。恐ろしさはある。これからどうなるのか、心配で堪らない。でも、それを分かち合うことが出来る相手がいるのはどれほどの僥倖か。
「相棒って呼んでいいか? ちょっとこの響きに憧れがあるんだ」
「同盟者、の方がびびっときません? まぁ、どっちでも良いんですけど」
まだ笑えているから、大丈夫。きっと大丈夫だ。