1.始まり
バチリ、と目が合う。彼の瞳はわかりやすく恐慌を含んでおり、どうか助けてくれと何よりも雄弁に語っていた。互いに声は出ない。本当の恐怖に晒されたならば、声帯を震わせることすら出来なくなるのだと、出来れば一生知りたくもなかったことを知る。
唸り声が鼓膜に届いた。猛る獣の声、こちらを得物と定めた声だ。我々は、わたしと、彼は、『それ』にとってただの命の糧でしかなく、血肉となり、この大地を翔けるエネルギーになりえしかないのだと理解する。
わたしが今ぐるぐると、何を考えてもいるのかよくわかっていないこの思考がたとえ伝わっていたって、たかだか二十年間で人生を終えることがそれだけ不憫なことであるかと説いたって、涙ながらに命乞いをしたところで――。
「……にたくない。死にたくない……!!」
「お、れもだ。死んでたまるか! 走れるか!?」
無駄だとしても、諦めたくない。生き汚く漏れ出た思いに返事があった。彼――薄茶の髪、同色の瞳、ジーンズにボーダーのカットソー、無地のシャツを合わせた青年は、都会の喧騒の中から切り取られたようなその姿に、右手に細見の剣を握りしめている。
強烈な違和感。ユニフォームを着ず競技場に立つスポーツ選手のような。いや、それよりも遙かな。
それを問う時間すら許されていない今でなければ、真っ先に尋ねる類の。自分の右手への視線に気付いた青年は、困ったように眉尻を下げながら、左手を差し出した。腰の抜けた身体に懸命に脳から動け動けと指令を送り、その左手の力を借りて立ち上がる。
彼は震えていた。同じようにわたしも。わからないことだらけだ。夢であるのか――その可能性が一番高い。荒唐無稽でファンタジー色に溢れた。だって。
「ドラゴンに、見えるんです」
「うん、俺にもたぶん同じものが見えてる。爬虫類に翼の生えたみたいな。……夢だろうなぁ、めっちゃビビッてるんだけど。俺、恐竜とか冒険ものに憧れてたことなかったはずなんだけど」
硬く分厚く、青い鱗を持つ竜は、それは気高く美しかった。巨大な体を奮わせ高らかに雄々しく鳴き、ついに翼を広げる。牙が光る。爪が輝く。金の瞳は射殺さんとするように鋭く。
じり、じり、と竜を見たまま後退りをし、そしてそのままくるりと背を向け駆け出す。夢、夢に違いない、夢でなければ――何だというのだ、でも。感じる焦燥と頬をうつ風と草のにおい、何よりも繋いだ手の温度が、確かに『ある』と証明をしているようで。
「走れ、走れっ!」
ぜいぜいと息を切らしながらも懸命に足は地を駆ける。その声はもしかするとわたしに向けられたものではなく、彼が自分を奮い立たせるためのものだったのかもしれないが、今唯一のやるべきことを号令された身体は素直に従ってくれた。夢だ、きっと、しかし、――あれに喰われれば何かが終わる。
隠れるもののないだだっぴろい草原が続いていれば数秒で追いつかれていただろう。幸いにして目と鼻の先に鬱蒼と生い茂る森が広がっていた。巨体が木々をなぎ倒し爆走することも考えられたが、隠れられる場所が多い分抵抗も出来ずぱくっと食べられる可能性は減るだろう。
あそこまで行けば。
同じ結論に至ったのだろう、青年とわたしはうん、と頷き合った。
言うならば同盟者である。訳の分からない状況、降ってわいた命の危機、たとえ初対面の人間であろうとも、人であるだけでもはや良かった。手に手を携え、命からがらわたし達は逃げ切った。
戦場にともにあるもの達の絆は強いと聞く。さもあらん、とどきどきと未だ落ち着かない心臓を諫め、わたしは強く思った。