孤独なラピスラズリ
学舎を囲んでいる森へ急ぐ。
静かな泉のほとり。
たまに風紀の人の気配がするくらいで人気はない。
腰を下ろしてほっと息を吐いた。
"平民らしいよ"
"振る舞いでわかるって"
"いくら魔力が強くても、僕は認められないな"
耳に入る言葉は棘を含むものばかり。
"さすが美人だなぁ"
"相手してくんねぇかな"
"ばか、やめとけって。零組だぜ?"
"わかってっけど、なんかアイツならイケそうな気がする"
"あぁ…気ぃ弱そうだもんな"
品定めをするような視線や執拗につき纏う舐め回すような視線。
ちゃんとした血筋の者には決して表立ってできないような言動も、平民であるフィオレの前で慎まれることはなかった。
それを助長させたのはフィオレの独特な雰囲気だ。
幼さの残る中性的な美貌はさることながら、いつも俯き加減で微かに眉根を寄せている彼はどこか影があり儚げである。
それが押しに弱そうだとか、か弱そうだとか言われる原因となっていた。
そんなことを言いながらまだ誰もチャレンジして来ないのがせめてもの救いだ。
χχχ
黒板に書かれた文字にいつもより少しだけ眉根を寄せる。
"親睦会"
それはここでは恒例の行事らしかった。
より学舎に馴染めるように学年の違う相手と親しみ合うのが目的だという。
既に親しい相手がいる場合、その人と共に過ごすことができる。
そうでない場合は、企画者サイドに定められた相手と組むことになる。
食事をしたり語り合ったり。
そのくらいならまだいいだろう。
しかしその行事の締め括りにはダンスという字が書かれている。
フィオレは重い気分で細く息を吐き出した。
χχχ
言うまでもなく、フィオレに親しい先輩などいる筈がなかった。
今日はそんな生徒のために決められたパートナーの上級生の方が、下級生に面会を求める日。
昼休憩の時間、まだ見ぬ相手に朝から嫌な緊張を覚えていたフィオレはいつもの泉に来ていた。
膝を抱えて座り込み、軽く俯く。
はぁ
思わず溜め息が出てしまった。
人付き合いの苦手なフィオレには、親睦会はとてつもない試練に思われた。
ここ数日、いつにも増して彼の儚い印象は強くなっている。
嫌な目で見てくるような人じゃないといいな
それならまだ辛辣な言葉を吐かれた方がいい。
フィオレが鬱々と考えを巡らせていた時、不意に足音が近付いてきた。風紀の人ではないその気配に躰を強張らせる。
警戒を露に足音のする方をじっと見詰めていたフィオレの前に姿を現したのは、親しい友人のいない彼でも噂を耳にしたことがある相手だった。
セレストの長い髪が風に揺れ、同色の長い睫毛に縁取られた深いジェイドの瞳が細められる。
オルキス…
まるでフィオレの心の呟きが聞こえたかのように薄い唇が弧を描く。
「フィオレ、だな?」
ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく頷いたフィオレの元へ優雅な足取りでやって来ると、オルキスは気兼ねなく彼の隣に腰を下ろした。
「パートナーになったオルキスだ。よろしく」
「…よろしく…」
未だにその事実が受け入れられないフィオレの躰は強張ったまま。
オルキスといえば貴族の中でも高貴な血筋で有名なのに。
なんで俺に当たるかな…
平民の自身では身の程が違いすぎるとフィオレは眉根を寄せる。もう劣等感が染み付いてしまっていた。
そんな彼を眺めていたオルキスが口を開く。
「俺では不足か?」
ビクリと肩を震わせて顔を上げたフィオレは、何を考えているのか分からないジェイドの瞳に身をすくませる。
「いや、」
「そう警戒するな。期待に答えたくなる」
すっと伸ばされた大きな手がゆっくり近付いてきて、フィオレはぎゅっと目を瞑ってしまった。
すると訪れたのは優しく頭を撫でられる感触。
そろりと窺うように目蓋の下から現れたラピスラズリの瞳が濡れている。
オルキスはそれに切れ長の目をつうと細めて見せた。
背筋がぞわぞわするような視線にフィオレは思わず身震いする。
「…いくら魔力が強くても、使わないのでは意味がない」
警戒しながら抵抗を見せなかったフィオレへの苦言だろうか。
眉根を寄せたまま睫毛を伏せるフィオレの耳許、オルキスは甘い声で囁くように語りかける。
「君の噂は聞いたことがある。…強気にでれば流されそうだとか」
雲の上の存在で意識したことすらなかった相手に自分の恥に当たるような噂を知られていたとあっては顔が上げられない。
ここで生活していれば、その言葉の意味は嫌でも分かるようになるものだ。
耳を赤く染めたフィオレは震える唇を噛んで恥辱に耐えた。
それにしても、オルキスにその噂を検証されるかもしれないとは欠片も思わない所がフィオレらしい。
オルキスは幼気で可憐なフィオレに小さく苦笑した。
「すまない。つい苛めすぎてしまった」
そんなことを言いながらフィオレの頬を大きな手で包んで顔を上げるよう促す。
おずおずと顔を上げたフィオレは、ピンクゴールドの髪から覗く大きめなラピスラズリをうるうる揺らし、眉根を寄せながら唇を震わせていた。
その表情にゾワリと劣情が走る。それでも面には出さずに、オルキスはそっと薄い唇に親指を這わせた。
一瞬、強く寄せられた眉が悩ましげで妙に艶やかだった。
「血が出てしまう」
言いながら何度かローズレッドの柔らかさを堪能し、するりと滑らかな頬から手を離す。
甘い声で紡がれる言葉にフィオレはやはり抵抗などできないでいた。
「最後のダンスだが、フィオレは何が踊れる?」
フィオレの瞳から水気が引いた頃、ようやく本題について話が出た。
ダンスなんてしたことのないフィオレは視線を落として首を振る。
「…何も」
だから嫌だったんだ、ダンスなんて…
本当は立食会も嫌だった。教養がないのが目立ってしまうから。
フィオレは自身の情けなさとオルキスに迷惑がかかることへの罪悪感で益々俯いてしまう。
すると上から降ってきたのは、フィオレの内心など全く意に介していない穏やかな声だった。
「それなら、今日から特訓だな」
驚いて顔を上げた先、近距離にオルキスのいい笑顔。
「俺は妥協はしないタイプだ」
フィオレは美しい微笑みに何故か冷や汗をかきながら、カクカクと首を上下に振ったのだった。
χχχ
オルキスは本人の言う通り、妥協など全くしなかった。
特訓は小さめなダンスホールで行われている。
彼の指導は完璧主義なのかと思うくらい的確で、何よりスパルタだ。
俯き加減がデフォルトのフィオレは、特に顔の角度や視線の遣り所を幾度となく注意されてしまう。
指の先まで気を抜くことは許されず、それでいて、さも自然体を装うのは実に神経を使うことだった。
フィオレは必死でオルキスの指導に答えた。
レッスン中、冷ややかにさえ見えるジェイドは終われば柔らかに細められ、少し褒められただけでとても嬉しくなってしまう。
たまに怖いと思う時もあるが、優しく頭を撫でてくれる大きな手も知っているので、それが嫌だとは全く思わないのだ。
飴と鞭の使い方の巧い人だと思う。
「よし、だいぶ見れるものになった」
「あ、りがとう、ございました」
もうすっかり師匠と弟子のようである。
今まで一度も気にしたことがなかったのに、オルキスといると己の体力のなさを思い知るフィオレだ。…それはただオルキスが規格外なだけなのだが。
フィオレは心地好い倦怠感にどこかぼんやりした足取りでシャワーを浴びに向かった。
いつも汗だくになっているのはフィオレだけなのだ。
オルキスはフィオレがシャワーを浴びてサッパリするまで待っていてくれた。
一人で帰すのは危険だからとギクリとするような視線で言われたのは記憶に新しい。
身支度を整えて戻ればソファで脚を組んでいたオルキスが立ち上がる。彼はフィオレを見遣って目を細めた。
「行こうか」
優しく背を押す大きな手に小さく頷く。
当初隣に立つのも緊張したのに、今ではすっかり安心感すら覚えていた。
背の高いオルキスの堂々とした立ち居振舞いはとても頼もしかった。
「フィオレ、テーブルマナーを覚える気はないか?」
やはりオルキスとしても隣にいるのがマナーも知らない平民では気分が悪いのだろうと暗い気持ちになりながら頷く。
すると長い指がピンクゴールドの髪を優しく撫でた。
「ここでは力が全てだ。だから力の強い者は皆自信に溢れ、時に傲慢でさえある。しかしフィオレ、お前は力に溺れないな。それどころか畏縮している感もある」
彼の態度では全く考えられないことだが、これでもフィオレは学年でトップクラスの魔力を誇っている。
「もし己に劣等感を抱いているのなら、それを払拭させる教養を身につければいいと思ったんだ」
オルキスはフィオレがいつも俯き加減なのはそのせいだと思っていた。彼は自信がないのだと。
その儚げな雰囲気も魅力的だが、魔力が高く美しい彼に後ろ向きな考えは似合わない。
オルキスの言葉が自分を思ってのことだと知ったフィオレは目を丸くした。
「フィオレ、お前は強く美しい。自分を蔑む必要がどこにある」
真摯なジェイドはそれが心からの言葉だと教えてくれた。
頬が染まる。
他意のない言葉の威力に耐えきれず俯いてしまった。
「マナー教室は俺の部屋で」
耳許で睦言を囁くように吹き込まれた甘い声に耳まで真っ赤になる。
フィオレがなんとか一つ頷くと、オルキスはうっすら口許に弧を描いたのだった。