アメジストの熱
あの日からロアンは言葉通りリリヤの守護に精を出していた。
朝は寮部屋まで迎えに来て昼休憩には食事を誘いに教室へ訪れ、帰りは寮まで送る。
各クラスの中でも飛び抜けて魔力の強い零組の、しかも紳士的なのに人嫌いな印象のある風紀委員長様が相手とあって、リリヤに絡む輩はすっかりいなくなったのだった。
昼休憩の時間。
ロアンのテリトリーと言われ、近付く人のいない空中庭園で優雅に昼食を取る二人。勿論リリヤはそんな事は知らない。
相変わらず軽く睫毛を伏せたままのリリヤを眺めながらロアンが口を開く。
「今の状況が不満か?」
甘い雰囲気が全くない二人に恋仲という噂はない。
それ故、"リリヤがロアンのものになった"という大方の生徒の認識には邪な考えが多分に含まれていた。
「…貴方こそ、不本意でしょう」
視線を合わせぬままリリヤが呟いた。
彼らの距離はずっとこんな感じだ。
リリヤがロアンを捉える事は少なく、ロアンも現状を変化させようとはしない。
護らせてくれと言われた時、そこには同情も憐れみもなかったように思う。
何故、こうも自分を構うのかリリヤには分からなかった。
「私はどう思われようが構わない。けれど君を不埒な目で見る輩には不愉快になる」
そんなものではリリヤの気高さは汚されやしないとロアンは思う。
むしろ彼らの下劣さが目立って見ていられない程醜悪なのが、いっそ哀れに感じられた。
リリヤは視線を下げたまま自嘲するように口角を上げる。
「俺もどうでもいい」
随分投げ槍な言い方である。
ロアンは衝動的にブロンドの髪へ手を伸ばしていた。
一瞬強張る細い躰。
細く柔らかな髪に指を入れて輪郭にそって下ろし、雪のように白い頬を包み込む。
拒む素振りはない。
「矜持が高いわりに無防備だな」
「…貴方は俺を試しているのか」
「随分冷静だ」
「何故、俺を構う?」
ペリドットがアメジストを捉える。
強い光を宿すそれに挑発されている気になってしまう。
酷く蠱惑的だ。
「…その瞳を失いたくないから、かな」
初めて捉えられたあの時、この美しい少年に心まで捕らわれたのかもしれない。
細められたアメジストに見え隠れする熱から逃れるようにリリヤが視線を外す。
「俺は誰にも捕らわれない」
「それが君らしい」
返ってきた穏やかな声が予想外で視線を戻すと、ロアンは柔らかい微笑を浮かべていた。
リリヤはにわかに戸惑いを覚える。
「…自分のものにしたいんじゃないのか」
ロアンが分からない。
アメジストには確かに熱を感じた。
それなのに穏やかさを失わないのだ。
そんなリリヤの内心を悟ったかのようにロアンが口を開いた。
「君を愛していたいだけさ」
慈愛の籠った温かな瞳が真実であると告げている。
言葉をなくしたリリヤは僅かに睫毛を伏せる。胸に広がった温かな想いに睫毛が震えた。
χχχ
「私の部屋へ来ないか?」
そんな誘いを受けたのは数日前。
四人部屋だったリリヤはロアンに招かれて一度広い彼の部屋に行った事がある。
他人が自分をどう思おうとどうでもいいが、やはり粘り気のある視線に付き纏われれば不快に思うものだ。
部屋でくらいもう少し気を抜いていたいと思ったリリヤは、ロアンの申し出を受ける事にした。
「一緒にいられるのは嬉しいけれど、複雑な気分だ」
ロアンは苦笑する。
彼の想いを知りながら部屋に来たリリヤはよほどロアンを信頼しているのかやはり自覚がないからか…。
すっと背を伸ばしてソファで本を読む姿は絵画にしたいくらい美しい。
首が広く開いたロングTシャツから伸びる細い首や鎖骨はとても色っぽかった。
そこに嵌められたベルト式のチョーカーへ自然と目がいく。
「リリヤ、そのチョーカーは君の趣味かい?」
捕らわれる事を嫌う彼には似合わないとずっと思っていた。
リリヤは一瞬固まってからそろりとロアンへ視線を遣る。
「九組にいるのと関係がある?」
じっと穏やかなアメジストを見詰めていたリリヤが、ふっと息を吐いた。
「…これは戒めであり、俺を守るものでもある」
いつものように睫毛を軽く伏せたリリヤはひどく億劫そうに口を開く。
「これのせいで魔力が使えないけれど、そのお陰で何とかここでもやっていけてる」
「…あれだけ危ない目に合いながら、それを外す気にはならないのか」
高貴な者が貶められる背徳的な悦びを覚えさせるリリヤは酷く魅惑的だ。
しかしロアンとしては、彼本来の姿を見てみたいと思う。
リリヤはほとほと疲れていた。
本当なら、誰にも打ち明けてはならないような事なのに、ロアンには話してしまってもいいような気になっている。
大体、ここを卒業したとして、彼には待ち受ける明るい未来など描けそうにない。
どうせもう堕ちた身だ。これ以上何を失うというのか?
リリヤは諦めにも似た気持ちで言葉を紡ぐ。
「俺は竜族の者だった。勘当された時、この首輪を嵌められた」
竜は仲間意識が高く、気高く高貴で人間を嫌う。人の前に姿を現す事などない。
もし見付けたら人はきっと竜を捕らえておぞましい事をするだろう。
もう仲間ではないと突き放しながらも首輪を嵌めたのは、彼らの最後の優しさなのかもしれない。
リリヤは、魔力のない者など人間は相手にしないと思っていた。
自身も人を好かなかったから、そうである事を望んでいた。
しかし現実は残酷だった。
その見目のせいで注目されるだけでなく、矜持を深く傷つけられるような事さえされた。
人に紛れて暮らさねばならなくなった時点で絶望を覚えていたリリヤは、もう開き直るしかなかった。
全て失ったのだ。これ以上何を失うものがある?と言い聞かせて。
驚きに固まっていたロアンがようやく口を開く。
「…もう、戻れないのか?」
「ああ」
「一体、何故…」
「仲間を傷つけたからだ」
リリヤは動揺も見せない。
全てを受け入れているように見える姿はどこか儚げだった。
「どうしてその様な事を?」
「…俺は異端だったんだ。鱗の色が今までなかったもので、嫌煙されていた。それがある日、母が不貞の輩と身を結んだからではという話を聞いてしまい、仲間は皆そう思っていたのだと知った。…母は俺を産んで他界したから真実は分からない。けれどその時の俺は頭に血が上っていて、気付いたら仲間を打ちのめしていた」
心は空っぽだった。
勘当された時も何も考えられなかった。
人間と暮らし始めてようやく実感が湧き、絶望した。
頭が真っ白になったあの瞬間に全ては終わったんだと理解した。
後悔はなかった。
もう何も分からなかった。
何も考えたくなかった。
不意に頭が撫でられる感触。チラリと視線を上げると穏やかなアメジストがある。
ロアンは何も言わずにブロンドの髪を優しく梳いた。何度も何度も、慈しむように。
ペリドットが初めて揺らぎ、透明な雫が零れ落ちた。
穏やかな瞳も優しく触れる指もリリヤは知らなかった。
かつての同胞にすら向けられた事はなかったのだ。
「ここを卒業したら私は領主となる。広い館で一人で暮らすのは寂しいから、君も来てくれると嬉しい」
ロアンは子守唄を聞かせるように言葉を紡ぐ。
「館は街を見下ろす小高い丘にあるんだ。君が竜の気質を纏っていても、誰にも知られる心配はないと思う」
優しい言葉に暖かい声。
胸が詰まる。
慈しむことなどされたこともなくて。
純粋な思いやりを受けたのも初めてで。
こんな感情、知らなかった
瞬きもせず静かに雫を落とすペリドット。きっと泣くことを知らなかったんだろう。
そんな不器用な彼の目許をロアンはそっと拭う。
「返事は今すぐでなくていいから、考えておいて」
ロアンの与えてくれる全てが愛なんだと感じられた。きっと彼ほどそれを教えてくれる相手はいないだろう。
リリヤは緩く頭を振ってから優しく目許を拭う長い指を掴み取り、流れる涙をそのままに穏やかなアメジストを見遣る。
水気を帯びてきらきら煌めく美しい瞳に真っ直ぐ捉えられ、ロアンの背筋が震えた。
「共にいさせて欲しい」
彼の優しさに甘えるのではなく、自身で選んだことを伝えたかった。
アメジストが熱を帯びる。
「……それは都合良く解釈してもいいのかな?」
自身を落ち着かせるかのように感情の隠された声だった。
リリヤはゆるりと目蓋を下ろす。
穏やかなアメジストが苦手だったのは、どうしていいか分からなかったから。
そこにある熱から逃れたかったのは、逃げられなくなると思ったから。
ロアンはリリヤを愛していたいのだという。
それならリリヤは愛というものを教えて欲しいと思った。
リリヤが小さく、けれど確かに頷いて見せると、そっと顎に手が添えられた。
軽く上向かされ、目蓋を上げれば近距離に深いアメジストの瞳。
「愛してる」
吐息を溢すように言って目蓋に隠れたそれに倣うようにして瞳を閉じる。
直後、唇に柔らかな感触。
触れるだけのそれは優しく気持ちを伝えてくれるようだった。
永遠のような時の後、そっと離れた温もり。
目蓋を上げれば蕩けるようなアメジストと視線が絡む。互いの目に吸い寄せられるようにして二人は再び距離をなくした。
「、っ」
唐突に窺うように唇を這う舌の感触。ぎこちなく口を開いて招き入れる。
いつか不貞の輩にされた時は嫌悪感が大きかったのに、今は甘い痺れしか感じない。
「リリヤ」
意識がそれる度、名前を呼ばれた。
ロアンは何も強制しない。強引なこともしない。いつもリリヤを尊重する。
自分のものにしたいのではなく愛していたいのだと言っていた彼は、本当に言葉を違えることはなかった。
「この首輪、色気があっていいけど、やっぱり癪だな」
ロアンはリリヤの細い首に嵌まるそれに指を這わせて眉根を寄せる。
思ったことをそのまま口にするロアンのお陰で当初より色々自覚することができたリリヤも眉根を寄せた。
「…していたいと思う物じゃないけれど、外すわけにもいかない」
竜の気質は人間とは異なるのでバレたら色々と厄介だ。
「早く卒業したいよ」
「っ」
いつしか長い指は首輪から細い首筋を伝っていた。
雪のように白い肌は滑らかでずっと触れていたくなる。体温が上がると赤みを帯びるのも綺麗だった。
「リリヤ、嫌ならそう言ってくれ」
本当に嫌だったらとっくに手を叩き落としている。
「意地、が、わるぃっ」
知りたくなかったが、ロアンは少々意地悪だった。それによく躰に触れたがる。
愛情表情だとか君の色香に惑わされるだとか、いつも適当なことを言っていた。
しかし、残念ながらそんな時間が嫌いではないリリヤにはどうしようもない。
彼はよくリリヤに色気がどうとか言うが、細められたアメジストの艶やかさを本人は知っているのだろうか。
あの目に見詰められるだけで背筋が痺れるのに
「リリヤ、愛してる」
もう何度目か分からない言葉。
リリヤは未だにそれに答えたことがない。
「リリヤ…」
どうしてロアンに呼ばれると胸が詰まるのだろう。
「、ロア」
名前を呼ぶと嬉しそうに蕩けるアメジスト。
果実のように甘やかな瞳を見るのが好きだ。
瞳だけじゃない
とっくに気付いていた気持ちを言葉にできずにいる。
「ロア、ロアン」
もどかしく名前を呼ぶリリヤを、ロアンは愛しむように抱き寄せる。
言葉など聞かなくとも、宝石のように美しいペリドットの瞳が隠しきれない想いを伝えていた。
「リリヤ」
だからロアンもその名を呼ぶ。
わかっていると伝えたくて。
彼が想いを言葉にする日は遠くないだろう。
日に日に美しく艶やかに成長する姿を見守るアメジストはいつまでも変わらず穏やかで、
ペリドットの煌めきが失われることもなく…