変わらぬ貴文、変わる美紗
貴文に対する心配事は、それからも私の心に居座り続けていた。良くも悪くも進展しないまま。
三学期に入ってすぐのころ。
「母さん、明日までに学校に提出しないといけないんだけど……」
日曜の午後、そう言って貴文がなにやら書類を持ってきた。
「どれ?」
リビングの片隅でアイロンをかけていた手を休めて、息子へと伸ばす。
受け取って目を通すと、どうやら進路志望調査がらみの書類らしい。
『これは貴文自身が……』と、貴文に声をかけようと顔を上げる。
貴文はソファーに座って、達也さんが見ていた囲碁の番組を眺めていた。
バレーボールの中継や映画なんかを観ているときの集中した感じとは違う、ちょっとした興味。そんな感じでテレビを見ている、その目が。
あの目、に似ている。
感情の抜け落ちたような目で、貴文はテレビを見ていた。
「貴文、囲碁に興味あるの?」
私の声に反応して、こっちを見た息子の目に心が宿る。
「いや、ルールが全然わからないから。見てたら、解るものかな? って」
「ああ。で、解った?」
「全然」
「やっぱり見ているだけじゃ解らないわよね。で、この書類なんだけどね」
書類へと話題を変えつつ、近づいてきた息子の顔を”観る”。子供のころと変わらない表情を浮かべて、進路の話をしている貴文。
さっきのが、ルールを解ろうとして”観て”いる目なら
他人を観ている”あの目”は。
何をわかろうとして”観て”いるのだろうか。
「ねぇ、達也さん。貴文だけど」
翌週、貴文が部活で留守をしていた日曜日。二人でお昼ご飯を食べながら、達也さんに相談を持ち掛けてみた。
「最近、あの子。変な目つきをするの。気づいている?」
「変な目つき? そうか?」
「去年の夏ごろに気づいたんだけど、時々、人を観察しているみたいなことがあってね。それも何かが切り替わるみたいに、目つきが変わるの」
「切り替わるって?」
焼き飯を掬いながら、向かいに座る達也さんを見る。
達也さんは、スプーンを置いて腕組みをした。
「顕微鏡で、対物レンズを切り替えたら、見えるものが変わるじゃない? あんな感じで切り替わっているように、私には見えるのだけど。他の人が見ている時とそうでない時で、変えているみたいなのね」
「沙織の人の顔をじっと見るクセが出ているときと、そうでないとき、みたいな?」
わかめスープを、一口飲んだ達也さんが、首をかしげながら言う。
「私の目つきも、何かが違う?」
「じっと見てるときは、心の中をのぞかれている気がする」
「そうじゃないときは?」
「まあ、普通? お義母さんと話しているのと変わらないし。ああそういえば。この正月に初めて、美紗ちゃんの目も、お義母さん似だな、って思ったな」
「初めて?」
「ああ。だって、今までほとんど俺と目を合わせなかったし」
そう言われて、美紗の黒目がちの目を思い出す。確かに、あの子も私と同じで、母譲りの丸い目をしている。
私の目を覗き込むような母の視線と、伏し目がちな美紗の視線とを頭の中で思い比べる。うーん。貴文のアレとは、ちょっと違う。
「沙織自身は、じっと見ているときとそうでないときは、何か違うか?」
改めて、スプーンを手にした達也さんの問いかけに、しばらく考える。
「見ている時は、ほぼ無意識。たまに、意識的に相手を試すつもりで見ることもあるけど。見ていない時は、”見ないように”意識している」
ん?
自分で言ってて、何かが引っかかる。
「『見ないように意識』? 貴文のは……見るように意識?」
「なんだそれ?」
「うーん」
スープカップを両手で持つようにして、考える。
他の人が見ていないときだけ、あの目で”観て”いる貴文。
周りの人に見つからないように、何かを観察している? テレビを見るときみたいな目で?
「テレビ……」
「うん?」
「そうか。あの目で見ている時って、あの子にとってはテレビの画面と一緒なのかもしれない」
「おーい。もっと判らなくなったぞ」
ああ、もどかしい。この、イメージ的なものってどうやれば伝わるのかしら。
スープをテーブルに戻して、頭を抱える。唸っていると、ポンポンと頭を軽く叩かれた。
「とりあえず、他人が見ていないときの視線がおかしい。ってことだよな?」
「そう。要点はそれ!」
「で、相手と目が合わなくなった瞬間に切り替わる」
うんうん。よかった、わかってくれた。
”同じ言葉”を使う人が、パートナーだと心強いわ。
結婚以来、何度目になったかわからない、安堵感に息をつく。
「なら、百聞は一見にしかずだろ? 今度から、俺もちょっと気をつけて見てみるよ」
「うん。お願い」
達也さんの目を見るようにして、頼むと。
彼も私の目をまっすぐに見てうなずいた。
年度が替わって、貴文も高校二年生。
私の職場も少し異動があって新人が入ってきたり、二年に一度の診療報酬の改正に伴う細々とした変更があったり。
慌しい中。それでも変わらぬ毎日を過ごす。
「沙織、来週の土曜日にジンが来るって」
「なんで?」
「さぁ? 話があるから沙織にも居て欲しいって」
達也さんとそんな話をしたのが、ゴールデンウィーク明けのころだった。
お正月に美紗が『春から夏』と言っていた織音籠の再始動は、まだ伝わってこない。何か事情があって、延期になっているのかとも思ってヤキモキする。
「美紗は?」
「二人で来るらしい」
携帯の画面を見ながら話す彼に了解を伝えると、返信のメールを打ち始めた。
そうして迎えた、翌週末。
「ご無沙汰しています」
そんな言葉で、我が家の玄関をくぐってジンくんが入ってきた。その後ろから、そっと美紗も。
「二年、ぶりだな」
「はい。その節は、ご心配をかけまして」
狭い玄関先で、最敬礼をするジンくんと美紗に上がるように勧める。
テーブルについた皆に、お持たせのアップルパイと紅茶を配る。
私も席に着いたところで、達也さんが口を切った。
「で。どうしたんだ? 今日は」
「先日、公式に発表したので、改めてご報告に。来月アルバムを出して、活動を再開します」
「そうか。よかったなぁ」
達也さんが椅子から腰を浮かせて、ジンくんの肩をたたく。
「よくがんばった、な」
「桐生さんのおかげです」
「俺は、何もしてないぞ」
「いえ。桐生さんたち、先輩が俺に全力を出すことを教えてくれました。それにあの日、気合を入れていただきました」
本当にありがとうございます、と、ジンくんが頭を下げる。
「それで……」
ジンくんが言葉を切って、美紗と顔を見合わせる。視線で会話をする二人。
美紗が他人と目で話をする日が来るなんて。
紅茶カップを口に運びながら待つ。
「あのね。来年の春、結婚式をしようかなって」
口を開いたのは結局、美紗だった。その後を受けるように
「もう少し早くできると良いのですが。まだ、仕事の具合が読めないので……」
「私は式をしなくっても良いかな、とも思っていたんだけどね。この前の連休に、二人で出た式が良かったし、その時に亮さんにも『どこかで、ケジメはつけた方が良いんじゃないかな』って言われてね」
口々にいう二人を、温かい目でみる達也さん。
「二人で結婚式に出たのか?」
「はい。うちのベース担当の奴が先日、式を挙げたもので」
「そんな式に美紗も?」
同棲しているとは言え、”彼女”を連れて行くか?
「ちょっと、訳ありの式で……。仲間内だけで行ったものですから、美紗にも織音籠の”家族”として出席して欲しいと」
そう言って、顔を見合わせて二人が微笑みあう。
「家族、か」
「はい。うちのメンバーにとっては、美紗も既に家族です」
「でね、お姉ちゃんや義兄さんたちにも、”家族”と会って貰う機会かなとも思ってね」
出席してもらえる? と、美紗が尋ねてくる。
当たり前じゃない。
「喜んで。日取りが決まったら教えてね」
ニコニコと笑いながら美紗がうなずく。
じゃぁ、詳しいことが決まったら……と言いながら、二人が帰っていって。
ダイニングを片付けていると、貴文が帰ってきた。
「さっき、ライ公の角を曲がったとこで、ミサ姉とジンさんに逢った」
貴文はそう言いながら、冷蔵庫の前に置いたスポーツバッグからお弁当箱を出す。
“ライ公”……ライオン公園って言ったら、五丁目のパン屋さんの前だったっけ。もう十分ほど早く帰ってきたら、あの子達が帰る前だったのに。
小学生だった息子が言っていた公園の通称を思い浮かべる。
シンクにお弁当箱と水筒をおいた息子は
「今日は、”ジンさん デー”でさ」
と、意味不明なことを言う。
「じんさんでー?」
お弁当箱を洗い桶につけながら首をかしげていると、スポーツバッグの横に置いてあった本屋の袋を手に取る。
「ほら。織音籠、再始動だって」
ジャジャーンと、効果音を付けながら雑誌のページを開いてみせる。
来月に出ると話していたアルバムの宣伝が見開きで出ていた。
「らしいわね。さっき、二人でその話をしに来てたのよ」
「なぁんだ。知ってたんだ。でも、母さん。ジンさんの声、治ってないよな?」
確かに。彼の声は、嗄れたままだったけど。
「あの声で、勝負するらしいわよ。お正月にも、『うたえる声が見つかった』って美紗が言ってたし」
「ふうん。そうなんだ」
「でね、来年の春ごろに、ジンくんと美紗、結婚式だって」
お正月に話を聞いたときは、まだ本決まりではなかったみたいだから貴文には伏せていた。人生どう転ぶか解らないのは、自分で実証済みだし。
でも、式だの届けだのって話が具体的になっているみたいだから、そろそろこの話も解禁だろう。
驚くかと思った貴文は、あっさりとうなずいた。
「やっぱり? さっきミサ姉の指輪が変わってたから、ちょっと”そうかな”とは思ったんだ」
「よく観てるわね」
高校生男子の着眼点じゃないでしょ。それは。
また、あの目で見てたのかしら。
そんな母の思いも知らず。
息子はジンくんの歌を鼻歌で歌いながら、音楽雑誌のページをめくっていた。




