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それぞれの変化

 長かった梅雨も明けて。そろそろ、貴文も夏休みを迎えるころ。

 土曜日の半日の出勤を終えた仕事帰り。友達と一緒にいる、部活帰りの貴文を電車で見かけた。

 周りの子より頭半分以上低い身長は、確かに本人も気にするだろうな……と思いながら、戸口の前のスペースでじゃれ合う高校生たちを眺めていた。


 一人の子が何かを言って、他の一人がそれに反応して。それを笑いながら見ている周りの友達を、貴文はどこか冷めた目で見ていた。

「な、桐生も思うだろ?」

「ええー、そうか? 俺はさ……」

 話を振られた瞬間。顕微鏡の対物レンズが切り替わるように、息子の”目”が変わったのが、三人分ほど離れた座席に座っている私からは見えた。

 みんなの視線が、一人の子に集中したとたんに、またあの冷めた目。

 何。あの目は。

 私の視線を感じたように、貴文の目がこっちを見た。私と目が合った瞬間に、また切り替わる視線。『あれ? 母さん、居たんだ?』って、子供のころみたいな目で見て。仲間の上げる笑い声に、視線を戻して何もなかったように笑っている。

 気のせい、よね?



 貴文のあの目を次に見たのは、法事の席だった。

 桐生のお家に、お盆で親族が集まって。お坊さんのお経だとか一通りのお勤めが終わった後の会席。

 お酒を酌み交わす達也さんと智也くん、それにお義父さんや親戚のおじさんたちを、貴文はあの目で見ていた。

「貴文、お肉あげようか」

 最近、歯が弱ってて……と、お義母さんが声をかけるといつもの顔で

「ありがとう、祖母ちゃん。貰う」 

 と笑うけど。お義母さんが空のビール瓶を手に立ち上がった瞬間、視線が切り替わったのが向かいの席で見ていて判った。


「オイ、貴文。高校で彼女できたかぁ?」

「できてませーん。バレーボールが恋人でーす」

 テーブル向こうの上座からかけられた声に、貴文は愛想のいい顔で返事をする。

「なんだ、なんだ? ん? 父ちゃんに負けてるじゃないか」

 赤い顔のおじさんが、ひょろーっとやってきて、貴文の隣に腰を下ろす。

「お前の、父ちゃんなんかなぁ。高校のときにはなぁ」

「寺下の叔父さん。有る事無い事吹き込まないでください」

 達也さんが、苦笑しながらおじさんを止める。

「有る事、有る事、だろ? なぁ、智也?」

「いや、それは俺の口からはなんとも。後の仕返しが怖いし」

「智也も、誤解を招くようなことを言うなよ」

「ほら、やっぱ有るんじゃねぇか。さすが、違うねぇ。結婚前に」

「叔父さん。そろそろやめましょうか。子供の前ですよ」

 貴文には聞かせられない話題に転がりそうになったところで、達也さんのストップがかかり、ほっと息をつく。お茶を手に視線を上げて見た貴文は、また、あの目をしていた。


 貴文が、目を伏せるようにして赤だしに口をつける。

 達也さんに”憧れて”きた貴文は、いつの間にか彼に似た流れるような仕草でご飯を食べるようになった。そんなことを思っていると、お椀を置いた貴文と目が合う。一瞬で見慣れた、いつもの視線に切り替わったのを感じた。

「母さん?」

「うん?」

「何? じっと見られると、食べにくいんだけど」

「お父さんに似て、よく食べるわねぇ」

「そこが似ても、うれしくない。身長が似てほしいのに」

 そう言いながら、子供のころからは考えられないような綺麗な箸使いで、炊き合わせの生麩を口に運ぶ。

 息子のその顔を、じっと見る。

 そっと、貴文の視線が逸れた。


 意識的にこちらも視線をはずす。

 一、二、三、四、五。

 ゆっくりと心の中でカウントしながら、刺身を口に運んで。 

 ひそかに息子の目を窺う。


 やっぱり。

 貴文は、冷たい観察者のような目をして、座を見ていた。 



 それから、日々、気をつけて貴文のまなざしを追う。

 『美紗と目が合わないのを、反抗期のせいにして。あの子の異常に気づけなかった』

 かつて、そう言っていた母の言葉が私を不安にする。貴文の”目”は、反抗期? それとも何かのサイン?


 結婚前に『互いの目を見る』ことを、ひとつの誓いにしていた私たち夫婦は、意識的に日常から相手の目を見る。それは、貴文に対しても。

 貴文の目を見て話をする達也さんと、それを横で観察する私。貴文に気づかれないように。あくまでもさりげなく、さりげなく。

「じゃぁ、そういうことだな」

「うん。父さん」

 話を切り上げて、達也さんが目を離した瞬間。貴文の目が冷える。


 こっちを向いて、私がいることに気づいた息子の目に温度が戻る。

「何?」

「あごの先に、ニキビが」

「ああ、これ。授業中触っちゃうんだよな」

「痕が残るから、つぶしちゃだめよ」

 はいはい、と、気のない返事を返してこっちに背を向ける。 



 やきもきしながら、手も足も出ない。

 そんな焦燥感を抱きながら、この年も暮れた。 



 この年のお正月。貴文は友達と初詣に行くとかで、本間の家には行かなかった。私の出勤当番が二日だったのもあり、あわただしく日帰りで帰省した。

「お姉ちゃん、あけましておめでとう」

 母と一緒に台所に立っていた美紗が、振り返って笑う。花が咲いたような笑顔、ってのを初めて目にした。

「ほら、お餅。焦げる、焦げる」

「あつっ」

 小さく叫び声をあげて、耳たぶに触れた美紗の左手に、あの指輪がなかった。


「美紗は、今年も大晦日から帰ってたの?」

「ううん。今年はねぇ」

 意味ありげに、含み笑いをして。

「三十日に帰ってきたわよ。(ひとし)くんと」

「もう、お母さん。お姉ちゃんを驚かしたかったのに」

 仁くん、ですって?

「ほら。とにかく二人でお雑煮を座敷に運んで頂戴。お父さんたち飲み始めてるでしょうから」

「はーい」

 今までにない明るさで、返事を返す美紗に首をかしげながら、私もお盆を手にした。


「ちょっと、美紗。これって」

 お雑煮と祝い箸をセッティングした後、席をはずしていた妹が戻ってきた。丁度、座敷の入り口でビールをとりに部屋を出ようとしていた私は、その左手を思わずわしづかみにした。

「やめて!!」

 の言葉と同時に、つかんだ手が抜かれる。

 おお。技を忘れてないんだこの子も。なかなかキレイに抜けた。

「美紗ちゃんも、拳法してたんだ」

「中学校まで、だからお姉ちゃんほどでは」

 達也さんに答えながら、私の掴んだ辺りを撫でている。そんなに強く掴んだっけ?

「ごめん、痛かった?」

「ちょっと、びっくりしただけ」

 私のほうこそごめんね。と、顔色を窺うように首をかしげる。 


 一足先に飲み始めていた達也さんと父さんだったけど、母も席についてから、みんなで改めて乾杯をして。

「で、指輪が変わったこととか? いろいろ聞きたいんだけど?」

 大魔神な彼氏の存在をアピールするため、とかジンくんが言っていた大振りの指輪が、小さくって透明な石の付いたほっそりしたものに変わっていた。

 あの指輪を、引越しのときはつけっぱなしだったのに。この指輪は、料理を手伝うのに外していた。それだけで、美紗の中での指輪の”大事さ”の違いがわかる気がした。

「今度の春……夏になるのかな。織音籠(オリオンケージ)が、活動を再開できそうだから、そろそろ結婚しようかなぁって」

「ジン、歌えるようになったのか?」

「去年の春だったかな。”武器になる声”が見つかったって」

 そう言った美紗の頬に血が上る。

 わが妹ながら……色っぽいじゃない。


「長かったわよねぇ」

 同棲を始めたときに小学生だった貴文が高校生になって。

「何年経ったっけ?」

 お煮しめを達也さんのお皿に入れながら、美紗に尋ねる。

 うーんと、と、右手にビールのグラスを握って指を折る妹は、七と八を行ったり来たりしている。

「八年?」

 ん? この二月で、私が四十一歳。ってことは、この子が三十一歳で。

 三十一 ひく 八 は 二十三。

 二十三歳って。

「それ、何の年?」

「え? 仁さんと知り合ってから……じゃなかったの?」

「あいつは、どれだけ時間かけてるんだ」

 それを聞いた達也さんが、苦笑する。

「あなたたちが、早すぎるのよ」

 ピシャリと、母に言われる。確かに。

 達也さんと、顔を見合わせて肩をすくめる。

「時間は……私たちには、どうしても必要だったから」

 にっこり笑って言った美紗は、グラスのビールを飲み干した。 

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