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初めてのSOSと打ち明け話

 貴文から初めてSOSが来たのが、翌年の梅雨前の頃だった。

 世界中を新型のインフルエンザが襲っていた。


〔もしもし、貴文です〕

 夕食の支度をしている最中に、力のない声で電話をかけてきた息子は、どうやら大学で伝染されたらしい。

〔母さんたちも、病院忙しいと思うんだけど。ごめん、一人じゃちょっと無理そう〕

 気弱な声に、何をおいても駆けつけてやりたくなる。けど。

 うちの病院も患者さんがひっきりなしで、薬局フル活動なのよね。

「どうした?」

「貴文が、インフルにやられたみたい」

「代わる」

 洗濯物を畳んでいた達也さんに受話器を渡す。 

 カレンダーを眺める。土日の休みに加えて、金曜に有給を当てたら……いや、どうだろう。

 仕事の段取りを考えている間に貴文との通話を終えた達也さんが

「今から室長に電話入れて。明日から休めそうだったら、夕飯食べたら貴文のところへ行ってくる」

「うーん」 

 大体、五日間ぐらいで快方に向かうとして……。

「途中で、代わろうか?」

「いや、薬局忙しいだろ? リハビリは、外来で来る人が減っていてむしろ暇だから」 

 ”本間先生”は自分の仕事があるだろ、と、懐かしい呼び方で説得された。


 慌しく夕食の支度をする間に、達也さんは泊まりの準備をして、近所の薬局にも行って必要そうなものを買ってくる。

「じゃあ、行ってくる」

「うん。貴文によろしく。達也さんも伝染されないように気をつけて」

 大きなかばんを提げて玄関を出て行く彼を見送る。


 私は、私のしなければいけないことをする。

 それは、きっと。どこかを巡って貴文にも届く。

 母であるのと同時に、私は医療人だから。



 約一週間後に、達也さんが戻ってきた。幸い伝染されることもなく。

「俺が行って、二日目かな。貴文の彼女が見舞いに来て」

 洗濯物を出しながら、そんなニュースも土産に持って帰ってきた。

「へぇ。どんな子?」

「一言で言ったら……可憐な感じ。ひらひら、ふわふわって」

 ひらひら、ふわふわで可憐? ふーん。貴文の女の子のタイプって、そんな子なんだ。

 どこか、面白がっている自分が、心の中のメモに書きとめる。

「『伝染るから、帰って』とか、貴文が言ったら、目を潤ませてうなずいてさ」

 かわいいじゃない。彼女の心配をする貴文もなかなか、やるなって感じだし。

「それで?」

「靴を履く後姿を、貴文があの目で見てた」

「何、それ?」

 ひざを後ろからカックンとやられたみたいに、よろけそうになった。

 どうして、そこで、そうなる。貴文!!

「だろ? で、ドアが閉まってボソッと言ったのが『体調悪いと、やっぱきつい』」

「キツイやり取りなんてあった? 今の話に」

「ない、だろ? それから、ずっと考えていて、思ったんだけど。あいつ、他人との距離が上手に取れないのかもな」    


 他人と距離を置いていた美紗ちゃんに雰囲気が似ていて、酒の席で出てくる本音を気色悪いって言って。それでも、友達づきあいはそれなりにしていて、彼女も居る。


 指を折りながら、達也さんが数え上げる貴文像。

「で、極めつけが他人を観察しているあの目、だろ? 俺が見ている感じでは、互いの位置関係を俯瞰で眺めているように見える」

「俯瞰……」

「将棋盤でさ、ここに飛車があって、こっちに桂馬があるから、銀をあそこに打とうか、みたいな感じって解る?」

「なるほど。で、相手との間に見えない障壁を立てて触られないようにしている、と」

 どこで、そんなことになったのやら。

 きっかけがさっぱり解らないだけに、手の施しようもない。

「どうしたものかしら」

 ため息混じりに言葉が落ちる。

「どうしようもないだろう。お義母さんのように『アイツが幸せになれれば、俺たちはそれで良い』と言うしか」

「そう、かぁ」 

 もどかしいけど。仕方のないことなのかもしれない。


 思い切りをつけるように、私は洗濯物を抱えて立ち上がった。



 幸い家族の中で、インフルエンザに罹ったのは貴文ひとりで。そろそろ高齢者の域に入る私たちの両親や、声が仕事道具のジンくん、それに医療職の私たち夫婦も美紗も罹ることなく、流行の波をやり過ごすことができた。



 貴文も二十歳になって。私たちも四十歳の後半に足を踏み入れかけたこの年のお正月。

 帰省した実家で、美紗のおめでたが知らされた。

「ジンくんの子供だから、大きいんじゃない?」

 結婚式でお会いしたジンくんのご両親も大きかった。お兄さんの孝さんも、達也さんくらいあったし。

「どう、なるかなぁ。あまり大きかったら、私の体じゃ支えきれないからって言われているのよね」

 貴文を産んだときには想像も付かないほど、技術は進歩しているそうで。エコーで胎児の体重まで計算できるとか、3Dで胎内の様子を映してくれるとか。

「そうでなくっても、高齢初産だから気をつけないと」

 美紗はそんな母の言葉に、あいまいに笑ってみせる。自分自身が、高齢出産の子だしね。

「予定がいつって?」

「五月半ば」

「仕事はどうするの?」

「三月一杯で産休に入る予定。それから、お姉ちゃんみたいにこっちに戻るか、そのまま向こうで産むかまだ悩んでいるのよね」

 そろそろ、腹帯もしないといけないし……と言いながら、まだ、目立たないお腹をやわらかい表情で撫でている。

 

 その美紗を、母も包み込むような目で眺めていた。



 結局、美紗は里帰りをして男の子、翔を産んだ。大方の予想を裏切って、そこそこの体重の子で。 


「先生が言うにはね、早く大きくなって出てきちゃうと本人が困るからって、私が支えきれる限界を計算しながらセーブして大きくなったんだよって」

 そんな、ファンタジックなことを言いながら授乳をする妹の姿を眺める。

 退院から二ヶ月が過ぎて。美紗も翔も落ち着いた頃の土曜日に、達也さんと二人で訪ねた美紗の家。さすがに、達也さんは席をはずしていて、それに付き合ってジンくんもダイニングに居る。

 同棲時代とは家具の配置とかも変わって、かつて”美紗の部屋”だったところにベビーベッドが置かれている。その部屋で、クッションに座って翔を抱く美紗の姿に、彼女が赤ん坊の頃の母の姿がダブる。



 赤ん坊と目を合わせ、幸せそうに微笑む美紗に

「貴文を落としそうって、一瞬だけしか抱っこしなかった子がねぇ。”お母さん”かぁ」

 中学生だった姿を思い出す。

「『子供産まないかもしれない』なんて、言うもんじゃないでしょ? 実際にわが子抱いたら」

「まあね」

 ふふっと笑みをこぼして、翔の口元をガーゼでぬぐう。

 慣れた手つきで、ゲップをさせる。

「結局、同棲してから八年?」

「かな? 二十七だったから」

「それで、やっと子供が授かったわけか。私も、貴文の次はなかったから、家系的なものかもね」

「あー。それはどうだろ?」

「何が?」

「最初の三、四年は、本当に同居だったし」

 何か、妙なことを聞いた。気がする。

「いわゆる男女のお付き合いをしたのは、結婚の二年位前から?」

「ちょっと。待って」

「うん、待つよ」

 鼻歌を歌いながら、美紗は暢気に息子をあやしている。

「さっきの『子供を産むことはないかも』って、そのことだったの?」

「どのこと?」

「ジンくんとは付き合ってなかったってこと」

「微妙に、違うけど、遠くはない。かな」

 そう前置きをして、妹が語ったのは。


 長い間、家族の中でしこりのように存在し続けた、彼女の内面のことだった。

 

「私ね、他人に体を触られるのが嫌いでね。それがきっかけで、仲間はずれに逢っちゃって。それ以来どうすれば、触れずに触れられずにすむのかなって研究を重ねてきたの。大学の頃には完璧にコントロールして他人との距離をとれるようになったから、職場の人も友達も知らないことだけどね。それで、楠姫城(こっち)に来て、高校生のころからファンだった”JIN”に出会っちゃって。ナンパ除けの指輪を買ってもらったり、休みの日に遊びに行ったりするうちに、一緒に住もうかって話になって」

「何で、そこで、そうなるの」

「単純に、家賃と間取りの問題なんだけど。早い話が、”友達以上、恋人未満”って間柄でのルームシェアだったのよね」

「恋愛感情はなかったわけ?」

「うーん。無かったわけではないけど……。仁さんに”彼女”ができたら、解消になるだろう同居だから、それまでの間だけでも彼に一番近い場所に居れるならいいかなって。彼女になれるとは思ってなかったし」

 なんて、欲のないことを言っているのやら。

 ゆーらゆらと、赤ん坊を抱く人特有のリズムで体を揺らす妹を眺めて、ため息が出る。

 あれ? でも確か……。


「引越しのときに、ジンくん”彼氏だ”って」

「本人が言ってないでしょ? 誰かに恋人かって訊かれたら互いに否定はしないけど、自分たちから言うことは無かったわ」

 うそは言ってないって、やつね。勝手に信じたんでしょ?って。

 何をやってるのよ。

「でも、触られるのが嫌なら、男の人と二人で住むのって怖くなかった?」

「『仁さんは、そんなことしない』って思ってたのと、一緒に住んでいる間に、仁さんだったら触れられても大丈夫なことが少しずつ出てきていたから、そんなに怖いとは思わなかったわ。それにね、そんな体の状態だから、仁さんが無理やりってことでもしない限り、男の人とそういう意味で接触することは一生無いだろなぁって、気持ちもあったし」

「ああ、それで『子供産まないかも』なんだ」

「うん。まあね」

 そう言って、美紗は眠ってしまった翔をベッドにおろした。


「結局のところね、仁さんの声が出なくなるまで、お互いに片思いって状態で。あの一件でやっと気持ちが通じてからも、私の体の準備が整うのに一年くらいかかっちゃって」

「なんていうか……二人ともご苦労様。ね」

 何をおっしゃいますやらと、冗談めかした返事をした美紗が、私を振り返って微笑む。 


 中学生だった美紗から表情が消えた時。トラブルを引き起こした私のせいかと、悔やむ私に母が言った。

 『美紗も沙織も悪くないけど。もしも沙織が悪いと思うなら、美紗の失った感情を栄養に幸せな華を咲かせなさい』と


 長い時間をかけて、

 美紗とジンくんも二人の人生に華を咲かせて

 実をつけた。

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