貴文、大学生
披露宴もたけなわ。
母の隣で、ビールを飲みながら花嫁姿の美紗を眺める。
キャワキャワと、はしゃぐ声の聞こえそうな表情の”奥さん方”に囲まれている新郎新婦。
美紗と年が近いという、妊婦さんのおなかを順番になでている。美紗も、こわごわ手を出して……びくっと手を引っ込める。助けを求めるように、ジンくんの顔を見上げる。ジンくんが相好を崩して、キリンに何か言っている。
「よかった。美紗が幸せそうで」
「そうね。あなたたちのおかげよ。言ったでしょ? 幸せな夫婦のお手本になってあげてねって。人と距離を置いていたあの子が、『お姉ちゃんだって、私の歳には結婚してたじゃない』って、同居を押し切ったんだから」
そんなこと、言ったのか。なるほど、『お姉ちゃんたちの結婚が早かったから、話も早かった』だわ。
「距離、かぁ」
母のグラスにビールを注いで、ふと息子の姿を目で探す。
また、あの目。
料理を置いてあるテーブルのそばで、祝いの席に似つかわしくない目で美紗たちを見ている。
料理を取りに行ったらしい亮くんに話しかけられて切り替わった目つきが、彼が背を向けた瞬間にまた冷えてそのまま、亮くんを眺めている。
あの子の他人との距離感って、どうなっているのかしら。
ため息をつくように、心に浮かんだ思いに
何かが、見えた気がした。
そうか、距離、か。
テレビの画面を見るように他人を眺める貴文は、他人との間に見えない障壁を置いているのかもしれない。画面とカメラ、二つの障壁に遮られたテレビの中の人には、触れることも触れられることもできない。そんな風に、あの子は他人と接触しないような距離を置こうとしている?
美紗ほど、劇的な異常ではなくっても。貴文の心にも、美紗が抱えていたような”何か”が巣食っている。
そんな気がした。
「距離、な」
その日、帰宅してから達也さんにも話をした。貴文は『疲れた』と、さっさとお風呂を済ませて部屋に篭った。
「美紗がね。中学生の頃、人形みたいな表情をしていたことがあったの。達也さんと目が合わなかったのも、そのせいだったのよ」
「人見知り、じゃなかったのか」
「うん。私や両親とも目が合わなかった時期があって」
あの頃、美紗は家族の誰とも距離を置いていた。
「貴文の状態がひどくなれば、アレになる気がする」
「沙織の眼から見て、ひどくなっているか?」
「ううーん。大して変わらない気がするのよね」
最初に気づいてから、かれこれ二年近くが経つ。美紗は一ヶ月ちょっとで傍目にも異常が見えた。
「それなら、学校で何か……も考えにくいか」
「成績とか、持ち物とかに異常は見えないし」
むしろ、最近、成績よくなってきている気がするくらいだしね。
「もうしばらく、様子見、かな」
「そうね」
そう結論付けて、私たちも就寝の用意をした。
私たちの心配をよそに、貴文はそれからも成績をキープし続け。秋には推薦入試で大学に合格した。
進学先は、私が通った大学よりもさらに西、鵜宮市になるので、春からは一人暮らしをすることになる。
仕事の合間をぬって、一人暮らしを始める貴文の準備を手伝う。そういえば、両親もこうやってアパートを探して、家具の準備をしてって、してくれたっけ。あれから……二十年以上経ったんだ。早いなぁ。
「いい? ご飯、特にお野菜をちゃんと食べるようにしなさいよ」
「大丈夫。わかってるって」
本当かしら。
そんな心配をよそに、鼻歌を歌いながら荷物を解く貴文。
「俺、好き嫌いしたことないだろ? 野菜食べなかったのって、いくつのときの話さ」
「それはそうだけど……」
「母さんの、しつけの賜物を信じろって」
「はい、沙織の負け」
横で、クスクス笑いなが達也さんが段ボール箱をつぶしている。
夕方までに片付けて、帰らないと。私たちは明日は仕事。今夜から貴文はここで一人、生活を始める。
「母さんを心配させるようなことだけはするな。後、何かあったらいつでも電話して来い」
達也さんが最後にそう言って、貴文の部屋を出る。
「わかった。手伝いありがとう」
貴文は軽く手を振りながら、そう言って玄関先で私たちを見送った。
ワンルームマンションの階段を下りながら、達也さんが言う。
「親離れ、子離れ。な」
「うん」
「けど、心配なら。ちゃんと、帰りに道を覚えながら帰ろうな。なんだったら、携帯で写真も撮るか」
「そこまでは……」
「美紗ちゃんの時、一人で行けなかっただろ?」
「あれは、それまでが貴文に頼りすぎていただけ。今回は、ちゃんと自分で覚えるから」
曲がり角、曲がり角であたりを見渡して。風景を目に焼き付ける。
焼き付けながら、町に心の中で語り掛ける。
私たちの大事な息子をどうぞよろしくと。
”便りのないのはよい便り”を実践したように、貴文はほとんど連絡もよこさず大学生活を満喫しているようで。
【お盆は、祖父ちゃんのところに直接行きます。向こうで会いましょう】
なんて、ふざけたメールを送ってきて。
帰省した実家では、美紗もジンくんと羽を伸ばしていたりするし。
ちらりと、達也さんやジンくんに話しているのを聞いたところによると。
貴文は、大学でバレーボールサークルなるものを立ち上げて、休みの日にはアルバイトとバレーに明け暮れているらしい。
『趣味でする分には、父さんやジンさんほどの身長はいらないから』と言っている息子は、成長期を過ぎても百七十センチに身長が届かなかった。
「ジンくん、一杯」
「いや、俺、飲まないんで」
「その図体でか?」
夕食の席でそんなやり取りをジンくんと交わして、父が強引にビールを注ぐ。
「お父さん、咽喉つぶすといけないから。私がもらう」
笑いながら美紗がジンくんの分も飲む。
「美紗ちゃんも強いなぁ」
「打ち上げで、いつも俺の分まで飲んでますからね」
「もう。仁さん。ばらさないでよ」
膨れながら、美紗が軽くジンくんを打つふりをする。
「飲むのはビールだけにしておけよ」
「うん。それはちゃんと守ってる」
「沙織もだぞ」
「はいはい」
一人暮らしを始めた頃に何度も言われた事を、父は今日もまた繰り返す。
「ビールだけって、本間家の家訓?」
「女の子は、外でカクテルを飲むもんじゃない」
達也さんの質問に父が持論を展開する。
「ビールは混ぜ物ができないだろ? 潰す目的で妙な配合をする奴もいるからな。用心に越したことはない」
「ああ、言いますね。あれとこれを混ぜたら一発とかって」
「やっぱり、そういう会話は出るか?」
「バンド外のメンバーと飲むと、そういった会話も無くはないです。俺たちには理解できませんけど」
「理解できない、か」
「学生時代から十年越しで付き合ったとか、幼稚園から三十年越しの初恋とか。俺の仲間はそんな連中ですから。酒の力でどうこう……って発想が、そもそもないですね」
父とジンくんがそんな話をしているのを、貴文も一人前にビールを飲みながら見ている。
そんな貴文にジンくんが話を振る。
「タカも、そんなズルはしないよな?」
「し・ま・せ・ん。大体、俺の親戚って、潰れるような人いないじゃない。だから、飲み会で潰れる女の子は、見ていて幻滅するし」
「幻滅するか」
貴文の答えに、クツクツとジンくんが咽喉声で笑う。
「それ以前に、酔って本音が出てくるのが嫌だ」
「それは、お前……」
「酒で出てくるくらいなら、隠すなって言うの。気色悪い」
貴文自身が、酔って隠していた本音が出たか。達也さんと顔を見合わせる。
「まだまだ、若いな」
そういって、父が大口を開けて笑う。
台所で母と並んで後片付けをしながら、母がふっと言った。
「沙織、貴文の目。気づいている?」
「やっぱり、お母さんもおかしいと思う?」
「美紗ほどじゃないんだけど。あなたが気づいているならいいわ」
スポンジを握りながら、母が微笑む。
「お母さん、残った揚げ浸し、どうしたらいい?」
座敷を片付けていた美紗の声に、母が振り返る。
「ああ、ラップをかけて……」
話題が、貴文からそれて。
その日。それ以上、母がその話題に触れることは無かった。
相変わらず貴文は連絡も寄こさず過ごし、私たち夫婦も二人の生活に馴染んだ。
独身のころは、テニスだスケートだと体を動かすデートもしたけれど。さすがに、四十歳を過ぎると、もっと穏やかに休日を過ごす。
美術館に出かけたり、図書館で過ごしたり。
『縁側で猫を抱いて日向ぼっこをしながら一緒に年を取れたら……』
昔、そんなことを言った達也さん。縁側のある家ではないけれど、彼の点てたお茶を飲んで、私の作ったお菓子を食べて。そんな午後を過ごす。
「なんていうかさ。一山超えた、って気がするな」
両手で包んだお茶碗を、緩やかに回しながら達也さんが微笑む。
「そう?」
「うん。命を次の世代につないで、その子が独り立ちして。生き物としての仕事をひとつ終わらせた気分」
「そうね。”生き物の定義”の半分はこなしたわね」
自己の複製と保存をするのが生き物だって、確か習った気がする。
「そうか。お母さんの言っていたのは”それ”か」
「うん?」
「若いころにね。『沙織が幸せになれば、お母さんはそれでいいのよ』って。私が何かに迷うたびに、そう言ってくれてて」
「うん」
「私が独り立ちするところまでが、お母さんの仕事だったんだ。そこから先、子供を生んで育てるのは私の仕事ってことよね」
そうか。そういうことか。
「だったら……この先、命をつないでいくのは、貴文の仕事よね」
「そうだな。これからは『困った』って、あいつが助けを求めてきたときに助けるのが俺たちの仕事だよ。お義父さんたちが、お前を守ったみたいに」
育て終わったから、それでさようなら、じゃないだろ? 親子って。
そう言って彼は、お茶を飲みきった。
先に立って、息子の手を引く時間は終わった。
これからは、後ろで支える時間になる。
未成年者の飲酒は法律違反です。




