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貴文、小学生

 二十四歳で結婚、出産をして。息子の貴文(たかふみ)が三歳になったころから、かつて働いていた病院でパート勤務を始めて。


 パート歴も五年以上になった。

 私たち家族三人は相変わらず、小さなことで笑いあいながら暮らしている。



 若いうちに貴文を授かった私たちの元に、二人目の子供はまだ来ない。

 貴文が小学校に上がるころに、一度診察を受けてみようかと考えたこともあった。私も三十歳になるし……と。相談した達也(たつや)さんは、 

沙織(さおり)が、欲しいなら止めないけどな。俺は、つわりであんなに苦しんでいたお前の姿をもう一度見るのは、しんどい」

 と、言って積極的には勧めなかった。それを言われると……ちょっと、腰が引ける。

 自然に任せるか。

 そんな、どこか暢気なことを考えて。診察を受けることなく、そのままにしている。

 そろそろ、高齢出産の域に入るのだけれど。



 中学校で仲間はずれにあって異様な表情をしていた妹の美紗(みさ)も、大分落ち着いたらしく。実家のある県の南部、私たちが住む街から電車一本でいける大学に進学して、私と同じ薬剤師になった。

 私が通っていた総合大学の近く、通称”西のターミナル”の駅前にある調剤薬局に就職して、一人暮らしを始めている。

 互いの家のほうが実家より近いから、休みの日には貴文を連れて顔を見に行ったりしている。

 美紗と私の年齢が離れているし、達也さんの弟の智也くんもまだ結婚していないから、貴文には従兄弟が居らず、一番歳の近い親戚が美紗だということもあるのだろう。貴文は幼いころと変わらず、この歳若い叔母が大好きで、『ミサ(ねぇ)』と慕っている。



 大きくなるにつれ、貴文は日に日に達也さんに似てきた。

 見た目は赤ちゃんのときから『お父さん似ねぇ』と、会う人会う人に言われる切れ長の目をしていたけれど。小学校に慣れた頃から柔道を習い始めた貴文は、最近では姿勢まで似てきた気がする。

 使うことが無いに越したことはない。けれども、私たちは身を以って護身術の必要性を知ってしまっていたので、”貴文が小学校に入ったら、何か武道を”と夫婦で決めていた。

 私達が勤める病院の近くの警察署で、子供向けの柔道教室がありそこにお世話になることにした。この教室は現職のお巡りさん達が非番の日に持ち回りで教えてくれているらしい。貴文の練習中は、私も道場の隣の会議室で婦人警官さんから、女性向けの護身術を習った。


「やまぎし 先生ってすごく大きな先生がいてさ。練習中は怖いんだけど、休憩の時とか終わった後とか遊んでくれるのが楽しい」

 貴文の言う”山岸先生”は、私たちの両親くらいの歳のクマを彷彿とさせる本当に大きな人で。でも練習の後、『がんばったな』といって肩車してくれたり、五人がかりでかかってくる子供たちを順番にコロコロと足払いで転がしたりと、いい遊び相手でもあるみたい。


 毎週楽しそうに練習に行って。練習の無い日は、暗くなるまで公園で友達とボールを追い掛け回して。

 雨の降る日は、静かに本を読んでいる。

 そんな、”動と静の混じった”子供になった。



 貴文が、小学校の……四年生になった頃。

 九時の就寝時間が過ぎた貴文を布団に追いやって、私たち夫婦はテレビで放送されていた映画を見ていた。貴文が生まれて少し経った頃に上映されていたハリウッド映画。

「これ、あの頃見てたら、怖すぎたかも」

「そうか?」

「うん」

 前の彼氏との別れ話がこじれて、刺されかけた記憶が呼び起こされる。知り合いだと思っていたら、実は形態模写した敵の殺人ロボットだったなんて話。当時、彼に擬態をしている異星人のイメージを持ってしまっていた私には身につまされる。


 途中にはさまれたCMに息をついて、ミルクティーを飲む。結婚前からの約束、砂糖が多めの夜のミルクティー。

 その甘さに、知らずに肩に入っていた力を抜く。

「あれ?」

 横で達也さんが、声を上げて画面を見る。

「なに?」

 シーっと、ジェスチャーをされて、黙る。

「おりおとかご?」

 なに、それ?


 意味不明の言葉をこぼして立ち上がった彼は、電話の横に置いてあるノートパソコンを立ち上げた。

 映画が始まるのに、そのまま、いすに座り込んでインターネットの検索画面を睨んでいる。

「始まったわよ」

「うーん」

 声をかけても生返事が返ってくる。同じように立ち上がって、彼の背後からパソコンの画面を覗き込む。


 その画面には、黒のバックに、毛筆で書いたような”織音籠”の銀色の文字が浮かび上がり。

 続けて彼が開いた画面に、五人の男性。

「やっぱり、じん、か。後、これは……とおる、だよな?」

 オリオンケージって読むのか。

 腕を組んで、そんなことをつぶやいている。

「いったい、何?」

「ああ。ごめん。これな、高校の後輩だ。さっきのCMの歌の」

 振り仰ぐように私の顔を見ながら説明してくれたのによると。

 五人の男性の真ん中。どこか怖い雰囲気の一番大きな人が、”ジン”。その彼にもたれている女性と見間違えそうな長い髪の人が、”(とおる)”。ふたりとも達也さんの二学年下のバレー部の後輩だったらしい。

「ジンってな、良い声してたんだよ。文化祭の名物男でさ。あいつが歌うのを見るために、近所の学校から来るやつがいるほど」

 プロになるとは思ってなかったけどなぁ。

 懐かしそうな顔で、言う達也さん。

 映画をそっちのけで、次々と画面を変えて。見つけたらしい試聴コーナーをクリック。

 流れてきた声は、確かに低くて響きの良い声だった。


「あれ? そう言えば……確か、沙織の出身校って」

 確認するように尋ねられた大学名にうなずくと、

「だったら、亮の先輩だな。沙織も」

「そうなの?」

「うん。確か、こいつら大学の学祭でもやってたはずだから、お前も見たかもな。智也が友達と見に行くって言ってたし」

 へぇ。世間って、狭い。


 その、世間の狭さを実感するのは

 さらに、二年ほど後のことだった。



 その年の春に、美紗が引越しをするという話が実家から聞こえてきた。引越し先は、私の通っていた大学の隣の駅。

〔何で、また。仕事場から遠くなるじゃない〕

〔そうなんだけどね。家賃の関係で……〕

 美紗に電話で尋ねると、職場の家賃補助が引き下げられるとかで。同じ家賃を払うなら少しでも広いところに……ってことらしい。

〔家賃補助は下がっても、交通費は満額もらえるから、トントンかなって思って〕

 あのあたりって……単身向けの部屋、そんなにあるのかしら? あー、でも。私が学生の頃とは、違うか。十年経つし。

〔引越しがいつって?〕

〔ええっとね〕

 カレンダーを見ながら、妹の答えを聞いて。

〔手伝いに行こうか?〕

〔んー〕

〔男手、あったほうがいいでしょ? 貴文も六年生でそれなりに使えるだろうし。その日だったら私も達也さんも休みだわ〕

〔そう、ねぇ〕

 煮え切らない美紗の返事に、ちょっとイライラしてきて

〔手伝いに、行くからね。そのつもりで〕

 強引に押し切った。 


 引越し当日。

 美紗から、引越し先としてあらかじめメールで知らされていた住所に着いて。

「ねぇ。私が方向音痴だからって、間違えてないよね?」

「地図見たの、沙織じゃなくって、俺」

「だよね」

 どう見ても、引越し先はファミリー向けの外観をしていた。築年数はそこそこいってそうだけど。

「ミサ姉ぇー」

 貴文が、伸び上がるように手を振る。その声で、私たちに気づいたらしい美紗が、小走りで近づいてきた。

「義兄さん、お姉ちゃん。こんにちは」

「やあ。美紗ちゃん」

「こんにちは、じゃなくって。住むの、本当にここ?」

「うん。私は電車で来たから、引越し屋さんのトラックももう着くと思うの」

 美紗は、そんなどうでもいいことを言いながら、階段を軽く上がって鍵を差し込んだ。


 ちょっと。3LDKって。

 部屋数だけは、うちと変わらないじゃない?

「独身が何を考えているの? ここに、一人って」

「ああ、一人じゃなくって。一緒に住む人がいるから」

 その返事に達也さんと顔を見合わせる。

「美紗ちゃん。それ、お義父さんたち知ってる?」

「うん。この前、挨拶に行ったし」

 お姉ちゃんたちが早くに結婚してくれてたから、話が早かったわ。

 そう言って、笑う美紗の左手。彫刻の施された、太い指輪が目に入る。美紗の小さな手に不釣合いなその指輪に、鳥肌が立つのを感じた。

 何? あの指輪……。



 あっちの部屋、こっちの部屋と覗く貴文の相手を美紗に任せて、

「ねぇ、達也さん。美紗の指輪……」

「うーん。あれ、なぁ」

「私が、指輪に嫌悪感があるせいじゃないよね?」

 前の彼氏に貰った婚約指輪のせいで別れ話がこじれ、結婚指輪以外の指輪をつけるのが嫌いな私だから、美紗の指輪に違和感を覚えるのかと思ったけど。

「一緒に住むやつが贈ったなら。男の俺が見ても、何のつもりかちょっと理解できない」

 そんな話をこそこそしているうちに、トラックが着いた。



 ワンルームマンションからの引越しなので、家具はそう多くない。

 荷物をすべて運び込んで、家具を設置してもらって。途中で、達也さんが買ってきてくれたサンドウィッチで軽くお昼を済ませる。  

 荷解きをしているときに、インターフォンがなった。

 短く応対した美紗が玄関に向かって

「義兄さん、玄関開けてもらえる?」

 と声をかける。


「お前、大魔神か」

「だいまじゃなくって、いまだです」

 なんだかよくわからない会話が玄関から聞こえてきた。

「美紗」

 低くて、通りのいい声に振り向くと。


 確かに

 大  魔  神

 がいた。

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