4)母さんとエロ親父
母さんは鼻血を出した俺をベッドの中に放り込むと、不退転の決意をもって枕元に陣取った。井戸から汲んできた水を足下に置き、火照った俺の身体を隅々まで拭くと主張して譲らず、そしてその通りにした。
恥ずかしいやら情けないやらで俺が寝たふりをしていると、ティオに連れられて親父が帰ってきた。
「おーい、帰ったぞー。……なんだ、ルーはもう寝てるのか」
「しっ! ルーは疲れてるんだから。さっきも鼻血出したし」
「お前、何をやったんだ? 疲労回復とか言って、またぞろカラフルな深海魚の卵巣を食わせたんじゃないだろうな」
「ぷんぷん、失敬な! お風呂に入れて綺麗にしてあげただけです。ほら、この子、昔っからのぼせやすいから」
親父が微妙すぎる表情を浮かべたのが、布団の中にいても分かった。
「綺麗にって……母さん、ルーと一緒に風呂に入ったのか?」
「ええ。良かったわ、一緒に入ってて。もしひとりにしてたら、ルーは風呂小屋の中でひとりで倒れてたのよ」
「いやー、どうだろうなぁ。ひとりにしてたら、鼻血吹いて倒れることもなかったんじゃないかと思うぜ?」
親父、あんたは正しい。
布団をひっかぶった下で、俺は親父の慧眼に恐れ入った。
「確かに誰も見てないと、お父さんもルーも、のぼせるどころか、ろくに洗いもせずにすぐにお風呂から出ちゃうものね。あ、今日はたくさん骸炭を使ったんだから、お父さんも入ってよね。もったいないから」
「やれやれ、女はすぐに『もったいない』が出てくるよなぁ。最近は石炭も値段が下がったし、そんなに贅沢でもないだろ」
「石炭の値段は下がったけど、骸炭の値段は上がってるのよ。品薄ってことはないんだけど」
母さんの言葉を聞いて俺は思考をめぐらせる。一応は錬金術師の元で学ぶ塾生であるから、骸炭がどういうものかは知っている。石炭を蒸し焼きにして蒸留成分を飛ばし、スカスカにしたものが骸炭だ。
南部に広がる湿地帯では昔から大量の石炭が採れたが、燃料としては木炭の下に位置づけられていた。燃やすと臭い煙を大量に出すから料理には使いにくく、また熱量も小さいので鍛冶に使うにもぱっとしなかったのだ。貧乏人の冬の暖房用、ということで北部へ輸出されるのがせいぜい。それも船の底にバランサーの代わりに入れておく、という程度だった。
それが骸炭となって使えるようになったのはここ三年の話で、モノのおかげだった。モノが東から来た錬金術書を翻訳したことで、骸炭の作り方が分かったのだ。
骸炭は臭い煙が出ず、熱量も豊富だ。料理で使うにも良いし、家庭の暖房でも使える。そして何より、製鉄と鍛冶において大活躍となった。また、骸炭を作るとコールタールというドロドロの粘液が生成するが、これは木材に塗って防腐剤として使われている。
骸炭が品不足ではないのに、値段が上がってるということは、骸炭の生産と需要が共に伸びている、ということだろう。そして家庭での需要が急造していない以上、骸炭は製鉄と鍛冶に使われていることになる。
「小麦や米の値段も上がってるし、人の出入りが増えてガラの悪い男の人が増えたし、なんだかヤな感じなのよね。そういうわけだから、今日は家族四人そろってるんだし、しっかりお風呂入って、身体をきれいにしてよね」
「んー。面倒だなぁ……そうだ! 俺と一緒にはいろうぜ」
俺の思考の流れは親父のこの一言で断ち切られた。突然何を言い出すのか、このスケベ中年勇者は。自分の年齢を考えろ。
「え? 私はもう、ルーと入ったし……あ、でも、身体は洗ってないのか。ルーが鼻血出して倒れちゃったから」
「なら、いいだろ? 俺が洗ってやるから。な、な、な?」
「んー、でもダメ。ルーのこと心配だし」
よく言ってくれた、母さん!
俺は布団の下で小さくガッツポーズをする。
「えええー」
「もう少しここにいるわ。お父さんはお風呂に入って、ティオとご飯食べて……きゃっ」
ん? 何だ?
俺は布団の下で耳をすませる。が、何も聞こえない。かといって、ふたりが出ていった、という様子でもない。
布団の下を細く持ち上げ、のぞいてみる。狭い視界に母さんのお尻と、親父の足が映る。母さんのお尻が抗うように小さく揺れ、それを親父の手が上からわしづかみにする。
「ん……あ……だめ……ん……んん……」
湿った音と、鼻にかかった母さんの声。
どくん。
心臓が胸の奥で跳ねた。
起きあがって布団を親父にかぶせ、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られる。なぜそうしなかったかというと、ぶん殴られるのは俺の方だからだ。
いやしかし。本当にそうか? 二年前なら、起きあがった瞬間に足を払われたろう。一年前なら、殴りかかった腕を取られて壁に激突だった。
今の俺ならば、エロ親父に一矢報いることができるのではないか?
よし、と勇気と知恵を振り絞っている俺の目の前で。
くたり、と。
母さんの身体から力が抜けた。親父がそれを片手で支える。
「おーい、ティオ。ティオー!」
「……もぎゅもぎゅもぎゅ、にゃーにー?」
しばらくしてティオの返事が聞こえた。ぱたぱたと駆けてくる。
「なんだお前、つまみ食いしてたのか」
「してにゃい、してにゃい」
「ほっぺたリスのように膨れてるぞ。まあいい。父さんと母さんはこれから風呂に入るからな。お前はルーの様子を見てろ。風呂で鼻血出してぶっ倒れたらしい」
「うん、分かった。……あれ? お母さんどうしたの? 顔が赤いよ」
「はっはっは。大丈夫、母さんは父さんに任せておけ。お前にはルーを任せる」
「お兄ちゃんを? うん、任されましたー」
親父が母さんを半ば抱きかかえるようにして部屋を出ていくと、ルーが俺の布団の中に潜り込んできた。焼いたリンゴの甘い匂いが口元から漂ってくる。
「おじゃましまーす。……あ、あれ? お兄ちゃん、泣いてるの? お腹でも痛いの?」
そうじゃない、そうじゃないんだ、ティオ。
痛いのは、心なんだ。
それと、ほっぺたからぽろぽろとパイの欠片が落ちてるぞ。