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Ep01.「Age of Darkness」#4




 練兵場は城の裏手にあり、百人程度が訓練できる広さを有していた。


「ここは城塞内に設けられた訓練場なので、そこまで規模は広くないのです。

 その代わりと言っては何ですが、この城の守護を任された守備隊の為に質の高い訓練が行えるようにと立派な設備を整えられています」


 確かに訓練用の木人が所狭しと並べられていたり、訓練用の武具を仕舞う倉庫も立派なつくりをしていたりと、中々に充実しているのかもしれない。

 今も、基礎体力作りの筋トレをしている一団から、射的の訓練を行っている一団、掛け声に合わせて素振りをしている一団など、複数のグループに分かれて教官の檄に合わせて真剣な表情で訓練をしているようだ。

 統率の取れた動きは、確かに練度が高いように思う。

 そうして彼女の説明を聞きながら訓練の様子を見ていると、突然、肌がひりつくような強烈な視線を感じた。

 謁見の間での一件ではないが、少し敏感になっている俺の感覚に引きずられて、その視線の主を視界に捉える。

 訓練所のなかでも特に気合の入った声が上がっている場所。

 一対一の試合形式で行われる実戦稽古をしている区画だ。

 片目に眼帯をしたガタイの良い偉丈夫のウルヴァン。

 黒と茶、灰色の毛が入り混じり、ピンと立った耳と、鋭い犬歯が威圧的な半分獣に近い狼タイプの獣人だ。

 全身に無数の傷跡をこさえ、隆々と盛り上がった筋肉を誇らしげに両腕を組んで構えている。

 身長が高いから常に相手を見下してしまうのだろうが、そういう事情を抜きにして、彼は確実に俺を見下す目で見ていた。

 何故、彼がこんなに俺を目の敵にしているのかは分からないが、一方的に敵意をぶつけられうと言うのは気分が良いものではない。

 彼の前で試合をしている二人の武器は槍と剣。

 どちらも良く動くし技術も高いのだと思うが、やはりそこは間合いに優れた槍が優勢のようだ。

 剣士の方は攻めあぐねているようで、一進一退というよりはやや防戦に偏っているように見えた。


「おらぁ! 前へ出ろ前へ!」


 その状況にケチを付けたのは先ほどの筋肉男だ。

 ギラギラした右目を俺に合わせたまま、彼は俺へと声を叩き付ける様に叫んだ。

 言われた方は分かっているのだろう、一瞬緊張に顔を強張らせたが、すぐに気迫を上げながら槍の間合いへと懸命に潜り込もうとする。

 勝負を焦ったことが災いしたのか、はたまた技量の差なのか、剣士は槍使いの巧みな槍捌きによって地面に打ち付けられることになる。


「弛んどる! 負けた貴様は練兵場を完全武装で十周して来い!」


 言われた方は痛む体を引き摺って、すぐさま命令に従って駆けだしていく。

 勝った槍の方も疲労の色が濃い。

 どちらかと言うと、試合で疲れたと言うよりも精神面が追い詰められているという印象だ。

 かなり怒鳴る人の様だし、そりゃあ、毎日顔を合わせていれば嫌にもなりそうだな。


「今日も張り切っているようですね、バウマン卿」


「これはこれは! アーリュシア姫、むさ苦しい場所にようこそおいで下さいました!」


 厳めしい顔で口の端を吊りあげてアーリュシアを出迎えるバウマン卿。

 あれで精一杯の笑顔なのだと思うが、赤ん坊が見たら大泣きするであろう酷い顔だ。

 間違いなく、あの顔は女性にも引かれること間違いない。

 アーリュシアはにこやかに対応しているが、彼女は真面目な性格をしているので、俺みたいな感情は抱いていないだろうし、そう思っていたとしても簡単には表に出さないだろう。


「……で、貴様が話題の流れ者か……」


 途端にドスの効いた声音で俺を威嚇するように語り掛けてくる。

 分かりやすいと言うか何というか、敵意を隠そうともしないというのは逆に凄い。

 俺の第一印象は完全に最低である。

 せめて、最初ぐらいはもっと友好的になれませんかね。


「紹介しましょう、既に知っておられるかもしれませんが彼はジン・トニック殿。 先の南部平原での戦いにおいて、その素晴らしい力を遺憾無く発揮して、我が軍に襲い掛かって来た魔物の群れを一瞬にして壊滅させた猛者です。

 そして、こちらはハルトナー家の騎士に名を連ねる一人、ガウスパー・バウマン卿です」


「どうも、バウマン卿」


「はっ、そう語る偽物かもしれない男でしょう? 姫様のお優しい心は領民のみならず、近隣諸国も知るところでありますれば、卑しい生まれの得体のしれない男が、それに取り入ろうと何かをコソコソと画策していてもおかしくはありませんからな……。

 大方、この男も先月の鼠と同じように良からぬ企てを胸の内に秘めているやも知りませんぞ?」


「バウマン卿! 流石に少し言葉が過ぎます」


「……そうですな、申し訳ありません、姫様」


 本当に言いたい放題じゃないかコイツ。

 口に戸が建てられないどころか、常に全開放しているような男だ。

 今のも、アーリュシアは俺に謝れと言う意味で言ってくれたのだろうが、バウマンは俺じゃなく姫に謝っていると言う。 しかも、コイツの目……これをわざとやっている。

 俺がどんな反応をするか興味をもって見ている。

 厄介な奴に因縁を付けられたものだ。


「……さて、そろそろ頃合いも良いでしょう、城内の案内に戻りましょう」


 あれ、アーリュシアの言葉が硬い。

 彼女も少し怒っていたりするのだろうか?

 彼女は辺境伯の娘と言う事は、立場的にはバウマンの上に位置することになるだろう。

 俺の扱いは、この後で会食があることなどから、多分客人扱いなんだと思う。

 つまり、彼が取った態度でゲストが不快に思えば、ホストである彼女たちハルトナー家の落ち度になってしまうと言う事だな。

 だから彼女は彼の態度を諌めたし、それでも改めなかった、謝罪をしなかったことで、アーリュシアは怒っているのだと思う。

 流石に表情に浮かんでいるわけではないが、内心では酷く傷ついているのかもしれない。

 そう思うと、ちょっと頭に来るよな。

 俺がけなされる分には放っておけば良いんだが、魂胆がどうであれ、間接的に彼女にダメージがいってしまっている状況は頂けない。

 とは言え、俺から何か奴にちょっかいを出すと言うのも、彼女の顔に泥を塗る行為かもしれないので自粛しておこうか。

 ここは耐えているアーリュシアに免じて見逃すべきなのかもしれない。


「おい、貴様。 何も言い返せんのか」


 まだ言うのかコイツは。

 無視するしかないな。


「男の癖に尻尾を股に挟んでみっともない奴だな!

 少しはやり返してみたらどうなんだ! えぇ!?」


 無視だ無視。


「女の陰に隠れて、ひたすらその尻を追っかけて!

 情けなくて同じ男だと思いたくもねぇぜ! なよなよした体をしてやがるしよぉ!

 あぁ臭ぇ! ドブを浚う鼠のような臭いがするぜ!

 姫様、悪いことは言わねぇ。 そんな薄汚れた鼠なんかを構うのは止めた方が良い。

 ましてや、人間のように接するなんて、逆にそいつが可哀想だぜ!」


 下品に笑うバウマンに釣られて、何名かの兵士も笑い出す。

 彼らはバウマンとどこか似通っていて、彼の直接の手下なんだろうなと直感する。

 そんな様子を苦々しい表情で見つめる者、関わり合いたくないのか視線を逸らすものなど、反応は兵士それぞれで様々だ。

 これが実力主義の弊害でもあるか。

 ちらりと窺ったアーリュシアの様子からも、ままならぬ感情のようなものが伝わって来た。

 彼女の手には少し力が籠っていたようで、微かに震えて見えた。


「ほらよ」


 俺の足元に剣が投げ落とされる。


「使え、今から稽古をつけてやる」


 ……なるほどね。

 俺はその剣を拾い上げて抜き放つ。

 刃引きされたそれは訓練用の剣なのだろう。

 使い古された刀身は、大小様々な傷が入っていて刻まれた年期を感じさせる。

 俺が投げられた剣をそうして改めていると、奴はニタリと粘ついた笑みを浮かべ、一瞬遅れてアーリュシアの顔に焦りが浮かぶ。


「バウマン卿、彼は!」


「姫様、ここは練兵場で我々兵士が腕を磨く場所です。

 そいつは今、稽古をする為に剣を手にしました。

 稽古を付けるのは俺たち兵士の仕事……客人ともなれば、尚更そこいらの雑兵には任せられません……伯爵様の客人ともなる方だ、騎士である私が直々に相手をしなければ失礼というものでしょう」


「……!」


 苦々しい表情で奴と俺を見比べるアーリュシア。

 いいね、奴はこういう知恵の回るタイプのようだ。

 どうやって機会を得ようかと思っていたが……奴の方から手を出してくれるとは、願ったり叶ったりじゃないか。


「お手柔らかに頼むよ、バウマン卿」


「しっかりともてなしてやるよ、客人」


 双方の合意が成ったと見たか、兵士たちがざぁっと波が引く様にして離れていく。

 アーリュシアは少し躊躇うような素振りを見せるも、やがて彼らに倣ってその身を引いた。

 しかし、俺たちを取り巻く円の中で一歩前に出る形で見守ることにしたようだ。


「……ところでさ、魔法は使ってもいいのか?」


「へっ、構わねぇよ……使えたらなぁ!!」


 合図を待たずに、いや、彼自身の奇声こそが合図と言わんばかりに一足飛びに肉薄し、剣を一切の遠慮なく振り下ろしてくる。

 彼が手にしているのは練習用に刃引きした剣ではない。

 溢れる野心を映したかのようなギラギラとした輝きを放ちながら、凶刃が俺の身体目掛けて襲い掛かってくる。

 俺はそれを前に動いて躱し、抜身の刀身を彼の顎下に突き付けてやる。

 ビタリと、彼の動きが静止する。

 言うだけあって、バウマンの腕は悪くないようだ。

 飛び込みの速さ、間合いの測り方、剣の振り方が正確で隙も少ない。

 おそらく、下手に防ごうと剣を出したり、左右や後ろに回避しようとしたら、足運びで距離を詰められて試合終了だっただろう。

 だから、俺は直情的な奴が油断している内に賭けに出た。

 一気に勝負をつけるつもりだと山を張り、それを不意打ちで仕掛けてくると読み、ウルヴァンの彼の身体能力についてはゲームの知識から逆算する。

 彼のゲーム換算のステータスが如何ほどかは分からないが、スピード特化であった友人程に速くは動けないはずだと予測する。

 彼の自慢であろう逞しい肉体から、彼の長所は高いVITやSTRだと踏んだのだ。

 結果、彼の動きは俺のイメージの範囲内に止まり、俺のカウンターが見事に決まったわけだ。

 彼の方が身長が高いことも利点の一つだ。

 彼が上段に剣を構える一瞬の間に身を屈めながら前に出ることで、奴の視点からはこちらが視認しにくくなる。

 不意を突くつもりが俺を見失ってしまい、その一瞬の迷いが剣を振りおろす判断を鈍らせた。

 なまじ、彼が腕に自信があり、そして実際に卓越した技量を誇っていたからこその結果だろう。


「……どうやら、バウマン卿の言うとおりだったようだ。

 魔法を使うことが出来なかったな、見事だ」


「ぐっ……ぐぬぅ!」


 ドッと割れる様な歓声が響き、周囲で見学していた兵士から拍手喝采を浴びる。


「すげぇぞ! 騎士でも腕利きの剣士であるバウマン卿に勝つなんて」


「見事なカウンターだ!」


「おいおいマジかよ! あいつって魔法使いって話じゃなかったのか!」


「良くやった!」


 この展開は予想外だったが、なんだか歓迎されているようで何よりだ。

 近寄って労ってくれる兵士たちの一人に、俺は試合で使った練習用の剣を引き取ってもらう。

 ぶっちゃけ、このカウンターが決まらなければ剣のスキルが一切使えない、身体能力に至っては格が違う俺は不利だったのだ。

 最悪、杖に持ち替えて何とかすればという思惑はあったが、剣を差し出されて置いて何故剣を使わないとイチャモンと付けられる可能性があったので、文句の出ない決着になってよかったと思う。


「素晴らしい試合でした、トニック殿!」


 遅れて駆け寄って来たアーリュシアは感極まったのか、少し瞳を潤ませながら俺の両手を強く握りしめていた。

 彼女とはこれで三度目の握手になると思うのだが、今までで一番強く握られていた。

 むしろ、少し痛いぐらいに強く握りしめられている。


「トニック殿の無駄のない洗練された動き……私、とても感動しました!

 魔法だけでなく剣の腕前も達者とは、トニック殿は多才な方なのですね!」


 ぶんぶんと握手した手を強く振るアーリュシア。

 何でこんなにテンション高いの!

 さっきまでのしおらしさはどこへ消えてしまったのか不思議になるほどだ。


「い、いや……俺は剣の腕はからっきし……」


「是非、是非! 後で私にも剣の手解きを付けてくださいね!」


「え、あ、いや……はい」


「嬉しいです! 約束ですよ、トニック殿!」


 ずいずいと押してくるアーリュシアの目にやられた俺は、やむなく彼女の申し出を受けてしまう。

 満面の笑みを浮かべながら頭の上から腰の下まで、大きく両手を振り回す程はしゃいでいる彼女に、俺は掛ける言葉を見つけられなかった。

 背中に感じる視線は、間違いなくバウマンだろう。

 覚悟していたとはいえ、勝ったことで余計に妬みを買ったようだ。

 アイツはしつこそうだからな……前途多難な気がする。




 我を取り戻したアーリュシア姫に従って、俺は会食の準備を終えた客室に通される。

 やはり迎賓用のゲストルームは貴族の格を示すようで、城内で見て来た中でも装飾や調度品が一目見ただけでも分かるほど、高級なものばかりだった。

 ガラスが普及していないのか、城内の窓は殆どが木と鉄の窓だったが、この部屋には窓を始めとしてガラスを使った調度品が多いようだ。


「では、もうしばらくここでお待ちください。

 私も会食の準備がありますので、一足先に席を外させて頂くことをお許しください」


 一人取り残された俺は、時間を持て余してしまう。

 いや、こんな時間だからこそやるべきことはあるはずだ。

 確か……そう、スキルの確認と調整をしようかと思っていたはずだ。

 目覚めた小部屋でも一人の時に探ろうかと思っていたら、丁度いいタイミングで――


「失礼いたします」


 ノックの音に続けて、断りの言葉。

 音を立てることなく入って来たのは、まさにあの時のメイドだ。

 無駄にエロ方面に話を流そうとする駄メイドである。


「呼んでないぞ」


「はい、トニック様に呼ばれてはおりませんが、姫様から良く見てやって欲しいと言付かっておりますので……」


 仕事熱心なのかどうか、判断に悩むところである。

 あの時と違って、澄ました雰囲気なので問題は無さそうか?


「どうしても駄目だと仰られるなら、無理にとは申せませんが……お世話をさせて頂いても宜しいですか?」


 むぅ、殊勝な態度と言うか、先ほどとは違いますよと暗に言われているようだ。

 ここは彼女の言う事を信用してみるべきだろうか。

 ゲスト扱いをされているとはいえ、貴族でもない、むしろ不審者かどうか怪しいラインの俺が、我が物顔で踏ん反り返ってるなんて言われた日には、一転して縛り首にされるかもしれない。

 俺の中の貴族のイメージって、常に傍若無人に振舞って民に圧政を強いているか、常に革命されているような印象なのだ。

 漫画やゲームのような高潔な貴族というのはイメージからは遠い。

 最も現代における貴族は別で、あくまでファンタジー世界の元となっている中世時代の貴族はそうなんじゃないか、という話だけれども。

 とにかく、目を付けられないように俺も立ち回るべきだろう。

 この後にメインイベントである会食も控えているのだ。

 下手に奈落目掛けて飛び込んでいくこともあるまい。


「分かった、頼むよ」


「はい、ではご奉仕させて頂きますね」


 そう言うと、彼女はテキパキと行動に移した。

 最初に用意してくれたのは紅茶だ。

 慣れた手つきで準備を整え、気が付けば差し出されていた一杯のカップ。

 その小さな器から広がった華やかな香りが客間を覆い尽くし、室内の照明まで一段と明るさを増したかのように感じる程、雰囲気さえもガラリと変えてしまった。

 まさか、紅茶一杯でこんなに感動する日が来るとは思わなかった。

 彼女の所作はとても洗練されていて、それは見ようによっては幼さすら感じる彼女の風貌に似あわず、一挙手一投足に積み重ねて来た歴史をも感じさせる堂々とした振る舞いだった。

 俺が彼女の技に圧倒されているのを見抜かれているのだろう。

 ふわりと花が開くような柔らかな笑みを浮かべていた。


「どうぞ、伯爵様のお気に入りの一杯ですよ」


「頂きます」


 口当たりはフルーツのようにほんのりと甘く、それでいて爽やかな香りが鼻を抜けていく。

 のど越しも滑らかで、じんわりとした熱がお腹の中、体の芯から俺を温めてくれた。

 気分もリフレッシュされるようで、意識もすっきりする。

 確かにこれは、気に入ってしまうのも頷ける魅力的な味わいだった。


「如何ですか?」


「あぁ、とても美味しい」


「お気に召して頂けて何よりです。

 もう一杯、おかわりでもどうですか?」


「お願いします」


 二杯目はまた趣が違ってくる。

 少し渋みが増したことで味にコクが生まれ、歯ごたえのある飲み心地になる。

 不思議だ……同じ茶葉でこんなにも味の変化があるものなのか。


「どうでしょう?」


「あぁ、とても美味しい」


「ふふ、そう言って頂けると奉仕のし甲斐もありますね」


「出来れば、もう一杯……」


 俺はすっかりこの紅茶の虜になっていた。

 なんだか、最初に出会った時は変態メイドだと思っていた彼女すらも、何だか深層の令嬢のような魅力を感じ、放っておけない気分になってくる。

 こんなに献身的でたおやかな女性を、俺は何故あんな風に思ってしまったのか。


「もう、ですか? うふふ、仕方有りませんね……」


 しゅるりと、絹の擦れる音が聞こえる。

 ん?

 顔を上げると、何故か彼女は手を後ろに回してエプロンの紐を解いていた。

 彼女は胸を推し抱えるようにして、こちらに惜しげもなくその豊かさをアピールをしている。

 あのエプロンはどうやら体型を隠す効果があったようで、戒めから解かれた彼女の布越しの艶めかしい肢体のラインが、張りのある双丘の稜線が、蠱惑的に俺の理性を責めたてて……


「って、待て待て待て! おかしいだろ! 何でそうなるんだよ!」


 直前で俺は理性を取り戻す。

 中腰になっていた俺、手を伸ばしていた俺、口をだらしなく半開きにしていた俺、あからさまにそのあとの展開が読めるわ!

 俺は一体何をしようとしていた! 馬鹿じゃないのか!

 あり得ない、あり得ない、直前の意識との落差が激し過ぎる!

 よし、落ち着け俺。

 ゆっくりと思考を落ち着けた後、再度加速させていくんだ。


「あらら……もうおっぱいって言ったから、上手く堕とせたかと思いましたのに」


「何だよそのこじつけ! ってか、さらっと俺を嵌めようとしてたのか!」


「これも、貴族として当然の嗜みですから……」


 そんな貴族知らねぇよ!

 一体どこ産の貴族だよ、完全にダメな男の妄想の産物じゃねぇか!

 裏の意図があったとして、何で俺にメイドを嗾けてまでハニートラップにかける必要があるんだ……多分、この部屋の調度とか、さっきの紅茶にも何かしら仕込んでいたのだろう。


「貴族が何を考えているのかは知らないけど……君もさ、幾ら命令とは言っても、もう少し自分の身体は大事にしないと駄目だろうが」


 もし、俺の理性が戻らずに襲い掛かってしまったら、お互いに酷いことになってしまうだろうに。


「うふ、私としては別に手を出してくれても構いませんでしたよ?」


 そう言って彼女は小悪魔じみた笑みを浮かべる。

 さっきまでその笑顔が清楚で可憐に見えていたと言うのだから、恐ろしい話である。

 つーか、本当に何が目的だったんだ。

 こう連続してハニートラップを掛けないと駄目な理由があるのか?

 ……あー、嫌な予想しか出てこない。


「君の事は可愛らしいとは思うけど、そういうのは本当に勘弁して欲しい」


「あら? 頭の回転も早いようですね、流石は魔法使い様と言う所でしょうか」


「……あぁ、まぁね……」


 ハッキリとは目的を断定できていないが、既成事実を作ってからのなし崩し的にもっていく展開としては、俺を陣営に取り組むための工作だったり、逆に俺がどこかの間者と見て真意を聞き出せる状態まで堕とすことだったり、はたまた罪状を作り上げて処刑する為かもしれない。

 また、そうやってエロに乗っかった所でドッキリネタばらしとかもあるかもしれん。

 ロクな予想が浮かばない時点で、どこに行きついても最悪の結末だらけだと思うのだ。


「頭がキレる人は好きですよ、顔も体つきも悪くないし、やっぱり今からでも……」


「無いから、それは無いから。

 だから服を少しずつずらさないで、早く元通りに着直して下さい!」


 ここまでで俺への何らかのアプローチは五回以上にも及ぶ訳で、その頻度からしても嫌な予感しかしてこない。

 この後にメインイベントである会食も控えているので、それを思うと今から既に頭が痛い。


「……ふふ、紳士なのね。

 貴方の事、ますます気に入っちゃった」


 何故か跳ねる程に上機嫌な彼女は、投げキッスを一つ俺に贈ると、部屋に入室した時のお淑やかな雰囲気はどこへやら、パタパタと慌ただしく出て行ってしまった。

 代わりに、初老の執事さんが無言で食器類を片付けていく。

 後に一人残された俺は、何故かここに来た時よりも疲れた気分でソファーに身を沈めていた。


「もう、全て忘れて寝てしまいたい……」


 全部投げ出してしまいたい、そんな気分になっていた。

 どんよりとした気持ちのまま、俺は会食の場へと望むことになる。

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