Act.08「Carnival」#8
後悔なんてするもんじゃないと思うんだが。
俺は今、激しく後悔をしていた。
目の前で奴とぶつかり合う戦士たちの誰もが、輝いて見えたのだ。
その度に、俺は自問してしまう。
何故、俺はこんな遠い場所から眺めているのだろうか、と。
魔法使いと言う職業が、こんなにも辛いものだと思ってもみなかった。
今まではアカツキと肩を並べて戦っていた。
たまに魔法使いなどの後衛をやることもあったが、あの時はここまで焦燥感を感じることも無かったのだ。
この世界に来て、このグランドクエストの最後の大勝負。
ここで初めて、俺は自分の本質を理解したように思う。
俺は、彼らのように全力で強敵に立ち向かいたかったんだ、と。
己の身一つで、強敵に立ち向かう彼らの雄姿の、何と心惹かれることか……。
安全な場所に身を置いて、成り行きを見守りつつ少しの魔法をかけるだけの自分が、とんでもなく卑屈な立場にあるように思えてしまったのだ。
悔しいと、はっきりそう感じていた。
そんな心とは裏腹に、俺は補助の魔法を続ける。
冷徹な仮面を被った俺のその姿が、堪らなく醜悪に見えてしまう。
「「ハアアアアアアアアアアアアア!! 奥義!!」」
「≪闘気解放≫!」
「≪龍血解放≫!」
生き残っていた二人が奥義を解放した。
俺はその事に驚愕を……隠しきれていた。
あくまでも冷静な魔法使いとして、俺のアバターは表情一つ変えることなくサポートに徹していた。
俺の乱れた心の内など、まるで知る必要もないと言わんばかりに。
激しい拳打の嵐によって、二人の息の合った連係によって、奴は完全に封じ込められていた。
「≪獅子崩拳≫!」
「≪龍咆蹴撃≫!」
大きくよろめいた隙に、すかさずスキルによる大技を叩き込む。
行動阻害効果を含むスキルによって、敵に離脱する隙を与えない必殺の連携だ。
「≪獅子連脚≫!」
ボルドーが放った連続蹴りが奴の体を宙に浮かせ、
「≪昇龍脚≫!」
追撃のアカツキの蹴りがダメージを加速させる。
間違いない。
彼らの攻撃は確実に奴のHPを削り取り、急速に追い詰めていた。
普段は剣士として活躍していた彼らだが、数々のVRゲームで常に前衛を経験してきた二人の戦闘センスは格別だ。
アカツキのそれも、プロであるボルドーのそれを何ら遜色が無いように思える。
それもきっと、このクローズドβテストの期間中に二人で特訓をしていたことによって、アカツキのセンスが磨かれた結果なのかもしれない。
今のアカツキ相手ならば、俺は確実に負け越してしまうだろう。
忸怩たる思いを胸に秘めながらも、俺は二人が作るであろう最大の勝機を信じて魔法の詠唱に入ることにした。
「≪猛き怒りが火を灯し――≫」
一方的な乱打の前に成す術なく打ちのめされる奴の姿に、このまま押し切れるかと思っていたのだが、終焉は唐突に訪れてしまう。
想定以上に早く、アカツキの全身を纏っていた輝きが薄れ、霧散していった。
奥義≪龍血解放≫は確かMPを燃焼させてステータスを引き上げるスキルで、MPが尽きればそこで強制終了させられてしまう。
つまり、アカツキはMPが枯渇してしまったという事だ。
直前に奴を抑え込んでいた時に連続してスキルを放っていた代償が、ここにきて響いていた。
「≪暗い情念は復讐の牙を剥く――≫」
アカツキの顔に苦悶の表情が浮かんでいた。
あれはステータスの大幅なダウンと行動阻害による奥義終了時のペナルティだ。
それでもなお、懸命に足掻いているのだろうか、震える体を引き摺るようにして動かそうとしていた。
それをフォローするように、ボルドーが烈火の如く攻撃の密度を増す。
しかし、二人でなら完全に抑え込めていた奴も、片手を失えば取り逃さざるを得なかった。
辛うじて奴の手にしていた武器を蹴り飛ばして破壊することに成功していたが、その隙を狙われて足を掴まれ、強烈な蹴りによって三十メートルは離れていた瓦礫の山まで弾き飛ばされた。
蹴りを貰う直前にボルドーを纏っていた闘気も揺らいでいたことから、彼もまた奥義の限界に行き着いてしまったのだろう。
苦しそうな表情で奴を睨むのが、彼にできる精一杯のようだった。
奴の瞳が俺を捉える。
「≪あぁ焦がれる程に強く抱かん――≫」
その瞳は笑っていた。
中に狂おしい程の歓喜の表情を湛えたその赤い瞳は、俺に向けて激しい感情を叩き付けていた。
どれだけの感情がその中に籠められているのか、俺には判別が出来ない。
喉が詰まりそうになるが、俺は辛うじて詠唱を続行できた。
「≪我が手に剣を≫!」
飛びかかろうとした奴の足を、懸命に手を伸ばしたアカツキが掴んだ!?
「さ、させねぇよ! ジン、やれぇー!」
その瞳に、決意を籠めながら俺を見据えるアカツキ。
……あぁ、分かってる! やるぞ、アカツキ!
これで……決着だ!
「≪火剣≫!!」
俺の魔法は杖の先に刃渡り三メートルにも及ぶ、赤熱し眩く発行する灼熱の剣を生み出した。
それを動けない奴目がけて――アカツキ諸共――天地を切り裂く程に大きく振りかぶって斬りおろした!
激しい火花が周囲を染め上げ、俺の顔をちりちりと焦がす。
視界の端にあったアカツキのHPゲージは一瞬でゼロになり、灰色になって沈黙する。
彼は俺の魔法によって絶命した。
その事に関して、俺にもアカツキにも後悔は無い。
俺たちの思いは、あの一瞬目を合わせただけで通じ合っていた。
――必ず、このクエストを攻略してくれ。
彼の目はそう俺に訴えていた。
だから、彼は本来なら指一本を動かすことも困難なデバフで雁字搦めにされた体で、相手の足を奪うことに成功していたのだから。
それは執念と言っても過言じゃない。
人の思いが、強い意思が、困難の先にある結果を掴みとったのだ。
彼が託した願いを受けて解き放った俺の魔法は、十分な魔力を籠めた過去最大の威力に達する≪火剣の呪文≫となっている。
この魔法は俺の習得している魔法の中でも最大級の威力を誇る魔法だ。
これで決着がつかないはずがない……いや、決着がついたはずだ。
目の前には灼熱の剣によって切断され、崩れ落ちた奴の姿があるのだから。
グランドクエストのタイマーはまだ止まっていないが、むしろこれは止まらないものなのだろう。
しっかりと二十四時間経過すれば勝ちとなるのだと思う。
勝利条件は二十四時間を生き延びること。
ならば、ボスを倒したかどうかは関係ないはずだ。
あとは、残り三分ほどをゆっくりと過ごせばいい。
……本当に、そうなのか?
次の瞬間、俺は強烈な衝撃を横から受けて宙に投げ出された。
これは、風魔法による吹き飛ばし!?
でも、一体だれが――
「ジーン、ぼさっとしてんじゃねぇ! 野郎はまだ生きてやがるぞ!!」
瓦礫の上から俺に魔法を撃ったのはマグナだった。
まだ生きていたのかと言う思いと、どこに隠れていたのだと言う驚きと、俺を魔法で攻撃したのが彼だと言う事実、そして告げられた言葉の意味が俺の思考をかき乱す。
マグナは何と言った?
痛む体を起こしつつ、視線を戻すと……そこには、奴が立ち上がっていた。
俺が一瞬まで前まで居た空間に、貫手で攻撃した姿勢で静止していた奴が、顔だけをこちらに向けていたのだ。
「勘が鋭い奴がまだ居たか……だが、無意味だ」
奴の瞳が怪しく輝くと、マグナの周囲の瓦礫から無数の瓦礫が浮かび上がり……いや、あれは黒騎士の鎧の破片か!
蘇生された黒騎士がマグナに襲い掛かっていた。
蘇った黒騎士は三体。
それらが一気にマグナに襲い掛かっていた。
「くそ、ふざけんじゃねぇぞ! 逃げろ、ジン! 一旦引け!」
「悪いが、もう付き合ってやる時間は無い。
精々、お嬢様はそのガラクタとのダンスでも楽しんでいてくれ」
「ぐぬぉぉぉ!」
鋭い連携と数的優位によってマグナを遠ざける騎士たち。
すぐに彼の援護をしてやりたかったが、奴の目は既に俺を捉えていた。
いや、マグナの相手をした時も、こちらから目を離さなかったと言うべきか……常に奴は戦闘中、俺と言う魔法使いの存在を気に掛けていた。
残り時間を鑑みても、俺を倒せば回復も援護も無くなる冒険者に勝ちの目は無くなる。
それを見越しているのかもしれない。
「……久しいな、ジンよ」
「何を、言っている……?」
髑髏の男は俺にあと一歩の距離まで近寄って、見下ろしながらそう言った。
「そう、貴様は覚えていない、知る由もない……だが、俺は知っている。
貴様に掛けられた呪いが、例え一時でも貴様を忘れさせることなど無かったからだ!」
静かに、しかし激しく怒りの炎を滾らせて、燃え盛る身を引き摺った奴はそう告げて来た。
全く、奴の言葉の意味が理解できない。
まるで、俺とこの敵の間に長い因縁が……それこそ、奴の今までの言動を振り返るに、百年越しの恨みがあるかのような物言いだった。
何とか状況を脱しようと思うのだが、弾き飛ばされた場所が少し悪い。
瓦礫を背にしたこの場所は、ボルドーからもマグナからも遠い場所だったのだ。
例え近くても助けてもらえるような状況ではないが、非力な魔法使いの俺がこの場を脱する術は皆無だろう。
故に、俺は一切の行動を起こせないでいた。
「呪い? 何のことを言っている!」
「……ジン、この俺の体を見ろ! 醜く爛れ、炭化して黒ずんだ肌を!
罅割れた溝には恨みや妬み、人の悪感情から染み出る腐った血が延々と湧き出て滴るのだ!
この血が俺を熱病に侵されたように責め立て、それがまた俺に憎しみを募らせる!
刻み込まれた呪いの深さが、時の流れの中で呪いをより強くしたのだ!
抗う術の無い絶望と後悔の嵐の中で孤独と病に蝕まれ、徐々に腐り爛れてゆく己の心身を見続ける苦痛が、貴様には想像できるはずもない!」
激しい憤怒の感情が、俺に叩き付けられていた。
奴の発する言葉の意味が俺には全く理解できず、ただただその激しさに肝を冷やした。
ここまで負の感情を相手に叩き付けられるものがいるのか、と。
「貴様さえいなければ、この身が呪われることは無かった!
そう思うたびに、そう思ってしまうたびに、俺は俺じゃなくなっていた!
分かるか! 貴様に分かるか!? この俺を生んだのは、貴様なのだぞ!!」
しかし、不思議なことに言われも無い責め苦を受けて白んでいた心の底に、次第に沸々と湧き上がってくる思いがあった。
それは……後悔、いや懺悔?
何故か、俺は奴に謝らなければならない気がし始めた。
「……すまない」
俺の口をついて出た言葉に、俺自身も、そして奴も驚愕の表情を浮かべる。
しかし、俺はそのことに戸惑うが、奴は呆然としたのちに激情を露わにする。
首元を掴み上げ、片手で俺を吊し上げる。
掴まれた喉から焼けるような熱を感じた。
「貴様が! 貴様の口が! そんな下らない謝罪を述べるのか!?
今更になって、俺をこんな姿にして、全てを壊しておきながら……すまないの一言で過ごそうと言うのか!」
息が詰まる、苦しい。
呼吸の必要の無いはずの体が、酸素を求めて喘いでいた。
呪文の詠唱もままならず、無意識に自由を求めて奴の手を剥がそうと腕を握りしめていた。
両手の掌から伝わる熱が、俺の身を焦がすが構っていられない。
HPもじわじわと削れている。
このままでは遠からず俺は――
「……っが! はぁっ……ぁぁ……!」
まだ、まだだ!
俺は約束を果たしていない!
生き延びねば……アカツキに、ビゼンに、無数の冒険者たちに託されたんだ!
俺は生き延びたものとして責務を果たさねばならない!
生きて……生きて勝利を掴まなければ! 何としてでも!
「まだ足掻くか! 貴様はいつもそうだ!
足掻いて足掻いて足掻いて……いつもすぐに醜態を晒す!
そんな貴様が、俺は大嫌いだったさ!」
ポーチにまだあるはずだ、投擲用のマジックボム。
この至近距離でぶつければ俺も大ダメージを受けるかもしれないが、拘束を逃れるにはそれしか方法は……届いた!
「ぇぁ……!」
「!!」
俺の動きに勘付いたのか、ようやく手にしたマジックボムを取り上げられる。
「貴様は、やはりこうして足掻き続けるのだな……痴れ者め!」
激昂した奴が俺を放り投げる。
世界が一回転し、俺は広場の隅にある廃屋の壁に打ち付けられた。
ダメージの蓄積による行動阻害の状態異常を示すアイコンが幾つか点灯し、俺の自由を奪い去った。
「無様な姿だな……最後はお前の希望で、死ね!」
奪われたマジックボムが俺に向かって投擲される。
回避しなければ!
しかし、俺の体は動かない!
駄目だやられる……!!
激しい閃光と爆発の轟音で目と耳が塞がれる。
………………
…………
……
暗い闇の中に俺は居た。
全身がギシギシと軋むように痛む感じだ。
薄らと、視界の端が赤い――瀕死の状態を表す警告エフェクトか?
なら、俺はまだ死亡による強制ログアウトを喰らっていないということか。
薄らと目を開けて、状況を確認する。
飛び込んできたのは眩いまでの光。
粉雪のように舞い散る光は、随分と見慣れてしまった魔法防御壁の崩れ去るエフェクトだ。
幻想的な風景の中、俺の中に一際鮮烈に飛び込んできた色は、石畳の灰色でも、暁の紫でも、血の赤でも、奴の禍々しい黒でも無い。
澄み渡る空にも似た、透き通るような青の輝き。
二つのおさげが風に靡き、纏ったローブは年期が入っていて所々が解れている。
手にした杖も使い込まれた物だが、念入りに手入れされており草臥れた様子は一切ない。
普段の頼りなさや、眠そうな無表情さとも無縁の、引き締まった表情には凛とした美しささえ感じられた。
白磁のような細い指先が、俺の汚れた頬に触れていた。
「……大丈夫ですか、ジン」
落ち着いた声音は、こんな状況でも俺の耳に優しく染み込んでくる。
俺の師匠、魔導師ナンシーの姿がそこにあった。
「し、師匠? ど、どうして……」
俺の問いに彼女は答えない。
小さく詠唱した回復呪文で俺の傷を癒してくれた。
「ジン……ごめんなさい。
貴方との約束、私には守れませんでした」
そして一言、彼女は俺に謝った。
背中越しに投げかけられたその言葉は、どこか寂しさを感じるもので、俺を不安にさせる。
そもそも、何故NPCである彼女がこの場面でここに現れたのか。
そしてなぜ、俺を助けようとしたのか。
約束とは一体何のことを意味しているのか……分からないことだらけだ。
俺は浮かんだ疑問の答えを見つけ出せずにいた。
ただ一つ分かることは、彼女が俺の窮地を救ってくれたという事だ。
「……貴様、何の用だ? いや、何の真似だ?」
「ジンは貴方には殺させません……私は、彼を守ります」
「はぁ!? 貴様、この局面に来て裏切ると言うのか!
我らがクソのような神の茶番に付き合わされて、わざわざここまで整えた舞台の筋書きを!?
いよいよ約束の時を迎えるという場面で、幕を閉じる前に台無しにしようと言うのか!」
裏切る!? 台無し!?
ナンシーが奴の側に居ると言うのか!?
いや、そんなはずはない!
だって、彼女は! 彼女は――くそっ、彼女は何なんだ!
ぐぅ……頭が……胸もか……痛む、何だこの痛みは……HPは減っていない!?
何なんだ一体、俺は今どうなって――!
「私は気付きました、あんな神との契約などに価値は無いと。
私がやるべきことを見つけ、私は私の心に従って……この命を使う覚悟を決めたのです。
そう、最初から神の思惑通りだと言うのなら、私がすべきことは何一つ変わりが無いのです!」
「――知った風な口を!」
「ジンは、この人は私の大切な人です!
例え貴方が彼にどのような因縁があろうとも、私は彼を守り抜きます。
この仮初の命と、神との契約を生贄に捧げたとしても! 私は彼を守ります!」
いつもの彼女とは違う、覇気の籠った声だ。
俺の朦朧とする意識の中にもするりと入り込んでくる。
「貴様、貴様ぁ! それが、どういう意味か!
分かった上で口にしているのだろうなぁ!?」
同じように、奴の言葉も俺を突き刺すようにして入り込んできた。
二人の言葉が、俺の思考をさらにかき乱す。
「当然」
痛みで霞む視界の中、彼女は取り出した巻物を破り捨てた。
巻物は瞬時に灰になり、風に乗って煙のように消え去ってしまった。
「私は私です。 貴方のように、神の操り人形ではありません」
それが、二人の訣別の言葉だった。
「……そうか、なら死ね」
墓標のように突き立っていたビゼンの刀を手に、猛然と突き進んでくる奴を前にして、彼女は立ち上がり杖を正面に構えて迎え撃つようだ。
「ナン……逃げ……」
吐き気すら感じ、天地が揺らぐように感じている異常な状態によって、俺は言葉すら上手く口に出せなかった。
視神経にまでダメージが来ているのだろうか、視界に映る各種のステータスにまでノイズが走り、状態異常のアイコンが崩れて見えなくなっていく。
その中でも、二人の存在だけが明確に感じ取れた。
俺は縋る様に彼女に抱き付いた。
瞬間、少し強張った彼女の体は、すぐに緊張を解いてしがみ付いた俺を受け入れてくれる。
彼女は歌うような軽やかな口調で、詠唱を紡いだ。
周囲が夜の闇よりも暗くなり、色の全てを失っていた。
モノクロの世界の中、色の輝きを放っていたのはボルドーとマグナ、そして俺と師匠と奴だけ。
光の全ては、彼女の掲げた杖の中に閉じ込められていた。
俺の全力ですら到達しない魔法発動前の暗転現象が、ただのNPCのはずの彼女が引き起こしている。
その事実に驚愕するでもなく、俺はただただ目の前の光景に、彼女の紡ぐ祝詞に耳を、目を奪われていたのだった。
凛とした響きをもって紡がれた詠唱は、奴が肉薄するまでの一瞬のうちには到底詠唱できるとは思えない長いものだった。
にもかかわらず、彼女はその詠唱を完結させていた。
「――≪愛を知った氷の姫≫」
彼女が詠唱を終えた瞬間、世界が白に染まる。
モノクロの世界が真っ白に染まったのだと思ったが、それは違った。
燃え盛っていた炎も、立ち昇っていた黒煙も、陽光に染まりつつあった明けの空までも、世界の全てを、時が止まったかのように白く凍てつかせていたのだ。
それは、ボルドーやマグナ、彼が戦っていた黒騎士、そして刀を振り下ろさんと構えていた奴も含め全てだ。
唯一の例外が、俺と師匠の二人だけだった。
まるで世界から俺と彼女の二人を除いて切り離されたかのような静けさだった。
「……師匠、これは」
「ナンシー」
「え?」
「ナンシーと呼んでください」
背中越しに投げかけられた声は、さっきまでの凛とした声ではなく、普段のちょっと眠そうな声だった。
でも、微かに不機嫌そうな、それでいてちょっと恥ずかしそうな雰囲気が滲んでいた。
彼女が顔を見せないのは、俺に表情を見せたくないということなのだろう……か?
俺は少しのあいだ判断に迷ったが、素直に彼女の言う通りにすることにした。
「えっと、ナンシー?」
「はい」
「これは一体……それにさっきの話はどういう」
「これは私の使える最大の魔法、私の奥義です」
世界を全て凍り付かせるほどの威力を秘めた魔法。
確実に上級を超えるクラスの魔法だ。
今回のテスト中にこんな魔法は確認されていない……秘匿された魔法? 一体、何故だ。
「さっきの話については……っ……残念ですが、私の口からは語れないようですね」
鈍い呼気を吐き出して、彼女は諦める様にそう呟いた。
どういう意味だ? 発言が出来ないような……プロテクトでも掛かっている?
誰が、何で――ダメだ、何も分からない!
気が付けば、グランドクエストのタイマーまでもが止まっていた。
自分の置かれた状況が全く理解できなくて、俺は途方に暮れていた。
気が付けば、あの不可解な偏頭痛も止んでいたのだが、それも今となってはどうでも良かった。
「ナンシー、教えてほしい! 君は一体、俺とどういう関係なんだ!?
俺の事を知っているのか!? これは一体どういう事なんだ!
ただのクローズドβテストじゃないのか……君は、誰なんだ……」
俺の中から湧き上がる疑問を彼女にぶつける。
しばらく彼女は黙したままだったが、ぽつりぽつりと言葉を紡いでくれた。
「……おそらく、貴方と私は初対面です。
貴方は私の事を知りません、赤の他人でしかありません」
そう告げる彼女の声は酷く辛辣で、冷たい棘を持っていた。
まるで、心ごと凍てつかせたような、そうしなければ言葉にできないとでも言うように。
「でも、私は貴方のことを知っています。
変な話ですよね、可笑しな話ですよね……混乱するのも無理はありません。
私が口にできるのは、私は貴方に感謝しているということです」
そう告げる彼女の言葉は弾んでいて、春の日差しのように暖かだった。
「……いえ、こうしてはっきり物を言わないのが私の悪いところだったのでしょう」
彼女が口にしたその言葉には、万感の思いが込められているようで、俺の胸に力強く響いた。
「私はね、ジン、あなたのことが――」
――大好きだったんですよ。
世界が音を立てて崩壊し、白で静止した世界に色が、音が、臭いが――そして、悪意が蘇る。
ばしゃりと、俺の顔に熱い液体がぶちまけられた。
一瞬、何が起こったのか把握できなかったまま、俺は倒れかかって来たそれを受け止める。
それが何か、視線を落として気付く。
俺が両手で受け止めたのは、一太刀でばっさりと貫かれた彼女の小さな体だった。
獣の泣き叫ぶ声が、俺の耳に遠く響いた。