閑話『旅人が行く先は』
地球は狭い。
そう思ったことが無いだろうか。
まるで世界中の全てをこの目にしたかの様な言い草だが、実際はその万分の一も知っているかどうか怪しい程度だ。
もしかしたら、他にもこんな馬鹿げた考えを思った人がいるかもしれないと思う。
普通なら気付きもしない、気付いても子供じみた妄想だとすぐに忘れてしまうようなことだろう。
それでも、私の中に芽生えたその小さなアイデアは、瞬く間に私の心と体を深く、強く、絶対に解けない鎖で縛り付けてしまった。
それからの人生と言うものは退屈で仕方が無かった。
確かに、個人レベルでは経験の浅さ故に未知の事柄は多く存在しているし、予知能力を持たない普通の人間である私にとっての日常は、驚きと発見に満ち溢れていたと言えるだろう。
だが、そんなことじゃあ私は満たされなかった。
まるで指の間から零れ落ちる砂のように、その手に抱いたはずの感動や感情がサラサラとすり抜けて行ってしまうのだ。
残されたのは空になった器だけ。
満たされないという虚無感は、変わり映えのしないそれは、より一層私の世界を灰色で塗りつぶしていったのだ。
インターネットによって世界が結ばれ、世界中の情報が小さな箱の中から覗くことの出来る時代。
それが世界を狭めたと言う人もいるが、必ずしもそうだとは私は思っていなかった。
人間が文明を築き、社会を構築していく行為そのものが、自らを檻の中に閉じ込めていくかのような錯覚を感じていたからだ。
昔そのようなことを言った人もいるそうだが、私にはその気持ちが少しは分かる気がした。
しかし、私は色あせた現実を嘆くと同時に激しい激情に身を焦がしてもいた。
自分が規定してしまった今の世界、私の見ている世界を何とか変えようと思っていたのだ。
灰に沈む現実で足掻き続けていた私は、積極的に部活やアルバイト、学校行事なども積極的に参加し続けたことで多種多様な経験を得ることが出来たし、掛け替えのない知己も増えた。
それによって手にした感動の重さに、そして、それと同じだけ零れ落ちていく感情の脆さに、私は孤独な胸の内で耐えねばならなかったのだ。
私の内と外とのギャップが、日増しに大きくなって歪み広がっていく様を感じていた私は、遠からず自我が崩壊するだろうという予感を自ら確信するにまで至っていた。
そんな折だ、切っ掛けはとある友人の紹介だった。
当時、海千山千のベンチャー系企業の一つを立ち上げたばかりの彼と私が出会ったのは、共通の友人を通じて居酒屋で食事を設けたその日が初めてだった。
――今でもよく覚えている。
確か私は、久しぶりに会った気の置けない友人と食事をしていた。
彼の仕事の愚痴を聞く形で付き合っていたのだが、彼は話し上手だったので愚痴を聞かされていても飽きなかったのだ。
三軒目、私は日本酒を熱燗で頼んでホッケをおろしと醤油でつまんでいた。
友人は居酒屋なのに必ず一杯はワインを頼むのだが、彼曰く「たまに安くても美味しいワインを見つけると楽しいんだ」と言って、その日も赤のグラスワインを飲んでいた。
あとで聞いた感想では「やっぱり不味かった」とあっけらかんと笑いながら言っていたはずだ。
機嫌良く飲んでいると、彼の携帯に着信が入った。
すこしふらついた彼に心配の声を掛けたが「大丈夫、大丈夫」と言いながら出て行ってしまった。
普段の私なら心配してついていく所なのだが、その日の彼と話をしていた内容が「失敗を成長に変えなければ意味がない」というテーマで悪い失敗談と良い失敗談について語っていた。
それもあってか、私は珍しく彼の帰りを待つ形で居酒屋の座敷に残ってちびちびと飲んでいた。
彼との飲み会はいい感じに息抜きが出来ていたのだろう、リラックスしていた私が気が付いた時には彼が席を立ってから十五分以上が経過していた。
流石にやばい倒れ方をしてしまったんじゃないか、と心配して様子を見に行こうとした丁度その時、座敷に友人が戻ってきたのだ。
私の知らない人を引き連れて帰ってきたのだ。
顔を見て察したのか、友人が赤ら顔で紹介をしてくれた。
「コイツはな、新興のベンチャー企業の若きCEOで! 俺の親友で! そして穴兄弟だ!」
酒の席とは言え、何て事を言い出すんだと思ったものだ。
子供には聞かせられない酷い紹介だ。
むしろ大人ならばこそ、こんな紹介をすることは躊躇うべきだし、された方も堪ったものじゃないはずだ!と、当時の私は彼に対して説教をしようと思ったのだが、何故か紹介された方は満更じゃない表情を浮かべていたので、それを不思議に思った為に私は怒るタイミングを逸してしまった。
そのあとの歓談で彼らの学生時代の悪行や、兄弟となった経緯、その相手の何が素晴らしいのかを懇々と語って聞かされたのだが、それは別の話だ。
CEOの彼は、資金繰りに難儀していることや己の人脈の狭さを愚痴り、プロジェクトが上手く進んでいないことを赤裸々に語ってくれた。
守秘義務や社外に対しての情報管理面ではあまりよろしくない事なので、彼の名誉の為にもあまり多くは語るまい。
しかし、そんな彼の言葉の一つ一つには、私が持ち合わせていない熱を帯びていた。
色々と面白い話を語ってくれる友人とはまた別の、夢に賭ける一途な想い……情熱の炎が、情熱の太陽とでも言うべきものが、彼の内面から溢れだしていたのだ。
それは灰に覆い隠され冷え切っていたはずの私の世界すらも、ぽかぽかと温めてくれるような伝播する熱意だった。
今にして思えば、あの時の体の火照りはお酒のせいだったのかもしれない。
それでも、彼から伝わってきた熱風が私の心の内側に潜り込み、煤だらけになっていた薪に火をくべたのだ。
私はそのことを、あの日のお酒の席を一生忘れない。
彼の熱量を分け与えてもらった私は、気が付けばこちらから動き始めていた。
後日再び友人を介して彼と連絡を取り、私の人脈を使って必要な資金と人材を確保した。
定職に就かなかった私が、気付けば彼の会社の副社長に就任していた。
そして出会った日から七年以上の月日が経った日、遂に彼の夢は現実となった。
世界初のVRマシン。
記念すべき試作一号機が完成したのだ。
試作と言っても、理論検証の為の実験機ではなく一般市場で売り出すためのモデルタイプだ。
念願だった夢を現実の形にした彼の表情は、やり遂げた大人の男の横顔でもあり、憧れの玩具を眺めている少年のようでもあり、生まれたばかりの子供を見守る父親のようでもあった。
その時の顔を収めた写真からは、何度見てもだらしない泣き顔を晒した彼の姿しか拝めないのだが、実際に生で見ていた私には彼の全身から発する感情がありありと受け取れたのだ。
しかし、彼の一生の夢を賭けたプロジェクトの成就に本心から喜ぶ裏で、私の心の奥底では最後の火が消えようとしていたのが分かってしまった。
彼が再びくれた熱によって再燃した温もりは、冷え切った心と体を癒してくれた。
そのおかげで、私は今日まで生きて来れたのだと理解した。
長年降り積もった灰の中から彼が見つけてくれた焼け残った小さな炭が、その身の全てを燃やし尽くす瞬間が刻々と近づいているのが私には分かったのだ。
この小指の先も無いような小さな小さな炭のひとかけはやがて燃え尽きるだろう。
その時に、私の中に残るものは本当に何もなくなってしまう。
きっと私は今の暖かさを手放すことは出来ないだろう。
胸の火が灯した小さくも暖かな色が、再び冷たい灰色で満たされると言うのは想像しただけで恐ろしかった。
何故、私はそんな世界を生きてこれたのか不思議に思えるくらいだ。
もう二度とあの世界を歩くことは出来ない。
私はそうして歩みを止め、自らの人生をも止めてしまうだろう。
悲観的だが明確なビジョンは、遂に私も予知能力を授かったのだと自惚れずにはいられない。
しかし、そんな私の人生で最大級の確信は、ものの数分も経たない内に脆くも崩れ去ってしまうことになるのだ。
「……なぁ、一番最初に使ってみないか?」
彼は私にそう言ったのだ。
七年に及ぶVRマシンの開発の途中で、ダイブした経験は数えるのが馬鹿らしくなるほどにある。
正直、人が作る箱庭の中に潜り込むだけのこのマシンには私は興味を持っていなかった。
私が彼に協力したのはその熱の暖かさだけであって、言うなれば一晩の宿を借りただけに過ぎない関係だった。
少なくとも、私はそういう風に思っていたのだ。
腹の底から話し合って、喧嘩して、認め合って、互いに成長を重ねて来たのは嘘じゃない。
それでも、私と言う人間はその様な考えを持ってしまう存在なのだ。
だから彼の出した提案に、その時の私は戸惑いしか感じられなかった。
誰よりもVRマシンの実現を目指し、そして誰よりも強く完成を信じ続け、そしてそして、そして誰よりもこいつの可能性を信じていたのは他ならぬ彼なのだ。
ここまで着いてきたプロジェクトのメンバーは、私も含め全員が完成した最初のマシンには彼に座ってもらおうと決めていたのだ。
その彼が発した意外な一言は、私の全身を凍り付かせる……いや、痺れさせるのに十分な衝撃を持っていた。
彼に真意を問い質そうと思うのだが、体は上手く動いてくれない。
喉を引き攣らせながらも彼に理由を問うと、少し考える素振りを見せた後にこう言った。
「俺はさ、誰よりもコイツの完成を信じていたし、願っていたって自負がある。
世界中の誰にもそれは負けないと断言できる。
そんな俺の思いが現実となった、真実になった、本当になったんだ……だから、俺はもう一つ思い続けていたことも、現実になるんじゃないかと思っている」
一拍置いて、彼は真剣な目で私を見つめて言ってくれた。
「コイツに最初に座るべきは、パートナーになってやるべきなのは俺じゃない。
俺は胸を張ってそう断言できる。
何故なら、俺の――娘を任せられるのは、任せたいのは、お前だからだ」
迷いなく私の胸に差し出された掌は、どこか力強さを感じるものだった。
心臓に直接伝わるような彼の熱が、消えかけていた私の火を揺り動かした。
「詳しい理由なんてないし、お前が他のメンバーと違ってVRマシンに強い興味が無いのも知っている……だけど、何となくなんだけど、コイツの誕生を誰よりも待っていたのは、必要としていたのは、お前なんじゃないかって俺は思ったんだ」
彼の言葉が紡がれるたびに、私の心臓が早鐘を打つ。
トクントクンと響く心音は、まるで恋する乙女の様な気恥ずかしささえ感じられた。
きっとそれは、恰好を付けていると自覚している彼が薄らと頬を染めているからだろう。
いつからそう思ったんだ?という私の問いに彼は、
「初めて友人を介して居酒屋で会ったことがあっただろ?
あの時に、ビビッと来たって言うかな……俺が話すダメな類の愚痴を聞いてくれて、的確なアドバイスをくれて、感謝している反面でちょっと吃驚していたんだ。
見た目から、そういう分野に特別興味を持っていないってのも分かってた。
なのに、話を進める程に俺との距離が縮まるっていうのかな、ググッと俺の世界との距離が近づいた感じがしたんだ……俺の妄想の中だけに存在していた世界が、お前の中にも伝播したんだと分かった瞬間だ。
その時に、二つの世界が繋がって大きく広がった。
俺でもまだ見たことのなかった丘の向こう側の世界が見えたような、そんな気がしたんだ。
だから俺は、もし俺の夢が現実で形になるとすれば一番それを必要としているのは、きっと目の前にいるお前なんだろうって思っちゃったのさ。
それまでは当然、完成したら俺が一番最初に試乗するつもりだったさ」
少し早口で捲し立てたのは彼の照れ隠しだろう。
突然の告白に硬直したままの私は、彼に促されるがままにマシンに座っていた。
VRマシンの一号機はチェア一体型で、リクライニングした状態で使うことを想定したものだった。
私は昼寝を強制されるようにマシンに寝かされ、VRの世界へと足を踏み入れたのだった。
最初の世界の名前は「TEST」と言うシンプルなアルファベット四文字だった。
他意はない、本当に試験目的の世界を作っていたはずなのだ。
しかし、プログラムが生み出した仮想の世界は私の想像を遥かに超えていた。
吹き抜ける風の冷たさ、降り注ぐ日差しの暖かさ、鼻をくすぐる草木の薫りに、体に感じる重み、肌が布と擦れ合う感触、色鮮やかな色彩と見たことも聞いたこと無い姿形をした異形の獣の存在……など、そこは作り物の世界のはずなのに、私の知る現実という世界以上に、感情を、感動を、感触を、強く鮮明に、そしてリアルだと感じられたのだ。
最新のVR技術で作られた仮想世界たちと比べれば、その始まりの世界のクオリティには雲泥の差が生じてもいるのだが、私はその日見た光景が心に焼き付いていた。
ここは私の知らない場所で、知らない感動が、未知の光景が広がっているのだ、と思うと胸が高鳴るのを感じた。
あくまでサンプルとして作られたその世界は、実は異常と思える程に狭い。
シンプルでコンパクトなそれは、広さにして三十平方メートルも無かったはずだ。
それなのに、私はその小さな小さな箱庭が地平線の果て、その更に先まで延々と続いているのだと思ったのだ。
世界がこんなにも広いのだと、輝いて見えるのだとは思ってもみなかった。
VR世界から戻ってきた時には、胸の中にあった最後の一欠けらも燃え尽きていた。
しかし、体の内側からは次々と熱が湧き出していた。
この世界には私の知らない、それどころかまだ誰も見たことすらない世界が広がっている。
その考えに至った私の胸は、トクンと一際大きく弾んでいた。
薄らと滲んだ涙を見せない様に誤魔化しながら、私は大きく声を上げた。
このマシンは最高だ、って。
世界の狭さに嘆いていた私が、いつしか人の手で新たな世界を創造する切っ掛けを作りだした。
そうして生み出された世界を旅することが、私の人生の喜びとなったのだ。
人生は何があるか全く分からない。
あの時まで灰に沈んでいた現実も、今ではすっかり色彩を取り戻していた。
あれほど味気が無く、何の未練すらなかった現実が輝いて見えたのだ。
青春時代には既に褪せていた色彩が急に戻ったことで、私の毎日は新鮮な驚きや発見に満ち溢れていた。
まるで、あの日過ぎ去ってしまった青春が私を後から追いかけてきたような、懐かしさを感じる再会を果たしていたのだ。
この経験は私の人生において、他人が羨むような斬新で幸福な体験だと自負している。
しかし、不思議とその事への感動や喜びよりも、私は仮想の世界へと心が傾いていた。
私たちが作った新たな世界(VR)はどこまでも果てしなく続いている。
それは、人間が歴史を紡ぐ中で踏破してきたこの地上には存在しない新たな世界だ。
まだ誰も踏み入れたことのない前人未到の地。
真っ新な新雪のように、純粋無垢な世界がそこには広がっているのだ。
私はそんな世界を旅する一人の冒険者になった。
ただひたすらにVRの世界を歩き続けるという遊び方はあまり一般的ではないだろう。
それでも、私はそんな趣味を大変気に入っていた。
――あれから時は過ぎ、時代の進歩と共にマシンの形態や技術は革新を経ている。
無数のVR世界が生まれては消えて行きつつも、それらが描くのは広大で空白だらけという、途方もなく大きな地図だった。
私はその地図を眺め、胸の内に隠した昂ぶりを必死に沈める。
百を優に超える世界を旅し続けた私は、歩いた距離は正確ではないだろうが地球を一周してもまだ余りあるくらいだろう。
それでも、私は新たな土地を――まだ見ぬ新天地を求めて仮想の世界の旅人として歩き続けるだろう。
それが私にとって、何よりも幸せな瞬間なのだから。
いつしかネット上では私のことを『地図屋』や『冒険家』などと、大層な呼び名を付けてくれる人も現れたが、私から言わせてもらえば一介の『旅人』に過ぎないと思っている。
ただただ仮想世界を旅するのが好きな道楽人というのが今の私だ。
そんな私が、いま目にしているのは一通のメールだった。
内容を要約すれば「是非、当社の新規事業に参加してほしい」というラブコールだった。
仕事は一線から退いて既に久しい。
ただの旅好きの男に今更何を求めているのか、という気持ちを言葉の端に含ませながら、私はやんわりと断りのメールを返信した。
しかし、メールを送ってから十分もしない内に先方からの返信が来る。
熱烈なラブコールは嫌いではないのだが、体力にも衰えが見えているし、何よりも仕事への活力が無いのだ。
例え椅子に座って頷くだけの仕事だと言われても、私は承諾できない。
それこそ、他の人間を当たれば腐るほど候補がいるだろう、と。
しかし、メールの内容を読み進めると徐々に風向きが変わってきた。
どうやら、私のプロジェクトへの参加は断念していないようだが、せめてテストプレイヤーとして参加して頂けないかというものだった。
添付されていた資料に目を通せば、ファンタジー世界を題材にしたMMORPGの企画の様だ。
なるほど、少し興味をそそられる。
テストの概要について見ると、一般から集めたプレイヤー以外にプロやセミプロといった人材も集めて様々な角度から完成度を高めたいという意図が汲み取れた。
続いて電子附箋でアピールされた参加要請者リストを拝見する。
そこには『地図屋』である私の名前や、他にもネット上で私と同じプレイスタイルでブログを書いている有名なプレイヤーや、VRゲームのプロとして人気の選手、知り合いのエンジニアなど中々どうして気合の入ったものだった。
私は少し思案してみる。
新しい世界に興味が無いわけじゃないが、二つ返事をしていいものなのか。
例えば『地図屋』としての私に用事があるとしても、リストにあった他の同業者に声を掛けているならば、無理に私を引き込まなくても良い筈だ。
やはりネームバリューが欲しいという事なのだろうか。
しかし、テストの内容については多くを公開しないとしているし、そもそもクローズド……閉鎖的環境内でのテストであるならば、そういった考えも効果的ではないだろう。
有名な個人にだけ解放をしているならば下手にすれば要らぬ反感を買ってしまうだろうし、それは運営側から見ても得策ではないだろう。
別の意図が隠されているのかどうかが問題となるのだろうが……ダメだな、そもそも私を利用する旨味が無いと私自身が思っている時点で、この問題の答えは出なさそうだ。
下手な考え休むに似たりとも言う。
仕事を受ける気はないが、未公開の世界には興味があるのだ。
互いの利と利を取り合う形として、私はテストへの参加を受諾する旨を伝えた。
町から伸びる西の街道を進み、霧が晴れた場所を伝って更に奥に抜ける。
ようやく霧が晴れて視界がハッキリとしてきた時、私の目の前に映ったのは誰も辿り着いたことのない新たな世界だ。
それを自分用の地図―乱雑に書き殴っているので、他の人間には内容が分からない落書きに見えるだろう―に書き記して、私は浮き上がりそうな足を動かして町に向かった。
この世界『Armageddon Online』のテストが開始してから現実では五日、この世界の時間で言えば二十日近くになるだろう。
段階的に解放されれいくテストの状況は、遂に私が待ち焦がれていた新たなエリアの開放を行ってくれた。
町の入口に居る門番に声を掛ける。
NPCと呼ばれるプログラムされた人格が、私の問いに対して快く回答してくれた。
「やぁ、よく来たね。 ここは水上都市キオッジャさ」
彼の言葉通り、海に突きだした町全体に水路が張り巡らされている町だ。
白塗りの壁と煉瓦の赤、そして海の青の調和が町を美しく見せていた。
生憎、天候の方は曇り空の為に最高の状態とは言えないが、それでもこの新たな町の美しさは長旅で疲れた心身に活力を与えてくれるには十分だった。
彼と話しかけたことで条件を満たし、第一の町である『ドミナ』と第二の町『キオッジャ』を繋ぐ乗合馬車が解禁されたことがポップアップした通知ウィンドウで告げられた。
「あんた、ドミナから来たんだろ? 良ければ行路の開通を知らせに言ってやってくれないか」
彼の言葉に従うように、新たなウィンドウが開いた。
内容は以下の通りだ。
・第一の町『ドミナ』まで馬車を利用して帰れます。(要一時間)
・第一の町『ドミナ』に帰還することで報告が完了となり、全プレイヤーに対して乗合馬車『ドミナーキオッジャ間行路』が解放されます。
・新規エリア開拓報酬は第一の町『ドミナ』の『ギルド会館』にて受領できます。
・このクエストにおける乗合馬車の乗車賃は無料です。(通常三千G)
と言うものらしい。
戻らなければならないのか、と思う人も居るかもしれないが私にとっては素晴らしいご褒美だ。
是非ともお願いすると伝えると、門番はにこやかに笑って頷いてくれた。
彼が呼びに行ってくれた馬車は二頭立ての立派なもので、質素ながら装飾も施されており、カンテラを吊り下げるフックも備えた上等なものだった。
現実の世界に照らし合わせれば中々乗る機会のない馬車だが、だからこそ楽しいというのもある。
馬車の中は広く、十人は同時に座っても余裕がある造りだった。
あくまで中世を再現したのではなく、現代人でもストレスと感じにくいように、違和感を感じない様にと出来る限りの配慮を施した結果なのだと感心する。
正直なところ、乗り物酔いはあまり経験が無いとは言えど、若干の不安を抱いていた私にとってはありがたいと思う仕様だった。
よく言われている現代人にとって「天国にも昇れそうな」乗り心地は、ゲームなので新幹線の中のような実に快適なものだった。
それはそれで味気ない気もするが、もしかしたら下位のグレードがあれば、そういう体験のできる機会が用意されているのかもしれない。
私はゆったりとした心地で馬車の席に座り、窓から入り込む風に揺られながら今回の旅を思い出していた。
いつの間にか少し眠っていた私は、御者が起こしに来てくれたことで目を覚ます。
「よく眠れましたか」
気遣うような言葉と表情に、一瞬彼が本当の人間のように思えてしまい、うっかり「あぁ、旅の疲れもあって馬車の揺れの気持ち良さに癒されたようだ」と人間相手のように気安い言葉をかけてしまった。
しかし、そんな私の言葉について彼は嬉しそうに顔を綻ばせて答えた。
「そう言って頂けると、御者として励みになります。 是非、またご利用くださいませ」
私は彼の反応に驚きを隠せなかったが、何とか気を取り直して感謝を述べると逃げるような気持ちでその場を後にした。
最新型のVRMMOだとは聞いていたが、まさかあぁまで人間的な反応が返ってくるとは思ってもいなかったのだ。
私の知り得る限りでは、VRMMOのNPCというのは良くも悪くも背景だった。
町の彩り、冒険の飾り、言葉を交わして互いを知り合うような関係ではなかったはずだった。
ある程度は自然な対応ができるようになってきた昨今のNPCでも、ここまで自然体な応対をしてみせることは出来ないだろう。
なるほど、技術は常に進歩しているということだな。
少しこの世界を創った人物たちに興味が沸いてきた。
彼らと話を交わせば、またあの日の様な熱が湧き上がってくるのかもしれない。
そんな思いを胸に秘め、私はギルド会館へと足を急がせた。
この世界に集う多くのプレイヤーにもあの町の美しさを是非知ってもらいたい。
長旅を続けて少なくない疲労を感じていたはずの体だが、帰りの馬車で心地よく寝られたこともあるのだろう、とても軽く感じられた。
賑わいを見せる町の中、NPCとプレイヤーが混在する人混みを掻き分けて進む。
次に開拓する土地へと思いを馳せながら。