Act.05「PvP」#7
この世界――VRというデジタル技術で作られた仮想現実の世界には、当然、数値化できない現象は存在していない。
言うなれば、現実から仮想世界に数値化されていないことは、現象として知覚ができないはずなのだ。
そのはずなのに、いま俺は明確に彼らから向けられる敵意や害意といった感情を、肌を突き刺すような錯覚を伴う形で――殺気として感じていた。
その実感が、改めて俺の胸をぐっと強く締め付ける。
手足は地面に鎖で繋がれたように重みを増し、一歩も動くことすらままならない。
蛇に睨まれた蛙というのは、まさに今のような状況をいうのだろう。
恐怖心があるか無いかと聞かれれば……ある。
しかし、今動けないでいるのはそういう感情的な部分だけではなく、むしろ論理的な部分の方がより大きく俺のアクションを阻害していた。
現在の状況は冷静に、客観的に見れば、こちらが圧倒的に不利な状況だ。
こちらはPKプレイヤーの討伐を目的として攻撃を仕掛けた、数もこちらが優り、戦力としても不足は無かったはずだったが、今という時期について読み違えたこともあって状況は五分だった。
そこで、拮抗していた状況を打破するべく互いに一石を投じた。
こちらはヒーラーの前線への投入によって、バックアップ能力の高さによる総合力の向上で相手を圧倒しようとした。
敵に対して物量に勝っていたこちらが取る作戦としては常套手段だったはずだ。
その一手を打ち崩したのは、敵側の伏兵による不意を突いた必殺の一撃だ。
これによって前衛と後衛の分断、ヒーラーの無力化が同時に行われ、数の上でもこちらの優位性は失われてしまった。
主導権とは常に最新の一手を攻めた側が有している。
今、この場を支配しているのは間違いなくPKプレイヤー側だ。
状況を多少度外視して単純な戦力面だけを見ても、こちらにとってかなり厳しい部分がある。
PvP解禁による仕様の更新で、魔法の利便性が大きく変化したことが如実に影響していた。
攻撃魔法での支援が難しく、双方で攻撃魔法による火力支援が思うように行えていないのが大きい。
数だけで見れば敵の伏兵を考慮してもまだ対抗できないことも無いだろうが、相手の見た目から構成を判断すれば戦士系の冒険者が多い。
相性を考慮すれば接近戦は相手に分があるだろう。
モンスター相手ならば例え敵に戦士系が多くても、パーティ内でヘイトコントロールを行うことによって敵を巧みに誘導すれば、この程度の数の増援や状況であっても苦戦することはないだろう。
しかし、目の前の相手は個別の意思をもった人間であり、そこには数字で全てを割り切ってしまえるような単純な駆け引きは存在しない。
今必要とされているのは、その数値化できない存在でのやり取りだ。
「……この組織だった動き、俺たちを討伐しに来たんだよな?
思った以上に早かったじゃないか! 予定ではまだしばらく猶予があると思っていたんだがなぁ」
そう言ったのは伏兵として現れた一人、魔法使いの男だ。
男が浮かべるニヤ付いた笑みは粘着質な雰囲気を伴っていて、人によっては生理的嫌悪感を得るかもしれない。
他の男たちも全員がヘラヘラと笑いを浮かべており、如何にもアウトローな不良冒険者といった雰囲気を醸し出していた。
まさに典型的、古典的な悪役のポジションを彼らは演じているのだが、ここには悪役然とした顔付のプレイヤーは存在していなかった。
彼らは誰もが整った顔立ちをしており、しかし、浮かべる表情には収められたパーツに伴わない不釣り合いな汚れがくっきりと浮かび上がっていた。
このアンバランスな光景は、やはりここがVRMMOというゲームの世界であるからだろう。
外見と中身は伴わないのがネットの世界というものだ。
「おっと、動くなよ! お前らが動くと俺達も動かざるを得ないんだぜ?」
ボルドーが腰の剣へと手を伸ばし、構えた状態で静止する。
向こうも同様に構え一触即発といった体で睨み合いが始まった。
俺も手にしていた杖を構えるが、向こうは俺のことなど眼中にないといった風にボルドーを正面に捉えて剣先を構えていた。
おそらく、交戦が始まってから今まで俺が積極的に動いていなかったから、脅威度は高くないと認識されている、または戦士も人数もこちらより多い彼らが、魔法使いの俺に対して危険性をあまり感じていないということだと思われる。
なら、俺が動くことで状況が変わるのかと言えばそうでもないだろう。
正面に捉えていなくとも視界の中には入っているだろうし、実際、刺すような視線、向けられる殺気のような感覚は一切減じている訳ではなかった。
彼らは率先してPvP――いやPKに身を投じてきた連中だ。
きっと対人戦の経験が豊富な筋金入りのPKマニアなのだと推測できる。
こちらが不用意に動けば何が引き金となってこの状況が崩れるかもしれない、そう考えるとまだ勝算に目途が立っていない内は動くべきでは無いのだろう。
既に交戦中だった討伐隊とPKプレイヤー達は、今も激しい接近戦での攻防を繰り広げていた。
伏兵の彼らもこちらに姿勢を向けていることから、今すぐに彼らの白熱する戦線に乱入するつもりはないのだろう。
こちらとの対話が目的とは思い難いが、何にせよこちらに意識を向けているという事は、何かしらのアプローチを仕掛けてくるはずだ。
「お前たちの目的は何だ?」
俺が受け身の選択しか選べないなか、ボルドーが敵に先んじて切り込んだ。
その率直な問いに、一瞬彼らも毒気を抜かれたような表情を浮かべるが、すぐに気を取り直したのか元のいけ好かない雰囲気を宿していた。
「ははっ、決まってるだろ! PvPだ!」
ばっと大きく手を振る大仰な仕草で声を張り上げる魔法使いの男。
どうやら、彼が向こうの集団のリーダーなのだろう。
「何故、こういう形でことを起こしたんだ」
軽い口調にも感じられる男の声に、低く響く声でボルドーが問い返す。
「PKするのに理由がいるのか?」
へらっとした口調で言葉遊びのように返す男。
しかし、その挑発じみた答えに表情を惑わすことなく、ボルドーは彼に語りかける。
「あぁ、必要だ。 特に、今日はPvPが実装された日だからな、理由があるはずだ」
「……PvP、PK、これらをこの世界に定着させる。
その為には最初の一歩、今日と言う日が重要だと俺たちは考えている」
ボルドーが真剣に問答を行おうとしている意図を汲み取ったのか、男も真剣な口調で答えた。
彼が言うPvP、PKをこの世界に定着させる……その発言が示すことは、テスターの意思をPvPやPK要素の実装に好意的、積極的、少なくとも肯定する形で受け入れる方向性に合わせたいということだろうか。
現状でも、正式版でPvPやPK要素は導入が確定されているはずだから、わざわざユーザー側の意見を統一する必要は無いように思える。
それに、このような大規模な騒ぎを起こせば、反発して否定的な意見が大きくなるのではないか。
「……聞かせてくれ」
ボルドーは真剣な表情のまま、彼の言葉の続きを促した。
「このクローズドβテストに参加している三千人のプレイヤーは、多少初心者が混じってはいるが、その殆どがトッププレイヤー、もしくはヘヴィゲーマーだ。
しかし、その全員がPvP、PKを経験したことがあるか、それらの要素に肯定的かと言えばノーだと断言できるだろう。
それは俺たちの国民性とも言えるし、そういう文化、発展を俺たちゲーマーの総意が選んできた結果だと言える!」
彼の主張をまとめると、現在のゲーマーの意識についてのことだろう。
今も昔もそれほど大差はないのだが、日本人プレイヤーはPKと言う言葉だけで毛嫌いしている節があるのは俺も理解していることだ。
それは、過去にPKという行為への先入観などがあり、それが良くも悪くも改善されないまま過ごしたプレイヤー達が、次代のプレイヤーへとバトンを繋いでいったことに一端があるだろう。
そして、プレイヤーがPKを容認しないスタンスだからこそ、それらのプレイヤーを取り巻く環境、ゲームの運営側としてもPK要素を含まないタイトルを多く生産してきた。
結果、国内におけるPK事情、その意識の改革は行えていない、そういう事だろう。
つまり、そもそもの前提として「PKが容認されていない」ということを彼は述べていたのだ。
それはゲームに深く慣れ親しんだ俺たちのような人種であってもそうだ、と。
「このタイトルの成否の一つには、必ず根幹として対人戦が存在する。
つまり、PKへの耐性、適性、PvPにまつわる意識の改善が命題になる!」
確かに『Armageddon Online』は戦争をテーマにしたゲームだ。
戦争では別々の陣営に所属したプレイヤー同士が激突し合うのも必定だろう。
そういう世界の中で、PvPやPKとは身近な存在となるはずだ。
それらを嫌うプレイヤーがこのゲームを続けていくというのが難しいことは想像に難くない。
「俺たちは純粋なPK、PvP好きなバトルマニアだ!
トッププレイヤー、ハードゲーマーとして、PvPの普及を率先して行わなければならない!
少なくとも、今このゲームのテストを行っているテスターの諸君には、是が非でも、付き合ってもらう必要があると考えている!」
強い口調で断言する彼の言葉に、周囲の男たちも力強く首肯する。
つまり、あれか。
彼らはPK行為への偏見に対する意識改革を行いたいと思っているゲーマーであり、今回のタイトルのテストを契機に、そのイメージ改善を波及させる為に協力者を募りたいと?
まだ今一つ線が繋がっていないが、おぼろげに彼らの描く未来予想図が見えて来た。
彼らが描いているのは、PKやPvPが当然として受け入れられている世界だ。
偏見も、嫌悪感も、負の感情が対人戦という行為自体には抱かれない世界。
もちろん、悪質なPKやPvPは彼らとて許せない……のだと思う、言うなれば演技の一つとしてそういう存在も受け入れられる世界を作りたいのだろう。
「……なるほど、理解した。
つまり、今回の事件を切っ掛けにして対PK手段として対人戦技術の研究とその普及、対人戦に対する意識のレベルを段階的に下げて、来るべき正式サービスに繋げていきたい……と、そういうわけだな?」
ボルドーが彼らの真意を読み解く。
なるほど、彼らが今回の突発的な無差別PK――悪質なテロ行為を引き起こし、悪役PKを演じることによって、まずはプレイヤー個人それぞれに自衛の意識を持たせる。
そして、この世界での対人戦闘技術の研究、普及が活性化することで『Armageddon Online』の目指している到達点、プレイヤー同士のぶつかり合う戦争の活性化に結び付けようということか。
「その通りだ! PKに対する現在の認識はネガティブなイメージから始まっているはずだ、まずはそれをリセットしたい。
誰もが対人戦の技術を学べば対処できるものとして認知されれば、PvPに対して理由のない恐怖や嫌悪感は浮かばなくなるはずだ。
まずはテスターの意思を改善し、それをもって今後参入してくる後発プレイヤーにも伝播させ、最終的には一部のユーザーだけがPvPを楽しめばいいというイメージを解消する」
しかし、それは思想の押し付けになるんじゃないだろうか。
言わんとすることは分かるが、誰も彼もがPvPのイメージ、PKの受け入れについて肯定的になるというのは難しいはずだ。
性格的に合わないというのも出るだろう。
だが、「それならこのタイトルをしなければいい」という論法で投げ出すつもりじゃない、というのは男の口調から伝わってくる。
昔から使い古された文句だが、これは確かに相手に無責任に投げつけるだけの言葉だ。
問題の解決を図るものではない。
彼らが求めているのは自分たちの身を守る為の壁じゃなくて、その両者を隔てる壁を打ち砕いて、互いに理解し合うことで新たな妥協点、譲歩できる位置を模索したいという事なのだろう。
ゲーマーの意識に根付いた溝を埋めるのが目的なのか。
解決するための糸口を模索している、それが彼らの現状であり、その為の一手がこれか。
……やや自己完結してしまった感じだ。
まぁ、中らずとも遠からずではあるだろう。
「了解した」
ボルドーはしばらく静かに考え込んでいたが、納得したように頷いた。
遠く響く剣戟の音はまだ鳴り止んでいない。
雨音が強くなり、未だ草原を燻る火が白い湯気を立ち昇らせ、辺りを薄らと白く染めていた。
金属が奏でる甲高い擦過音を打ち鳴らし、ボルドーは両手に一対の剣を構えた。
彼の顔からは先ほどまでのはち切れんほどの緊張は抜け、代わりに笑みを浮かべていた。
その笑顔は嫌みのない爽やかなものだったが、どこか壮絶な凄味を感じさせるものだった。
「目的のない愉快犯じゃないと分かっただけで満足だ!
じゃあ……やろうじゃないか」
ボルドーのその一挙一動に、PKプレイヤー達は一瞬緊張を走らせたが、すぐに弛緩した表情になり、続いて鬼気迫る笑顔を浮かべる。
「はは、いいね、いいねぇ! やろうじゃないか!
そっちは多勢に無勢だが、だからって卑怯だ何だと泣くんじゃねぇぞ!」
ボルドーに向かって伏兵の戦士五人が駆け出す。
別に正々堂々と一騎打ちで戦うべきだとか思ったわけではないが、互いに何かを通じ合わせた表情を見せたことから、打ち合うんじゃないかと思っていた俺はその状況に面を喰らう。
走る五人をじっと待ち構えるボルドーだが、どう見ても一人で五人を捌き切れるとは思えない。
しかし、ボルドーは慌てることなく相手の突撃を迎え撃つ構えだ。
あと三歩で先頭が間合いに入るというタイミングでボルドーが前に踏み込む。
体ごと投げ出すようにして踏み込み、鞭のように右腕をしならせ、上段からの強烈な一撃を打ち下ろす。
虚を突かれた先頭の男は、それでも剣を上段に構えて打ち下ろしを受け止める。
ぐっと体を沈み込ませるようにして衝撃に耐えていたが、傍目から見ても今のはクリティカルな一撃だと見て取れる。 防御が間に合ったとしても削りとられるダメージは大きいだろう。
男は小さく苦悶の呻きを上げる。
しかし、その表情には小さな笑みが浮かんでいた。
敵の必殺の一撃を受け止めたことで、勝利を確信したのだろう。
男の意識の外、下段から剣を掬い上げるようにして放たれた雷鳴の如き一撃に反応できなかったのは無理もないだろう。
全身を使った大きなモーションから繰り出された派手な一撃は必殺の威力を持って放たれたが、続く対の剣による一撃を隠すための囮としても機能していたのだ。
まるで踏み込んだ力がそのまま反動として返ってきたかのように、敵を背負うようにして放たれた一撃は敵の剣を弾き飛ばし、その姿勢を大きく崩すことに成功していた。
驚愕に見開かれた男の眼は、まだボルドーの姿を捉えられていない。
いや、自分が今どういう状況にあるのかも理解していないだろう。
ボルドーは連続攻撃を放ち終えて低く屈んだ姿勢から、更に両手に握った剣に光を宿していた。
そのまま独楽のように回転しながら両手の剣を横に大きく薙いだ。
何らかのスキルが発動したのは明白だ。
双剣による攻撃を受けた男は天を仰ぐように仰け反りながら、その場に倒れ伏していた。
たった一瞬、打ち合いにして僅かに三合も無い間にボルドーは一人を切り倒していた。
背筋にぞくりとした感情が這ったのが分かる。
彼はプロのVRゲーマー、確かにそれは聞かされていた。
しかし、こうして実力をその目で見るまでどこか半信半疑だったのも事実だ。
今の一瞬の攻防に、その結果に、彼の実力が如実に表れていた。
正直、寒気がするほどに恐ろしいと感じたし、一方では胸が熱くなるような高揚感も感じていた。
このヒリつくような感覚が本当のPvPなのか。
「うぉおおおおお!」
裂帛の気合と共に槍の使い手が鋭い突きを繰り出す。
それを身を捩る僅かな動きで躱し、引き戻す動きに合わせて鋭い踏み込みで一気に間合いを詰めよる。
慌ててバックステップを踏む槍術師を、さらに同じくステップを踏んで追い詰める。
流すように後ろに伸びていた両手の剣にはまた力強い光が宿っていた。
「≪スラッシュ≫!」
ボルドーの叫びに応じてスキルが発動し、左右から交差するように剣が振り抜かれる。
その動きはまるで巨大な鋏そのものだ。
槍使いの男も武器を引き戻して防御を構えようとしたのだろうが、ボルドーの剣技の前では圧倒的に速度が足りていない。
満足に身構えることもできずに双刃に切り裂かれ、その場で盛大に破砕されたオブジェクトの粒子を撒き散らして前のめりに崩れ落ちていた。
どうやら、今の一撃で胸当てを破壊されてしまったようだ。
装備品には耐久性能があり、許容値を超える衝撃やダメージを受けると破壊されてしまう。
防具は冒険者の身を守る為のものなので武器以上に固い数値が設定されており、きちんとメンテナンスを行っていればそうそう簡単に壊れることは無い。
既に連戦を経て摩耗していたという可能性や、メンテナンスを怠っていたという可能性もあるかもしれないが、今の光景を目の当たりにして動揺しているPKプレイヤー達を見るに、そういう理由ではないのだろう。
ボルドーの持つ武器の威力か、はたまた彼のステータスによるものか。
少なくとも、初期に習得する基本的なスキルによって、誰もが容易く行われるような光景ではないことだけは確かなはずだ。
瞬時に二人の味方を失ったPK側は、ボルドーへの攻めを変えるようだ。
生き残っている三人はピタリと距離を取って構えると、それぞれが十分な間合いを取ってボルドーを囲んだ。
いかに彼が凄腕の剣士であっても、あのように間合いを取られて囲まれていては突破は難しくなるだろう。
容易く二人を討ち取られたのは想定外だっただろうが、それでも数的な優位はあるのだ。
残る三人は剣と盾、両手剣、刺突剣をそれぞれ構えている。
タイプの違う彼らを一人で打ち崩すのは難しいだろう。
ボルドーが誰かに踏み込むとその相手は牽制をしつつ、他の味方がフォローをする形で攻撃を仕掛け、相手の攻撃を潰しつつ一撃を浴びせる機会を慎重に窺っていた。
密着していない今なら、魔法による誤爆の可能性は少ないはずだ。
彼を援護するためには、今ここで俺が動かなければならない。
タイミングはここを置いて他には無いはずだ。
「≪熾れ、爆ぜ……ぐっ!?」
詠唱を始めたタイミングで刺すような痛みが走り、詠唱が強制中断される。
左腕に感じた痛みはHPを大きく減らすものではなかったが、その一瞬で攻撃の機会を一つ潰されてしまった。
激しい戦士たちの攻防を注視しつつも、伏兵側の魔法使いには注意を払っていたのだが……甘かった、前衛たちがぶつかりあっている混戦の向こうに隠れていた魔法使いが、いつの間にかポジションを大きく変えてこちらを妨害してきたのだ。
状況を判断するために要求される視界が広すぎる。
二人の別々に存在する魔法使い、乱戦となっている前線、そして睨みあいの続くボルドーたちの戦い、この四か所を同時に把握しなければならない。
最悪、前線のサポートを実質不可能として放棄しても、魔法使い二人に見られているこちらの方が対処が圧倒的に難しい。
せめてどちらか一方を抑えられないと厳しい状況だ。
今の中断で魔法コマンドを選択することで待機させていたMPも消費してしまった。
消費したMPが全部ではないにしろ、イニシアチブを取られているということと相まって胸の内に焦燥感が募っていく。
それでも冷静にならなければ……まだ何か状況を打開する糸口があるはずだ。
焦りや不安で怖気づいてその一手を見逃してはならない。
しかし、現状は俺一人の力では、魔法使いの動きではどうともしようがない状態だった。
縋る様な思いで周囲を見渡し、祈るような気持ちで状況の把握に努め、この瞬間をひっくり返す何かの切っ掛けが起こり得ないかと考えを巡らせようとした。
まさにその時だ。
視界の端、雨で火勢が弱まったとはいえ未だ燃え続ける炎の垣根の一つから、染み出るように黒い影が噴出し、凄まじい勢いで滑る様に草原を駆け抜ける。
誰もがみな相対する敵と向き合い、打ち合い、牽制し、一瞬の隙も見逃すまいと集中力を高めたその刹那の空隙に身を躍らせたのだ。
這いずる影は獣の様だった。
勢いそのままに標的に駆け寄ると鋭い牙でその首元に喰らい付いた。
その牙は鋭く研ぎ澄まされ、喉元を突き破られた男は派手なエフェクトを撒き散らしてその場に倒れ伏した。
男は悲鳴を上げることすらままならず絶命したのだ。
ギラリと黒衣の獣の瞳がこちらを見定める様に見ていた。
口元には鋭い笑みが浮かんでいる。
サッと獣の手が動き、枯れ木の様な指をこちらに向けた。
揺れる口元は距離が遠く何と言ったのか判別が付かなかったが、続く現象で呪文を唱えたのだということは理解できた。
獣が生み出した炎の矢は赤い尾を引いてこちらへと直進し――ボルドーを囲む大剣使いの男の背中に命中し、爆炎の花を咲かせた。
ここに至り、ようやく状況に気付いた数人が獣の存在を知覚する。
誰もがそのことに驚愕を隠せないでいた。
獣の牙はありふれた片手直剣、枯れ枝のような指は魔法の触媒である指揮棒だ。
黒衣は彼が愛用している外套で、草原を吹き抜ける風に靡くことで裏地の鮮烈な赤が草原を染める炎よりもさらに赤く、彼の秘めていた激情を見せつけるように踊っていた。
爛々と輝く双眸は魔性を宿す金色、風に流されたフードの下から現れたセミロングの銀髪はそれ自体が鍛えた鋼であるかのような力強さを誇っていた。
隣に居た俺ですら気づかない内に、マグナコートは戦場に潜んでいたのだ。
状況を一変する彼の活躍を前に、俺の胸中に一つの思いが沸々とこみ上げて来た。
――俺の護衛をしてくれるんじゃなかったのか。
護衛対象の傍を離れる護衛なんて聞いた覚えがない。
そんないつもの下らない思考が走ったことで、俺は幾分か落ち着きを取り戻す。
彼の動きによって状況に決定的な変化が起きたのだ、この機を逃す手は無い。
倒れたのは最初に居た魔法使いで俺から最も遠い相手だ。
それでも、魔法使い二人に対して魔法使い一人という構図は抑え込まれるのに十分な状況だった、現に少し前までは完封されていたと言っても過言じゃなかっただろう。
理由としては単純で、敵の手数が倍あったことでこちらの打つ手が潰されてしまうことが容易に想像できたからだ。
不用意に動けばそれだけ自分が不利になる状況を分かっていて、無茶をするほど馬鹿じゃない。
だが、今すぐに動きださないのはもっと馬鹿だ。
小さく息を吐いて意識を研ぎ澄ます。
マグナの牙が剣であるように、俺の牙は魔法なのだ。
剣の柄の代わりに杖を握りしめ、裂帛の気合は胸の内に押し留め、攻撃の意思を声に乗せて押し出す。
「≪熾れ≫」
最初の一節に喚起され、杖の先端に火が点る。
その魔法の初期動作によって引き起こされた反応によって、金縛りから解き放たれたもう一人の魔法使いが妨害の為の魔法の詠唱を始める。
しかし、もう遅い。
「≪爆ぜて、飛びかかれ≫」
狙う先には焦りと驚愕に顔を歪めながらも、杖をこちらに構えている男がいる。
彼の杖の先端が光を発し、風の刃が解き放たれたのを理解するが、今更そんなものでこちらの動きを止めることはできない。
杖の先端には俺が送り込んだ魔力を存分に吸収し、人間大までに膨れ上がった火球は解き放たれる瞬間を待つ獣のように低い唸りを上げていた。
今、そいつを捕えていた檻を開け放ってやる。
「≪火矢の呪文≫」
荒れ狂う魔力の矢が中空に炎の軌跡を残しながら突き進む。
それは行く手を阻む風の刃すらも貪欲に飲み込んで対象に到達した。
爆ぜる炎の熱波と轟音に戦場の時が止まる。
「な、なんだ!?」
「い、今のは何が!」
「くそっ、どっちの魔法だ! PKなのか、俺たちなのか!?」
「今の衝撃が……噂に聞く上級魔法って奴か!?」
混乱する声が場に広がる。
その中で一人、俺は次の目標を明確に見定めて行動を始めていた。