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Act.05「PvP」#2


 俺の対人戦の経験を問われると、そこまで多くは無いと言うのが正直なところだ。

 今まで体験してきたVRMMOは主にファンタジー系のハック&スラッシュタイプだった。

 対人戦のあったものはコロシアムでのチームデスマッチが主で……他にはFPSが少しか。

 一応、プレイしたことのあるMMOの一つには大規模対人戦コンテンツが無いわけじゃなかったが、参加するために要求される条件がシビアな為に俺は経験していない。

 あれはどちらかと言えば、暇を持て余したエンドユーザーの為の最終コンテンツという立ち位置だったからな……サーバー屈指の大規模ギルドに所属して、尚且つレベルカンストしていないと参加すら難しいというのがハードルの高さを端的に物語っていた。

 ちなみに、そのタイトルの最大レベルは当時で二五五だった。

 一般的なユーザーでそのレベルに到達するまでにかかる時間が二年だと言われていたから、新規ユーザーには本当に縁がないコンテンツだと思う。

 その対戦の様子を録画した動画などは内外でかなりの人気を博していたけれど。

 大会などもあって賞金が出たりと、結構繁盛していたのを覚えている。

 ある意味、プロゲーマー向けのタイトルだったのかもしれない。

 ともあれPvPにおいては経験が薄いことは事実だ。

 対戦格闘ゲームとかも遊ばなかったわけじゃないが、あの手のゲームはそこまで入れ込まなかったので結局人間を相手にするって経験は乏しいことに変わりはない。

 経験の不足は他の何かで補うことが難しい要素だ。

 AIが発達したことで、昔よりもリアルで複雑な挙動をするようになった敵の思考も、人間のそれとはやはり違う。

 いや、違うのだろうというべきか。

 そこまで詳しくは無いが、知識として対人戦を知っている。

 これも過去にVRMMOで会った先輩の一人から教わったことだ。


 対人戦とAI戦の最大の違い、それは「ミス」をしなければならないことだ。

 AI戦の場合、敵はこちらを倒すべく常に行動する。

 全ての行動はこちらを排除する為であり、目的にブレは生じない。

 どれだけ複雑な挙動を見せようとも、結果が一つに収束しているから対処も容易いのだ。

 逆に対人戦の場合、敵は常に同じ目的では動かない。

 確かに、勝利条件が敵を倒すことならばそれを目指すのだが、ただ勝ちたいと思っている奴はAIとそう変わりはない。

 精々がちょっと強いボスみたいなレベルだ。

 ただ、人間の思考は精神に左右される。

 状況が不利と思えば、勝利条件などは二の次にしてこちらに一矢報いようとするものや、とにかく逃げて時間を稼ごうとするものなど、勝つ以外の目的で行動を始める。

 そういう一手が相手を困惑させ、突き崩すことにも十分成り得るのが対人戦だ。

 対人戦における一番オーソドックスな戦法は自分のリズムを常に守ることだ。

 勝っても負けても自分のスタイルを愚直に貫けば、勝てる奴には勝てるし、負ける奴には負ける。

 自分の腕があれば実力相応の結果を約束してくれる戦法だが、常に姿勢を崩さないというのは強靭なメンタルの上にしか成り立たない。

 大体のプレイヤーは自分のリズムを崩されて負けるわけだな。

 先ほどの話にリンクしているが、もう一つの戦法は相手のリズムを崩し続ける方法だ。

 とにかく相手の土俵を崩し続ける、メンタルがズタボロになって修復が不可能になるまで追い込み続ける毒の様な戦法だ。

 基本的に搦め手や反則ギリギリ、もしくは反則に相当する行為を躊躇わずにできるような奴じゃなきゃ考えすらできない戦法だろう。

 相手の姿勢を崩すと言うだけならば、正攻法である自分のリズムで戦うだけでもいいだろう。

 己の土俵に敵を上げると言う形になるわけだからな。

 ただ、この考え方は純粋に自分と相手のスタイルの押し付け合いではなく、とにかく相手を崩すことだけを意識しているから違う。

 敵に回して厄介なのはこのタイプだ。

 手数も多いし、手段も豊富に持っていることが多い。

 特に自分のスタイルを維持したいと意識しているわけじゃないから、こだわりが薄い分ブレないというのも厄介な点の一つだ。

 逆にリズムを崩そうと動く奴が相手だと互いに手を出しにくい状況に成りやすかったり、シンプルすぎる相手には妨害の手段が少なくなってしまうこともあるだろう。

 そして、もし全戦全勝無敗の対人成績を持ちたいと思うのなら……その時は適当なチートでも使うんだな。


 先輩がそう言っていたことを思い出す。

 最後の一言が余計だと思ったが、対人戦で常に勝ち続けるのは難しいということを端的に伝えたかったのだろう。

 教えてくれた二つの相反する戦術は、一概にどちらが強いとは言えないのだと言っていた。

 自分の戦法を守り通す……我を通すというのは、勝利を第一に置いた王道だ。

 そこにあるのは単純な力比べであり、技量が勝る方が勝者だ。

 相手の戦法をひたすら崩し続けるというのは、勝利を二の次に置いた邪道だ。

 実力で勝る相手であろうが、実力を発揮させなければ自分より弱いかもしれない。

 ある種の打算的な考えだが、それで拾える勝利もあるのだと。

 むしろ、そういう強かさこそが一つの強さなのだと示しているのかもしれない。

 先輩が実体験を交えて色々と教えてくれた対人戦の話は、それこそ問答無用で何でもありの対人戦の実態だ。

 騎士道や武士道のような、礼に始まり礼に終わる対人戦はごく一部のイメージに過ぎない。

 実際の対人戦は毒や麻痺といった状態異常から、だまし討ちに至るまで様々な手練手管が用いられるし、ガチでやり合うとしても多かれ少なかれ虚実を織り交ぜた駆け引きに終始する。

 結局は先輩も対人戦の極意を掴むには至っていないと笑っていた。

 それでも、先輩が一つだけハッキリと主張したことがある。


「対人戦では何をしても良いが、一つだけ守って欲しいことがある」


 それはいつになく真剣な表情で、小さく間を取ってから静かに吐き出された言葉だった。


「自分を裏切るような、後悔するような選択だけは絶対にするな」


 真に迫る声音で言われたその言葉は、今でも記憶に鮮やかに残っている。

 お調子者で適当な発言の多い先輩だったが、その言葉だけは聞いた後しばらくの間、やけに耳に残っていたのを覚えている。

 今もこうして思い出すほどに、先輩のその言葉は胸に響く音をしていたのだ。

 対人戦に関わらず、俺はその言葉を大事にしている。

 自分が後悔をするような選択だけはしない。

 利己的にも思えるが、自分に嘘をつかないで生きるというのは大事なんじゃないかと思う。

 死ぬまで付き合い続ける唯一の相手は自分自身なのだから。




 マグナとの相談が終わった。

 彼はギラついた表情を浮かべると、満足そうに頷いて魔法の伝授を受けに行った。

 やや邪悪な雰囲気もあるその仕草から、少しだけ後悔にも似た感情を覚える。

 うーん、教えてはいけない相手に教えてしまったような不安感があるな。


「最近、よく一緒にお見かけしますね」


 俺が彼の後姿を見送っていると声を掛けられた。

 魔法屋の店員であるナンシーだ。

 AIに制御されたNPCのはずなのだが、今までのVRMMOと比べて格段に会話のレパートリーが多く、こうして彼女からプレイヤーへと直接アクションをかけてくることも多い。

 何だかんだで、この世界で一番付き合いがあるのは他のプレイヤーじゃなくて彼女かもしれない。

 マギエルの自分は魔法屋に頻繁に顔を出すこともあってか、彼女と話をする機会も多いのだ。

 ただ、この世界のNPCには時間の概念があるらしく、彼女も特定の時間帯には遭遇しなかったりするのだが……それでも良く合うと言ってしまうのは、彼女との会話の内容が印象に残っているからだろうか。

 主には魔法関連の話題が多いが、偶にこの世界についての一般常識みたいな話や伝承など、フレーバー成分を含んだ会話もしてくれる。

 そういう設定的な要素を楽しめる俺としては、やっぱり彼女との会話は楽しいのかもしれない。

 同じ話を繰り返すわけじゃなく、会うたびに違う切り口だったり、前回の話の続きをしたりと会話パターンが実に豊富で飽きが来ないのは、AIの調整が見事なんだと感動すらしている。

 ……あと、彼女自身の見た目も影響があるのだろうか。

 言動や立ち居振る舞いは成人した人間の落ち着きがあるのだが、外見は幼さを感じさせるものなので異性だからと変に意識することもない。

 何と言えばいいか、そう妹のような感じと言えばいいだろうか。

 現実には妹が居ないので、従妹とかがそれに近いのかもしれない。

 見た感じは小・中学生っぽくあるし、大きく見積もって高校生くらいだとしても同年代だ。

 そう考えると非常に付き合いやすい感じが湧いてくる。

 向こうも同じように考えているのだろうか?

 ならば、こうして頻繁に会話を持ちかけてくれるのも納得だ。

 もしかしたら、初日に彼女との会話内容がバグったことが何か関連してるのかもしれないが、それは気にしない方がいいだろう。

 さて、最近よく一緒に見かけると彼女は言っていた。

 それはさっきまで一緒だったマグナのことだろう。

 確かにお互い魔法屋を利用するが、マグナは自分と比べると随分と頻度が低いはずだ。

 今回で魔法屋で会ったのは三回目ぐらいかだったはずだ。

 初日と今日を除けばあと一回、決してよくある話じゃないだろう。

 またバグったとは思わないが少し引っかかる言い回しだ。

 実際にマグナとはよく一緒に遊んでいるし、ここ連日だと同じパーティで依頼を受けてこなしていたことも……まさか、それのことだろうか?


「マグナとは同じ冒険者仲間として良くしてもらってるからね、依頼をこなすパーティでも一緒になることが多いな」


「なるほど、冒険者仲間なんですね」


 ナンシーはそう言うと、うんうんと確認するように頷く。

 その仕草は見た目のイメージ通りで、普段の理知的でクールな振る舞いと比べると、ちょっと意外な印象を受けた。

 何だろう、マグナに興味でもあるのだろうか。

 NPCが冒険者に興味……うーん、好感度ステータスでも設定されていて、それで発声するクエストがある……とか?

 そうだとすると、随分と仕掛けが回りくどいよな。

 まぁ、これは気にしてもしょうがないことか。

 折角ナンシーが居るんだ、聞いてみたかった事を聞いてみよう。


「なぁ、何かオススメとかあるか?」


「オススメですか……せめて、何を勧めて欲しいのかくらいは教えて欲しいです」


 じとっとした目つきで窘められる。

 彼女の目つきがこうなのは元々だから気にならない。

 むしろ、彼女の返した反応は丁寧なものなので、こちらが不親切だったと反省する勢いだ。

 NPCとの会話は的確に用件を伝えることだ。

 あまりにもナチュラルな会話ができるので、うっかりAIだということを忘れがちになる。


「そうだな、伝授できる魔法とか」


「魔法ですか……確か、ジンさんはここで覚えられる魔法を全て習得してましたよね?」


「あぁ、そうだな」


「でしたら、他にはここで覚えられる魔法は無いんじゃないでしょうか?」


「……それもそうか」


「何故、他にも覚えられる魔法があると思ったんです?」


 NPCとの会話にはアップデートとかゲーム的な用語はあまり受け付けられない。

 プレイヤーのガイドやナビゲーションを主にしているNPCならばその限りではないが、基本的にVRMMOという世界においてのNPCは、プレイヤーとの会話で世界観の雰囲気を壊さない様に配慮した受け答えが構築されるようになっている。

 VRMMOの売りの一つに、仮想世界での等身大の体験がある。

 五感全てで異世界を感じることができる楽しさが目玉の一つとなっているVRMMOにおいて、その没入感を阻害する要素というのは極力排したいというのが開発、ユーザー共通の認識だ。

 もちろん、ユーザーはあくまでプレイヤーとして遊んでいる訳で、その攻略のために慣れ親しんだ用語、つまり世界観にそぐわない発言を交わしたりもするのだが、その辺は別に制限をかけられている訳ではない。

 あくまでプレイヤーが使う分には自由だが、それについてゲーム側――VR世界内ではそれを後押ししたり、推奨するような構造にはしていないのだ。

 俺はそういう配慮が好きだし、そうして作られたこの『異世界への没入感』がとても好きだ。

 だから、なるべく俺はその矜持に反しない様に言動を心掛けている。

 差し当たって、彼女の問いに何と返せば自然だろうか。


「勘……かな?」


 少し適当過ぎる返答だったか。

 そう答えると、彼女は視線を足元に落とし、手を口許に当てて小さく呟いていた。


「なるほど、勘ですか……勘ですか……ふむむ」


 黙り込んでしまった彼女の様子に、不安が胸の内をちらつき始める。

 以前も変な会話の流れからGMを呼ぶ事態にまで発展したのだ、また同じような状況で呼ぶことになるのではないかと思ってしまうのも無理もない話だろう。

 自分の様子をそうやって冷静に分析しながらも、俯瞰的に見ている自分とは裏腹に、心臓はトクトクと少しづつ早くなっている自覚がある。

 仮想の体の中には心臓があるわけじゃないんだけど、生身の時の感覚というのはそう簡単に拭えないのだ。

 なにせ、生まれてからこの方ずっと付き合い続けて、それは死ぬまで続く間柄だ。

 人生の百パーセントを占める感覚と言うのもそう多くは無いはずだ。

 俺がそうして余計な思考で気を紛らわせていると、彼女は得心がいったのか顔を上げた。

 澄んだ色の瞳がこちらをじっと見つめている。

 彼女と目を合わせると、透明感があるのにどこまでも続く深淵を覗き込んでいるような、何とも言えない引力を感じてしまう。

 思えば、最初に会った時から彼女からは目を離せない何かがあるような気がする。

 ……初日にいきなりGMコールをした要因だったというのは、確かに目を離せないというか、強烈な印象を残すには十分だったということだな。

 何かやらかすかもしれない、その不安感だけで目を離せない理由としては十分だろう。

 分かってはいるんだ。

 そういう奴は目を離してようが離さなかろうが、問題を起こすものなんだと。

 それでも気にせざるを得ないというのは、おそらく自分の性分に由来するのだろう。


「ジンさんは、魔法について深く知りたいのですか?」


 彼女の問いは唐突なものだった。

 少し面を喰らったが、その言葉の意味を考えてみる。

 魔法について深く知りたいか。

 イエスかノーかで言えばイエスだ。

 深く知りたい、というのは何を差しているのだろうか?

 ゲーム的に考えれば、そのシステム的な仕組みなどになるのだが、AIとの会話ということで考えれば暇潰しのフレーバーテキストだと考えてもいいだろう。

 そもそも、「深く知る」ということがどういうことか見当が付かない。

 ……まぁ、別にどうでもいいか。 既に答えは出ているのだから。


「あぁ、教えてくれるのか?」


「……少し長い話になりますからね、お時間が宜しければとなりますが」


 話題を切り出したものの、彼女自身がどこか戸惑っているような雰囲気がある。

 これはおそらく、こちらの都合をそれとなく聞いてプレイヤーの行動に制限をかけないように、というAIの会話構築におけるユーザビリティを意識した配慮なのだろう。

 アップデートによる追加や更新、PvP要素の確認などはしたいと考えていたのだが、別にそれらは急ぎの用事と言うわけでも無い……どころか、今後は常に付き合っていく仕様だ。

 いち早く検証をして得られるメリットなども俺には無い。

 そう考えると、俺は特にこれといって今後の予定がなかったことに気付く。

 そもそも、魔法屋にきた時点で時間を潰す手段として来ていたのかもしれないな。

 ゲームの世界観や設定というものにも純粋に興味があるし、ここは有難く彼女の話を聞かせてもらう事にしよう。


「別に構わないよ」


「分かりました、では個室を準備しますので付いて来て下さい」


 小さな手がちょいちょいと俺を招き寄せる。

 見た目相応の可愛らしい仕草だ。

 彼女の小さな背中を追いながら、カウンターの脇の地下通路を抜け、店舗の奥深くへと潜り込んでいく。

 前にも一度通ったと思うのだが、この通路はダンジョンのそれに近い。

 何と言うか、方向感覚が当てにならない印象だ。

 アルスと一緒にダンジョンを攻略した時も同じ感覚があった。

 彼も同じように感じていたらしく、実際に入り組んだ迷宮の構造を考慮しても、中での方向感覚はあまり当てにならなかったと言っていた。

 空間的が微妙にズレていたり、捩じってあったりするのかもしれない。

 トリックハウスの原理を応用しているんじゃないかということだ。

 目から入る情報だけで、人は三半規管に支障をきたし、平衡感覚を失うことがある。

 VRMMOの世界でも、その現象の再現は容易に可能だろう。

 目の前の少女の背中を見失えば、本気でこの小さな通路でも迷子になるかもしれない。

 特に入り組んだ構造をしているわけでもないのに、ここもそんな風に不安な気分にさせるのだ。

 辿り着いた場所は前と同じく小部屋の様だった。

 鍵穴に鍵を差し込み……いや、あれは指揮棒タクトか?

 仄かに棒と穴の隙間から光が漏れ出ると、トントントンと小気味の良い音が通路に木霊した。

 彼女は杖を引き抜くと、そっと撫でる様にして扉を押し開けた。

 中の間取りは想像していたよりも広く、家具も取り揃っていて快適な環境だと思える場所だった。


「どうぞ、私の工房アトリエです」


 小さく身を引いて道を譲ってくれる彼女に頭を下げながら、部屋にお邪魔させてもらう。

 部屋の広さは七畳……はないくらいか。 多分、六畳ちょっとくらいだろう。

 壁一面には大きな本棚が設置されており、天井までの三メートル程を埋め尽くしていた。

 本の背表紙はどれも古びて汚れの目立つものばかりだが、それでも丁寧に扱われているのだと言うのは本の並び方や、整頓された室内からも十分に伺える。

 右手の壁には断熱の為だろうか、厚みのあるウォールタペストリーがかけられていた。

 布に織り込まれた図案は、幾何学的な模様を刻み込んだラインと、図象化された何かの鳥だ。

 シルエットが丸い鳥……梟だろうか。

 その更に右手、入口の隣には木製の箪笥があった。

 シンプルな作りながら、長年使われてきたのか深みのある色合いが木の温もりを感じさせる。

 左手の壁には木と布で作られた間仕切りが立て掛けられており、その前には小さな二人掛けのソファーが二つと丈の低いガラス板の机が設置されている。

 本棚の前にあった重厚な彼女の執務机と比べれば、いささか質素な印象すら抱いていしまうが、この部屋でほぼ唯一のガラス細工の家具とあって、威風堂々とした佇まいを感じさせる。

 小さな観葉植物が部屋の隅に添えられているのも、彼女の性格の一端を覗かせているようだ。

 この小さな空間が、彼女のアトリエなのだそうだ。

 ……アトリエって何だろうな。

 ひとまずアトリエに関しては、「彼女の書斎」とでも当てはめておこう。


「お邪魔します」


「小汚い部屋で申し訳ありませんが……あぁ、そこのソファーに腰掛けてお待ち下さい。

 私の体型に合わせて選んだので少し窮屈かもしれませんが」


 彼女はローブを脱ぐと箪笥の奥にあるローブ掛けに下げ、執務机へと足を進める。


「いやいや、素敵な部屋じゃないですか」


 そして執務机の引き出しから薬缶やカップを取り出してきた。

 どうやら、あの机は食器棚としての収納を兼ねているようだ。


「おや、貴方は冗談やお世辞とは縁がない人だと思っていたのですが……」


 取り出した縦長の薬缶は、銀のトレイに乗せている間はカラカラと乾いた金属の立てる音を鳴らしていたが、彼女がぐっと取っ手を握ると急に重みを増したような……実際、くぐもった水の音が薬缶の中から聞こえ始めて来た。


「本心ですよ」


 魔法の道具か何かなのだろう、空の薬缶は水で満たされていき、その薬缶を徐にコースターのような物の上に乗せた。

 そのコースターらしき何かには模様が書き込まれていたのを見ていた。

 しばらくもしない内に湯気が音を立て薬缶の口から溢れ出てきていた。

 魔法の薬缶に魔法の過熱コースター。


「……そうですか」


 ティーカップは流石に魔法の品ではないようで、薬缶の方からお湯を注いで器を温めた後、茶葉を入れて適温になったお湯を注いで茶を作る。

 この手順は紅茶だろう。

 差し出されたお茶は鮮やかな緋色をしており、香りはここが地下だと忘れる程に爽やかで、仄かな甘みが上品な味わいだと感じさせてくれる。


「どうぞ」


 口に含むと思っていた以上に甘みがある。

 砂糖などは一切入れていない、茶葉本来の味だけでこの甘みがあるのだ。

 それも、甘さもくどくとなる程ではなく、香りと味を楽しむ為に優しく包んでくれるような甘さだ。

 俺の現実では、まずもって出会わないような深い味わいの一杯だった。


「どうです?」


「とても美味しいです、今まで一度も飲んだことがないくらいに」


 咄嗟には胸の内の感動を飾る言葉が思い浮かばなかったのでストレートに答える。

 それを聞いて彼女はしばし瞬くと、ふと小さく笑って言った。


工房アトリエに人を招くことなんて初めてなので、少し戸惑ってしまいますね。

 ……でも、私の趣味を褒めて貰えたことを嬉しく思います」


 普段は落ち着いた印象の彼女にしては珍しく、はにかんだような柔らかい笑顔に少しドキッとさせられてしまう。

 VRMMOも進歩したとは言えど、こんな自然な表情を再現できるまでに至ったていたとは。

 技術は日進月歩と言うけれど、目に見えない場所でグングンと進んでいるものなんだなと、改めて認識するきっかけになったと思う。

 いずれ、人間と何ら変わりのない電子生命体みたいな存在が生まれるのかもしれない。

 その場合は人権を保護されるのだろうか、生身の代わりとなる体を用意できたり、戸籍まで獲得できるとなれば、世界の構造がガラリと変化する大事件になりそうだ。

 ……まぁ、この辺の妄想は今はまだSF作家に任せておこう。

 そのうち本当にそういう時代が来るかもしれないが、それこそ俺たちの与り知らぬところで勝手に進む話だろう。

 将来の夢にそういう人口知性生命体の創造を挙げたとしても、俺は素晴らしい夢だと思うよ。

 素敵な願いだ、そうやって人類は文化を築き上げて来た。

 好きな相手と自分の家庭をもちたいだとか、そんな身近な未来のイメージすら湧いてこない俺には土台無理な話だな。

 ……なんて事を考えて、気持ちを無理矢理にでも切り替える。

 あまり上手くいっていないのも理解しているが、自分の感情を必要以上に持て余して「本題を聞き逃していました」では不誠実に過ぎるだろう。

 NPC相手に誠実かどうかなんて、「いかにも日本人らしい」となじられたり、「やっぱりお前はそっちの次元が好きなのか」なんて、言いたい放題にされてしまうかもしれないな。

 別に他の誰が見ているというわけじゃないが、少なくとも俺が俺を見ていて恥ずかしいのだ。

 女の子と見れば鼻の下を伸ばすとか……俺の柄じゃあないよ。


「では、本題に入りましょうか」


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