二十一. 闘
『……うぅ、魔虎羅神将、もちっと年寄りはいたわってくれねば……』
灯慧が唸って言えば、上体を起こしたもうひとりの僧が吹き出した。
『私より若い者の言う言葉とも思えないな――あ、と』
目慧は目の前に佇む少女と青年二人、四人の神将に気がつき、涼やかな目元をほころばせて、ついと居ずまいを正した。
『お初にお目にかかります。愚僧は目慧と申し、比叡山延暦寺に遊学しておりました。この度は弟子ともども、ひとかたならぬご厚情を賜りましたこと、篤く御礼申し上げます』
やつれはみえるものの、灯慧に劣らぬ美貌の僧は、凛とした面持ちで深く頭を下げた。
はっとして、たまきもその場に正座する。
「いや、目慧殿。丁寧なご挨拶いたみいる。私は藤原たまき。こちらが安倍太一と、藤堂桜殿。そしてこれらは灯慧が彫りし神将像より出できた夜叉神将です」
たまきの言葉が終わるや、自分の紹介がないぞとばかりに甲高い子猫の声があがった。
「そして、これが多聞です」
太一が子猫の前足をちょいとあげてみせる。目慧の相貌が笑みにほころんだ。
『……よい味方を得たな、坊……いや。灯慧』
『はい』
いつのまにかきちんと座っていた灯慧が、微笑んで頷く。いままでののらくら坊主とはうって変わったその態度に、たまきたちは心中で苦笑せざるをえなかった。
そもそも、目慧が巻物に捕らわれた要因は、やはり根本中堂の焼き討ちにあった。彼本人は言葉にはしなかったが、おそらく彼は、中堂から出ようとしたところを殺害されたのだ。幼く稚い弟子を山中に放り出したまま命を断たれねばならなかった無念は、ひるがえって荒んだ人々やこの世に対して恨みを抱くにいたる。
その後、灯慧は戦火を逃れながら備中まで旅をし、仏門に入った。何年かの修行を終え、彼は故郷へ戻り師の墓を探したが見つからなかった。その頃から、肌身離さず持っていた巻物二巻が妙な気を纏うようになる。それを機に、彼は巻物に書かれた薬師経にちなみ、鎮護の祈りをこめて十二神将を彫刻したのであった。
「……灯慧様、その巻物と十二神将像、このあたりのお寺に納められたのではありませんか」
藤堂は地図を開いて京都と奈良の県境……つまり犬岩がある山間部をさした。
『そうです。この山の上に小さなお寺がありました。そこへ』
「そうですか、やっぱり、あの山にあったのか……。そのとき、山犬が傍にいたのではありませんか?」
藤堂の問いに、灯慧は驚いたように目を見開く。
『……行ったのですか、あそこへ……?』
頷く藤堂と沈痛な面持ちで溜息をついた灯慧を交互に見遣り、目慧は怪訝そうに首を傾げた。
『……目慧様。私が巻物と神像を寺に納めたとき、数年ぶりに山犬と会ったのです。……かれは、山道の麓に伏せたまま眠ってしまったのです……ずっと』
灯慧は山犬のこととて、構いつけもせず、帰り際に一言声をかけて立ち去った。それが、彼との別れだった。
その後、何度かあの寺へ供養に行かねばと思いつつも、日々に流れてしまい彼の命も費えた。気掛かりだったあの場所へ、彼の魂は瞬時に駆けて行った。そして、そこでありうべからざる……否、あってはならないものを見てしまったのである。
『藤堂殿も行ってみてお分かりだろう。あの異常なほどの気のわだかまり……凝った念を……』
「はい。残念ながら、私は傍へ近寄ることもできませんでした」
『寺は既になく、巻物と神像はいずこかの寺に移されたらしい。だが、山犬が岩と化したそれは、山犬の念を媒体にして様々なモノが寄り集まり、とてもではないが幽霊ごときの私が手におえるはずもなくてな……』
「だけど不思議なことに、その圧力の範囲は限定されていて、しかもご近所のおじいさんは平気で傍まで近寄っていくんだよ。魔虎羅神将が教えてくれなければ、私も気付かなかったんだ」
頷きながら、藤堂はたまきたちに補足する。
『左様。あの念は上へと駆け、おそらく上空から、この巻物に縁するものを見つけ出しては、引き寄せられていったのだと思う―――。
たまき、太一、そして藤堂殿。無理を承知でお願い申し上げる。我ら師弟はあの山犬に何度も命を救われた。畜生の身なれども情篤い兄弟とも思う存在なのだ。闇に捕らわれたままではあまりにも忍びない。重ねてお願い申し上げる。どうかあの魂を救ってやって欲しい』
灯慧は流れた涙を拭うこともせず、深々とたまきらに両手をついた。
『私からもお願いいたします。山犬と私は灯慧よりはるかに縁深き間柄。本来なら、私が引き取ってゆくべきを、念に捕らわれ山犬もたったひとりの弟子にも、かえって苦痛を強いてしまった。責められるべきは私ひとり。今ある私の残滓はいかようにしてくれてもかまわない。山犬と、この弟子が旅立てるのならば……何卒、お願い申し上げる』
目慧の禿頭も深々と下げられた。
しばし、静寂が押し包む。
太一はちら、と傍らの友人を見た。案の定、少女は滂沱の涙を流している。こっそりと……、仕方なさそうに溜息をついて言った。
「貴方を生贄にしたんでは、今度は灯慧が怨霊になるだろうよ。そうそう坊さんの幽霊に纏いつかれたんではかなわん……と、コレなら思ってるだろうさ。てか、お前もいいかげん鼻水をふけ」
青年が大泣きしている少女を差しながら、ポケットティッシュを押し付ける。
「霊力者が情に流されてたんじゃ、命がいくつあっても足りないぜ……」
やれやれと呟いて立ち上がった太一は、扉の向こうを見据える。
「……どうだ。入ってきているか?」
「いまのところはまだ」
「鳥居に跳ね返っているようではあるが……」
宮毘羅神将と真達羅神将が応える。
「今のうちだな。外でやろう」
「えっ? ここではダメなんですか、太一君」
不思議そうに問い掛ける藤堂に、太一はにやりと笑った。
「別に、ここでもいいですが。社が全壊してもいいなら」
藤堂は慌てて巻物を持つと、庭へと駆け出して行った。
「……晴明、意地が悪いぞ」
「ふふん」
鼻をずびずびいわせている少女が軽くねめつけるのへ、青年は鼻で笑っただけだった。
外へ出て行く二人の後ろ、目慧が問うように弟子に目を向ける。灯慧は苦笑しながら頷いた。
『……少女は源博雅どの、青年は安倍晴明どのの生まれ変わりです。今世では、霊力は逆転してあるようです』
『そうか……。いずれにせよ、時のめぐりあわせに感謝せねばならないね』
『はい』
慌しく庭に結界が張られ、簡単な祭壇が設けられた。通りはふっつりと人が絶え、車さえ通らない。
祭壇の前で藤堂が祝詞を読み上げる。後ろには太一とたまきが座り、祭壇の向こうに巻物を挟んで座る幽霊の僧達が一心に祈っていた。
太一の示した方法はごく簡単なものだった。
山犬を巻物から誘き寄せ、その塊から山犬の魂だけを取り出すのである。成功の見込みは少ない。六百年もの間そうして在ったモノだ。同化していないほうが不思議なのである。もしも山犬を助け出せなければ、そのときは……。
祝詞は止み、二人の僧侶の祈りの声だけが木霊している。
と、広げられた巻物が波打ったように揺れた。
『……っ!』
師弟は顔を見合わせ、頷きあうとますます祈りに念をこめた。むくむくと湧き上がってくる黒い影。
たまきの腕の中で子猫が毛を逆立てた。
膨れ上がる影は小山のように盛り上がり、オオカミのようなカタチに変わっていった。爛爛と光る赤い目。それが巻物から完全に離れた瞬間、灯慧は素早くそれを巻き取り、傍らで焚いていた炎の中に突っ込んだ。巻物は勢いよく燃え上がり、あっという間に灰となった。
轟きのような唸り声を発し、闇色の犬は牙を剥く。
目慧はそれへ手を伸ばし、ゆっくりと語りかけた。
『山犬。永い間、私を守っていてくれたのだろう。ありがとう。こうして灯慧にも会えて、私も目が覚めた。いつも世話になったお前だけ残していくことはできない。私たちと一緒に行こう』
唸りを発したものの、巨大な犬は一瞬の躊躇をみせた。目慧は恐れ気もなく山犬に向かって歩いていく。
『山犬。私はねずっと考えていたんだ。どうして妖怪のお前があの日、私を助けてくれたのか。どうして、ずっと傍についていてくれたのか……そしてね、一つの結論に至ったんだよ』
目慧は、そしてその闇の犬に触れ、ずぶずぶと埋まっていった。
「目……っ!」
「まて、博雅! まだだ!」
飛び出していこうとする少女を抑え、太一は鋭く言った。
灯慧は数珠を握りしめ、一心に祈っている。目慧の姿は完全に犬の中に消え、それはのたうつように震えはじめた。
万劫にも思える時間がすぎたように感じられたとき、犬の巨大な足から目慧が出てきた。その腕に抱きかかえられていたのは小さな茶色い犬だった。目慧は、けんめいに尾を振って自分を見上げるその姿をみて莞爾と笑った。
『……ああ、やっぱりお前だったんだね、太郎丸』
さすがの灯慧もあっけにとられて、師と犬を見比べている。同様に呆然としている一同に、目慧は明るく笑った。
『これは昔ね、海で溺れていたのを助けて、私が出家するまで飼っていた犬なんだよ。私は、実家ではいつも命を狙われていたから、このこなりに忠義を示してくれたのだろう……山犬となってでも』
太郎丸はそれに応えるように、元気よく一声鳴いた。
その時、凄まじい唸り声が起こった。人々の目が一斉にそちらに向けられる。犬の形をしていた闇は、まるでアメーバが蠢くように伸縮しはじめた。
小さな犬が主人の腕から飛び出し、勇敢に激しく吠え立てる。
『目慧様、こちらへ!』
『おいで、太郎丸!』
その場を離れ、こちらに戻ってくる僧侶たちを視界に捕らえながら、たまきは油断なく目前の闇の塊を見据える。
「晴明。灯慧らだけでも送り出してやることはできんか」
「……難しいだろう。結界をとけば、外から余計なモノが入ってくる。そうなれば……」
太一の言いたいことを察した少女は、唸り声をあげた。
「見ろ、博雅」
太一が囁く。
凝り固まったさまざまな念は一個のモノとして蠢きだす。強力な宿り主に憑いていたればこそ、その怨念が飛び散らずにいたのである。だが、今―――
伸び上がる黒い腕、不気味な顔が飛び出しては沈み、唸り、叫びながら、上へ、右へ、左へとてんでに進もうとする。
「…………」
しばしの沈黙が彼等を包み込む。
たまきは決然と顔を起こし、鋭く言い放った。
「悪鬼調伏だ! あれを消せ、神将!」