二十. 師弟
降ってくる【澱】の量が尋常ではない。あたりの空気がいちだんと黒ずみ、重くなっている。しかもその闇は目前に吸い寄せられてゆくようだ。
「……これはなんとしたこと……」
灯慧は眉根を寄せて呟く。
目前のケモノは彼を警戒し、じっと立ったままだった。近づけば唸り声をあげて牙を剥き出す。
山犬は彼を覚えていないようだった。というよりも、その赤い目が、かつてのかれではなくなっていることを物語っている。あの知性と、情愛を浮かべて煌めく目が、今はない。
「……山犬……、どうかそこをどいておくれ。そこにいるのは目慧様なのだろう? 私はその方をお救いしたいのだ。もうこんな暗い、寒いところへ師を置いておいてはいけないのだよ! 六百年も……どうして……」
哀しい思いを抱きながら、じり、と一歩踏み出せば、黒いケモノが唸る。
【澱】はあとからあとから降り積もる。闇はますます濃い。
(急がなくては……)
灯慧の禿頭から冷や汗が流れ落ちた。
一体、どうすればいいのか見当もつかない。この状況を太一やたまきに伝えられればよいが、それも適わない。気ばかりが空回りして、このままでは己も再びこれらにとりこまれてしまう。
「目慧様! どうか、目をお覚ましくださいっ! どうか、もうこの世のしがらみはお捨てください!」
焦燥に駆られて大声で呼びかける。だが、声ははじかれるようにして彼に返ってきた。息をはずませ、ぎりりと唇を噛む。
こうなれば、山犬に体当たりしてでも……
そうして、片足を一歩引いたときだった。
「退け、きさまら!」
あたりに響き渡る少女の大喝とともに、凄まじい風が襲いかった。直撃を受けたらしい犬の悲鳴が短く響く。
「わっ!」
思わず頭をかばって吹き飛ばされそうな風に耐えた。そしてほどなく、風はぴたりと止んだ。
「……はあ……。まったく、なんちゅう娘じゃ……」
灯慧は呟き、顔をあげた。
【澱】が止んでいる。
驚いてあたりを見回すと、まるで陽光が差し込んだかのように明るく、あたたかな空気に満ちていた。
「…………まったく、なんちゅう娘じゃ……」
再び呟き、次いで、その美しい相貌が笑みこぼれた。ふと、視線の先に倒れ伏している僧を見た。
「目慧様!」
灯慧は走りより、彼を抱えおこす。青白く、頬がこけてやつれた顔は、しかし、灯慧の記憶にある比叡山で出会った僧に間違いなかった。
「目慧様! 目慧様っ!」
軽く頬をはたくと、彼の目がうっすらと開かれた。眩しげに何度か瞬きをし、灯慧の顔をとらえる。
「……ここは一体……御坊は……?」
掠れた声が訝しげに訊ねた。灯慧は堪えきれず嗚咽を洩らし、僧の白い着物に顔をうずめた。
「『坊』でございます、目慧様! 比叡山で、お助けくださった、『坊』でございますっ!」
「……坊……!」
目慧の目が驚きに見開かれた。そして、ゆるゆると上体を起こし、己の袖にすがりついて号泣している若い僧の肩に手を置いた。
「……よく顔を見せておくれ。……ああ、うん。面影が残っているね……こんなに大きくなって……よかった……生きていてくれて、本当によかった……。私は、お前のことだけが心配だった。……あんなことになってしまって……」
目慧の青白い顔に少しだけ血の気が戻る。涼やかな目に涙が浮かび、頬を伝って流れ落ちていった。
師の物言いに、灯慧はふと思いついた可能性に青ざめる。
「目慧様は……まさか……」
だが、目慧はそれには応えず微笑し、ゆっくりと立ち上がった。
「……永いこと、眠っていたような気がする……。あれが、ずっと傍にいてくれたのは、判っていたのだけどね……」
そして、彼は少し離れた場所にうずくまる闇の塊に目を向けた。赤く光る目が無表情に二人を見返す。
目慧はその姿を哀しげに見つめた。
社の中は十畳ほどの板張りで、正面に祭壇がある。その他は何もないがらんとした板間だった。
件の巻物を前に、三人と四将……と一匹が討議を重ねる。
問題は、力ずくではこの怨念の大元は昇華されないだろうということだ。これに憑いているモノを引っ張り出さないことには祓いようがないのである。
「……つまり、藤堂殿はいくつかの方法を試してみられたのか?」
「はい。できる限りのことは、全部」
訊ねたたまきに藤堂がにっこりと笑う。屈託ない笑顔だが、確かに憔悴の色が濃い。おそらく、昨晩からずっと祈祷を行っていたのだろう。
「少し休まれたほうが……」
「ありがとうございます。ですが、だいぶ楽になったんですよ。あなたがさっき祓ってくださったおかげで。……思うんですけどね。おそらく、これにも大きな影響が出ているはずです」
藤堂は笑って巻物に指を差す。たまきはきょとんとして彼を見つめ、巻物に目を移した。
「……広げて、大声で灯慧を呼んでみるか?」
胡座に頬杖ついた太一が人の悪い笑みを浮かべて言う。
「まさか、そんな……」
「……! なるほど! やってみる価値はあるかもしれませんよ!」
疑わしげな少女だったが、藤堂の方は大いに乗り気だった。
だいたい神主があれこれやってダメだったものが、何で呼んだだけで出てくる道理があるのだ。昔のアニメじゃあるまいし……。こいつら、本気でやる気があるのか……?
思わず心中で呟いて、しぶしぶ一巻を手に取る。衝撃を覚悟したが何事もなくするすると紐はほどけた。
「よし。皆ちょっと下がっておれ。あ、こら。お前もだ、多聞」
じゃれつく子猫を慌てて引き剥がし、太一の手に渡す。
巻物を広げ、仁王立ちになった少女は胸一杯に息を吸い込んだ。すかさず太一は子猫の耳を塞いだ。
「灯慧っ! 聞こえるか! 返事をしろっ!」
びんと響くような声がいた間にこだます。数秒間の沈黙のあと、唸り声とともに声が返ってきた。
『……そう大きな声で怒鳴らんでくれ、たまき……頭が割れそうだ……』
「灯慧っ!」
たまきは飛びつくようにして両手を床についた。藤堂と太一も駆け寄ってくる。
「とっとと出て来い。お前が何も言わずにのこのこそんなところに入り込んだせいで、とんだ大回りをさせられたんだぞ」
太一の冷ややかな声に、巻物の中から苦笑が返る。
『それはあいすまん。今度のことについては弁解のしようもない。だが、たまきのおかげでこれに憑いていた闇があらかた祓われて、目慧様も目覚められた……出たいのはやまやまだが、出口がなくてな。どうしたものかな』
顔を見合わせた太一らの傍らから、魔虎羅神将が進み出ると片膝をつく。
「……灯慧。我の手を掴め」
重々しい声音で言うやいなや、魔虎羅神将は広げられた巻物に手を突っ込んだ。
「まこちゃんっ、そんなデンジャラスな……!」
思わず藤堂が悲鳴をあげる。
神将の逞しい手が巻物から引き抜かれたとき、白い法衣の僧侶が二人、放り出されていた。