十八. 出陣
日曜の朝、たまきがキッチンに下りて行くと、新聞を読んでいた父親が笑いかけた。
「おはよう、たまき。伐折羅神将と、ええと、そちらは?」
「おはようございます。これは魔虎羅神将です」
二人の神将は軽く一礼を返す。洗いものをしていた母親のほうは「伐折羅」の言葉にほんの少し反応を示した。父のほうはそれに気付いていないのか、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる。洗いものをすませたあと、食パンをかじる娘の傍に腰掛けて、何やら落ちつかなげにエプロンの裾を伸ばしたりした。
「……お前、何をそんなにそわそわしてるんだい?」
不思議そうに問い掛ける父に、母は「何も」と応える。たまきは吹き出すのを懸命にこらえて、なんとかコーヒーでパンを流し込んだ。二人の神将は黙々とたまきの後ろに控えているだけだったから、父には妻の様子が妙なものにうつったのだろう。
「……ごちそうさまでした」
これ以上ここにいると笑い出してしまいそうだったので、早々に立ち上がったたまきに、父は心配げに声をかけた。
「たまき。例のことはどうなってるんだい? 少しは進展したのかい?」
ふと足を止めたたまきに、伐折羅神将が口添えをする。
「魔虎羅が持ってきた話を相談してみるも良い。また違った考えが得られるやもしれぬ」
たまきは伐折羅神将と魔虎羅神将を交互に見やり、うむ、と頷いた。
「……そうだな。三人寄れば文殊の知恵だ。父上、少しご相談にのっていただきたいのだが」
そうして、たまきが魔虎羅神将からの報告をそっくりそのまま話すと、以外にも反応したのは母だった。
「山犬は妖怪よね? その岩が京都と奈良の県境にあるの? ちょっと見てみたいわね……」
「え? オオカミのことじゃないのかい?」
と、これは父。
「オオカミのことをいうこともあるけれど、憑き物とか妖怪を示すの。でもね。悪いものじゃないのよ。山で迷った人を助けてくれるんですって」
「へえ」
軽い驚きをもって両親を眺めていたたまきは、
「母上も実はこういうことに詳しいのですか」
思わずといった口調に、父親が笑い出す。
「何言ってんだい、たまき。このひとはこれでも民俗学をやってたんだよ」
「えっ!」
「昔! 昔よ」
恥ずかしそうに手をぱたぱたさせる母は、それでも何かしら楽しげに見え、たまきは微笑んでそれを眺めていた。
「……ふむ。しかし、妖怪とお坊さんねえ……。昔話にはいくつもあるけどねえ……」
「ええ……」
頬杖ついて呟く父と同じように、母娘も頬杖をついて考え込んだ。ふと、父が呟く。
「……妖怪というものをある種の自然霊と考えるなら、一つのモノじゃないとも考えられるよね」
「あら。それはどういうこと?」
「例えば、キミの身体に入っているのは、キミという魂だ。たまきにはたまきの、私には私の。ひとりひとつずつという意味なんだが、自然霊はたぶんそれにはあてはまらないんじゃないかと思うんだよ」
「……犬とかオオカミとか、色んなものがまじっているってこと?」
「うん。動物だけじゃない。木や草や、水や土の……エネルギーって言ったほうがいいかもね。そんなものが寄り集まって、何かのカタチを借りてるのかもしれない」
「……なるほど……」
たまきはふと、上野の怨霊を思い出した。
太一に憑いたあの塊は、確かに一つであって一つではなかった。かつて人間であったものが寄り集まり、それらは肥大しながら器を求め……欲求を満たそうとあてもなく彷徨っていた。人間の持つ、ありとあらゆる欲――それらは集まれば集まるほど増幅していく。人間のエネルギーが持つ、負の面ともいえるだろう。
だが。
「父上……例えば、自然霊が数百年も何かに執着するということはあるんでしょうか……?」
「うーん……一概には言えないけれど、考えにくいね。別の要因があるのかもしれないよ」
「別の要因……」
「あるいは、変質したとも考えられないかい。エネルギーのプラスとマイナスを考えてみればいい。どちらのエネルギーを帯びるのか、物質自体に意志はない。エネルギーの強いほうに引き寄せられていくんだ。山犬をオオカミと考えてみようか―――畜生界に生きるものは、「場」に左右される」
父の言に、たまきは深く頷いた。
その日の昼過ぎ、京都から藤堂が戻ったという知らせを受けた。
『巻物を彼の神社に移すそうだ。できれば助太刀願いたいとのことだ。どうする?』
受話器の向こうから太一の皮肉っぽい声音が届く。この場合、自分たちではなく、夜叉神将の助太刀が欲しいということだろう。
「行くよ。……けど、お前は危ないんじゃないか? 何がおきるかわからんのだし……」
『心配するな。宮毘羅と真達羅と魔虎羅がいる』
「それじゃあ助太刀にならんだろう!」
たまきはとうとう笑い出した。どうも太一は藤堂には〔いけず〕をしたいらしい。馬が合わないというのでもなさそうだが、まるで子供のようでおかしくなる。
池袋で待ち合わせを約して、電話を切った。
ジーンズとトレーナーに着替え、髪を一つにまとめた。神像の納められたウエストポーチを確認する。
丹田に手を当て、一呼吸。
「よし! 行こう。伐折羅大将、魔虎羅大将」
階段を駆け下り、スニーカーを履く。
娘のただならぬ雰囲気を察知したのか、両親が玄関口まで見送りにきた。
「気をつけて行っておいで」
「はい」
にこりと笑って頷いたたまきは、一礼して踵を返しかけた。
「伐折羅神将様!」
突然、母が叫んだ。
たまきと神将らが振り返る。父も驚いたように妻を見つめた。
「伐折羅神将様。この前、夢でお約束してくださいましたわね? たまきを守って下さると……どうか、必ず、たまきをお守りください。必ず……!」
「――承知」
金の神将から重々しい声が返った。その金の瞳が、たまきの母から父へと移る。
「……お約束してくださったよ」
妻へ神将の言葉を伝えると、彼女はエプロンで顔を覆ってしまった。
「…………」
たまきは胸のうちに広がったあたたかなものを感じながら、莞爾と笑った。
「母上。私は必ず無事に戻ってきます。……じゃあ、行って来ます!」
父は母の背をあやすように叩きながら、苦笑にもにた微笑みを浮かべて手を振った。
そして、走り去るたまきの後姿が見えなくなってから、彼は、あっと声をあげた。
「しまった。もう一つ言うのを忘れてしまった」
「………? なんのこと?」
鼻をぐすぐすいわせて妻が見上げる。
「……さっきの、畜生界の話。例外があるということを伝えるのを忘れたんだ」
残念そうに溜息をついた夫は、とりあえず家の中に妻を促す。
「例外?」
「そう。人を導くために、あえて動物の姿で生まれてくる『菩薩の示顕象』ってやつだよ」
最寄の駅まで徒歩十分。たまきはその短い距離を全力疾走していた。
「泣いておるのか、たまき?」
「……泣いてなどおらぬ!」
「ふうん?」
走りながら、怒鳴り返した少女を追い越すようにして伐折羅神将が覗き込んできた。
「鼻が赤いぞ……鼻水もタレてるな」
「う、うるさい!」
「太一に笑われるな。心配するな。我が説明してやろう」
「――っ! いらぬ!」
「…………」
魔虎羅神将は目の前で繰り広げられるじゃれあいに、こっそりと溜息をついた。