十七. 掛
――山犬―― 日本では狼や野生の犬のことをあらわすようだが、憑き物や妖怪のことをさして言うようでもある。
各地に伝承があり、悪いものではなくむしろ身を守ってくれるので、お礼をしなくてはならないものだとも言われていた。
藤堂が比叡山から市中に戻って来たのは、日も暮れたころだった。手近なところでホテルを取り、夕食のためにまた外へ出た。
「……はあ……」
勢い込んで比叡山に登ってはみたものの、やはり当時のことはほとんどわからなくなっていた。ましてや、事情を知っている当の本人が何も話さずに巻物に吸い込まれたために、真相は謎のままだ。案の定というか、予想済みだったとはいえ、なんの成果もあげられなかったことは疲れを倍増させる。
明日は虱潰しに巻物と神像の出所を追っていくしかないだろう。
永享の山攻めから数百年。日本は江戸時代に入るまで戦乱が絶えない国だった。多くの乱や、弾圧をすり抜けて現在まで残ってこれたこと、そのものが奇蹟に等しいのかもしれない。これらの遺物がその災いから逃れるように、転々と所を変えてきたことをみると、これもまた怨念のなせる業なのかとも思うのだが……。
藤堂が物思いに耽り、彷徨するような足取りで京都の大通りを歩いていたところ、
「藤堂殿」
不意に呼びかけられ思わず振り返りそうになったが、視界に落ちてきたオレンジの光に上を見上げた。
「やあ、魔虎羅神将」
偉丈夫の神将は一礼すると、
「このはずれで何やら妙な気がわだかまっております。よろしければ明日、ご案内いたしますが」
「ホントかい!? 助かるよ、魔虎羅神将! こうしちゃいられない。とっとと腹ごしらえして寝よう!」
藤堂は俄然張り切ると、怪訝そうに見やる人々を追い越して近くの洋食屋に駆け込んで行った。
池袋の骨董屋は休業のプレートが下げられた。尤も、こんな今にもつぶれそうな店に足を運ぶ客はそうそういないのだが。
目白の太一のマンションのダイニングルーム。テーブルにひろげられた歴史書や事典を前に、たまきは心配そうに呟いた。
「なあ、晴明。巻物は大丈夫かな」
「さあな……俺の言うとおりに結界は張ったろう? 破れなければ、戸を開けるまではあのままさ」
軽い口調で言う太一に、唸り声のような返事が返る。
あのあと、藤堂は急に京都へ行くと言い出した。これは灯慧のためだけではない、自分のためでもあると言って。
祭壇の間に転がる巻物をうかつに持ち歩くわけにもいかず、彼が戻るまで部屋を封印することにしたのである。
太一の助言とともに、部屋の四隅に札を張り、閉めた戸にも貼り付けた。念には念をということだったが、巻物の中に閉じ込められた灯慧はどうしているのか……。
「……博雅。こちらで気を揉んでもどうしようもないぞ。だいたい必要なことを何も言わずに、のこのこ巻物に近づいた坊さんの自業自得だろう」
「同感だな」
太一の厳しい言に伐折羅神将が頷く。宮毘羅とたまきは苦笑して、彼女は再び歴史書にとりかかった。
六時半。
藤堂はベッドから起き上がると外を覗いた。東の空が明るみ、明けの明星が輝いている。今日も晴れるようだ。
服を着替えて洗面を終えると、部屋の中に魔虎羅神将が立っていた。
「おはよう、魔虎羅神将。朝食を済ませてくるから少し待っててくれ」
そして彼等が向かったのは奈良県との県境だった。
日はすでに中天にさしかかっている。山に囲まれたのどかな場所だが、人っ子ひとり見当たらない。ぴーひょろろ……という鳶の鳴き声がさらにのんびりさを醸し出す。
「しかし、また、スゴイところに連れて来たね……」
神将に苦笑する。まさか「はずれ」が県境になるとは思ってもみなかったのだ。だが、人の常識が通用する相手ではないのだから文句を言ったところで仕方がない。
「で、君が気になるって言うのは……?」
魔虎羅神将は、かろうじてアスファルト舗装された山道の脇、藪の中に半分隠れるようにして建つ小さな祠を指し示した。
「おや。祠があるね……うぅっ!」
呟いて二、三歩ほど進んだ藤堂は、突然うめいて立ち止まってしまった。慌てて元の位置に戻るとふっと圧力が解ける。
「……びっくりした。これは一体……?」
「あれ、珍しいなあ。こんなところに観光客かいな」
横合いからのんびりした声がかかった。ぎょっとしてそちらに目を向けると、野良着の老人が人懐こい笑顔で立っていた。
「はい……まあ。ご近所の方ですか?」
「そうや。……せやけど、このへんは別に見るもんもないやろ? 山と畑ばっかりやで」
「それがそうでもないんです。この祠は何をお祀りしてあるんですか?」
藤堂がにっこり笑って聞くと、老人は「ああ」と頷いて平気で祠のほうへ近寄って行った。藤堂は慌てたように手をだしたが、老人はにこにこ笑いながら言った。
「山祇……山の神さんやね。せやけど、ホンマのご神体は祠やのうて後ろにある犬岩ですわ」
「犬岩? どこに……?」
「大岩ですわ。そっからだと藪しか見えんでしょう。犬がうずくまっとるように見えるんで、そう呼びよります。むかし、大きな山犬が伏せたまんま、石になってしもうたとかいう話がありますわ」
「あの……昔、このへんにお寺とかはありませんでしたか? 戦国時代とか……」
「寺? さあなあ……聞いたことあらへんけど」
「そうですか……」
考え込む藤堂に、老人は首を傾げて聞いた。
「あんさん、車で来はったんですか?」
「あ、いえ。バスで……」
「そんなら早えとこ行ったほうがよろしいわ。ぼちぼちバスも終いですやろ。ここいらは旅館もなんもあらへんから」
藤堂は老人に礼を言うと、大慌てで道を走り下って行った。ちょうど坂道を登ってきたバスに手を振って合図し、なんとか乗り込む。
車窓から、坂道をえっちらおっちら歩く老人に手を振ると、彼もにっこり笑って手を上げた。
「……犬岩か……寺でもあれば、何か関係があるかと思ったんだけど……」
独りごちたそれへ、神将の重々しい声が応えた。
「先の気は、巻物に憑いた気にも混在している」
「えっ!? どういうこと?」
思わず声をあげた藤堂に、
「お客さん、何か?」
バスの運転手が怪訝そうに問い掛けた。独り言を言うヘンな客だと思っているのだろう。
「あっ、いや。すみません。何でもないです……」
藤堂は慌てて手を振って、またシートに沈み込んだ。
人に見えないものが見えるというのも、結構タイヘンなのである。
「ふうん……山犬のことかな……」
ノートパソコンを前に、藤堂は呟く。
山あいの祠から戻って来た藤堂は、京都駅から近くのビジネスホテルをとると、部屋に引きこもってしまった。神将と会話するなら個室に入るしかないのである。
そしてまた。魔虎羅神将が反応をしたのはあの犬岩のみで、京都のどこにも巻物に繋がるものはないそうだった。ただし、とオレンジ色の神将は告げる。
「ヒトやモノの雑多な念が混沌としている故、それに混じっていないとも限らぬ」
「うん……」
それは逆に言えば、その雑多なものに埋もれてしまうほど微弱なものだということだ。数百年の永きに渡り存在しつづけてきたあの執念を思えば、それらは枝葉にすぎない。そうであるならば、神将が強く反応した犬岩について調べてみるほうがよほど建設的だろう。
しかし、それとても……。
「……なかなか、歴史に残るというのはたいへんなんだね、魔虎羅神将―――おや。山犬ってのは妖怪のことだったのか。オオカミのことかと思ってたよ……」
藤堂は頬杖ついて画面に見入った。
「ふうん……ナルホド……。太一君やたまきちゃんへのみやげになりそうだね……」
呟き、笑みを浮かべた藤堂に、魔虎羅神将が一礼した。
「是。では、我はこれにて」
「ええっ!? 帰っちゃうのかい、魔虎羅神将! 一緒に帰ろうよ〜」
「否。我は一足先に晴明殿にご説明申し上げねばならぬ故。ご免」
にべもなく……魔虎羅神将は藤堂の前から姿を消した。