十六. 縛
「痴か者め。坊主の風上にもおけんわ」
太一の、それが第一声だった。
声にならない悲鳴をあげて恐れおののく一同を振り返り、青年は凄みのある笑顔で言った。
「原子炉にでも放り込んでやろうか」
「えっ」
「冗談だ。爆発でも起こされたらかなわんからな」
まんざら冗談でもなさそうな顔をして、青年は足元の巻物を睥睨する。
「晴明殿、これは我の失態。その原子炉とやらに入れるなら我が……」
「いや、これは魔虎羅神将だけの失態ではないよ。私があのとき不用意に戸を開けなければよかったのだから」
太一に深謝する魔虎羅神将をかばうように、藤堂が割ってはいる。
朝、藤堂の骨董屋に行くようにという、太一からの伝言をもって魔虎羅神将が現れた。おおまかな経緯を聞き、たまきは思わず溜息を洩らした。
「だから魔虎羅大将だけでいいのかと言ったのに……。それについては俺も同罪か」
その言葉に平伏する魔虎羅神将に、たまきは苦笑した。
「間の悪い偶然が重なったのだ。魔虎羅大将のせいではない。しかしなあ……なんで今ごろになって……? 灯慧は巻物についた怨念に抗しきれなかったのか?」
「我の見た限りでは、灯慧みずからが巻物に手を出したものと」
「ふうむ……」
魔虎羅神将の言に首を捻るたまきに、伐折羅神将が厳しい一言を返した。
「灯慧は自身の脆弱さに付けこまれたのだ。それを断ち切るのは己自身にしか適わぬこと。傍の者が思い煩う必要はない」
己の脆弱さを断ち切る……それができる人間がどれほどいるか……だからこそ凡夫といい、無明と言うのだ。
己もまた無明に生きる凡夫なのだと、たまきは再び溜息をついたのだった。
たまきは、太一と藤堂のやりとりから床に落ちている巻物に目を移す。
「この怨念は、どうしたら昇華できるんだ……? 灯慧の言うように写経した僧がこれほどまで執着するものとは、いったい何なのだ……?」
太一と藤堂はふと口をつぐみ、少女に目を移す。
「これに取り込まれた形にはなったが、結局、灯慧とて執着があって数百年も幽霊でいたわけだろう? 俺は、力ずくでこれらを昇華させてやることはできんと思う……なあ、灯慧よ。俺には、お前も、写経の僧も、哀れに思えるよ」
たまきはしゃがみこみ、まるで子供に語りかけるような口調で、二本の巻物を撫でてやった。
小さな窓から見えるのは雲海だった。雲の上は青い空がどこまでも広がり、太陽の光が反射して眩しい。
大阪へ向かう飛行機に、藤堂桜は乗っていた。
手帳には馴染みの骨董商から聞いた、巻物と神将像の出所がメモされている。
ページをめくると、延暦寺から聞いた永享の山攻めについてことが記されてあった。だが、詳しい文献は残っておらず、中堂で亡くなった僧侶のことなどはまったくわからなかった。京都へ行ったところで五百年も前のことがそう簡単にわかろうはずもないのだが、じっとしてはおれなかったのだ。
少女のあの言葉―――
「お前も、写経の僧も、哀れに思えるよ」
あの言葉は、父の跡を継いだ藤堂自身の姿勢に対して、少なからぬ衝撃を与えた。
他者がどうあるかではない。己が一人の神主――宗教者としてどうあるべきなのかということをだ。まして、世間では蔑視されやすい特殊な能力を持ち合わせている身とあっては、なおさら月々日々に問い直さなくてはならないことである。
その己に喝をいれるために飛び出してきたのだ。
(できる限りのことを……)
藤堂は、そして京都へと向かった。
※
暗く、ひんやりと淀んだ空気が纏わりつく。
否。
纏わりつくのは空気ではなく、そこに漂う『何か』だった。
それはあとからあとから降ってきて、そして積もってゆく。
その一つ一つはまったく何の意味もなさぬ、細い糸くず、あるいは細い煙のようなものに思えた。だが、降り積もったそれは、踏みしめる彼の足裏から徐々に温もりを奪っていくようだった。
そうと気付いたとき、彼はぞっと身を震わせた。
(じっとしていては動けなくなってしまう――!)
慌てて駆け出そうとした。だが、足はもつれ、彼は積もったその上に転んだ。粉雪のように舞い上がったそれは、ふわふわと彼の上に落ち、上からも際限なく降る……。
(これは……)
澱だ――。
(立たなくては……! 倒れたら、おしまいだ……!)
信じられないほど重くなった身体を、なんとか起こそうと両腕に渾身の力をこめる。
吹けば舞うような軽い糸くずなのに、降り積もったそれはなんという重さなのか――。
「くっ……」
彼の額に浮かんだ汗が、頬を伝って落ちていった。
(……私は、いったい何故こんなところに……?)
ふと、心中に浮かんだ疑問は、たちまちにして不安を呼び起こす。ずしりとした重みが肩にかかった。
やっと伸ばした腕が、がくりと曲がり肘をつく。
(ここはどこだ? 私は何故こんなところにいるのだ……?)
肘を突いたままの姿勢で辺りを見回してみる。
視線のさき、黒くうずくまる何者かの影をとらえた。
「―――っ?」
耳をすますと、フーッ、フーッという息づかいが聞こえる。だが、それは人外のもののように思えた。
彼の心身を恐怖が駆け抜ける。
黒い影は二つの赤い光を発し、むくりと起き上がった。
「ひ……」
彼が干上がった喉から悲鳴を洩らし、その身を硬直させたときだった。
『なあ、灯慧よ。俺には、お前も、写経の僧も、哀れに思えるよ』
少女の声がした。
五百年も六百年も、何をそんなにこだわるのかと――。
何にそこまで執着せねばならぬのかと――。
じんわりとした温もりが舞い降り、彼の身体を包み込む。
「たまき……」
彼――灯慧は呟き、すっくと立ち上がる。
そして、外界の騒ぎを想像して小さく吹き出した。これでは弁解のしようもあるまい。
「……そうだな。私も、目慧様もな………」
降り積もる『澱』は、しかし、もう灯慧に纏わりつくことはなかった。彼は軽い足取りで黒い影に向かって歩くと、ついと手を差し伸べた。
「……久しぶりだね、山犬……」
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
これより一気に完結まで突っ走っていきたいと思ってますので、どうぞよろしくお付き合いくださいませ^^