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神将抄録  作者: 直江和葉
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十四. 因由【弐】

※※※因由【弐】




 奥深い森が広がり、なだらかとは言いがたい山道が上へと続いている。昼間とは思えないほど森は暗く、しんと静まり返って、時おりけたたましい鳴き声を発して鳥が飛び立っていった。

道は、比叡山延暦寺に続く。

幕府と叡山の確執もそれほど表立ってはいないが、地下で燻り続ける火種はじわじわとひろがっているのだった。無頼者が住み着き、僧兵として寺に飼われるようになってからは人の訪れもない。

突如、繁みの中から甲高い子供の叫び声が響いた。

「嫌だ……っ! やめ……」

「くそ餓鬼、大人しくしてろ! おい、そっち押さえてろ」

数人の山伏が子供を取り押さえ乗りかかっている。

「ううう……」

口を塞がれ、両手足を掴まれた子供は、年のころは十になるかならぬかの少年だった。色白の、少女と見紛うほどの美貌である。ボロボロになっているが着物の生地からしても農民の子ではなさそうである。少年が持っていたらしい小さな荷物が脇に放り出されていた。

「ひひひ……」

山伏らは獲物を見つけた野獣のように舌なめずりし、下卑た笑いを洩らしながら少年に手をかけようとした。だが、ふいにかかった静かな男の声に一斉に硬直した。

「……何をしているのかと、聞いているのですよ?」

さく、さくと草を踏んで歩いて来る歩調は急ぐでもなく、だが、足場の悪さなどまったく感じさせぬほど軽やかである。

山伏らはそろそろと少年から手を離して後退さった。

「耳が聞こえないのですか。それとも口がきけないのですか」

揶揄するような静かな声の主を、少年は涙に濡れた目で見上げた。墨衣(すみごろも)に袈裟のほっそりした僧侶だった。彼の静かな目と少年の目が合った途端、少年は真っ赤になって慌てて身を起こし、はだけられた着物をなおした。

目慧(もくけい)様……こ、これは、その……」

山伏の一人が引きつった笑いを浮かべて言った。他のものは何か警戒するように、落ち着きなくキョロキョロと辺りに目を動かしている。

「まあ……別にお前達の理由など聞くまでもありませんけどね……」

目慧と呼ばれた僧侶は、侮蔑もあらわに小さく笑いながら少年の視界を遮るように立った。

ひゅ、と微かな音が聞こえたと思った。

その時、森の奥から巨大なものが踊り出た。

少年の目が大きく見開かれる。目慧の背に視界を遮られて全体は判らなかったが、それでもその巨大な姿の一部はしっかりと見ることができた。

滑らかな毛皮は灰色。長い尾。視界を過ぎったのは一瞬にすぎなかったが、その姿は犬と変わりない。だが、大きさが尋常ではなかった。熊ほどもあるそれは山伏らを見据えて轟きのような唸り声をあげ、牙を剥きだした。

「ひっ……」

「や、山犬……っ」

「ひあっ!」

山伏達は恐怖による緊張の糸が切れた途端、絶叫して一斉に森の中へ逃げ出した。肢体を低めた山犬は一挙動で高く飛び上がると男たちを追って藪の中に消えて行った。

 僧は落ちていた小さな荷物を拾うと、呆然とへたりこんでいる少年に渡してやった。

「大丈夫かい、坊?」

少年は喋ろうとして声が出ず、こくりと頷いた。見上げた僧の顔は凛として美しく、静かな泉のように澄んだ目が印象的だった。少年は眩しげに目を瞬かせた。

差し伸べてくれた僧侶の大きな手に掴まり、立ち上がろうとしたが腰が抜けたのか、それも適わなかった。

「お山に用だったのかい? お前一人で?」

目慧の問いに少年はか細い声で、はい、と応えた。僧は訝しげに首を傾げたが、何も言わず頷いただけだった。そしてひょいと少年を抱き上げ、歩き始める。

寺までの道程は半分だったがこの険しい山道を、驚いたことに僧は子供を抱えたまま息ひとつ乱さず登りきった。僧衣に包まれたすらりとした姿からは想像がつかないほど、その身体は鍛え上げられているらしかった。


 少年はそれから目慧の身の回りの世話をするようになった。なぜ叡山に来たのか、どこの子供なのか、そういったことを目慧は一言も少年に訊かなかった。ただ、山門に入りたいという少年の願いには小さく首を振っただけだ。その理由は、目慧について回るうちにほどなく知れた。あの山伏のような無頼の者は勿論、髪を剃った幾人かの僧侶たちでさえ、少年を見る目にはおぞましいものが潜んでいたのである。それは少年に対してだけではない。目慧にまでも同じように注がれていたのであった。

「妖獣使いの君は今日もおこもりですか!」

そんな悪口もたびたび聞かされたが、彼はそんなものには目もくれず、日々を勉学に費やしていた。その凛とした厳しささえ感じられる目慧の姿に、少年は憧憬し、そして崇拝していた。

庵に帰って目慧は少年にさまざまな話をしてくれた。叡山を開いた伝教大師のこと。大陸のこと。この国の歴史など……それは少年にとって何よりも楽しい時間となった。ある日、思い切って山犬のことを聞いてみると、目慧は微笑してこう言った。

友なのだと。

「……遊学の途上で無頼者に襲われたとき、あれ()が助けてくれたのだよ……」

そして、つかず離れず目慧と山犬はこの山に棲んでいるのだった。

 山伏のあの怯えようや、邪な思いを抱く僧侶らが目慧に手を出せないのは、山犬の存在があるからだった。そして、その彼に師事する自分も、山犬と目慧に護られているのだと、少年は理解したのだった。

そうして、数年は山の外でさまざまな小競り合いがあったにせよ、少年は目慧のもとで平穏に暮らしていた。――あの、山攻めが始まるまでは……。


 永享七年二月。

山門は足利義教へ使節を送るが、全員が悲田院で斬首された。そして悪党が放たれ、延暦寺は焼き討ちにあう。

わああ、という怒号に目慧は飛び起き、庵の戸を開け放った。

「坊! 起きなさい!」

顔を軽くはたかれ、少年は目をあけた。開け放たれた戸から入ってくる赤い光に照らされた目慧の顔があった。彼は何年経っても少年を『坊』としか呼ばないのだ。

「目慧さま……?」

目慧は少年の枕元にあった着物を寝間着の上から着させ、手早く帯を結んでやりながら、厳しい表情で言った。

「坊。よくお聞き。ここにいたら皆殺しにされてしまう。森の中に逃げなさい。私は中堂を見て、あとから行く」

「……ほ、本当に来てくださいますか……?」

「うん。必ず。……さ、早く」

そうして悲鳴があがる本堂のほうに厳しい目をやり、微かに口笛を吹いた。

かさり。

「―――っ!」

闇の中から現れたのは灰色の巨大な犬。

赤く光るその双眸に、知らず少年は身体を震わせた。

「大丈夫だ。かれにしっかり掴まっておいで」

目慧は優しい笑顔を少年に向け、そしてぎゅっと抱きしめた。

「坊。死んではいけないよ。いいね」

少年は涙でいっぱいになった目で、一生懸命に師父である僧を見つめた。

遠く、崩れるぞ、という声が聞こえてきた。目慧は少年を担ぎ上げると山犬の背に放るように乗せた。そして一言、

「頼む」

山犬の首を軽く打った。山犬は首を翻し、恐ろしい速さで森の中へ駆け出した。

少年は振り落とされぬようしがみ付きながら、後ろを振り返った。

駆け戻っていく目慧の、その後姿は、あかあかと燃えさかる炎に包まれているように思えた。




 頬をくすぐる温かいものに目を開けた少年は、大きな犬の顔に仰天して跳ね起きた。

そして、辺りを見回す。洞窟のようだ。獣特有の臭いがしており、どうやらここが山犬のねぐらのようだった。そうして再び山犬に目を戻し、

「……おはよう。目慧様は……?」

きょろきょろとその姿を探してみたが、敬愛する僧の姿はどこにもなく……こころなしか、山犬の顔も沈んでいるように見えた。

「……目慧さま……っ!」

少年は外へ飛び出して行った。闇雲に走り出し、ほどなく木の根に足をとられてひっくり返った前に、跳躍して降り立った山犬が、着物の襟首を咥えて少年を立たせた。

「お寺まで、乗せてくれる?」

闇の中を逃げて来た道を再び戻る。山犬は繁みを軽く跳躍し、飛ぶような速さで森の木々のあいだをすり抜けた。

やがて、まだもうもうと煙をあげる延暦寺のすがたが見えてくる。繁みのぎりぎりまで近寄り、低く伏せた山犬の背から少年はなるべく身を低くして降りた。

無残としか言いようのない風景が広がっていた。美しく荘厳な寺は跡形もなく、真っ黒に焼け崩れている。仏塔も、建物という建物はみな破壊され、焼き尽くされていた。

「目慧さまは……確か、中堂を見てとおっしゃってた……」

少年は呟き、人がいないのを確かめると、繁みから飛び出し一目散に根本中堂に向かった。


 凄まじい臭いが鼻をついた。

少年は吐き気をこらえ、袖で口を塞ぎながら焼け落ちた根本中堂へと足を踏み入れた。ぐしゅ、と何かを踏み、何気なく足元に目をやる。

「ひっ……」

あげそうになった悲鳴を飲みこんで、床に転がるそれらを見渡した。

焼け焦げた死体が何十となく、折り重なるように倒れていた。凄まじい臭気はこれが原因だったのである。

「目慧さま……」

絶望がじわじわと覆い被さってくるようだった。少年は勇気を奮い起こし、そろそろと中へ入った。足元の焼けた死体は顔の分別さえつかない。それでも少年はただ一人の姿を捜し求めてひとつひとつ確認していった。

そして、すべてが焼け落ちた中で、まったく傷ひとつついていない巻物を見つけた。

「……っ!」

彼だ、と直感した。少年は飛びつくように巻物を拾い上げ、開いた。

「……目慧様のお手だ……」

では……。

巻物の傍、真っ黒に炭化した死体は、もうどちらが背で腹なのかわからないほどだった。少年はその黒い死体に手を触れた。

「目慧さま……あとから来るとお約束して下さったではありませんか……」

少年の目から大粒の涙がこぼれ落ち、目慧であったものに吸い込まれていった。

「だれだ!」

険しい誰何の声に、少年は反射的に飛び起き、中堂を飛び出した。

「待て、きさま!」

鎧をつけた武者が怒鳴りながら追ってくる。少年は巻物をしっかりと握りしめ、森へと走った。

「どこの子供だ……うわあ!」

少年に迫る武者の目の前に、山犬が飛び出し牙を剥く。男は悲鳴をあげ、くるりと背を向けて逃げ出した。山犬はすかさず少年を背に乗せると、跳躍して森の中へと消えて行った。

――それから、山犬は叡山に姿をみせることはなかった。




いつもありがとうございます。

もうそろそろ……そろそろ、なカンジです。

はい。ですので、もうしばらくお付き合いいただけましたなら幸いです。


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