7人目の疾走
夢中で駅を駆け抜ける俺の視界に、若いカップルが入り込む。柱に身を預けた女の子は、ハンカチで顔を覆い泣いていた。
その様子が未来と重なり、焦った俺はさらに速度を上げる。
未来にはああやって慰めてくれる彼氏が今はいないのだ。もっとひどい様子で泣き喚いているかもしれない。
ポケットに財布、手には携帯。それだけの荷物で俺はベルの鳴り響く電車に飛び乗った。扉に一番近いところに立って、目的地へ早く到着するよう、機械の箱に念じる。
時間を確認するために携帯を開くと、後輩からのメールが表示されたままになっていた。
『すんません。振られちゃいました。俺が悪いのはわかってるけど、でもやっぱきついっす。多分、一人で泣いていると思うから……先輩、よろしくお願いします。俺が行くよりきっとずっといいはずだから』
中途半端なメール。だが俺には後輩の言いたい事は痛いほど伝わってきた。
だからって後輩の肩を持つ気はない。高校の頃から付き合っている年上の女がいながら、大学進学で県外に行った途端、そこで次々と女を作って遊んでいたあの後輩の事など。
まぁ、優柔不断を絵に描いたような奴だ、そうなるのは自然の摂理なのかもしれない。
でも、後輩をそういう奴にした原因は少なからず俺にもある。その点については謝らねばならない。
『おい、未来今どこ? あいつから全部聞いた。家いんのか? 電話出ろよ』
俺はずっと未来の側にいた。悪友として親友として時に男として。
彼女はよく男女の友情に関して、俺のことを例に出し成立すると声高に言ったものだが、残念はずれだ。俺に関しては、少なくともはずれ。
俺はずっと、あいつが後輩と付き合う前からずっと……好きだったのだから。
だから知ってる。あいつが後輩の事どれだけ好きで、どれだけ傷ついていたのか。知っている。
そして後輩が、俺の思いに薄々勘付いていたことも。そのせいであらぬ妄想に苦しみ、彼氏としての自信を失いかけていたことも。知っている。
メールの返事は一向に来ない。
携帯といい電車といい、機械というものに俺の念力は一切通用しないらしい。……まぁ、人にも効いたためしはないけど。
どこかで野垂れ死んでんじゃねぇだろうな。全く気の強いところがあだになるっていうか、こういうとき絶対未来は人に頼ったりしない。だからこそ心配なのだ。
扉に設置された窓の向こうには、夜の闇とそれを照らすイルミネーションがひたすらに流れていく。光と闇の奔流を背景に、唯一つ動かない影のような姿。窓には、気弱そうに眉を下げた俺の顔が映っている。
俺は、最低なのだろうか。
あいつと後輩が別れたという知らせに、あいつを心配する気持ちよりもそれを喜んでしまう自分がいた。そんな自分の心に、俺はどう対処していいのか全くわからない。
それでも、奔流の中佇む俺の目は、あいつの事だけを見つめていた。
いきなり奔流が途切れ、気弱な俺もその姿を消す。
車内アナウンスが、待ちわびていた駅名を告げた。
急いで電車から降り、改札に向かって階段を駆け上がる。
携帯の発信履歴にいくつも表示された未来の名前を、もう一度選択した。
彼女の家の最寄り駅についたものの、あいつが素直に家に帰っているのかわからない。
居酒屋にいるかもしれないし、友人の家にいる可能性も……ないとは言えない。
コール音をBGMに階段を登りきるが、未来の応答はない。携帯の向こうでいい加減聞き飽きた女が留守番電話に接続する旨を俺に伝える。
舌打ちを返事に女を黙らせた。
未来に繋がらない役立たずの携帯をポケットにねじ込む。
どうしようか。
とりあえず、あいつの家に行って様子でも見てみるか……そう思ったとき。
――泣き声?
幻聴だろうか、未来の泣き声が聞こえるような気がした。
しかし周囲の人の様子を見渡すと幻聴ではないらしい。数人の人が立ち止まって辺りを見渡して、改札に向かっていた。
俺はその声の元を探す。
泣き声なんて、誰でも同じようなものかもしれない。でも俺には、泣き声の中に未来の周波数をかすかだが感じ取る。
この感覚はいつごろから身についたものだったか。
好きだから、といったらそれまでだけど、とにかく勘というかなんというか、わかるのだ。俺は。
姿無き声の発信源は、思いのほか早く見つかった。
証明写真の撮影機、である。その中から、あいつの泣き声は響いていた。
間違いない。
俺はカーテンを一気に引いた。
「未来」
やっぱり。
未来はその小さな空間で泣いていた。
目の周りを真っ黒にして、鼻を真っ赤にして、下唇を突き出して。
「……こんなとこで何泣いてるんだよ、全く……」
左手を機械に持たれかけ、未来の顔を思い切り覗き込む。けれどそれを嫌がる様子もなく黙ったまま未来は俺をにらみつけた。
「そっちこそっ、何で、いるのよ」
未来にとって俺に泣き顔を見られるのは初めてのことではない。
初めてではないとしても、多少の恥じらいはあるらしい。そのぶっきらぼうな話し方にはそれが少しだけ滲み出ていた。
「ん、全部聞いたよ、あいつに」
あいつ。未来の元彼氏で、浮気者の、俺たちの後輩。
「く、口が軽いんだから、もうっ」
しかめっ面をして悪態をつく未来は、いつも通りの彼女だった。
……その崩れた顔以外は。
「ほら、とりあえず帰るぞ」
未来の腕を取り、立ち上がらせようとする。しかし未来の体は思った以上に硬く、動かない。
「う……」
突然彼女は小さく呻いた。
「おい……?」
気分でも悪いのかと、つかんでいた腕を放し、彼女と同じ目線にしゃがみこむ。
「好きなの。本当は、結婚だってしたい。ずっと一緒にいたい……」
吐き出すようにそういうと、未来は両手でデニムのハーフパンツを握り締めた。彼女の顔もその手に向けられている。
赤くなるほど握り締められた拳は、その思いを俺に証明するかのようにぶるぶると震えている。
無性に、腹が立った。
いくら彼女があいつのことが好きだと知っていても、こう直接告白されるのは正直つらい。少しいらだった口調で俺は問い詰めてしまう。
「じゃあ、なんで別れたんだよ」
「だって……!」
髪が乱れるのも気にせず、未来は思い切り俺を見上げる。視線が合った途端、その顔は大きく悲しみに染まった。
「だって、無理なの。耐えられないの。他の女抱いてる彼許せなかったの。私そんなに大人じゃない、彼は年上ってことを勘違いしてる。私のこと全然わかってない。なんでも許してくれるのが年上だって。だから馬鹿なのよ、若いのよ。もう、さっさと忘れ去ってやるんだから」
そう一気に言い切ると、唇を噛み締めて、彼女はその悲しみに身を任せた。
わかっていた。俺は、誰よりも未来が年上の彼女としてのポジションに苦しんでいるのを知っていた。なのにそれを彼女の口から言わせてしまった。それがどれだけ辛い事か、彼女の顔を見れば一目瞭然なのに。最後の言葉だって、要はまだ忘れられそうにないという思いの裏返しに過ぎない。
「ごめん……。でも、あいつメールで言ってたよ。一人で泣いているだろうから、迎えに行ってくださいって」
「……何、それ」
興味のなさそうな口ぶりとは裏腹に、かすかに『元彼女』の顔が見え隠れする。
俺はまた、あの後輩の株を上げてしまったようだ。
ため息の代わりに、大きく息を吸う。
それら全てを吐き出すように、俺は思い切り立ち上がった。
「……よしっ! 飲むか、今日は! な」
「うう……奢って……」
そういうところはちゃっかりしている。好きな女に泣きながら言われたときたら、断れる奴がいるだろうか。
「しょうがないなあ」
今度は腕を掴まずに、右手を未来に差し伸べる。
彼女はデニムで一拭いした後、左手を俺の右手に重ねた。
キラリと光る薬指ごと、俺はそれを包み込む。
「最後まで付き合ってよ?」
「……しょうがねぇなあ」
湿った手のぬくもりに、頬が緩みそうになる。
しかし時折指先に感じる冷たい金属の感触が、それを見事阻止してくれた。
指輪。左手の薬指には、まだ指輪がしっかりとはめられている。
恐らく朝どころか明日の昼まで俺はつき合わされるに違いない。悲しいことに未来の方がずっと酒に強いのだ。しかも、泣き上戸。
いや、でもそれで未来の気が晴れるなら、大したことではない。
「優しいんだねぇ」
「え」
意外な未来の言葉に、不覚にも顔が熱くなる。いや俺は、そんな失恋の悲しさにつけこむような男ではない、はずだ。それでも未来の褒め言葉はめったになくて、俺は舞い上がる。いや、舞い上がりかけたところで、未来はきっぱり言い放った。
「――男なんて、身勝手で、中途半端に優しくて、でも結局は一番自分自身に優しいからもういらない!」
舞い上がりかけたところを一気に地面に叩きつけられる。
予想外の衝撃に少し(いや大分)へこみながらも、そうやって怒れる分元気があるのだと安心もする。ふらふらと歩く彼女を支えながら、喉元まで競りあがる言葉を、一生懸命飲み下した。
――俺が、いるじゃん。
改札を抜け、未来が行きつけの居酒屋を口にする。その左手は、確かに俺の右手を強く握り締めていた。
……薬指のリングもセットだけど。
最終電車を知らせるアナウンスが駅に響き渡る。
俺は未来と共に歩き出した。明日電車に乗り家に帰る事はできるのだろうか、と少し心配しながら。
最後までお目を通してくださり、誠に有難うございます!
一話目の主人公未来に戻ったところでjunctionは完結となります。電車やバス待ちのお暇つぶしに読んで頂けたら、これ以上幸いなことはありません!
ご覧のとおり、まだまだ未熟者です。修行の意味も兼ねて短編集、しかも恋愛含に挑戦してみましたが……。まだまだ課題は山積みです。
これからも精進して行こうと思います。
それでは貴重なお時間、有難うございました。