6人目の再会
「ご、ごめんね、祐樹くん……」
目の前では、真っ赤な目を桃色のハンカチで支えるようにして、渕上さんが泣いている。何で泣いてるのかって……俺にもわからない。
バイトから帰り道、改札の前で腕をつかまれた。驚いて振り向いたら渕上さんだった。
正直に言おう。そのとき一番に心に浮かんだ言葉は、『やばい』だった。
そしてそれは顔に出てしまったのだろうか、俺と目があった途端彼女は弾けるように泣き出した。
「いやまぁ……うん。大丈夫?」
改札前の柱のところで、渕上さんを覆い隠すようにして俺は立っていた。通行人から見れば彼女を泣かす駄目彼氏ってとこか。どうか知ってる人には目撃されませんように。
携帯片手に必死の形相で走っている男が俺らのほうにちらりと視線をやるのが見えた。あんなに走りながら人の事を注目する余裕があるなんて大したものだ。
まるで俺が泣かしてしまった悪い奴だと周囲の人に責められているようで、とても居心地が悪い。それをせめて彼女に悟られないようにしながら、俺は所在無く彼女を見守っていた。
渕上さんはもう何度目になるかわからない言葉をまた繰り返した。
「うん、全然大丈夫、もぉ〜私どうしたんだろうね? 本当迷惑だよねぇ。ごめんね……」
そういわれるとなんとも言い返すことが出来ない。そうだね、それじゃ、なんて言って立ち去る事も出来ない。それを狙って渕上さんはその台詞を口にしているのだろうか。だとしたらすごい女だな、と思う。彼女がそういう人間じゃないことは重々承知しているのだが。
二人の間に沈黙が流れる。
周囲の雑多な物音に、俺たちだけが取り残されていた。
渕上さんは、瞳から下をハンカチで覆って、鼻を少しすすった。その音だけが、俺たちの沈黙を少し和らげる。
渕上さんとこうして顔を合わせるのは随分久しぶりだ。けれど、渕上さんと最後に交わした言葉は今でもはっきりと思い出せる。
――だから、祐樹くんは私と仲良くしてくれたんだね。
あの時渕上さんは口元では微笑んでいたけど、泣きそうな顔をしていたような気がする。彼女の傷ついた様子に動転するばかりで、本当に泣いていたのかまではわからない。長い廊下を走って去る後姿を呆然と見送るしかなかった。あれは今年の春のこと。まだ桜舞う長袖の季節に、俺たちの交流は途絶えた。
もちろん何度も弁解しようとした。でもその度に、諦めた。
彼女は俺が近づくだけで体をこわばらせていたし、何より俺の方もうまい言い訳が浮かばなかった。彼女を友達として、一人の人間として好きだという感情は確かにあった、だけど何ではじめに話しかけたか。それはダチのため……。結局何を言っても逆効果に思えて、俺はそのまま時の流れに身を任せるしかできなかった。
「渕上さん……どうしたの? 渕上さんこの駅の近くに住んでたっけ?」
俺の記憶では彼女はこの駅の近くには住んでいなかったはずだ。悲しいことに俺は渕上さんのことを事細かに知っていたし、覚えている。それが俺が彼女に近づいた目的でもあったから。
思ったとおり彼女は首を横に振る。
多分、偶然なんだろうな。白のタンクトップに黒いスカートという出で立ちから見ても、たまたまこの駅のある町で用事があって、その帰りに俺を見つけた……ってところか。
でもそうだとしても何故、腕をつかんでまで引き止めたのだろう。
あのとき以来、ずっと避けられていたのに。
「……こうやって話すの。久しぶりだね……」
「あ。ん、そうだな……」
「もしかしなくても、あの日以来かぁ」
「……うん」
「私、告白なんてされたの生まれて初めてだったんだよー?」
笑いを含みながら、渕上さんは上目遣いで俺を見上げる。
「知ってる」
だって、渕上さんから直接聞いたし。そしてそれもきちんとダチに伝えたし。
俺は彼女の視線を受け止める事が出来ずに、彼女の立っている柱の向こうに目をやって答えた。
渕上さんが生まれて初めて告白された相手は、俺の親友でもある。そいつの気持ちは紛れもなく本物で、俺は純粋にそいつの手助けをしたいと思ってただけだった。
噂話の少ない、まじめなタイプの彼女に一番初めになんて話しかけたのかは、よく覚えていない。あまり男子生徒と話さない渕上さんは俺のなれなれしい態度を嫌がっていたのは覚えている。
「そんな事も言ったっけー私? うわー……恥ずかしいなぁ……」
彼女は、ははっとハンカチの下で笑ってみせる。
俺、渕上さんの恋愛話ならほとんど知ってるよ。言葉にせず心で呟く。
だけどその分渕上さんも俺の恋愛について詳しく知っているはずだ。二人でなんど盛り上がっただろう。少なくとも話しているときには『ダチのため』なんて意識はなかった。ただ一緒にいる時間が楽しくて、面白くて。でもそれは彼女にとって全部作り物にしか思えないのだろう。当然だと思う。
「……ごめん、な」
渕上さんの目が大きく開かれる。
やっぱりそれを直視する勇気はなく、俺は頭を下げた。
薄汚れたスニーカーと、薄汚れた床だけをただただ見つめていた。
「本当、ごめん。今さら何て言ってもいやな思いするだけだと思うけど、俺は本当に夏……渕上さんと友達として楽しく接してただけなんだ。だから……」
「渕上さん、か」
「え」
「だったら私も祐樹くんじゃなくて林くんって呼ばなきゃだめかな」
俺たちはお互いを名前で呼び合うほどに仲良くなっていた。それを知ったダチがぶち切れたのは言うまでもない。それでも俺は夏輝のことを友達としか思えないのは本当だったし、どうにか宥めたけれど。あの日以来、その名を呼ぶことすら封印してきた。
「いや俺なんてもう何とでも呼んでくれて構わないし!」
「ふふっ。じゃあ、私も。夏輝に戻してよ」
「う、うん……」
「ほら頭も上げて!」
いつのまにかハンカチをしまった夏輝は、もう泣いてはいなかった。その目元や鼻は赤く染まっているけれど。
「ね、覚えてる?」
「何を?」
「祐樹くん教えてくれたじゃん、春からこの駅の近くでバイト始めたって」
「そういえば、教えたかも」
そうか、ちょうど彼女と仲良くなった頃にバイトも始めたのだった。
「まだ、そこで働いてるんだね。今日は一か八かで来てみたんだけど、まさか会えるとは思ってなかったよ。改札口のところで祐樹くんの姿見つけたときは、本当に驚いて感動したんだから……って泣いちゃったけどさ」
肩まである髪が、彼女の動きと一緒にかすかに揺れる。
「でも、一か八かって……どうして? もうすぐ学校始まるし、会えるじゃん」
こうして夏輝と、形だけだとしても仲直りに近づけたことは嬉しい。それでも、そこまでして駆けつけてくれる夏輝の真意が俺には読み取れない。
夏輝は、その瞳をゆっくりと閉じた。長い睫の先は彼女の呼吸よりも早く震えている。
口元に、静かな笑みをたたえたまま、夏輝は口を開いた。
「私、転校するんだ」
一気に、夏輝以外の音が遮断される。
「こんな時期なのにね。親の都合ってやつで」
彼女の瞳は濡れているが、それでも一生懸命優しい形を保とうと頑張っている。あの時と同じだ。事が終わって、一人教室から姿を現して、ドアの前に立っていた俺に向かって最後の言葉を発したあの時と。
電車の発車を知らせる音で、俺の聴覚が生き返る。数人の走り出す靴音と、何か話す声。
突然の変化に少し意識が混乱した。やけに、通る声が耳に残る。
――間に合わない、今さら走り出しても。もう間に合わない……。
「本当はね、9月いっぱいは登校できるはずだったんだけど、急にそれもできなくなっちゃって。こないだの出校日が、事実上最後の登校になっちゃったんだ。それで……それで、ね。祐樹くんに、会って話したくて。あの時とか、それから後の態度ですごく傷つけちゃっただろうなって……思ってて」
両手を胸元で硬く握り締めて、震えながら謝る夏輝の言葉を俺は遮る。
「そんなことない。俺が悪いんだし。俺、夏輝の気持ち考えずに、接してて……本当に悪気はなかったんだ。お前と話しててすげぇ楽しかったしさ。でもだからって友達にその話全部伝えたりして、俺馬鹿だなぁって、お前怒るのも当然だわって思って……」
言いながら、自分の声がどんどん小さくなるのがわかる。どれだけ言葉を並べても、自分の気持ちなんて表しきれないし、今さらなんて言おうと言い訳に過ぎない。
両手が汗ばんでいてひどく気持ち悪くて、何度もジーンズにこすり付ける。
夏輝は静かに首を振った。
「そりゃ……傷ついたよ。私男の子にあそこまで心開いて話できたの初めてだったから。自分の過去の恋愛に興味持ってくれる人もいなかったし。純粋に嬉しかったの。だからそれが祐樹くん自身じゃなくて、お友達のためにっていう目的から来てたのかって思うと、私たちの友情っていうの? そういうの全部嘘なんだなぁって……思ったのも事実だよ」
夏輝の潤んだ瞳はまっすぐ俺を見つめる。
「でもさ……私、顔見て泣けるくらいに」
雫がほろり、重力にひかれて夏輝の白い肌の上を滑り落ちた。
「祐樹くんのことが好きなの……。だから、だから……結局、嫌いになんてなれなくて。友達としてでいいから、近くにいたくて。でも祐樹くんはそれすら嫌なのかもしれないって悩んでるうちに、転校が決まっちゃってさ……」
好き。好き?
あの日の、夏輝の悲しそうな顔が、目の前の彼女と重なる。そうだ、彼女は好きな人がいるといって友達をふっていた。それが、俺……?
夏輝の急な告白は、俺を混乱させた。夏輝が転校する? そして俺が好き? それを伝えるためにわざわざここまで?
体中が心臓になったように激しく打ち震えている。何を言えばいいのかわからずためらっている俺に、先ほどのハンカチであの透明な雫を拭い去った夏輝が笑顔で言った。
「それだけ! それだけ言おうと思って!」
耳に残る、音。あのとき駆けていた人は電車に乗れたのだろうか?
「本当迷惑だよね、ごめん。忘れてくれて構わないから」
走ったけど、間に合わなかったのだろうか。
それとも走りもせず次の電車にしたのだろうか。
それとも……走った事で無事乗ることができたのだろうか。
「じゃあ……それだけ、だから……じゃあ、ね」
夏輝はそっと柱から体を離し、俺の下を立ち去る。
待て、そうは思っても声にはならない。震えっぱなしの体はびくともしない。
俺はまた立ち尽くすだけで、夏輝を傷つけるばかりで、流れに身を任せるしかできないのか。
――走れば、間に合うかもしれないのに。
途端に固まっていた右足に感覚が戻る。
思い切りそれを前に踏み出し、体を回転させて、彼女の名を呼ぶ。
「夏輝! 俺は――」
改札口で振り向いた彼女の髪が、風に乗って舞い上がる。
そしてその瞳は、俺の言葉に引かれるようにまたも透明な雫をこぼすのだった。