5人目の加速
「所田と青葉ってさ、デキてんの?」
購買で買ったパンの袋を左右に引っ張りながら、伊智子が忌々しげに呟いた。
「さぁねぇ。でも、そうなんじゃない? この時期にあの様子だと」
私は親が作ってくれた弁当のから揚げを箸でつまみながら答える。ニート予備軍の恋愛事情なんて、興味はない。確かに、夏休みがあけた今、受験生にとっては本格的に追い込みの時期に入る。そんなときに休み時間も特に勉強する様子も見せず何やら親しげに話しているふたりが目に付くのは当然のことだ。
「うざいわー。本当。てかさ、聞いた? あの二人……」
「何?」
伊智子のパンの袋は未だに開かないらしい。引っ張られた袋の先がかすかに震えている。
「何か、夜二人で会ってるところを誰かが目撃したらしい、よっ!」
風船が破裂するような音を立てて、袋が弾けた。
皆が食事に夢中な教室では誰もその音に驚いたりはしない。
昼休みにも関わらず、早めに食事を済ませて、問題集を開く。
誰が一番に始めたのかはわからない。でも今ではほぼ全員がそうしていた。この単語集も二周目に突入し、数ヶ月前に入れたチェックを尻目に次々と解いていく。
しかし、私たちとは別に昼休みを十分に堪能する人間だってごく僅かだが存在する。
青葉伊鶴と、所田慶介。
噂によるとあの二人は大学受験をしないらしい。もし本当なら、最低だと思う。
この学校は進学校を銘打っているだけあって、普通の高校より倍高い授業料を支払わねばならない。大体入学試験だってかなりの難易度だ。
それだけではない。夏休みだって2週間しかなかった。あとは補習という名の授業で8月は埋まる。
それなのに、親の期待を全て無視し、学生としてのわきまえを放棄するような行為は、最低だと思う。
あの二人にニート予備軍というあだ名をつけた人間の才能を褒めてあげたい。
* * * * *
「後鳥羽上皇の地頭罷免要求が拒否された摂津国の荘園は何か?」
「長江荘・倉橋荘」
伊智子が軽く笑いながら答える。続いて彼女が問題集に目をやり、問いを読み上げた。
「承久の乱後、西国支配のために赴任した東国御家人を」
「西遷御家人」
彼女が言い終わる前に、答えてみせる。
私たちはこうやって問題を言い合いながら、塾の帰り道を駅まで歩いていた。これが日課とはいえ、私たちの間には常に緊張感が走っている。相手より先に、絶対間違った答えは口にしてはいけないという緊張が。
目指している大学も同じで、選択する科目も同じという私たちは、受験対策を相談する相手という以上に、良いライバルだ。絶対伊智子にだけは負けたくないという気持ちが、大学へ行きたいという思いよりも私を勉強へ駆り立てているといっても過言ではない。
そして伊智子も恐らく同じ。
「ね、今日はさ、市内の本屋行きたいんだ。この問題集も大分やりこんだし。次の買わない?」
「うーん……。どうしようかな」
今の時期に新しいものに手を出すよりは、今まで使っていたものをやりこむ方がずっと良い方法に思える。けれど心のどこかで『伊智子は買うのに?』というはっきりとした声が私を躊躇させる。
「とりあえず行くだけ行かない?」
「……そうだね」
まず問題集を見てみてから考えてもいいかも。
心の声に抗えず、私はあっさりと伊智子に続いていつもは通過する切符売り場へ向かった。
* * * * * *
市の中心地の駅は、ごった返している。
駅から近い市最大の本屋の参考書売り場を直進する。ずらりと並んだ赤本の横を通ると、背筋に嫌な汗が流れた。その前に立っている人全てが敵なのだ。心持早足でそこを通り抜ける。
その先の参考書売り場で、私たちは無駄話をしながら様々な参考書を手にとった。
伊智子が欲しがっていた参考書は、数学のもので、お勧め参考書としてどこかで目にしたことがあった。
私もそれをパラパラとめくりながらしばらく考えるが、結局はそれを戻す。
なんとなく、伊智子に勧められて買う、という状況が気に食わなかったのだ。
時計を見ると、時刻はもう10時を過ぎていた。私たちは今度は本当の早足で駅へ向かう。
しかし改札へ向かう途中、優しい声が耳をくすぐった。
ふと立ち止まり、その声の方へ目をやる。どこにでもいるようなストリートミュージシャンだ。
ギター片手に歌っている。その男性の前にはひとり髪の長い女性が座ってそれに聞き入っていた。
「弥重?」
伊智子の声で我に返り、そこから目を離す。
彼の声はそれでも私の耳から離れなかった。
* * * * * *
翌日。私は伊智子に適当な理由を言って、塾帰りひとりでまた市内の本屋に来ていた。
あれから一日。伊智子が持っている参考書を自分が持っていないことがひどく不安でたまらなかった。
急いで本屋に行き、同じ参考書を購入する。千円札数枚でこの不安から逃れられるのなら安いものだ。
しかしそれでも伊智子を誤魔化して買うのだから、つくづく自分は負けず嫌いだな、と思う。
その帰り道、また同じように駅で歌っている人がいた。
駅や周辺で歌っている人は数人いるが、彼の声が一番よく響いているように感じた。
歌も、やさしくゆっくりと心に響く。
私の足は自然とその人の方へ進んでいた。
近づくほどにはっきりとしてくる彼の輪郭。
ギターを走る指先。大らかに揺れる上体。歌の調子に合わせてかすかに宙を舞う短い髪。そして駅の屋根ごと月を貫くように歌い上げる姿。
私はその姿にすっかり見とれていた。
歌い終わったとき、男性の前にいた女性が拍手をした。つられて私も手を叩く。その音に黒髪の女性がこちらを振り返った。
黒目がちな瞳に、長い黒髪。リスのようなその顔には見覚えがあった。
「あ……青葉っ! さん?」
「……あれー。深水弥重さんだ」
「え、まじでっ?!」
歌っていたのは、所田慶介。ニート予備軍の彼だった。
* * * * * *
「まぁまぁ、遠慮なく! どんどん食べちゃって!」
私は二人に連れられてファミレスに来ていた。帰って勉強したいという私を無理やり連れ込んだのだ。ご馳走するから、という言葉で。
つまり、買収だ。『先生には内密にしてください』という、口止め料ってやつだ。
「いただきます」
遠慮なく目の前に置かれたハンバーグにナイフを入れる。
「でもまさか、クラスの人に見られるとはなぁ」
クラスの人。その言い方にムッとする。確かにそうだけど、この二人のいうクラスの人は私たちの言うそれとは大分違うように感じた。
「そうだねぇ、確かに驚きだよ」
「しかも、拍手してくれたし」
「やっぱり、あそこで歌うようにしてよかったなぁ」
「慶介は、歌上手だもの」
慶介。その響きに自分でも驚くぐらい肩がびくりと反応した。ナイフを入れた先から肉汁があふれ、まだ熱をもつ鉄板がじゅうと音を立てる。
隣の席には大学生のような二人組みが楽しそうに食事をしていた。目の前にいる二人も隣の二人と相違ない。私服のせいだ。制服を脱いだ二人はひどく大人っぽく見える。どちらも地味な格好をしているが、それでも制服を着ているときよりずっと大人びている。
何も食べていない二人の前で、制服でハンバーグを頬張る私。
歳も学校もクラスも一緒のはずなのに、どこか違う。
こんなところ、『クラスの人』に見られたらなんて思われるだろう。
ハンバーグを半分ほど食べ終えたところでナイフとフォークを一旦手から離した。
「あれっ、深水さんもう食べないの?」
所田が大げさに身を乗り出してハンバーグを指差す。
「もったいないな〜。深水さんって少食? だからそんなに痩せてるんだ」
「単に夕食済ませてただけだから」
「ああそっか……。塾行ってたんだ?」
当たり前でしょ、とだけ言い放ち、私は口をティッシュで拭った。安っぽいソースの色がくっきりと残る。ついでに腕時計を見るともう11時前だ。そろそろ帰らなくては。
「別に、こんなおごったりしなくても先生に言いつけたりなんてしないわよ」
「へ?」
所田と青葉が両方ともきょとんとした顔で私を見つめる。
「だから、チクんないって言ってんの」
「え? チクる気だったの?!」
「いや、違うけど、こうやって口止め料のハンバーグ奢るからさ、一言言っておこうと……」
「口止め料?」
その途端、所田が大きく首を振り、体を前に乗り出した。彼の息が顔にかかるほどの距離に近づき、私は少し動揺する。
「違うよ! 深水さん、俺の歌立ち止まって聞いてくれたでしょ?! そんな人初めてだから、嬉しくて、そのお礼だよ!」
口止めなんてとんでもないよなぁ、そう言って彼は振り返り、青葉に同意を求める。青葉はクスリと口元だけで笑い、そうねと答えた。
「まだまだ慶介は始めたばかりだから。奇跡に近いことなの。今日他にもね、サラリーマンが一人、一瞬立ち止まってくれたけどすぐに去っていちゃって。すごい良いスーツ着た人だったから、いい音楽ってやつが区別できるのかもね、やっぱり」
「でも、すごい、うまいじゃん……」
それに歌っている姿、かっこよかったし。その言葉は飲み込んだが、所田は両の目を大きく見開いて私の両手を強く握った。
「あ、ありがとうっ! そんな事言ってもらえる日がくるなんてっ……」
「うまくても駄目なの」
しかしその興奮を青葉が冷たく断ち切った。
所田は一気にしょげて、私の手をゆっくりと離し、背もたれのに身を預ける。
「上手いだけの人間ならごまんといるのよ。全く、あんたは深水さんを見習いなさい」
「え? 私? なんで……」
言っちゃなんだが私は音痴で、カラオケもここ1年避け続けている。そんな私のどこを見習うんだと苦笑すると、青葉は大真面目に言い放った。
「だって一生懸命、目標に向かって努力してるじゃない。塾やらなにやら。特にあなたと斉藤伊智子さんはクラスでも目を見張るほどの努力ぶりだと思うわ。比べて慶介は、最近ようやっと曲を作り始めたのよ。どうにかストリートで歌うようにはなったけど。うまいとか下手とかそれ以前に慶介には努力が足りないのよ。ねぇ、深水さんもそう思わない?」
そうなのだろうか。確かに青葉の言うとおりならば、努力不足の気がする。
「でも、歌の上手い下手って一種の才能じゃない、勉強と違ってさ」
「才能、ねぇ。それもあると思うけど……。努力しないことには絵空事をうそぶくだめ人間にすぎないのよ。路上で歌う事だって、初めは嫌がってたのよ、慶介」
彼らをニート予備軍とあざ笑っていた自分を棚に上げ、青葉の『だめ人間』という言葉の棘についつい反応してしまう。
「青葉……さん、随分冷たいんだね、所田君に」
似たもの同士なのに。いや似たもの同士だからこそ、なのか。
「うーん。というより、応援してるのよ。いや、イライラしているのかもしれない。才能とか夢とかそういう言葉に振り回されて、でも何もしない慶介に。折角こんなに歌も上手で、歌手になりたいという夢も見つけたのに、勿体ないじゃない」
思わぬところで所田の夢、しかも歌手になりたいという言葉が登場し、絶句する。高3の8月になってそんなこと本気で言っているのだろうか。
「歌手になりたいの……?」
「う、うん……。何その目……」
歌っているときとはまるで違う、自信のなさそうな顔で彼は一応肯定した。
私は、無理だよ、と言おうとしてやめた。
勝手にすればいい。ニート予備軍の考えることなんて知った事ではないのだから。
「俺だって無理だと思ってたけど、でも青葉がさ。とりあえずやりもせず諦めてどうする、っていうから、ギター猛練習して、ストリートで歌うようにしたんだ」
青葉が彼の言葉に付け加える。
「努力が報われるなんてわからない。だけど、努力しない事にはどうにもならない。スタートすらしないってことになるでしょ。結果はそれに多少比例するはずだから。大学も、夢も。深水さんはそれがわかってるからあんなに勉強してるのよ」
青葉の言葉は私を褒め称えていた。しかし、それが私には不愉快でたまらない。
これはいわゆる褒め殺しってやつで、実はけなしているようにしか聞こえないからだ。
「何かずいぶん偉そうに言うんだね?」
「え、そう?」
私の嫌味に全く反応をせず、素直に彼女は聞き返してきた。
隣で所田が苦笑して口を開いた。
「うーん。こいつね、こないだ雑誌に漫画送ってさ。なんか特別賞? みたいなの受賞して、デビューが決まったんだって! だからいちいち説得力があるんだよ」
「え……」
青葉は変わらぬ笑顔で微笑んだまま、頷いた。
ニート予備軍、の彼女はいつの間にか職を手にしていたらしい。
いきなり大人へぐっと近づいた彼女は、大した変化も無く話し続ける。
「でもだからって漫画家になれたとは思わない。高校の合間にね、プロのアシスタントに行ってるけど、私なんてまだまだだし」
それでもデビューだなんて、物凄い事ではないのか?
青葉には奢った様子も自慢する様子も無い。
私は心に浮かんだ疑問を、そのまま口にした。
「二人とも……受験しないの?」
思ったより弱々しい声になってしまい、自分でも驚く。
だがふたりは何の迷いも無くすぐに回答した。
「俺音楽系の専門行くよ」
「私はしないわ。これ一本でやっていくと決めたの。深水さんは?」
もしかして、このふたりは……なんていうか、馬鹿なんじゃないだろうか。
私は呟くようにして青葉に答えた。
「国立……」
その途端、二人の顔が驚きで輝く。クラスの人としては標準的な回答なのに、ふたりにとってはハイレベルな答えのようだ。
「すごい、さすが」
「すごくなんか……」
「どうしてそこを?」
――将来立派な法律家になろうと思って。
いつもは、そう答えている。こう言っておけば、大抵の人が良い反応を示すからだ。だけどこの二人の前では通用しない気がした。
結局は伊智子に負けたくないのと、安定した学歴が欲しいだけにすぎない。
「……」
答えられず俯く私に、二人の視線が容赦なく突き刺さる。
二人はいつも教室でこのような思いをしているのだろうか。夢に向かって、同じように努力しているにもかかわらず、大学進学をしないというだけで『ニート予備軍』と後ろ指を指される彼ら。
「あ、もう11時ね。そろそろ帰らないと」
そういって青葉はおもむろに立ち上がる。
言外に『がっかりだ』という響きを感じるのは私の勘違いであってほしい。所田もおろおろとしながらも、青葉に押され席を立つ。
「……待ってよ」
その言葉に二人がそのまま立ち止まる。
「悪い? 夢もなくいいところに入りたいって思ってるだけじゃ、駄目?」
悔しかった。
私は間違っていないはずだ。少なくともあの教室では、こういう風に肩身の狭い思いをするのは私ではなくふたりのはずだ。
しかしどうして、今ここで、負けたような間違っているような、嫌な思いでいっぱいにならねばならないのだ。
言い放った後、二人の顔を睨み付ける。
しかしふたりともまたぽかんとした顔をして、あっけらかんと答えた。
「悪くなんかないわよ」
「うん。むしろすごいよ、夢もないのにそんなに頑張れるの」
拍子抜けする。
これで決まりだ。このふたりは馬鹿だ。
でもただの馬鹿じゃない。馬鹿正直で馬鹿真っ直ぐで馬鹿純粋な……そういう馬鹿なのだ。
ニート予備軍というあだ名は撤回しよう。
「……私も結局は馬鹿ってことか……」
名づけるなら、馬鹿負けず嫌い?
張り詰めていた肩をほぐしながら、私も立ち上がる。
ふたりとも、よくわからないといった顔をしていたが、それでもすぐに伝票を手に席を離れた。
* * * * * *
「あ、やばい、もう電車来ちゃう。私先行くね」
切符を買ったのと同時に、私の乗る電車の名前が電光掲示板から姿を消した。
まだ買っている二人に別れを告げて私は走り出す。後ろから所田が叫ぶのが聞こえた。
「間に合わないんじゃない? 今から走ってもー!」
意識して聞くと、彼は随分通る、いい声をしていた。改札を通り抜け振り向かずに呟く。
「絶対、間に合うよ」
私の声はきっと改札の向こうまでは届かないだろう。
傍から見ると馬鹿のように必死に走り、ホームへ向かう。
ホームに降り立つと、ちょうど電車が停車したところだった。
ほら、一生懸命走れば、電車に間に合うくらいはできるんだから。
電車に乗ってしまえば、同じ。駆け込み乗車も、10分前から並んでいた人も。
どういう過程でも、どんなにかっこ悪くても、乗っちゃったもん勝ちだ。
私はそのままのスピードで電車に飛び乗った。
『5人目の加速』は、実は他の短編のシリーズもののため、本作の中では一番の長さになってしまいました。それにも関わらず、最後まで読んでくださった方には深く感謝申し上げます。
青葉伊鶴の偉そうな物言いに興味を持ってくださった方がいらしたら、『チバリヨウ』や『反転する世界にただ恋をして。』という短編にも彼女は登場しているので是非ご覧下さい。(所田慶介は前者のみです)
それでは貴重なお時間誠に有難うございました!