2人目の人間
ヒールの高いサンダルは、走ると甲高い音がする。周囲の人が顔をしかめるのと同じように、あたしだってこの嫌味な音が大嫌い。だから普段はなるべく音を立てないようにして歩くけれど、今はそうも言っていられない。そんなことしていたら電車乗り遅れちゃうから。
右、左、右、左。転ばないよう、ケータイの時計とにらみ合いながらも精一杯走る。
証明写真の機械の前を通ったところで、明らかにおかしな声がした。
女の人の泣き声だ。カーテンの隙間から、白い綺麗な靴と細い足首が覗いていた。
……泣いている、中で誰かが。
右足、を出す前に、あたしは動きを止める。
右手に握っていたケータイを見ると、電車が来るまであと1分。ここから階段まで走って、降りて……。瞬時にあたしに残された時間を計算する。だめ、間に合わない。あたしはすぐに右足を前に出して、また走り出した。その音が、泣き声を踏み潰すようにしてかき消した。
駆け込み乗車は危険ですというアナウンスを無視して、閉まりかけたドアに強引に体をねじりこむ。周囲の人の嫌な顔を横目に、無理やりに電車の中側にまで移動した。相変わらずこの満員電車には辟易する。はぁ、とひとつため息をつくと、隣に立っている女性がちらりとこちらを見た。
仕事帰りのOLといった風体のおばさんに、あの細い足首を思い出す。高そうな靴を履いていた。あの中で泣いていたのも、このおばさんくらいの女性なのだろうか。
……何で泣いていたんだろう。あんなところで、ひとりで、大声で。何かを失ったのだろうか、恋人とかお財布とかケータイとか。彼女の泣き方はそういう感じだった。そしてあたしは最低だ、電車なんて10分も待てば次のが来るのに、結局自分が大事なのだ。泣いている彼女を放っておいてまで電車に乗ったのだから。嫌な女。最低な人間。この電車に乗っている人間の中で一番最低だよ、あたしは。
電車が本格的に速度を上げ、あたしの体も大きく揺れ始めた。隣のおばさんやサラリーマンと体がぶつかり、剥き出しになっている肌に蒸れた肌が触れる。
鳥肌と共になんともいえない苛立ちがあたしを襲う。
それから逃れようと、右手に固く握っていたケータイを開いた。
『満員電車まじきついよ〜。もぉ、皆いなくなればいいのに! 早く、ヒロに会いたい』
そこまで打って送信する。
送った後に見直すと、自分の最低さがありありと表れているメールに少しおかしさを覚えた。やっぱりあたしはいつでもどこでも自己中心的なのだ。
すぐに返信が来る。
『皆サン仕事でお疲れなの。そんなこと言わず、頑張れ! 駅では俺が待ってるしさ!笑』
ヒロの返事に、一気に癒される。そうだ、ヒロはいつも改札の前まで迎えに来てくれる。もしそのお迎えがなければ、ううん。ヒロという最愛の彼氏がいなければ、あたしはこの箱の中でとうの昔に死んでいただろう。
ふと、あの痛々しい泣き声が耳元によぎる。
『ありがとう。ヒロ、これからもずっと、迎えに来てくれる? こんな最低なあたしだけど』
送信ボタンを押しながら、もう一度読み返す。
ずっと、なんて。重かったかな。重いよね。
しかもなんかウザい。『最低なあたし』なんて言われた方は迷惑極まりないに違いない。
やっぱ送るのやめよう!
しかし、取り消そうとしたときには既に送信済みの画面が表示されていた。色々ボタンを押したせいで隣のおばさんに強く肘が当たってしまい、おばさんも負けじと押し返してくる。そんな満員電車では当たり前の現象も、ひどくあたしを落ち込ませた。
どうしてだろ、今日はいつもよりも車内が息苦しく蒸れているように感じる。メールなんて、後悔するくらいなら送らなければよかった。
そう思ったときに、ケータイ画面がメールの受信を知らせた。
『当たり前。最低でも何でも、大好きだよ。てか最低じゃないけど。最低だって自分のこと嫌いだって思えるうちは、まだ最低じゃないよ。多分。てゆーか、俺以外の男が迎え行くとか許せんし! それよりお前可愛いんだから、痴漢とか気をつけろよ?』
ヒロのメールに、強張っていた頬が優しく解けて、あたしは自然と微笑んでいた。
そして同時に少し悲しくなる。
最後の一文。やっぱりヒロも自分中心に物事を考えているのだ。それが人間というやつなのかもしれないけど、目の当たりにするとやはり切ない。それともあたしの考えすぎ、かな。
でも。その自己中が、こんなにも嬉しいなんて人間というのは困ったものだ。
今のあたしの心の中は、ヒロに早く会いたいという気持ちで溢れかえっているのだから。
ヒロの胸の中で、彼女の事を話そう。証明写真の撮影用機械のなかで、ひとり泣いていた女の人の事を。そしてせめて彼女に、ヒロみたいな人が迎えにきてくれるようにと願おう。たとえあたしの独りよがりな偽善でも。
その途端、電車がカーブに差し掛かり大きく揺れる。隣にいたおばさんはバランスが取れなかったのだろう、思い切りあたしに圧し掛かってきた。重い。けれど強引に押し返す事はせず、自分の体でしっかりと支えてやる。先ほどまで肘を押し合っていたあたしにしては上出来な反応だと思う。しかしおばさんはそれに気づいているのかいないのか、すぐにつり革につかまってあたしから離れた。
ま、気づくわけはないよね。彼女のおかげで少し足首が痛くなったあたしは、どうせならやはり押し返せばよかったと胸の中で毒づく。
あたしの親切なんて、あってもなくても同じなのかもしれない。独りよがりなあたしなんか……。
「すいません」
声の方に顔を向けると、今しがた支えてあげたおばさんだった。それだけではない、おばさんは合わせて目礼までしてくれた。
あたしは思わず微笑んで、とんでもないですと答える。すぐにおばさんは視線を前に移したが、彼女の声はずっとあたしの中で響いていた。
よく、わからないけど。たかだかおばさんの一言がとてつもなく胸に染みる。
――人間って、やっぱそういうものなのかもしれない。
目的の駅まであと3つと迫っていた車内は、何故か先程よりもすがすがしい空気で満ちていた。




