1人目の別れ
大してなんとも思っていないような顔をして、彼に別れを告げた。
「ばいばい」
ふっと笑って笑顔の横に右手を上げ、優しく揺らしてみせる。
私の目はきっと今、三日月の形をしているだろう。作り物の笑顔の形。
「ほら。そろそろ電車来るよ?」
彼の後ろに見える電光掲示板に取り付けられた時計は30分を指していた。電車の出発時刻は32分。本当に、もうすぐ行ってしまう。
時計を見ている振りをして、彼の顔を盗み見る。それは一言で言えば『複雑そうな』顔。眉をしかめて、口を真一文字に固く結んで。その瞳は私を見ているようで周囲を見ているようで、うろうろ落ち着かない。それこそが彼らしさ、なのだ。うろうろ、ふらふら落ち着かない可愛い男の子。その可愛さに、守ってあげたくなるようないじらしさに、惹かれたのだから。
「……俺」
「じゃあね」
「待って」
私はゆっくりと首を振る。今ここで二分間話し合ったところで何になるだろう。
電車を待つ列の最後尾にいたはずの私たちが、いまや列の中盤に位置している。それほどの時間を沈黙で費やしたというのに、二分間で何が生まれるというのだろう。
あなたのその可愛い瞳に私は何度決心を揺るがされたことか。でももう、それに区切りをつけなきゃいけないのだ。
「俺たち、もう……だめなの?」
とんでもない風圧と共に、ホームに飛び込んできた電車の音が彼の言葉をかき消す。
私は聞こえない振りをした。
「じゃあ、元気で」
「待っ……」
電車からたくさんの人が溢れて、彼はその波に飲まれた。ふわふわとした彼は波に逆らえない、それに漂うだけ。たくさんの人の肩にぶつかり、舌打ちをされ、にらまれながらもしっかりと立っている私とは違う。違うのだ。
出てくる人の波がやんだら、今度は席取り合戦に走る人の波に彼は引き込まれた。いや、引き込まれそうになっていた。
「――」
飲み込まれる寸前に彼の口が、私の名前を象る。
でもそれも波に飲み込まれ、ふらふら、うろうろ。消えていった。
私はその消える姿を見送ることなく、人でごった返す電車に背を向けた。
振り向いてはいけない。 立ち止まってはいけない。
階段を駆け上った後も、足元だけを見てひたすら歩く。手を強く握り、腕を大きく振る。俯きながら、とにかく前進していた。
改札の方向に向かっているのか、それもよくわからない。
たくさんの人とぶつかりながらも、それでも歩き続ける。とにかく、止まっちゃ駄目だ。その強迫観念だけが私を歩かせていた。進まなければ、囚われてしまう。何に? 何かに。
何かを考えるのは大事ではない。今は無心で歩き続ける事が重要だ。
その私のつま先に、白い壁のようなものが立ちはだかった。
いきなり進むべき道を塞がれて、私は立ち尽くす。
立ち尽くした私の足元に、待ってましたとばかりに雨が降る。
――いつの間にか泣いていた。
ぼとぼとと、私の涙が自重に耐え切れず落ちていく。
顔を上げると、世界で一番不幸な女の顔が目の前にあった。
……鏡。証明写真をとる機械の鏡だ。涙はぽろぽろと止まることを知らない。
私はその小さな箱に飛び込んで、カーテンを引く。そして溢れるものに身を委ねて、大声を上げて泣いた。
彼の呼んだ私の名前。ふわりふわりと私に絡みつき、離れない。
それどころか私の心臓をゆっくりとでも確実に締め付ける。
だから、止まってはいけなかったのに。
発車を知らせるベルの音が遠く小さく鳴り響いていた。