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「君との婚約を破棄する!」と王太子殿下は宣言しました。――なお、婚約は破棄されておりません

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/07

「クラリッサ! 君との婚約を――」


鏡の前で、王太子ルシアンは右手を前に突き出したまま止まった。


「違うな」


扉のそばで書類をめくっていた側近筆頭のギルベルトが、顔を上げた。


「何がです?」

「ここは一度、目を伏せた方がいい」

「何の話です」

「悲痛さが出る」

「ですから、何の話です」


ルシアンは、鏡に向かって目を伏せた。

長いまつげが、頬に影を落とした。我ながら完璧だった。


「百年後の役者が困るだろう」

「殿下」


ギルベルトは、書類を閉じた。


「何をする気です?」

「秘密だ」

「殿下が秘密と仰るときは、だいたい碌なことがありません」

「今回は違う」

「前回もそう仰いました」

「前回は何だった」

「噴水に金魚を三百匹放して、全滅させました」

「あれは金魚が弱かった」

「真冬でした」


ルシアンは、鏡の中の自分に向かって微笑んだ。


「ギルベルト。明日の卒業記念祝賀会、俺が何か言ったら、合わせてくれ」

「内容は」

「秘密だ」

「合わせられません」

「合わせろ」


ギルベルトは、長い沈黙のあと、言った。


「……せめて、方向性だけでも」

「歴史に残る」

「それが一番怖いんです」


   ◇


ルシアンには、夢があった。


百年後、王立劇場の大舞台で自身の活躍が演じられ、民衆に讃えられ続けること。


緞帳が上がる。若き日の王太子ルシアン――を演じる、とびきりの美男俳優が、舞台の中央に立つ。


その向かいには、冷たい目をした公爵令嬢。身分を笠に着て、平民の才女を虐げてきた悪女。

王子は、苦渋の表情で目を伏せ、そして告げるのだ。


『君との婚約を、破棄する』


そして王子は、震える平民の娘に手を差し伸べる。身分を越えた、真実の愛。

客席から、すすり泣きが漏れる。


カーテンコール。総立ちの客席。

劇場の外では、吟遊詩人がその歌を歌い、子供たちが王子の真似をして遊ぶ。


――完璧だ。


悪女役は、婚約者のクラリッサだ。

クラリッサには、少し悪いと思っている。少しは。

だが、最終的に自分が歴史的英雄になれば、彼女も「殿下の伝説の一部になれた」と感涙するだろう。たぶん。


ヒロイン役は、ノーラだ。

王立高等学院の平民特待生。天才技術者。いつも油の匂いがしていて、敬語を使わなくて、ルシアンを見ると「あ、王子だ」と言う。

身分違いの恋の相手として、これ以上の配役はない。


唯一の懸念は、側近たちだった。

あいつらは、ルシアンが何か素晴らしいことを思いつくたびに、「殿下、それはやめましょう」と言う。なぜか毎回、心配する。


だから今回は、細部を教えない。

「俺が話したら合わせろ」。それだけでいい。


ルシアンは、満足して眠った。

夢の中で、吟遊詩人が三人、ルシアンの歌を歌っていた。


   ◇


卒業記念祝賀会の大広間は、シャンデリアがきらきらしていた。


来賓は、高位貴族、教師、王族の縁者、それから各家の保護者。

クラリッサは窓際で友人たちと談笑していた。ノーラは料理台の前で、厚切りのローストビーフを三枚まとめて皿に載せ、四枚目をどうするかで真剣に悩んでいた。ギルベルトは壁際で、式典の進行表と時計を見比べていた。


ルシアンは、大広間の中央に進み出た。


(最高の舞台だ)


楽団に目配せをすると、楽団長は何も分からないまま、とりあえず演奏を止めた。


「諸君!!」


全員が、こちらを見た。


「今日という晴れの日に! 諸君にも、どうしても見届けてもらわなければならないことがある!」


大広間が、静まった。

ルシアンは、一呼吸置いた。シャンデリアの光が、ちょうどいい角度で自分の髪に当たっているのが分かった。


(来た。歴史が動く瞬間だ)


脳裏で、百年後の緞帳が上がった。

客席が、息を呑んでいる。


「クラリッサ!!」


窓際のクラリッサが、振り返った。


「君との婚約を、破棄する!!」


大広間が、静まり返った。


ルシアンの予想では、ここで悲鳴が上がる。クラリッサが扇を取り落として、震える。

ざわめきが、波のように――


クラリッサは、扇を取り落とさなかった。

首を傾げただけだった。


「……今日は、それですの?」

「何だその反応は!」

「いえ。今月は何を始めるのかと思っておりましたので」


どこかで、誰かが噴き出した。


「先月は、王宮の噴水の金魚でしたわね」

「金魚の話はするな!」

「その前は、確か、詩集の出版でしたかしら。全三百頁、全部殿下ご自身を讃える詩の」

「あれは売れた!」

「王宮が買い上げましたのよ。全部」


ルシアンは、咳払いをした。

大丈夫だ。悪女は最初、往生際が悪いものだ。


「クラリッサ・ヴァレンシュタイン! 君は公爵令嬢という身分を笠に着て、平民の特待生ノーラを虐げてきた!」


大広間が、今度こそざわめいた。

ノーラが、ローストビーフを頬張ったまま顔を上げた。


「そうだったかしら」

「そうだ! 先月の三日、君はノーラを、学院の東階段から突き落とした!」

「その日は、父と領地の南部で農地の視察中ですわ。王都に戻ったのは五日です。学院どころか、王都にもおりません」

「……なら、別の日だ!」

「罪状の日付が、被告の指摘で変わる裁判。初めて拝見しましたわ」

「これは裁判ではない!」

「それは何よりですわ。裁判でしたら、殿下が最初に退場させられておりますもの」


大広間のあちこちで、扇で口元を隠す人が増えた。


ルシアンは、負けなかった。


「動機ははっきりしている! 君は俺を愛するあまり、ノーラに嫉妬したんだ!」

「まあ」


クラリッサは、扇を半分だけ開いた。


「罪だけでは足りず、私の感情まで勝手にお作りになるのですね。殿下の頭の中の私は、ずいぶん多忙ですこと」

「多忙ではない! 一途なんだ!」

「どちらにしても、私は存じ上げない方ですわ」


ルシアンは、一歩前に出た。


「いいのか、クラリッサ! このままでは、君は俺を失うことになるぞ!」

「失う以前に、所有した覚えがございませんわ」


ルシアンが、止まった。

一瞬だけ、本当に止まった。


それから、両手を広げた。


「民衆は! この真実を知れば、涙するだろう!」

「ええ。このまま続けてくだされば、笑いすぎて泣く方なら、出てきそうですわね」


後ろのほうで、誰かが咳き込んだ。咳にしては、長かった。


ルシアンは、ノーラのほうへ向き直った。


「ノーラ! 君は、彼女を恐れて真実を言えないんだな!」

「え? 普通に言えるけど。ていうか私、落とされてないよ?」


ノーラは、ローストビーフを飲み込んで言った。


「階段から落ちただろう!」

「あれ自爆。図面見ながら降りてて、三段目でコケたやつ。膝すりむいただけ」

「脅されているんだ!」

「誰に?」

「クラリッサに!」


ノーラは、窓際のクラリッサを見た。


「え、クラリッサ、私のこと脅した?」

「しておりませんわ」

「だよね。じゃ、それ嘘じゃん」

「本人に確認するな!!」


   ◇


ルシアンの頭の中で、百年後の客席が、なぜか少しざわついていた。

すすり泣きのはずが、何人か肩を震わせている。いや、あれは感動で震えているのだ。たぶん。


ここは、一番の見せ場で巻き返すしかない。


ルシアンは、大広間の中央を横切って、ノーラの前に立った。

片膝をつきかけて、床が大理石なので膝が痛そうだと思い直し、少しかがむだけにした。


「ノーラ。俺は身分を越えて、君を妃として迎える!」

「やだ」


一拍、空いた。


「……」

「……」

「……何と?」

「やだ」


ノーラは、皿を持ったまま、普通の顔で言った。


「まだ最後まで言ってない!」

「妃でしょ?」

「そうだ!」

「やだ」

「三回も言うな!」

「大事かなと思って」


大広間の後ろのほうで、さっきの誰かがまた咳き込んだ。


ルシアンは、立ち直った。立ち直りの早さには自信がある。


「ノーラ。無理をするな。王妃になれるなんて、全女性の憧れではないか」

「えー、無理無理」

「なぜだ!」

「だって王妃って、外交するんでしょ?」

「する」

「舞踏会も?」

「ある」

「毎日、知らない人とずっと喋る?」

「まあ――」

「無理じゃん」

「努力しろ!」

「その努力する時間あったら、揚水機一台直して、浄水器二個試して、脱穀機のギア一個削れるって」

「なぜそんなに具体的なんだ!」

「今日やる予定だったから」


ノーラは、ローストビーフの四枚目を、結局皿に載せた。


「それにさ。今作ってる小型の揚水機、量産できたら、乾燥地帯でも畑増えるじゃん。毎朝、水汲みだけで何時間も潰れてる村が、その時間で別のことできるんだよ。浄水器が安くなったら、お腹壊す子供も減るし。普通に何万人も助かるよ」

「王妃として政務を行うより?」

「余裕で」


窓際から、クラリッサの声がした。


「殿下。国益でも負けましたわね」

「俺と揚水機を比べるな!」

「今んとこ、揚水機かな。浄水器もかな」

「増やすな!」


ノーラは、首を傾げて付け足した。


「あ、でも王室にはマジで感謝してるよ。奨学金なかったら、私いま実家の鍛冶屋で鍋直してるし。だから返すって。王妃じゃなくて、作れるもので。水とか、食べ物とか、普通に暮らすのに要るやつ」

「そうだろう! なら、俺への恩は――」

「だから、技術で返す」

「俺への愛で返してもいいんだぞ?」

「なんで?」


大広間が、静かになった。

悪意のない「なんで?」は、悪意のある言葉より、よく通った。


「今の『なんで?』」


クラリッサが、扇を閉じた。


「本日一番、刺さりましたわね」


   ◇


壁際で、ギルベルトは進行表から目を上げていた。


ここまでは、まだよかった。

笑いが起きている。来賓の何人かは、どこかの家の余興だと思って楽しんでいる。


だが、ルシアンは息を吸っていた。

まだ続けるつもりだった。


ギルベルトは、大広間を見回した。


最前列のヴァレンシュタイン公爵が、笑っていなかった。

扇の陰で笑う来賓たちとは違う顔で、娘とルシアンを見ていた。公爵の顔ではなかった。父親の顔だった。

学院長の顔から、色が抜けていた。

王妃陛下の侍従長が、手帳を開いて、ペンを走らせていた。

高位の貴族が二人、顔を寄せて小声で何か確かめ合っていた。さっきまで笑っていた伯爵夫人が、笑うのをやめて、扇を閉じた。


――これは、本当に、余興ではないのではないか。


その空気が、大広間の端から広がり始めていた。


あと十秒続けば、国家事故になる。


ギルベルトは、三秒で決めた。


終了。


ルシアンが、口を開いた。


「クラリッサ、君が認めないのなら、俺にも考えが――」


ギルベルトは、大股で大広間の中央へ出た。

ルシアンの肩を掴んで、一歩、横へどけた。


「おい」


無視した。


ギルベルトは、大広間に向かって両腕を広げた。

いつもの事務的な声ではなかった。劇場の呼び込みのような、腹の底からの大声だった。


「はい!! 会場の皆様!! ここで種明かしでございます!!」


全員が、ぎょっとしてギルベルトを見た。

ルシアンも、見た。


「は?」

「ただいまご覧いただきました、一幕――」


ギルベルトは、一呼吸だけ置いた。


「実は!! 王立劇場で近日上演予定の新作喜劇!! その、特別予告でございました!!」


大広間が、凍りついた。


「……は?」


ルシアンの口から、もう一度、間抜けな声が出た。


ギルベルトは、止まらなかった。


「そして今回はなんと! 王太子殿下ご本人! クラリッサ・ヴァレンシュタイン公爵令嬢! 学院が誇る天才特待生、ノーラ嬢! 御三方に、特別出演いただきました!!」


ギルベルトは、自分で拍手を始めた。

誰もつられなかった。ギルベルトは、一人で拍手を続けた。


窓際で、クラリッサが一瞬で状況を理解した顔をした。


「まあ。予告でしたのね」


それから、ギルベルトにだけ聞こえる声で言った。


「あとで、お話がありますわ」

「何時間でも」

「貸しですわよ」

「十個でも構いません」


クラリッサは、優雅に膝を折って、来賓に一礼した。

ぱらぱらと、拍手が起きた。


ノーラが、皿を持ったまま手を挙げた。


「え、私も出演者?」

「はい」

「ギャラ出る?」

「出します」

「じゃ、出演した」

「助かります」


ノーラも、ぺこりと頭を下げた。拍手が、少し増えた。


ルシアンは、ようやく我に返った。


「待て! これは俺の――」


ギルベルトの手が、もう一度ルシアンの肩を掴んだ。

力が、強かった。


「殿下! 素晴らしい演技でした!」

「演技では――」

「素晴らしい演技でした!!」


ギルベルトは、満面の笑みのまま、ルシアンの耳元に顔を寄せた。


「今もう一言しゃべれば、明日の朝から王宮会議です。議題は殿下です」

「……」

「ご理解、ありがとうございます」


   ◇


大広間の来賓が、全員、本当に信じたわけではなかった。


「……芝居?」

「本当に?」

「ずいぶん趣味の悪い予告だな」

「でも、王太子殿下ご本人が?」


半信半疑の囁きが、あちこちで交わされていた。


ただ、高位の貴族ほど、計算が速かった。

今ここで、これを本物の醜聞として追及するか。それとも、側近筆頭が差し出した「芝居でした」という板に乗るか。

乗ったほうが、全員、得をする。


ヴァレンシュタイン公爵は、ギルベルトの目を一瞬だけ見て、それから大きく手を叩いた。


「いやあ、見事な予告だった! 娘があんなに芝居が上手いとは知らなかったぞ!」


公爵が手を叩けば、侯爵も叩く。侯爵が叩けば、伯爵も叩く。

拍手が、大広間を一周した。


王家と公爵家の正式な話し合いは、翌日以降に回された。

その場で起きたことは、とりあえず、全部「芝居」になった。


「では、出演者の皆様! このまま、打ち合わせがございますので!」


ギルベルトが、声を張り上げた。


「俺はまだ――」

「殿下はこちら」

「私もですの?」

「お願いします」


ノーラが、皿を掲げた。


「このローストビーフ、持ってっていい?」

「皿ごと、どうぞ」

「最高」


四人は、拍手の中を、大広間から退場した。


   ◇


控え室の扉が閉まった瞬間、ルシアンは叫んだ。


「ギルベルト!! なぜ止めた!! 俺が話したら合わせろと言っただろ!!」

「内容を聞かされていません」

「歴史に残ると言った!」

「残りかけました。かなり悪い方向で」

「俺の歴史的美談を!!」

「殿下。あと十秒遅れていたら、殿下の歴史に『廃嫡』が加わっていました」

「……」

「喜劇と廃嫡、どちらがよろしかったです?」

「……どっちが歴史に残る」

「廃嫡です、しかも最低最悪の汚点として」


ルシアンは、黙った。


クラリッサが、椅子に腰かけて、扇で自分をあおいだ。


「それで、ギルベルト。予告ということは、本編がありますのね?」

「……」

「ありますのよね?」

「今から作ります」


ノーラが、皿の上のローストビーフを切りながら言った。


「ギャラ、いつ出る?」

「本編が上演されたら」

「じゃあ、本編作って。早めに。浄水器の部品、待ってるから」


ギルベルトは、懐中時計を見た。

夜の十時を回っていた。


「……行ってきます」


   ◇


王立劇場の楽屋口の扉を叩いたのは、夜の十一時だった。


扉を開けたのは、看板劇団の座長、マルセルだった。

四十過ぎの、派手な刺繍の上着を着た男だ。片手に台本を、もう片手にワインのグラスを持っていた。


「あれ! 王子のとこの側近くんじゃん! どしたのこんな時間に!」

「座長。大変なことになりました」

「なになに? 結婚? 不倫? 決闘?」

「そのどれでもありません」


ギルベルトは、楽屋の椅子に座って、手短に事情を話した。


マルセルは、途中でワインのグラスを置いた。


「待って待って」

「はい」

「王子が?」

「はい」

「卒業パーティーで?」

「はい」

「勝手に悪女作って?」

「はい」

「公開で婚約破棄やって?」

「はい」

「で、婚約者の公爵令嬢には毒舌で全部返されて?」

「……はい」

「平民の女の子には、その場で二回振られて?」

「……はい」


マルセルは、天井を見上げた。


「何それ!! 超面白いじゃーん!!」

「国家事故です」

「国家事故って言葉、ポスターに入れようよ!」

「入れません」

「えー!」


マルセルは、もう台本の裏に何か書き始めていた。


「三日で、形にしてください」

「三日!? ヤバ!」

「無理ですか」

「めっちゃ燃える!」

「そっちですか」


「条件があります」

「来た来た!」

「まず、殿下を悪人にはしないでください」

「了解!」

「救いようのない馬鹿にも」

「そこ難しくない?」

「難しくしてください」

「注文強っ!」

「クラリッサ様の名誉は、絶対に守る」

「そこは当然! あの子、絶対いい台詞持ってるもん!」

「ノーラ嬢も、悲劇の被害者扱いにはしない」

「じゃ、普通に揚水機持たせよ!」

「なぜもう演出が決まっているんです」

「あと公爵家も王室も笑いものにしない、でしょ?」

「……なぜ分かるんです」

「顔に書いてある!」

「それで、ちゃんと笑わせてください」

「一番難しいやつ最後に言うじゃん!」

「私の今後がかかっています」

「燃えてきた!」

「私は燃えてほしくないです」


マルセルは、ぱちんと指を鳴らした。


「じゃあさ、王子は悪人じゃなくて、『世界中が自分を愛してると本気で思ってる、めちゃくちゃ前向きな王子』にしよ!」

「……前向き」

「婚約者に刺されても、『照れているんだな!』。女の子に振られても、『国民への愛が俺への愛を上回ったか! 素晴らしい!』。側近に止められても、『俺を守るために命令するとは! 忠義だ!』」


マルセルは、もう楽屋の真ん中で王子の立ち位置に立っていた。


「悪役いらないって! 王子が勝手に転んで、勝手に立ち上がって、勝手に胸張れば、それだけで客は笑うじゃん! どう?」


ギルベルトは、しばらく黙っていた。


それから、言った。


「……ほぼ、本人です」

「でしょ!?」


   ◇


翌朝、王宮会議は、本当に開かれた。

議題は、殿下だった。


王家からヴァレンシュタイン公爵家へ、正式な謝罪の使者が送られた。ルシアンも、父王と公爵の前でそれぞれ頭を下げた。

普通に、ものすごく怒られた。


それで、あの夜の件はいったん片がついた。

片がつかなかったのは、劇場のほうだった。


三日間、劇団員はほとんど寝なかった。

マルセルだけは、日に日に元気になった。


三日後、王立劇場は満員だった。


演目名は『王子様、それは違います』。


初日の客席を埋めていたのは、野次馬だった。

あの卒業パーティーの件だ。王子が何かやらかしたらしい。どんな顔して芝居にしたのか、見てやろう。


緞帳が上がった。


舞台の中央に、金髪のかつらをかぶった俳優が立っていた。

ルシアンより少し背が低くて、ルシアンより少し顔が丸くて、ルシアンより三倍くらい自信に満ちていた。


『諸君!! 俺は王子だぞ!!』


客席から、くすくすと笑いが漏れた。


舞台の王子は、婚約者に婚約破棄を告げた。

婚約者役の女優は、扇を開いて、涼しい顔で言った。


『今日は、それですの?』


客席が、どっと沸いた。


舞台の王子は、めげなかった。


『照れているんだな! 俺に捨てられるのが、そんなにつらいか!』

『殿下。捨てられる以前に、拾われた覚えがございませんわ』


また、どっと沸いた。


天才技術者役の若い女優は、右腕に揚水機の模型、左腕に浄水器の樽を抱え、腰に工具をじゃらじゃらぶら下げて登場した。

その姿だけで、客席の何人かが笑った。どう見ても、王妃になる気のない格好だった。


舞台の王子は、その前にひざまずいた。


『君を、妃に!』

『やだ』

『まだ最後まで言ってない!』

『妃でしょ?』

『そうだ!』

『やだ』

『二回言った!』


客席の前のほうで、子供が「やだー!」と叫んだ。

周りの大人が、笑いながら子供を止めた。止めながら、自分たちも笑っていた。


舞台の王子は、立ち上がって、両手を広げた。


『国民への愛が、俺への愛を上回ったか! 素晴らしい! さすが俺の国民だ!』


舞台の側近役が、王子の肩を掴んだ。


『殿下は黙る』

『え?』

『今だけは』

『俺を守るために命令するとは! 忠義だ! 俺は王子だぞ!!』


客席の後ろのほうから、誰かが叫んだ。


「知ってるー!!」


一瞬、客席が静まった。

それから、劇場が揺れるほどの笑いが起きた。


舞台の王子役は、台詞の続きを言いかけて、止まった。

客席を見た。客席も、王子役を見ていた。どうするんだ、という顔で。


王子役は、にやりと笑った。

台本にない間を取って、もう一度、胸を張った。


『俺は! 王子だぞ!!』


今度は、十人くらいが叫んだ。


「知ってるー!!」


さっきより大きな笑いが起きた。

隣同士の知らない客が、顔を見合わせて笑った。前の席の男が、膝を叩いていた。

客席全体が、今、同じことに気づいた顔をしていた。


――この芝居、声を出していいのか。


それから先、王子役が胸を張るたびに、客席がざわついた。


「来るぞ」

「言うぞ」

「言えー!」


『俺は――』


客席が、待った。


『――王子だぞ!!』

「知ってるーー!!」


その日、王子役は台本の倍、胸を張った。


   ◇


ルシアンが変装して劇場に行ったのは、公演の五日目だった。


隣には、ギルベルトがいた。

二人とも帽子を深くかぶっていた。ルシアンの帽子には、なぜか羽根飾りが三本ついていた。目立つからやめろと言われたが、聞かなかった。


客席は、もう開演前から騒がしかった。


「今日は五回いくかな」

「昨日は四回だったぞ」

「四回目の胸の張り方、昨日のほうがよかったよな」

「おい、あんた初めてか? 王子が胸張ったら『知ってるー!』だからな。言う準備しとけよ」

「やだー、のとこは子供の担当だから、大人は言うなよ」


最前列の老人が、杖で床をとんとん叩いて、拍子を確かめていた。


ルシアンは、二階の貴賓席の一番奥で、それを見下ろしていた。


緞帳が上がった。


舞台の王子が、一回目の「俺は王子だぞ!」を叫んだ。


「知ってるー!!」


二回目。


「知ってるー!!」

「今日二回目ー!」


三回目。四回目。


「知ってるー!!」

「今日四回目ー!!」

「あと一回で記録更新ー!!」

「五回! 五回! 五回!」


客席が、手拍子を始めていた。最前列の老人の杖が、手拍子と同じ速さで床を叩いていた。


ルシアンは、手すりを握りしめて、舞台を見下ろしていた。


ルシアンの頭の中で、百年後の劇場が、もう一度だけ浮かんだ。

すすり泣く客席。目を伏せる、悲劇の王子。


その映像に、手拍子が重なった。


「五回! 五回! 五回!」


百年後の悲劇の王子が、なぜか手拍子に合わせて胸を張り始めた。


ルシアンは、頭を振った。


「……見ろ、ギルベルト」

「はい」

「満員だ」

「満員ですね」

「俺の物語だ」

「だいぶ加工されていますが」

「愛されている」


ギルベルトは、舞台を見た。

客席を見た。手拍子をしている老夫婦を見た。初めての客にルールを教えている常連を見た。「やだー!」の練習をしている子供を見た。


「……その点については、否定しづらくなってきました」


舞台の王子が、五回目を叫んだ。


「知ってるーーー!!」


劇場が、割れんばかりの拍手に包まれた。


   ◇


終演後、ルシアンは帽子を脱ぎ捨てて、楽屋に乗り込んだ。


「座長!!」

「うわ、本物だ!!」


楽屋が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。王子役の俳優が、かつらを被ったまま直立不動になった。


「殿下、あの、本日はその……」

「お前」


ルシアンは、俳優の前に立った。俳優の顔から、血の気が引いた。


「四回目の『俺は王子だぞ』」

「は、はい」

「あそこは、一度、目を伏せた方がいい」

「……はい?」

「悲痛さが出る。それから、ゆっくり顔を上げて、言う。百年後の役者が困らないように、今のうちに型を作っておけ」


ギルベルトは、黙ってマルセルを見た。

マルセルと目が合った。マルセルが、親指を立てた。

ギルベルトは、何も言わなかった。


マルセルが、手を叩いた。


「それ採用!!」

「採用するんですか」

「するよ! 溜めて、溜めて、悲劇っぽく目を伏せて――からの『俺は王子だぞ!!』。客、絶対待つって!」

「殿下は、悲劇のつもりで仰っています」

「だから面白いんじゃん!」


   ◇


翌日の公演の四回目。


舞台の王子が、胸を張りかけて、やめた。

ゆっくり、目を伏せた。


客席は、静かにならなかった。


「来るぞ」

「溜めてる!」

「溜めてるぞ!」

「まだ言うなよ! まだだぞ!」


一秒。二秒。

最前列の老人が、杖を持ち上げたまま止まっていた。


三秒目に、王子役が顔を上げた。


『俺は――』

「今だー!!」

『――王子だぞ!!』


「知ってるーーーーー!!」


前日の倍の声だった。天井の飾りが、ちょっと揺れた。


ルシアンは、その日も貴賓席の奥で見ていた。

満足そうに、何度も頷いていた。


「見ろ、ギルベルト。俺の演出が効いている」

「効いていますね」

「悲劇が伝わっている」

「……殿下は、それでいいと思います」


   ◇


公演は、当たった。


一週間で、追加公演が六回決まった。

二週間で、王都じゅうの酒場で、誰かが偉そうなことを言うと、別の誰かが「俺は王子だぞ!」と叫ぶようになった。叫ばれたほうは、「知ってる!」と返すのが決まりになった。


三週間目には、構文が勝手に増え始めた。


市場で、肉屋の親父が値切られて胸を張った。


「俺は肉屋だぞ!」

「知ってるよ!」


兵舎で、新兵が上官に口答えした。


「俺は伯爵家の三男だぞ!」

「知らねえよ!」


村の集会所で、村長が議題を読み上げようとした。


「わしは村長だぞ!」

「仕事しろ!」


クラリッサの台詞も、流行った。


仕立て屋の前で、夫に「その帽子、似合わないな」と言われた妻が、扇がわりに型紙で口元を隠して言った。


「あなた。似合わない以前に、似合うと思って買った覚えがございませんわ」


店の前にいた客が、全員拍手した。

夫は、なぜか少し嬉しそうだった。


学院では、レポートの締め切りを延ばしてくれと頼みに来た学生に、教授が「今日はそれですの?」と返すのが流行った。教授は、六十二歳の男性だった。


吟遊詩人が、替え歌を作った。

酒場の主人が、看板に「本日、王子は来ていません」と書いた。来ていないのに書いた。客が増えた。

子供たちが、広場で王子ごっこを始めた。王子役は、じゃんけんで負けた子がやることになっていた。理由は「やだ、って言われる役だから」だった。


似顔絵描きが、王子の顔を描いて売り始めた。

劇場の前の露店で、偽物の王子人形が売られ始めた。

本物がまだ出ていないのに、偽物が先に出た。

偽物の人形は、紐を引くと「俺は王子だど!」と叫んだ。音声魔法の写し間違いだった。

それはそれで、売れた。「だど人形」と呼ばれて、王都の子供たちのあいだで本物より先に流行った。


   ◇


「偽物に先越されてんの! 悔しくない!?」


劇場の楽屋で、マルセルが机を叩いた。


「本物出そう! 人形! 扇子! 手巾! あと毒舌語録札!」

「語録札」

「クラリッサちゃんの! 絶対売れる!」


それから、楽屋の隅で台本の裏に何かの図面を描いていたノーラのほうを振り向いた。

ノーラは、稽古の見学ついでに、舞台の小道具の揚水機と浄水器の動かし方を直しに来ていた。


「ノーラちゃん! ノーラちゃんのグッズも出そうよ! 揚水機と浄水器の模型、子供に大人気なの!」

「研究費、出る?」

「出す!」

「じゃあ、いいよ」

「交渉成立が早い」


横で聞いていたギルベルトが言った。


マルセルとギルベルトは、その場で取り決めをした。

王立劇場のグッズ収益の一部を、王国技術研究基金に入れる。ギルベルトは、取り決めの紙に判を押して、ついでに偽物業者への警告文の下書きも三通書いた。


   ◇


一か月後、王立劇場は公式の土産物を売り出した。


王子の木彫り人形。王子の似顔絵入りの手巾。「俺は王子だぞ!」と大書した扇子。クラリッサの毒舌語録札、全三十枚。ノーラの揚水機の模型、ゼンマイで動く。浄水器の模型、本当に水が少しきれいになる。


それから、紐を引っぱると、仕込んだ音声魔法で「俺は王子だぞ!」と叫ぶ、王子人形。こちらは、ちゃんと「だぞ」と言った。


いちばん売れたのは、その人形だった。


「昨日だけで、五千個売れたらしい」


王宮の執務室で、ルシアンは劇場から届いた報告書を読み上げた。

声が、弾んでいた。


「はい」


ギルベルトは、隣の机で、別の書類に判を押していた。劇場との契約書。公爵家への三通目の詫び状の控え。王家の広報の原稿。グッズの権利の取り決め。


「歴代王族で、一番では?」

「恐らく」

「ほらな」

「何がです」

「俺は、愛されている」


ギルベルトは、判を押す手を止めた。

報告書の数字を見た。五千。追加生産の発注、一万二千。


「……数字だけ見ると、否定できないのが腹立たしいですね」


扉が開いて、クラリッサが入ってきた。

手には、例の語録札の束を持っていた。


「殿下。私の語録札、三十枚のうち二十八枚が、殿下宛てでしたわ」

「残りの二枚は」

「ノーラ宛てと、ギルベルト宛てですわ。ギルベルト宛ては、『十個でも構いません』のときの、私の『貸しですわよ』」

「それは語録なのか」

「三番目に売れておりますわ」


ルシアンは、胸を張った。


「どうだ、クラリッサ。俺は今や、国民的人気者だぞ」

「ええ。主に、笑われておりますけれど」

「愛されているとも言う!」

「そこまで前向きですと、一周して便利ですわね」


   ◇


その週の終わり、ルシアンは父王に呼び出された。


謁見の間ではなく、国王の私室だった。

ルシアンは、廊下を歩きながら、説教の言葉を三通り予想した。全部、自分ならどう言い返すかまで考えた。


扉を開けると、国王は窓際の椅子に座っていた。


机の上に、王子人形が一つ置いてあった。


「……父上」

「座れ」


ルシアンは座った。国王は、人形の紐を、指でつまんだ。


引いた。


「俺は王子だぞ!」


国王は、しばらく人形を見つめていた。

もう一度、引いた。


「俺は王子だぞ!」

「父上」

「余も一つ買った」

「……は」

「王妃は二つ買った」


国王は、人形を机に戻した。

それから、ルシアンの顔を見た。笑っていなかった。


「この前も言ったが、忘れるな。あの夜のことは、ギルベルトのおかげで芝居で済んだ。二度目は、芝居では済まん」

「……はい」


ルシアンは、珍しく、素直に頭を下げた。


国王は、手を振って下がれと示した。

ルシアンが扉に手をかけたとき、背中で、また紐を引く音がした。


「俺は王子だぞ!」


ルシアンは振り返らなかった。

廊下に出てから、少しだけ胸を張った。


   ◇


翌月、ノーラの研究室に、新しい旋盤が三台届いた。

ノーラは、旋盤に頬ずりをした。それから、王立劇場の方角に向かって、一回だけ拝んだ。


小型揚水魔導機の量産試作は、予定より半年早く始まった。

研究室の棚の端では、新型の簡易浄水器の試作二号が、もう組み上がりかけていた。


その報告書を読んだルシアンは、執務室で言った。


「つまり、俺の物語が民を救った?」


クラリッサが、窓際で紅茶を飲みながら答えた。


「結果だけ見れば」

「やはり、俺は――」

「調子に乗るところまで含めて、殿下ですわね」


ノーラは、その場にいなかった。

「じゃ、あたし実験あるから」と言って、旋盤のところに帰っていた。


   ◇


数日後、クラリッサが言った。


「殿下。来週の晩餐会ですが」

「待て」


ルシアンは、書類から顔を上げた。


「何でしょう」

「俺たち、婚約破棄しただろ」

「しておりませんわ」

「した!」

「書類、一枚も出しておりません」


ギルベルトが、判を押しながら言った。


「……」

「祝賀会で叫ぶだけで婚約が消えるなら、私の仕事が半分なくなります」

「つまり?」

「継続です」


ルシアンは、クラリッサを見た。


「……お前は、それでいいのか」


クラリッサは、紅茶のカップを置いた。


「今回の件には、心の底から呆れておりますけれど」


それから、扇を開いて、口元を隠した。


「嫌でしたら、十二年のどこかで、とっくに逃げておりますわ」


ルシアンは、何か言いかけて、やめた。

珍しく、言葉が出てこなかった。


クラリッサは、何事もなかったように続けた。


「それで、晩餐会の衣装ですけれど。紺と臙脂、どちらがよろしいかしら」

「……紺」

「では、臙脂にしますわ」

「聞いた意味は!?」

「殿下が紺と仰るときは、たいてい臙脂のほうが似合いますもの。十二年の経験ですわ」


   ◇


翌月の初め、王太子としての公式行事があった。


王都の目抜き通りに新しく架けられた石橋の、開通式だった。

ルシアンは、儀礼用の白い上着を着て、馬車から降りた。


通りの両側に、人があふれていた。


「殿下ー!」

「王子様ー!」


ルシアンは、満足そうに手を振った。

百年後の劇場ではないが、これはこれで悪くない。


「殿下ー! 言ってー!」

「何をだ」

「あれー!」


ルシアンは、顎を上げた。


「やらんぞ」

「えええええ!!」

「一回だけー!」

「殿下ー!」

「仕事しろー!」


ルシアンが、振り返った。


「最後のやつ誰だ!!」


通り全体が、どっと笑った。


ルシアンの斜め後ろで、クラリッサが扇で口元を隠して笑っていた。肩が、揺れていた。

ギルベルトは、開通式の進行表と懐中時計を見比べていた。まだ仕事中だった。

ノーラは、そもそも来ていなかった。研究所で、浄水器の試作三号の試運転をしていた。


群衆の声が、だんだん揃ってきた。


「殿下ー!!」

「殿下ー!!」

「殿下ー!!」


ルシアンは、橋の上で立ち止まった。


ため息をついた。

ついてから、胸を張った。


「俺は、王子だぞ!!」

「知ってるーーー!!」


王都じゅうが、揺れた。


ルシアンは、満足そうに、群衆に向かってもう一度手を振った。


「……まあ、愛されてはいますね」


ギルベルトが、進行表から目を上げずに言った。


「ずいぶん、特殊な形ですけれど」


クラリッサが、扇の陰で言った。


「形など問題ではない!」


ルシアンは、両手を広げた。


「愛されている俺こそ――」

「仕事しろーーー!!」

「今してるだろ!!」


(了)

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― 新着の感想 ―
まさかの応援上演www 小馬鹿にもされてはいるが、愛はある
「……ほぼ、本人です」 「でしょ!?」 ここで思いっきり吹き出してしまいました。 ポジティブも突き抜ければ、それなりに使えるものなんですね。 しかし、国民と王族の距離が近いw いいノリ突っ込みでし…
国民全員ツッコミ上手(^m^)
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