「君との婚約を破棄する!」と王太子殿下は宣言しました。――なお、婚約は破棄されておりません
「クラリッサ! 君との婚約を――」
鏡の前で、王太子ルシアンは右手を前に突き出したまま止まった。
「違うな」
扉のそばで書類をめくっていた側近筆頭のギルベルトが、顔を上げた。
「何がです?」
「ここは一度、目を伏せた方がいい」
「何の話です」
「悲痛さが出る」
「ですから、何の話です」
ルシアンは、鏡に向かって目を伏せた。
長いまつげが、頬に影を落とした。我ながら完璧だった。
「百年後の役者が困るだろう」
「殿下」
ギルベルトは、書類を閉じた。
「何をする気です?」
「秘密だ」
「殿下が秘密と仰るときは、だいたい碌なことがありません」
「今回は違う」
「前回もそう仰いました」
「前回は何だった」
「噴水に金魚を三百匹放して、全滅させました」
「あれは金魚が弱かった」
「真冬でした」
ルシアンは、鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
「ギルベルト。明日の卒業記念祝賀会、俺が何か言ったら、合わせてくれ」
「内容は」
「秘密だ」
「合わせられません」
「合わせろ」
ギルベルトは、長い沈黙のあと、言った。
「……せめて、方向性だけでも」
「歴史に残る」
「それが一番怖いんです」
◇
ルシアンには、夢があった。
百年後、王立劇場の大舞台で自身の活躍が演じられ、民衆に讃えられ続けること。
緞帳が上がる。若き日の王太子ルシアン――を演じる、とびきりの美男俳優が、舞台の中央に立つ。
その向かいには、冷たい目をした公爵令嬢。身分を笠に着て、平民の才女を虐げてきた悪女。
王子は、苦渋の表情で目を伏せ、そして告げるのだ。
『君との婚約を、破棄する』
そして王子は、震える平民の娘に手を差し伸べる。身分を越えた、真実の愛。
客席から、すすり泣きが漏れる。
カーテンコール。総立ちの客席。
劇場の外では、吟遊詩人がその歌を歌い、子供たちが王子の真似をして遊ぶ。
――完璧だ。
悪女役は、婚約者のクラリッサだ。
クラリッサには、少し悪いと思っている。少しは。
だが、最終的に自分が歴史的英雄になれば、彼女も「殿下の伝説の一部になれた」と感涙するだろう。たぶん。
ヒロイン役は、ノーラだ。
王立高等学院の平民特待生。天才技術者。いつも油の匂いがしていて、敬語を使わなくて、ルシアンを見ると「あ、王子だ」と言う。
身分違いの恋の相手として、これ以上の配役はない。
唯一の懸念は、側近たちだった。
あいつらは、ルシアンが何か素晴らしいことを思いつくたびに、「殿下、それはやめましょう」と言う。なぜか毎回、心配する。
だから今回は、細部を教えない。
「俺が話したら合わせろ」。それだけでいい。
ルシアンは、満足して眠った。
夢の中で、吟遊詩人が三人、ルシアンの歌を歌っていた。
◇
卒業記念祝賀会の大広間は、シャンデリアがきらきらしていた。
来賓は、高位貴族、教師、王族の縁者、それから各家の保護者。
クラリッサは窓際で友人たちと談笑していた。ノーラは料理台の前で、厚切りのローストビーフを三枚まとめて皿に載せ、四枚目をどうするかで真剣に悩んでいた。ギルベルトは壁際で、式典の進行表と時計を見比べていた。
ルシアンは、大広間の中央に進み出た。
(最高の舞台だ)
楽団に目配せをすると、楽団長は何も分からないまま、とりあえず演奏を止めた。
「諸君!!」
全員が、こちらを見た。
「今日という晴れの日に! 諸君にも、どうしても見届けてもらわなければならないことがある!」
大広間が、静まった。
ルシアンは、一呼吸置いた。シャンデリアの光が、ちょうどいい角度で自分の髪に当たっているのが分かった。
(来た。歴史が動く瞬間だ)
脳裏で、百年後の緞帳が上がった。
客席が、息を呑んでいる。
「クラリッサ!!」
窓際のクラリッサが、振り返った。
「君との婚約を、破棄する!!」
大広間が、静まり返った。
ルシアンの予想では、ここで悲鳴が上がる。クラリッサが扇を取り落として、震える。
ざわめきが、波のように――
クラリッサは、扇を取り落とさなかった。
首を傾げただけだった。
「……今日は、それですの?」
「何だその反応は!」
「いえ。今月は何を始めるのかと思っておりましたので」
どこかで、誰かが噴き出した。
「先月は、王宮の噴水の金魚でしたわね」
「金魚の話はするな!」
「その前は、確か、詩集の出版でしたかしら。全三百頁、全部殿下ご自身を讃える詩の」
「あれは売れた!」
「王宮が買い上げましたのよ。全部」
ルシアンは、咳払いをした。
大丈夫だ。悪女は最初、往生際が悪いものだ。
「クラリッサ・ヴァレンシュタイン! 君は公爵令嬢という身分を笠に着て、平民の特待生ノーラを虐げてきた!」
大広間が、今度こそざわめいた。
ノーラが、ローストビーフを頬張ったまま顔を上げた。
「そうだったかしら」
「そうだ! 先月の三日、君はノーラを、学院の東階段から突き落とした!」
「その日は、父と領地の南部で農地の視察中ですわ。王都に戻ったのは五日です。学院どころか、王都にもおりません」
「……なら、別の日だ!」
「罪状の日付が、被告の指摘で変わる裁判。初めて拝見しましたわ」
「これは裁判ではない!」
「それは何よりですわ。裁判でしたら、殿下が最初に退場させられておりますもの」
大広間のあちこちで、扇で口元を隠す人が増えた。
ルシアンは、負けなかった。
「動機ははっきりしている! 君は俺を愛するあまり、ノーラに嫉妬したんだ!」
「まあ」
クラリッサは、扇を半分だけ開いた。
「罪だけでは足りず、私の感情まで勝手にお作りになるのですね。殿下の頭の中の私は、ずいぶん多忙ですこと」
「多忙ではない! 一途なんだ!」
「どちらにしても、私は存じ上げない方ですわ」
ルシアンは、一歩前に出た。
「いいのか、クラリッサ! このままでは、君は俺を失うことになるぞ!」
「失う以前に、所有した覚えがございませんわ」
ルシアンが、止まった。
一瞬だけ、本当に止まった。
それから、両手を広げた。
「民衆は! この真実を知れば、涙するだろう!」
「ええ。このまま続けてくだされば、笑いすぎて泣く方なら、出てきそうですわね」
後ろのほうで、誰かが咳き込んだ。咳にしては、長かった。
ルシアンは、ノーラのほうへ向き直った。
「ノーラ! 君は、彼女を恐れて真実を言えないんだな!」
「え? 普通に言えるけど。ていうか私、落とされてないよ?」
ノーラは、ローストビーフを飲み込んで言った。
「階段から落ちただろう!」
「あれ自爆。図面見ながら降りてて、三段目でコケたやつ。膝すりむいただけ」
「脅されているんだ!」
「誰に?」
「クラリッサに!」
ノーラは、窓際のクラリッサを見た。
「え、クラリッサ、私のこと脅した?」
「しておりませんわ」
「だよね。じゃ、それ嘘じゃん」
「本人に確認するな!!」
◇
ルシアンの頭の中で、百年後の客席が、なぜか少しざわついていた。
すすり泣きのはずが、何人か肩を震わせている。いや、あれは感動で震えているのだ。たぶん。
ここは、一番の見せ場で巻き返すしかない。
ルシアンは、大広間の中央を横切って、ノーラの前に立った。
片膝をつきかけて、床が大理石なので膝が痛そうだと思い直し、少しかがむだけにした。
「ノーラ。俺は身分を越えて、君を妃として迎える!」
「やだ」
一拍、空いた。
「……」
「……」
「……何と?」
「やだ」
ノーラは、皿を持ったまま、普通の顔で言った。
「まだ最後まで言ってない!」
「妃でしょ?」
「そうだ!」
「やだ」
「三回も言うな!」
「大事かなと思って」
大広間の後ろのほうで、さっきの誰かがまた咳き込んだ。
ルシアンは、立ち直った。立ち直りの早さには自信がある。
「ノーラ。無理をするな。王妃になれるなんて、全女性の憧れではないか」
「えー、無理無理」
「なぜだ!」
「だって王妃って、外交するんでしょ?」
「する」
「舞踏会も?」
「ある」
「毎日、知らない人とずっと喋る?」
「まあ――」
「無理じゃん」
「努力しろ!」
「その努力する時間あったら、揚水機一台直して、浄水器二個試して、脱穀機のギア一個削れるって」
「なぜそんなに具体的なんだ!」
「今日やる予定だったから」
ノーラは、ローストビーフの四枚目を、結局皿に載せた。
「それにさ。今作ってる小型の揚水機、量産できたら、乾燥地帯でも畑増えるじゃん。毎朝、水汲みだけで何時間も潰れてる村が、その時間で別のことできるんだよ。浄水器が安くなったら、お腹壊す子供も減るし。普通に何万人も助かるよ」
「王妃として政務を行うより?」
「余裕で」
窓際から、クラリッサの声がした。
「殿下。国益でも負けましたわね」
「俺と揚水機を比べるな!」
「今んとこ、揚水機かな。浄水器もかな」
「増やすな!」
ノーラは、首を傾げて付け足した。
「あ、でも王室にはマジで感謝してるよ。奨学金なかったら、私いま実家の鍛冶屋で鍋直してるし。だから返すって。王妃じゃなくて、作れるもので。水とか、食べ物とか、普通に暮らすのに要るやつ」
「そうだろう! なら、俺への恩は――」
「だから、技術で返す」
「俺への愛で返してもいいんだぞ?」
「なんで?」
大広間が、静かになった。
悪意のない「なんで?」は、悪意のある言葉より、よく通った。
「今の『なんで?』」
クラリッサが、扇を閉じた。
「本日一番、刺さりましたわね」
◇
壁際で、ギルベルトは進行表から目を上げていた。
ここまでは、まだよかった。
笑いが起きている。来賓の何人かは、どこかの家の余興だと思って楽しんでいる。
だが、ルシアンは息を吸っていた。
まだ続けるつもりだった。
ギルベルトは、大広間を見回した。
最前列のヴァレンシュタイン公爵が、笑っていなかった。
扇の陰で笑う来賓たちとは違う顔で、娘とルシアンを見ていた。公爵の顔ではなかった。父親の顔だった。
学院長の顔から、色が抜けていた。
王妃陛下の侍従長が、手帳を開いて、ペンを走らせていた。
高位の貴族が二人、顔を寄せて小声で何か確かめ合っていた。さっきまで笑っていた伯爵夫人が、笑うのをやめて、扇を閉じた。
――これは、本当に、余興ではないのではないか。
その空気が、大広間の端から広がり始めていた。
あと十秒続けば、国家事故になる。
ギルベルトは、三秒で決めた。
終了。
ルシアンが、口を開いた。
「クラリッサ、君が認めないのなら、俺にも考えが――」
ギルベルトは、大股で大広間の中央へ出た。
ルシアンの肩を掴んで、一歩、横へどけた。
「おい」
無視した。
ギルベルトは、大広間に向かって両腕を広げた。
いつもの事務的な声ではなかった。劇場の呼び込みのような、腹の底からの大声だった。
「はい!! 会場の皆様!! ここで種明かしでございます!!」
全員が、ぎょっとしてギルベルトを見た。
ルシアンも、見た。
「は?」
「ただいまご覧いただきました、一幕――」
ギルベルトは、一呼吸だけ置いた。
「実は!! 王立劇場で近日上演予定の新作喜劇!! その、特別予告でございました!!」
大広間が、凍りついた。
「……は?」
ルシアンの口から、もう一度、間抜けな声が出た。
ギルベルトは、止まらなかった。
「そして今回はなんと! 王太子殿下ご本人! クラリッサ・ヴァレンシュタイン公爵令嬢! 学院が誇る天才特待生、ノーラ嬢! 御三方に、特別出演いただきました!!」
ギルベルトは、自分で拍手を始めた。
誰もつられなかった。ギルベルトは、一人で拍手を続けた。
窓際で、クラリッサが一瞬で状況を理解した顔をした。
「まあ。予告でしたのね」
それから、ギルベルトにだけ聞こえる声で言った。
「あとで、お話がありますわ」
「何時間でも」
「貸しですわよ」
「十個でも構いません」
クラリッサは、優雅に膝を折って、来賓に一礼した。
ぱらぱらと、拍手が起きた。
ノーラが、皿を持ったまま手を挙げた。
「え、私も出演者?」
「はい」
「ギャラ出る?」
「出します」
「じゃ、出演した」
「助かります」
ノーラも、ぺこりと頭を下げた。拍手が、少し増えた。
ルシアンは、ようやく我に返った。
「待て! これは俺の――」
ギルベルトの手が、もう一度ルシアンの肩を掴んだ。
力が、強かった。
「殿下! 素晴らしい演技でした!」
「演技では――」
「素晴らしい演技でした!!」
ギルベルトは、満面の笑みのまま、ルシアンの耳元に顔を寄せた。
「今もう一言しゃべれば、明日の朝から王宮会議です。議題は殿下です」
「……」
「ご理解、ありがとうございます」
◇
大広間の来賓が、全員、本当に信じたわけではなかった。
「……芝居?」
「本当に?」
「ずいぶん趣味の悪い予告だな」
「でも、王太子殿下ご本人が?」
半信半疑の囁きが、あちこちで交わされていた。
ただ、高位の貴族ほど、計算が速かった。
今ここで、これを本物の醜聞として追及するか。それとも、側近筆頭が差し出した「芝居でした」という板に乗るか。
乗ったほうが、全員、得をする。
ヴァレンシュタイン公爵は、ギルベルトの目を一瞬だけ見て、それから大きく手を叩いた。
「いやあ、見事な予告だった! 娘があんなに芝居が上手いとは知らなかったぞ!」
公爵が手を叩けば、侯爵も叩く。侯爵が叩けば、伯爵も叩く。
拍手が、大広間を一周した。
王家と公爵家の正式な話し合いは、翌日以降に回された。
その場で起きたことは、とりあえず、全部「芝居」になった。
「では、出演者の皆様! このまま、打ち合わせがございますので!」
ギルベルトが、声を張り上げた。
「俺はまだ――」
「殿下はこちら」
「私もですの?」
「お願いします」
ノーラが、皿を掲げた。
「このローストビーフ、持ってっていい?」
「皿ごと、どうぞ」
「最高」
四人は、拍手の中を、大広間から退場した。
◇
控え室の扉が閉まった瞬間、ルシアンは叫んだ。
「ギルベルト!! なぜ止めた!! 俺が話したら合わせろと言っただろ!!」
「内容を聞かされていません」
「歴史に残ると言った!」
「残りかけました。かなり悪い方向で」
「俺の歴史的美談を!!」
「殿下。あと十秒遅れていたら、殿下の歴史に『廃嫡』が加わっていました」
「……」
「喜劇と廃嫡、どちらがよろしかったです?」
「……どっちが歴史に残る」
「廃嫡です、しかも最低最悪の汚点として」
ルシアンは、黙った。
クラリッサが、椅子に腰かけて、扇で自分をあおいだ。
「それで、ギルベルト。予告ということは、本編がありますのね?」
「……」
「ありますのよね?」
「今から作ります」
ノーラが、皿の上のローストビーフを切りながら言った。
「ギャラ、いつ出る?」
「本編が上演されたら」
「じゃあ、本編作って。早めに。浄水器の部品、待ってるから」
ギルベルトは、懐中時計を見た。
夜の十時を回っていた。
「……行ってきます」
◇
王立劇場の楽屋口の扉を叩いたのは、夜の十一時だった。
扉を開けたのは、看板劇団の座長、マルセルだった。
四十過ぎの、派手な刺繍の上着を着た男だ。片手に台本を、もう片手にワインのグラスを持っていた。
「あれ! 王子のとこの側近くんじゃん! どしたのこんな時間に!」
「座長。大変なことになりました」
「なになに? 結婚? 不倫? 決闘?」
「そのどれでもありません」
ギルベルトは、楽屋の椅子に座って、手短に事情を話した。
マルセルは、途中でワインのグラスを置いた。
「待って待って」
「はい」
「王子が?」
「はい」
「卒業パーティーで?」
「はい」
「勝手に悪女作って?」
「はい」
「公開で婚約破棄やって?」
「はい」
「で、婚約者の公爵令嬢には毒舌で全部返されて?」
「……はい」
「平民の女の子には、その場で二回振られて?」
「……はい」
マルセルは、天井を見上げた。
「何それ!! 超面白いじゃーん!!」
「国家事故です」
「国家事故って言葉、ポスターに入れようよ!」
「入れません」
「えー!」
マルセルは、もう台本の裏に何か書き始めていた。
「三日で、形にしてください」
「三日!? ヤバ!」
「無理ですか」
「めっちゃ燃える!」
「そっちですか」
「条件があります」
「来た来た!」
「まず、殿下を悪人にはしないでください」
「了解!」
「救いようのない馬鹿にも」
「そこ難しくない?」
「難しくしてください」
「注文強っ!」
「クラリッサ様の名誉は、絶対に守る」
「そこは当然! あの子、絶対いい台詞持ってるもん!」
「ノーラ嬢も、悲劇の被害者扱いにはしない」
「じゃ、普通に揚水機持たせよ!」
「なぜもう演出が決まっているんです」
「あと公爵家も王室も笑いものにしない、でしょ?」
「……なぜ分かるんです」
「顔に書いてある!」
「それで、ちゃんと笑わせてください」
「一番難しいやつ最後に言うじゃん!」
「私の今後がかかっています」
「燃えてきた!」
「私は燃えてほしくないです」
マルセルは、ぱちんと指を鳴らした。
「じゃあさ、王子は悪人じゃなくて、『世界中が自分を愛してると本気で思ってる、めちゃくちゃ前向きな王子』にしよ!」
「……前向き」
「婚約者に刺されても、『照れているんだな!』。女の子に振られても、『国民への愛が俺への愛を上回ったか! 素晴らしい!』。側近に止められても、『俺を守るために命令するとは! 忠義だ!』」
マルセルは、もう楽屋の真ん中で王子の立ち位置に立っていた。
「悪役いらないって! 王子が勝手に転んで、勝手に立ち上がって、勝手に胸張れば、それだけで客は笑うじゃん! どう?」
ギルベルトは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「……ほぼ、本人です」
「でしょ!?」
◇
翌朝、王宮会議は、本当に開かれた。
議題は、殿下だった。
王家からヴァレンシュタイン公爵家へ、正式な謝罪の使者が送られた。ルシアンも、父王と公爵の前でそれぞれ頭を下げた。
普通に、ものすごく怒られた。
それで、あの夜の件はいったん片がついた。
片がつかなかったのは、劇場のほうだった。
三日間、劇団員はほとんど寝なかった。
マルセルだけは、日に日に元気になった。
三日後、王立劇場は満員だった。
演目名は『王子様、それは違います』。
初日の客席を埋めていたのは、野次馬だった。
あの卒業パーティーの件だ。王子が何かやらかしたらしい。どんな顔して芝居にしたのか、見てやろう。
緞帳が上がった。
舞台の中央に、金髪のかつらをかぶった俳優が立っていた。
ルシアンより少し背が低くて、ルシアンより少し顔が丸くて、ルシアンより三倍くらい自信に満ちていた。
『諸君!! 俺は王子だぞ!!』
客席から、くすくすと笑いが漏れた。
舞台の王子は、婚約者に婚約破棄を告げた。
婚約者役の女優は、扇を開いて、涼しい顔で言った。
『今日は、それですの?』
客席が、どっと沸いた。
舞台の王子は、めげなかった。
『照れているんだな! 俺に捨てられるのが、そんなにつらいか!』
『殿下。捨てられる以前に、拾われた覚えがございませんわ』
また、どっと沸いた。
天才技術者役の若い女優は、右腕に揚水機の模型、左腕に浄水器の樽を抱え、腰に工具をじゃらじゃらぶら下げて登場した。
その姿だけで、客席の何人かが笑った。どう見ても、王妃になる気のない格好だった。
舞台の王子は、その前にひざまずいた。
『君を、妃に!』
『やだ』
『まだ最後まで言ってない!』
『妃でしょ?』
『そうだ!』
『やだ』
『二回言った!』
客席の前のほうで、子供が「やだー!」と叫んだ。
周りの大人が、笑いながら子供を止めた。止めながら、自分たちも笑っていた。
舞台の王子は、立ち上がって、両手を広げた。
『国民への愛が、俺への愛を上回ったか! 素晴らしい! さすが俺の国民だ!』
舞台の側近役が、王子の肩を掴んだ。
『殿下は黙る』
『え?』
『今だけは』
『俺を守るために命令するとは! 忠義だ! 俺は王子だぞ!!』
客席の後ろのほうから、誰かが叫んだ。
「知ってるー!!」
一瞬、客席が静まった。
それから、劇場が揺れるほどの笑いが起きた。
舞台の王子役は、台詞の続きを言いかけて、止まった。
客席を見た。客席も、王子役を見ていた。どうするんだ、という顔で。
王子役は、にやりと笑った。
台本にない間を取って、もう一度、胸を張った。
『俺は! 王子だぞ!!』
今度は、十人くらいが叫んだ。
「知ってるー!!」
さっきより大きな笑いが起きた。
隣同士の知らない客が、顔を見合わせて笑った。前の席の男が、膝を叩いていた。
客席全体が、今、同じことに気づいた顔をしていた。
――この芝居、声を出していいのか。
それから先、王子役が胸を張るたびに、客席がざわついた。
「来るぞ」
「言うぞ」
「言えー!」
『俺は――』
客席が、待った。
『――王子だぞ!!』
「知ってるーー!!」
その日、王子役は台本の倍、胸を張った。
◇
ルシアンが変装して劇場に行ったのは、公演の五日目だった。
隣には、ギルベルトがいた。
二人とも帽子を深くかぶっていた。ルシアンの帽子には、なぜか羽根飾りが三本ついていた。目立つからやめろと言われたが、聞かなかった。
客席は、もう開演前から騒がしかった。
「今日は五回いくかな」
「昨日は四回だったぞ」
「四回目の胸の張り方、昨日のほうがよかったよな」
「おい、あんた初めてか? 王子が胸張ったら『知ってるー!』だからな。言う準備しとけよ」
「やだー、のとこは子供の担当だから、大人は言うなよ」
最前列の老人が、杖で床をとんとん叩いて、拍子を確かめていた。
ルシアンは、二階の貴賓席の一番奥で、それを見下ろしていた。
緞帳が上がった。
舞台の王子が、一回目の「俺は王子だぞ!」を叫んだ。
「知ってるー!!」
二回目。
「知ってるー!!」
「今日二回目ー!」
三回目。四回目。
「知ってるー!!」
「今日四回目ー!!」
「あと一回で記録更新ー!!」
「五回! 五回! 五回!」
客席が、手拍子を始めていた。最前列の老人の杖が、手拍子と同じ速さで床を叩いていた。
ルシアンは、手すりを握りしめて、舞台を見下ろしていた。
ルシアンの頭の中で、百年後の劇場が、もう一度だけ浮かんだ。
すすり泣く客席。目を伏せる、悲劇の王子。
その映像に、手拍子が重なった。
「五回! 五回! 五回!」
百年後の悲劇の王子が、なぜか手拍子に合わせて胸を張り始めた。
ルシアンは、頭を振った。
「……見ろ、ギルベルト」
「はい」
「満員だ」
「満員ですね」
「俺の物語だ」
「だいぶ加工されていますが」
「愛されている」
ギルベルトは、舞台を見た。
客席を見た。手拍子をしている老夫婦を見た。初めての客にルールを教えている常連を見た。「やだー!」の練習をしている子供を見た。
「……その点については、否定しづらくなってきました」
舞台の王子が、五回目を叫んだ。
「知ってるーーー!!」
劇場が、割れんばかりの拍手に包まれた。
◇
終演後、ルシアンは帽子を脱ぎ捨てて、楽屋に乗り込んだ。
「座長!!」
「うわ、本物だ!!」
楽屋が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。王子役の俳優が、かつらを被ったまま直立不動になった。
「殿下、あの、本日はその……」
「お前」
ルシアンは、俳優の前に立った。俳優の顔から、血の気が引いた。
「四回目の『俺は王子だぞ』」
「は、はい」
「あそこは、一度、目を伏せた方がいい」
「……はい?」
「悲痛さが出る。それから、ゆっくり顔を上げて、言う。百年後の役者が困らないように、今のうちに型を作っておけ」
ギルベルトは、黙ってマルセルを見た。
マルセルと目が合った。マルセルが、親指を立てた。
ギルベルトは、何も言わなかった。
マルセルが、手を叩いた。
「それ採用!!」
「採用するんですか」
「するよ! 溜めて、溜めて、悲劇っぽく目を伏せて――からの『俺は王子だぞ!!』。客、絶対待つって!」
「殿下は、悲劇のつもりで仰っています」
「だから面白いんじゃん!」
◇
翌日の公演の四回目。
舞台の王子が、胸を張りかけて、やめた。
ゆっくり、目を伏せた。
客席は、静かにならなかった。
「来るぞ」
「溜めてる!」
「溜めてるぞ!」
「まだ言うなよ! まだだぞ!」
一秒。二秒。
最前列の老人が、杖を持ち上げたまま止まっていた。
三秒目に、王子役が顔を上げた。
『俺は――』
「今だー!!」
『――王子だぞ!!』
「知ってるーーーーー!!」
前日の倍の声だった。天井の飾りが、ちょっと揺れた。
ルシアンは、その日も貴賓席の奥で見ていた。
満足そうに、何度も頷いていた。
「見ろ、ギルベルト。俺の演出が効いている」
「効いていますね」
「悲劇が伝わっている」
「……殿下は、それでいいと思います」
◇
公演は、当たった。
一週間で、追加公演が六回決まった。
二週間で、王都じゅうの酒場で、誰かが偉そうなことを言うと、別の誰かが「俺は王子だぞ!」と叫ぶようになった。叫ばれたほうは、「知ってる!」と返すのが決まりになった。
三週間目には、構文が勝手に増え始めた。
市場で、肉屋の親父が値切られて胸を張った。
「俺は肉屋だぞ!」
「知ってるよ!」
兵舎で、新兵が上官に口答えした。
「俺は伯爵家の三男だぞ!」
「知らねえよ!」
村の集会所で、村長が議題を読み上げようとした。
「わしは村長だぞ!」
「仕事しろ!」
クラリッサの台詞も、流行った。
仕立て屋の前で、夫に「その帽子、似合わないな」と言われた妻が、扇がわりに型紙で口元を隠して言った。
「あなた。似合わない以前に、似合うと思って買った覚えがございませんわ」
店の前にいた客が、全員拍手した。
夫は、なぜか少し嬉しそうだった。
学院では、レポートの締め切りを延ばしてくれと頼みに来た学生に、教授が「今日はそれですの?」と返すのが流行った。教授は、六十二歳の男性だった。
吟遊詩人が、替え歌を作った。
酒場の主人が、看板に「本日、王子は来ていません」と書いた。来ていないのに書いた。客が増えた。
子供たちが、広場で王子ごっこを始めた。王子役は、じゃんけんで負けた子がやることになっていた。理由は「やだ、って言われる役だから」だった。
似顔絵描きが、王子の顔を描いて売り始めた。
劇場の前の露店で、偽物の王子人形が売られ始めた。
本物がまだ出ていないのに、偽物が先に出た。
偽物の人形は、紐を引くと「俺は王子だど!」と叫んだ。音声魔法の写し間違いだった。
それはそれで、売れた。「だど人形」と呼ばれて、王都の子供たちのあいだで本物より先に流行った。
◇
「偽物に先越されてんの! 悔しくない!?」
劇場の楽屋で、マルセルが机を叩いた。
「本物出そう! 人形! 扇子! 手巾! あと毒舌語録札!」
「語録札」
「クラリッサちゃんの! 絶対売れる!」
それから、楽屋の隅で台本の裏に何かの図面を描いていたノーラのほうを振り向いた。
ノーラは、稽古の見学ついでに、舞台の小道具の揚水機と浄水器の動かし方を直しに来ていた。
「ノーラちゃん! ノーラちゃんのグッズも出そうよ! 揚水機と浄水器の模型、子供に大人気なの!」
「研究費、出る?」
「出す!」
「じゃあ、いいよ」
「交渉成立が早い」
横で聞いていたギルベルトが言った。
マルセルとギルベルトは、その場で取り決めをした。
王立劇場のグッズ収益の一部を、王国技術研究基金に入れる。ギルベルトは、取り決めの紙に判を押して、ついでに偽物業者への警告文の下書きも三通書いた。
◇
一か月後、王立劇場は公式の土産物を売り出した。
王子の木彫り人形。王子の似顔絵入りの手巾。「俺は王子だぞ!」と大書した扇子。クラリッサの毒舌語録札、全三十枚。ノーラの揚水機の模型、ゼンマイで動く。浄水器の模型、本当に水が少しきれいになる。
それから、紐を引っぱると、仕込んだ音声魔法で「俺は王子だぞ!」と叫ぶ、王子人形。こちらは、ちゃんと「だぞ」と言った。
いちばん売れたのは、その人形だった。
「昨日だけで、五千個売れたらしい」
王宮の執務室で、ルシアンは劇場から届いた報告書を読み上げた。
声が、弾んでいた。
「はい」
ギルベルトは、隣の机で、別の書類に判を押していた。劇場との契約書。公爵家への三通目の詫び状の控え。王家の広報の原稿。グッズの権利の取り決め。
「歴代王族で、一番では?」
「恐らく」
「ほらな」
「何がです」
「俺は、愛されている」
ギルベルトは、判を押す手を止めた。
報告書の数字を見た。五千。追加生産の発注、一万二千。
「……数字だけ見ると、否定できないのが腹立たしいですね」
扉が開いて、クラリッサが入ってきた。
手には、例の語録札の束を持っていた。
「殿下。私の語録札、三十枚のうち二十八枚が、殿下宛てでしたわ」
「残りの二枚は」
「ノーラ宛てと、ギルベルト宛てですわ。ギルベルト宛ては、『十個でも構いません』のときの、私の『貸しですわよ』」
「それは語録なのか」
「三番目に売れておりますわ」
ルシアンは、胸を張った。
「どうだ、クラリッサ。俺は今や、国民的人気者だぞ」
「ええ。主に、笑われておりますけれど」
「愛されているとも言う!」
「そこまで前向きですと、一周して便利ですわね」
◇
その週の終わり、ルシアンは父王に呼び出された。
謁見の間ではなく、国王の私室だった。
ルシアンは、廊下を歩きながら、説教の言葉を三通り予想した。全部、自分ならどう言い返すかまで考えた。
扉を開けると、国王は窓際の椅子に座っていた。
机の上に、王子人形が一つ置いてあった。
「……父上」
「座れ」
ルシアンは座った。国王は、人形の紐を、指でつまんだ。
引いた。
「俺は王子だぞ!」
国王は、しばらく人形を見つめていた。
もう一度、引いた。
「俺は王子だぞ!」
「父上」
「余も一つ買った」
「……は」
「王妃は二つ買った」
国王は、人形を机に戻した。
それから、ルシアンの顔を見た。笑っていなかった。
「この前も言ったが、忘れるな。あの夜のことは、ギルベルトのおかげで芝居で済んだ。二度目は、芝居では済まん」
「……はい」
ルシアンは、珍しく、素直に頭を下げた。
国王は、手を振って下がれと示した。
ルシアンが扉に手をかけたとき、背中で、また紐を引く音がした。
「俺は王子だぞ!」
ルシアンは振り返らなかった。
廊下に出てから、少しだけ胸を張った。
◇
翌月、ノーラの研究室に、新しい旋盤が三台届いた。
ノーラは、旋盤に頬ずりをした。それから、王立劇場の方角に向かって、一回だけ拝んだ。
小型揚水魔導機の量産試作は、予定より半年早く始まった。
研究室の棚の端では、新型の簡易浄水器の試作二号が、もう組み上がりかけていた。
その報告書を読んだルシアンは、執務室で言った。
「つまり、俺の物語が民を救った?」
クラリッサが、窓際で紅茶を飲みながら答えた。
「結果だけ見れば」
「やはり、俺は――」
「調子に乗るところまで含めて、殿下ですわね」
ノーラは、その場にいなかった。
「じゃ、あたし実験あるから」と言って、旋盤のところに帰っていた。
◇
数日後、クラリッサが言った。
「殿下。来週の晩餐会ですが」
「待て」
ルシアンは、書類から顔を上げた。
「何でしょう」
「俺たち、婚約破棄しただろ」
「しておりませんわ」
「した!」
「書類、一枚も出しておりません」
ギルベルトが、判を押しながら言った。
「……」
「祝賀会で叫ぶだけで婚約が消えるなら、私の仕事が半分なくなります」
「つまり?」
「継続です」
ルシアンは、クラリッサを見た。
「……お前は、それでいいのか」
クラリッサは、紅茶のカップを置いた。
「今回の件には、心の底から呆れておりますけれど」
それから、扇を開いて、口元を隠した。
「嫌でしたら、十二年のどこかで、とっくに逃げておりますわ」
ルシアンは、何か言いかけて、やめた。
珍しく、言葉が出てこなかった。
クラリッサは、何事もなかったように続けた。
「それで、晩餐会の衣装ですけれど。紺と臙脂、どちらがよろしいかしら」
「……紺」
「では、臙脂にしますわ」
「聞いた意味は!?」
「殿下が紺と仰るときは、たいてい臙脂のほうが似合いますもの。十二年の経験ですわ」
◇
翌月の初め、王太子としての公式行事があった。
王都の目抜き通りに新しく架けられた石橋の、開通式だった。
ルシアンは、儀礼用の白い上着を着て、馬車から降りた。
通りの両側に、人があふれていた。
「殿下ー!」
「王子様ー!」
ルシアンは、満足そうに手を振った。
百年後の劇場ではないが、これはこれで悪くない。
「殿下ー! 言ってー!」
「何をだ」
「あれー!」
ルシアンは、顎を上げた。
「やらんぞ」
「えええええ!!」
「一回だけー!」
「殿下ー!」
「仕事しろー!」
ルシアンが、振り返った。
「最後のやつ誰だ!!」
通り全体が、どっと笑った。
ルシアンの斜め後ろで、クラリッサが扇で口元を隠して笑っていた。肩が、揺れていた。
ギルベルトは、開通式の進行表と懐中時計を見比べていた。まだ仕事中だった。
ノーラは、そもそも来ていなかった。研究所で、浄水器の試作三号の試運転をしていた。
群衆の声が、だんだん揃ってきた。
「殿下ー!!」
「殿下ー!!」
「殿下ー!!」
ルシアンは、橋の上で立ち止まった。
ため息をついた。
ついてから、胸を張った。
「俺は、王子だぞ!!」
「知ってるーーー!!」
王都じゅうが、揺れた。
ルシアンは、満足そうに、群衆に向かってもう一度手を振った。
「……まあ、愛されてはいますね」
ギルベルトが、進行表から目を上げずに言った。
「ずいぶん、特殊な形ですけれど」
クラリッサが、扇の陰で言った。
「形など問題ではない!」
ルシアンは、両手を広げた。
「愛されている俺こそ――」
「仕事しろーーー!!」
「今してるだろ!!」
(了)




