羽の声
中世の魔女狩りとは誰もが知っている、ヨーロッパにおける理不尽な黒歴史である。だが、同性愛のいわゆるゲイという人々も似たような迫害と差別を受けていた歴史は、教科書に載るようなことでなくとも紛れもない事実として残っている。それらの主導を取っていたのは、神父や司祭たち聖職者だとして。
古い教会は、扉から一歩足を踏み入れるとその外観からは想像もつかないほど美しく改装されており、カトリックらしい華やかな装飾がほどこされていた。
クリスマスは教会の本領発揮の場だとばかりに彩られ、キャンドルを手にした子供たちが、お揃いの白いローブで愛らしく讃美歌を口ずさむ。まるで後ろ暗いことなど何もないような清浄さが漂っている。
私は礼拝堂でぼんやりと座ってマリア像の隣にある天使像を眺める。愛しい人を想いながら。
天使とは本来性別がないものなのだと、その時改めて思った。きらびやかなステンドグラスから、天使が舞い降りて来そうだった。雪のような羽を、羽ばたかせて。ハレルヤ、ハレルヤと……。
九月半ば
秋の始めのある日、横浜の片隅の明るいカフェで、フロアをぶらぶら歩く若い女性は、同性から見てもなかなか魅力的だった。派手というほどではないがそこそこ華やかな服装に、中肉中背、特にスタイルがいいというわけではないが、醸し出す雰囲気とどこかコケティッシュな表情にはセクシーさが感じられた。
中学生時代を父親の転勤でマニラで過ごした経験があると聞いて納得した。なんとなく、そんな感じだ。
彼女は今井 菊と名乗った。見た目とは随分かけ離れた名前だとつい笑ってしまったら、彼女も晴れやかに笑った。
「そうなの、いつも最初名乗るのが恥ずかしいんだけどおばあちゃんの名前がキクなんだって。お父さんが自分のお母さん大好きらしくて。もう二人とも死んじゃったんだけどねー。同じ花でも菫とか、せめて桜にして欲しかったな。あ、菊って呼んでね」
うふふと笑うと、菊はジンジャーエールを頼んだ。
一緒に来た菊の彼氏は整った顔立ちをしているが、ちょっと怖いというか、勢いのある男っぽいタイプで、革ジャンがよくお似合いだった。私には苦手なタイプだ。その男は前川と名乗り、昼間からビールを頼んだ。
私と私の彼氏はどちらかというと目立たない方なので、彼にこんな友人がいたのは意外だった。
「それで、披露宴で歌わせてくれるの?」
菊がニコニコと尋ねた。
「ええ是非、お願いします」
こちらもついつられて笑顔になる。
「北沢、お前のギター大丈夫か? 腕なまってないか?」
前川が言った。
「頑張るよ。久しぶりだな、一緒にやるの」
私の彼氏の北沢 恵介とは、もうすぐ結婚する予定だ。私は長野 露子二十八歳、タオルやエプロン等の生活雑貨の店の店員で、彼は一つ年上の近所の眼鏡屋の店員だった。
結婚にあたって、昔バンドを組んでいたという彼が式で生演奏をしたいと言い出したので、その時の仲間を呼び出して顔合わせをしているわけだ。
「山本とかは? 駄目だった?」
「うん、仕事がすごい忙しいらしくて、練習する時間がないって。山本が駄目なら岡田も無理だってさ。商社だもんな。でもお前の彼女が歌やってくれるなんてラッキーだよ」
菊は前川の働くレストランバーでウェイトレス兼歌手をしているそうだ。露子の二つ下だった。
「サラリーマンは大変だねえ」
前川が皮肉っぽく呟いた。
「こいつギター上手いんだよ。店でもたまに弾いてるんだよな? 今でも演奏続けてるのは前川だけなんだ」
恵介が嬉しそうに露子に言った。露子はお酒を飲まないので店に行ったことはないが、恵介は時々行っているらしかった。前川はバーテンで、酒の担当者だった。
「楽しみです、今度お店に行きますね」
そう言う露子を、前川はチラッと見るだけで、何も言わなかった。すかさず菊が答えた。
「是非来て下さい。お酒飲めなくても大丈夫よ。ご飯も美味しいから。ねえ、うちの店で披露宴やるって話だけど、式は? どこでやるの?」
「式は身内だけでする予定なんです。教会で。私の両親がクリスチャンなものですから。私たちは特に信者ってわけじゃないんですけど、うちの親の強い希望で」
「えー本格的! それ行っちゃ駄目なの? 見てみたい!」
「すみません、そっちは身内と教会関係者だけと言う話になってまして。その代わりに披露宴は賑やかにやりたいんです。でも結婚式場は高いし、気楽にレストランが良くて」
「そうなのね、私頑張るわあ。ねえヒロ」
前川 ひろしは曖昧に頷いた。
「お前んちはいいの? 教会って」
「うん、うちは特にこだわりないからさ。別に変なとこじゃないし」
恵介が答えた。
「そうか。予約のほうは大丈夫だ、オーナーにも了解もらったから。人数がハッキリしたらすぐ教えてくれ。これは前に二次会をやったお客さんのメニューだ、参考にしてくれ。別メニューも考えてもらってるから。あと、これが一応演奏する曲の候補だ。それと店の場所を明記したハガキを送るだろ? 印刷の関係があるから、早めに出席者の住所リストを揃えたほうがいい。それと、酒の種類だけど……」
前川と恵介が前のめりになって話し始めた。
なんだか、前川は露子が苦手な雰囲気だ。まあ露子も苦手なタイプだと思ったから、気持ちが伝わったのかも知れない。水商売の男には、慣れていない。
「露子さんだっけ。おめでとうって、言ってなかったね」
菊が愛くるしい笑顔を見せた。ふわふわの猫っ毛がよく似合うな。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
露子も自然と笑った。
「敬語やめよ。これを機に仲良くしようね、露子さん」
「もちろん、喜んで。菊ちゃんは自分の務め先以外でも歌ってるの?」
「うん、うちの店は土日しか演奏できないの。それも毎週違う人たちがやってて、二ヶ月に一回か二回くらいしか順番が回って来ないから、大体週末はライブハウスとか、演奏できる居酒屋とかあちこち回ってる。時々イベントもあるよ。遊園地とか商店街とか、フェアなんかに出れる時もあるし」
「そうなんだ、大変だね。平日はウエイトレスやってるの」
「うん、大変だけど歌が好きだから楽しいよ。彼もいるし、飲食店だと食費も浮くしね」
「ああ、そうか」
菊は人懐っこい笑顔で店の料理や以前あった二次会の説明をしてくれた。
「ビンゴとか、よくあるけどやるの?」
「そうねえ、演奏の他にはそれくらいかしらね」
「ブーケトスとかは? 私、取りに行っちゃう」
「うーん、どうかなあ。もう出欠は大体取れてるのよ。そんなに大勢じゃないから……。友達数人と職場の人と親戚くらいで……。レストランの広さにもよるけど」
「定員は五十二名でございます。でも立食ならもう少し多くても大丈夫ですよ、お客様。お庭も小さいけどございます」
「なら充分ね」
二人は笑った。男たちは準備の話に余念がない。菊が声をひそめて言った。
「ヒロ、ちょっと無愛想でしょ? ごめんね、でもいいやつなんだ、本当に」
「うん」
確かに悪い人ではなさそうだ。演奏の話をする恵介の表情は見たこともないくらい輝いていた。前川も熱心に相談に乗っている。
「見た目がちょっと怖いね? でも優しそう」
「そう、優しいんだ。私はソロ歌手なんだけど、時々一緒にやってくれるの」
「前川さんもソロでギターやるの?」
「うん、たまに……。今度ライブ来てね。インスタで予定挙げてるから」
「もちろん喜んで」
帰り道、恵介は饒舌だった。前川は途中で大学を辞めてしまったが、一緒に演奏できたあの時代が一番楽しい思い出だと語った。
「カッコいいだろあいつ? モテたんだよ」
「そうねえ」
あまり興味はなかったが、こんなに嬉しそうな彼氏の話を遮ることもない。
「私のタイプじゃないけど、カッコいいかもね」
「つゆはお堅いからなあ。ま、そこがいいんだけど」
「ライブ情報、さっき見たけど、菊ちゃんの行きたいな。ほぼ毎週どこかで歌ってるみたい。遊園地とか、スナックとかあちこち」
「そうだな。いつがいいかな?」
「来週、川崎の居酒屋でやるんだって。金曜日」
「金曜か、俺は無理かな。スタジオ借りて前川と二人で練習することにしたんだ」
「そうなのね、いいわ。私一人で行ってみる」
「そう? 土曜休み?」
「ううん、でも遅番だから」
「一人で居酒屋なんて大丈夫?」
「平気よ、もう。子供じゃないんだから」
「菊ちゃん可愛いよな。前川とお似合いだよ」
「可愛いね。彼女好きよ、私」
「周りにいないタイプだな」
恵介と別れて一人暮らしのアパートへ帰ると、早速携帯でレストランの情報を検索した。
花がそこかしこに飾られ、イタリアンをベースにした大人のレストランバーの写真にはカウンターで酒を作る前川が写っていた。菊は写っていなかったが、別の女性シンガーが歌っている姿と、料理人等の写真があった。
生演奏ありのお店か、そう言えばあまり行ったことはないかも知れない。
金曜の夜、snsで見た川崎の居酒屋に着いた時は菊の歌うタイムテーブルギリギリだった。軽く注文するとすぐに菊が登場した。席は八割埋まっている。
小さなステージに、オフホワイトのワンピース姿の菊が細いギターを抱えて現れる。露子に気付くと、ウィンクしてみせた。何とも魅力的だった。
軽いトークで慣れたように挨拶をすると歌い出す。高すぎず低すぎず、心地よい声音が響いた。ギターは少ししか弾いておらず、音源は携帯で出しているらしい、不自然はなかった。常連客もいるらしく
「菊ちゃーん!」
とサラリーマンたちが合いの手を打った。
二十分ほどで歌は終わった。雰囲気良く楽しいひと時だった。
「一時間後にまたお願いしまーす」
菊は拍手の中一度引っ込むと、しばらくしてまたフロアに出てきた。常連客やスタッフとひとしきり談笑してから、露子のテーブルへ来てくれた。
「いらっしゃい、来てくれてありがと」
「上手かったね。歌聞けて良かったよ、菊ちゃん」
「ありがと、座っていい? 店長、ウーロン茶お願い!」
ウーロン茶が来た時に料理を追加注文すると、二人は乾杯した。
「お疲れ様! 北沢さんは今日来ないの?」
「うん、今仕事終わるくらいかな。恵介のとこはショッピングモールだから閉店時間が遅いのよ。私は百貨店だからちょっと早く閉まるの」
「そっかあ。いいなあ、結婚かあ」
「……菊ちゃんもしたい?」
「そりゃあ憧れるよ。ヒロさえ良ければ、だけど……。今は忙しいし、お金もないしね」
「前川さんはあまりそういうタイプじゃなさそうだしね。音楽活動はしてるの?」
「ヒロは、最近はあまり……昔はもっと弾いてたみたいだけど」
菊は言葉を濁した。
「一緒にやらないの? 菊ちゃんはあんなにスケジュール入ってるのに」
「うーん……。ヒロはお店で頼られてるからね。あ、ちょっと食べていい?」
「どうぞ。……菊ちゃんの声、柔らかくて耳にいいね」
「えっ嬉しい! 露子さん、私、本当に歌が大好きで……。子供の頃から歌手以外なりたいものなんてなかったの、お母さんがピアノ教師なんだけど、ピアノはどうも、弾けるけどなんか苦手で」
「そうなんだ」
二人はその夜長年の友のように大いに話し、盛り上がり、その後の歌も聞いてから結局露子は閉店ギリギリまで居続けた。菊もお喋りしたいようで、お互いの仕事や家の話等をした。
「私は結婚したら、子供にはなんかサックスとか、クラリネットとかやって欲しいな。ファミリーでライブしたい。音楽ってね、その時の感情を増幅させてくれるよね、悲しい時は思い出に浸らせて、嬉しい時はもっと。あ、神父さんの言葉みたい! 病める時も健やかなる時も、ね。フィリピンもカトリックだから、マニラにいた時見かけたことあったな、教会の結婚式。ほら、車に空き缶つけてるの」
露子は菊の話を聞きながら、幸せな心地だった。
アパートに帰宅し、ベッドに横になってもまだ露子の胸は高鳴っていた。少し興奮しているようで、思わずため息が出る。
「ふう……」
露子には親友というものがいなかった。ライトな友人はいたし、同僚とも波風立てずにやっているが、本音を吐ける相手は昔からいない。
幼い頃から自覚していた……。いわゆるトランスジェンダーというやつだ。
露子は菊に、恋をしていたのだ。昔から、ドキドキするのは可愛い女の子だけだった。菊には一目惚れしたと言って良かった。あのカフェで見た時から……。
だからといって何かしたいわけではない。生まれて初めて、一目惚れという体験をさせてくれた彼女の側にいたいだけだ。
優しいだけが取り柄の、ちょっと女性的な恵介は安心出来る珍しい男性で、一緒に生活出来る唯一の男と言っていいだろう。穏やかで滅多に怒らないところが人として好きではあったが、友達と大して変わらない、言ってみれば同志だ。あっさりした性格と、セックスが淡白なのも大きな取り柄だった。いかにも草食系、といった感じが良かった。
普通の常識人としての道を踏み外す気もない。面倒はごめんだった。レインボーだなんだと、市民権を得たような昨今だが、なんだかんだ言って白い目で見られるのも想像がつく。そんな生活はごめんだ。
そもそもキリスト教では同性愛は罪と言う考えだった。もちろんそれは古くさく、今は建前に過ぎないものではあるだろうけど。
しかし露子の両親は体裁を気にするたちなので、一生独身もトランスジェンダーも、周りと違う、異質なことを認めるはずはなかった。実際父と母の仲は冷え切っていたが、離婚する気はないようだ。
これに反発する気持ちはあっても、残念ながら戦う気はない。大体決まったパートナーがいないのだし。作る勇気も持ち合わせていなかった。
このことは過去誰にも言ったことも、アクションを起こしたこともなく、露子一人の秘密だった。カミングアウト出来たら楽だろうか? いや、きっと面倒が増えるだけだろう。
露子にはそれを堂々と宣言する度胸もチャレンジ精神もなかった。平穏無事に日々を過ごせたら、それでいい。
何をするにもちゃんとしなさい、と言われる気の休まらない家庭に育ったので、暖かい家庭に憧れもある。恵介とならそれが出来るだろう。まともでいたい。
その凪のような毎日に、菊は突然舞い降りてきた一羽のカモメのようだった。ただの海よりずっといい。生きた鳥が飛んでいるほうが。
前川はサメっぽいかな。私は広い海の真ん中に鎮座する岩でいい。時々鳥が休息し、魚が隠れられる岩。恵介は……亀?
数日後に訪ねた、ちょっとしたガーデンパーティーができる洒落たレストランバーは、思ったより広かった。丸テーブルが広がりヨーロッパ風の内装で、レンガを模した壁紙に、レトロなランプや中世の絵画がかけられている。
「素敵ね、明るくてモダンで……」
「だろ? 君を連れて来たかったんだ」
恵介は上機嫌だった。店の一角にバーカウンターのコーナーがあった。色とりどりの酒がずらりと並んでおり、存在感を放っている。
「あそこが前川さんのテリトリー?」
「そうなんだ、いつもあそこにいるけど、今日はまだかな? ランチタイム、もう終わりのはずだけど」
「早く着きすぎたかしら」
恵介は前川のことを話す時はいつも嬉しそうだ。彼のことが好きなのが、よく分かる。きっと自分は平凡な就職をしているから、今でも楽しんでいる風の前川が羨ましいということなのだろう。
しかし露子に言わせれば、前川だってこのレストランに就職してたまにギターを弾いているだけなのだから、大して変わらないと思う。別に弾きたければ弾けばいいのだ。場所がないなら公園にでも行けばいい。単に飲食店だからサーファーみたいな見た目でもいい、という違いだけだろうに。確かに自由には見えるが、別に趣味を大事にしている普通の社会人だろう。そんな人、いくらでもいる。
「いらっしゃいませ」
聞き覚えのある声に振り向くと、前川が白シャツの制服で迎え出た。革ジャンの時と印象が違い、キリッとした感じでサマになっている。七分袖のシャツからは両腕のタトゥーがハッキリと覗いていた。堀の深い顔立ちは外国人っぽさも感じられ、いかにもバーテンっぽい。確かに店の雰囲気とも合っている気がする。モテそうだ……。
「よお、お邪魔するよ。今来たのか?」
タトゥーはオオカミらしかった。前川らしい。
「うん、普段はディナータイムだけ出勤なんだ。ランチは人がいない時だけ出てる」
「あら、今日は私たちの為に早く出勤させちゃいましたか?」
「構わないよ、大事な披露宴の打ち合わせですからね」
私と前川の会話はこれだけだった。あとは恵介と二人で話し、用があると恵介が露子に尋ねた。
ネットで見かけた口ひげの料理人がやって来て、二人に愛想良く挨拶した。
「この度はおめでとうございます。店長の田崎といいます。記念すべき披露宴にうちを選んで下さってありがとうございます」
「とても素敵なお店ですね。よろしくお願いします」
「もちろんです。ご主人の方は、以前からいらしてましたが、奥さんは初めてですね?」
奥さんだなんて、気が早い。
「はい、バーと聞いていたし、お酒が苦手なもので……。でも飲めなくても良かったですね。ランチもありますし」
「もちろん、料理だけ、デザートだけでも歓迎しますよ。今日のケーキをどうぞ」
そこへ菊が現れた。露子はほっとした。手にしたトレーに紅茶と、レモンスライスが飾られたシフォンケーキを二人分載せていた。
「どうぞお客様」
「ありがとう」
二人は笑みを交わした。
「菊ちゃん、座ってよ」
カフェエプロンをした制服の菊も可愛かった。ちょこんと座ると、悪戯っぽく笑った。
「店長、私ランチで上がりなんでいいですか?」
「ああ、当日歌うんだったな。曲決まった?」
「候補の曲cdにして持ってきました。選んで貰おうと思って」
今はランチ終わりのアイドルタイム、十五時過ぎだ。多くのスタッフは休憩時間に入るのだろう、客もまばらだ。そこらにいる店員たちもちょくちょく挨拶してきた。
「こんにちは、ウェディングパーティーを開くお客様ですか? よろしくお願いします」
といった風に気さくで、感じのいい店だった。
恵介は常連だけあって軽く店員たちと話している。
「お二人のなれ初めを尋ねてもいいですか?」
店長がにこやかに聞いた。
「私が彼のお店でコンタクトにしてから、色々教えて貰って……」
「ああなるほど。ドレスは広がるタイプですか? テーブルとテーブルの間がちょっと狭いかも」
「いえ、マーメイドタイプにしました。良かった、裾が広がらないから歩きやすいかも」
人数や値段、当日の料理に配置など、決めることは沢山あった。とりあえず今日はここまで、と終わった時は、そろそろディナータイムが始まる頃だった。菊が制服を着替えて戻って来た。入れ代わりに恵介は席を立つ。
「ごめん、僕はもう行かなきゃ……。君はゆっくりしたら? 菊ちゃんもいるし、今日のは僕の荷物だし」
「うん分かった。じゃあね」
恵介が去ると、菊が聞いた。
「新居に引っ越し?」
引っ越しが近いことは話していた。
「うん、今日は新しく買ったベッドと本棚と、タンスとかの大きい家具だけ届くの。その受け取りがあるから。恵介は実家暮らしだから、古い家具ばかりで。引っ越しは来週なの。私は一人暮らしだから、家電は大体うちにあるもので間に合わせるんだ、新居は鶴見区なんだけど。菊ちゃんはどこに住んでるの?」
「え、私もヒロも鶴見よ!」
「そうなんだ? 菊ちゃんはお母さんと弟さんと住んでるって言ってたよね?」
「うん、ヒロとは偶然同じ駅なの。出口は反対方向だけど、よく送ってもらって、付き合うようになったのよ」
「そうなんだ……」
新居は二人の通勤場所からそれぞれ行きやすい場所にしたのは違いないが、鶴見を強く希望したのは恵介だった。
前川の近くに行きたかったのかも……。
「ねえ露子さん。場所換えない?」
「いいの?」
ずっと同じところにいるから、正直露子も場所は換えたかった。
「うん、ここだとみんなに聞かれるし」
二人は立ち上がり、店のみんなに挨拶した。前川はウエイトレスの女の子と何やら話し込んでいる。菊が近寄ると、女の子は遠慮するように離れた。
「ヒロ、今日は露子さんと夕飯食べて帰るね」
「ああ、気を付けろよ」
前川と露子はお互い軽く会釈して離れた。
近くのファミレスに落ち着くと、菊はちょっと疲れた顔を見せた。
「実は、ね。ヒロが……最近なんか暗いのよ。ちょっと黙り込むことが増えて。なんか考えこんでるっていうか……。会話が減ってるの」
「なんかって? 心当たりないの?」
「ごめん……まだ知り合ったばかりなのに、しかも花嫁さんに、こんな話……。でも露子さんとはもう友達だもんね。……私、なるべくヒロの負担にならないようにしているつもりなんだけど。夜遅い仕事だからすれ違いも多いし、つまり……泊まっても寝るだけで、最近何もしない時が増えてるの。どうしたらいいのか……」
菊は恥ずかしそうに上目遣いで露子を見た。つまり……露子もちょっとドキドキした。
「……何年付き合ってるっけ?」
「もうすぐ三年……。倦怠期ってやつかなあ」
「そうかもね……菊ちゃんも忙しいんでしょ。私と恵介は四年だけど、そんなにないよ。特に最近は式の準備でバタバタしてるし。ほら、こないだスタジオ借りて二人で練習してたじゃない? 相当楽しかったみたい。前川さんも私たちのせいで忙しいのかも」
「うん……。私はヒロのこと、ずっと大好きなんだけど。ヒロは、最近どうなのかなあって……」
「何か悩み事があるんじゃないかな? 考えこんでるっていうのは。聞いてみた?」
「聞いたけど、何も言ってくれないの。もしかしたらだけど、他に誰かいるのかなあ? なんて……」
確かに二股くらいやりそうだ。
「誰かそれっぽい女の子いるの?」
「分かんない……。ヒロはモテるからなあ。本当は一緒に住みたいけど、今は何か言い出しにくい空気っていうか……」
こんなに可愛い菊を心配させるなんて、前川に腹が立つ。しかし本当に悩み事があるかも知れないのに、迂闊なことは言えない。
「とりあえず何を考えこんでるのか分からないとね、何とも……」
「うん……。ヒロから言ってくれるの、待ってるんだけど……」
「大丈夫よ、菊ちゃん。きっと痔とか、髪が薄くなって来たとかよ、ほら男は老けるの早いから」
やっと笑ってくれた菊と、食事を楽しんだ。二人はまた、歌や将来の話に花を咲かせた。
「たくさんの人に歌を届けたい。それで、自分の歌で悲しい時は慰められて、嬉しい時はもっと嬉しい気持ちに、なって欲しいの。お父さんが亡くなった時も、私もお母さんも音楽に救われたんだ」
「家族仲良いのね、いいな。うちはあんまり……」
「そうなの」
「うん、クリスチャンってのもあるけど、お堅いしうるさいしで小言が多くて。恵介んちの方が実家より気楽だったりするの」
「へー……。確かに北沢さんはのんびりしてそうだもんね」
「そうそう、悩みがないのよ」
その日もたくさん話し、寝る前にはcdの菊の歌を聞き、ラインでも話して、すっかり打ち解けていた。
十月
数日後、恵介は前川とまたスタジオを借りて練習すると言っていた。ただ今日は、菊も練習に来るそうなので、露子も覗きに行くことにした。
仕事帰りに急いだが、貸しスタジオの場所が入り組んで分かりにくくて、遅れてしまった。
「お邪魔します……」
扉を開けるとちょうど一休みしていたらしい、恵介、前川と菊も座って楽譜を見ていた。
「お、やっと来たな。もうそろそろ時間だよ」
露子を見て恵介が言った。菊が声を上げる。
「露子さんお疲れ様! あと一曲だけやろうか」
「そうだな」
「聞いてね」
菊がにっこり笑って歌い出した。音楽のことは分からないが、三人の演奏は素敵だった。
ギターを弾く前川は確かに魅力的だった。前川の胸に揺れるシルバーの十字架のペンダントが、空々しい光を放っている。まあただのファッションだから当然だ……。
歌う菊を見ながら、天使だ、と露子はぼんやりと感じた。
「……さあて、遅くならないうちに帰ろうか。明日も仕事だからね、お疲れさん」
来たばかりなのにもう終わりか。
「残念だけど、また菊ちゃんのライブに行くわ」
「これから、いくらだって聞けるよね」
女二人は親しみをこめてアイコンタクトした。
「おいおい、菊ちゃんの? 俺の演奏じゃなくて? 初めて聞いたろ? 感想ないのかよ、ひでえな」
恵介が笑った。忘れてた。
「もちろん良かったよ、恵介。前川さんも」
「ついでだなあ」
手を振って別れたが、菊の浮かない顔が気になった。前川は一言も喋らなかった。
確かに、あの態度じゃ引っかかる。
その夜、菊からのラインには不安の色があった。練習時、露子だけではなく菊ともあまり話さず、恵介とばかり話していたらしい。帰り道もほとんど喋らなかったそうだ。
しかし、露子には前川のことなど分かるはずもなく、疲れているだけだろうと、月並みな言葉しか返せなかった。
次の休み、朝から引っ越し作業を済ませてヘトヘトになっていた露子と恵介は、早めの夕飯を外で済ますことにした。銀行や郵便局へ寄ったりして、やっと近所の中華料理屋に入って一息つくことができた。
「ふう、一応片付いたな。やれやれ……。来週はまた前川の店に行って打ち合わせだったよね。そう言えば、前川が言ってたんだけど、あの店もうすぐオーナーが代替わりするらしいよ。オーナーの息子さんに」
麻婆茄子をつつきながら聞いていた露子はハッとした。
「そうなの? あのね……菊ちゃんに聞いたんだけど、最近前川さんが何か悩んでるみたいだって、それに関係あるのかしら」
「ああ、前川は学生の時から今のオーナーに世話になってるから、寂しいのかもな」
それだけ? ではないだろう……。
「……新しいオーナーさんと気が合わないとか、そういうことがあるのかしら」
「ああ、上が替わればやり方も変わるからなあ、そうかもな。そう言えば前川のやつ、この前色んなお客さんをもてなしているうちに、周りの人がみんな自分より上の立場なんだとしか思えなくなって来たとか何とか言っていたよ。そんなことないのにな。変なやつだよな」
そんなことは、接客業ならみんな思うことだ。何かありそうではあるが……。
露子には分かるわけがなかった。
菊とちょくちょくラインを続けながら、翌週店を訪問した。その日菊はおらず、前川と店長と恵介と露子の四人でテーブルを囲むと、打ち合わせは順調に進み、前回より早く終わった。
「明日一日、実家に帰るんだ」
電話に呼ばれた店長がその場から去ると、コーヒーを飲みながら前川が言った。恵介が答えた。
「そうなのか、お袋さんに会いに?」
「草むしりの手伝いだよ。庭が荒れ放題なんだ。昔は庭いじりが趣味だったのに、最近はもう面倒くさいらしくてさ」
前川は母一人子一人らしい。
「成田のほうだっけ?」
「うん、だから日帰りだけど。じゃあ、お疲れ。また連絡するよ」
前川は席を立つと、他の店員たちと今日の予約がどうのと話し始めた。恵介は演奏の練習のことを気にしていた。
「後一回だけ練習したいんだよな……。大体出来上がってきたよ。いよいよだな、つゆ」
「そうね、もうすぐね」
ひげの店長が戻って来た。
「いやあ、失礼しました。それにしても、パーティーがリニューアル前に間に合って良かったですよ」
と言った。
「リニューアルですか?」
「ええ、パーティーのすぐ後になるんですが、ちょっと改装するって決まったんです」
「そう言えば、こないだオーナーが替わるって聞きました」
店長が頷いた。
「そうなんです、それでね。新しいオーナーの意向ですよ。大がかりなことをするわけではないんですがね、模様替えですよ。三日ほど休業する予定なんです」
ふと気付くと、前川がこちらを見ていた。その表情は苦いものだった。なんだろう……?
教会で式を挙げるに当たっては、夫婦どちらかが信者であることと、揃って何度か教会に通う必要があった。恵介は文句を言うこともなく付き合ってくれる。が、内容に興味はないみたいだ。
恵介はごく普通の平均的な日本人として、初詣やお参りに行くし、クリスマスも祝う。特に宗教感はないらしく、この教会通いもちょっと面白がっている節がある。だが茶化すことはしないでいてくれた。こういうところが楽でいい。
子供の頃は、日曜は礼拝に行くなどと言うと、お祈りとかしてんだ~? などとからかわれたものだ。行かないと怒られるんだから仕方なかった。
マナーを守って楽しめばいい、という節度あるこだわりのなさは、まさに神道から来る八百万の考え方であり、恵介たち一家にはそれすらも自覚していないおおらかさが心地良かった。
神父さんと式の話をした後、恵介は先に帰って行った。
「……ご主人になる方は、聖書にあまり興味がないようですね」
初老の神父が穏やかに言った。
「ええ……すみません、彼にとってはイベントというか……」
「いいんですよ。……あなたのお母さんから入信する気はないのかと連絡がありましたけど、押し付けは良くありません。こうして人生の門出のお手伝いができて光栄ですよ」
この神父は両親と知り合いで、もう何年も付き合いがあるが、怒るという感情をどこかへ置き忘れたかのような人だった。いかにも聖職者らしいというか、ポーカーフェイスな……。
「はい……ありがとうございます」
かつて露子が一人暮らしを始めるに当たっては、この教会に通うことが条件だった。しかし実際はたまにしか顔を出していない。本来はもっと参加するべきなのだが……。
親の要望と違って名ばかりの信者でいることに対して、神父は何も言わずに見守ってくれていた。
「……神父さんは、同性婚についてどう思われますか?」
「はい? 唐突ですね」
「あ、すみません……。ほら、パートナーシップ制度とか今はありますよね……カトリックでは罪という考えじゃないですか? つまり法的に認められたから。ニュースとかでは観ても、周りにいないもので……実際はどうなのかと」
「ふむ、そうですね。確かに教会で式を挙げたいとなると、うちは断ると思います。でも受けるところもあるのではないですか? 時代もありますし……そういう依頼はまだありませんけど。やはり聖書の教えに反しますからね」
「そうですか……」
「でも、私の友人にそういう方はいましたよ。式は挙げていませんが、パーティーに行ったことがあります。正式にパートナーになったと。つまり結婚という感覚ですよね。宣誓をしてくれと頼まれましたけど、最後の、この二人を夫婦と認めますという文言は言わないという条件でやらせてもらいました。なので、最後だけ他の方が言いましたよ」
「そうなんですか、反感はないのですか?」
「まあ、将軍さまも男色してましたからねえ」
神父はいつもの穏やかな目のまま、ニカッと笑った。それは初めて見る、聖職者らしくない表情だった。
「あんまりおおっぴらに言えることではありませんが、幸せならいいんじゃないでしょうか? 彼らは本当に幸せそうでしたよ。見てるだけでこちらも嬉しくなるくらいね。相当苦労したようでしたし……」
「そうですか……」
ちょっとほっとした……。その時、教会の関係者が神父を呼びに来た。
「……もう少し、ここにいても?」
「どうぞごゆっくり」
露子は一人礼拝堂に座り、十字架とマリア像、天使像や周りの絵画と彫刻等を眺めた。
この清い静寂は、嫌いじゃない……。
露子は自然に両手の指を組んだ。全く、習慣とは恐ろしいものだ。
露子にとって信仰は親に押し付けられたものに他ならない。学校も当然のようにミッション系の女子校だった。見慣れたキリスト像に問いかけてみる……。答えはないと、分かっていたが。
神がもしいるのだとしたら、何故大昔から決してなくなることのない同性愛を罪としたのか。男だろうと女だろうと、人を愛する気持ちは尊いものだろうに、何故迫害されなければならないのか。愛することで罰されたなんて……。
露子の両親は外面ばかり良い典型的な仮面夫婦で、昔から冷ややかな家庭だった。神父もそれを分かっているのだろう。
子供の頃、父が同じ信者の女性と抱き合っているのを見てしまったことがあった。しかし母は無関心で、二人が協力するのは露子への教育指導に限られていた。
愛がなくとも、夫婦でありさえすれば認められるのだろうか。宗教とは救いのため、幸福のために存在しているはずなのに。矛盾している……。
そう思うのに、信じていないのに、つい幼い頃からの慣習で、こうして祈ってしまうのだ……。
神様、どうかあの二人を別れさせてください、それ以上は望みません。と。
菊からのラインには、弱気な気持ちが溢れていた。里帰りから帰った前川は、今はアパートに来ないで欲しいと菊に伝えたらしい。
これまで週二、三回は泊まっていたのに、最近どんどん減っているようだ。明らかに避けてられている。これでは恋人は不安になって当たり前というものだ。
露子はつい仕事中も菊のsnsを思い出していた。何年か前の、前川とのツーショットは実に幸せそのままのカップルだったが、最近は歌ってる姿ばかりでツーショットは少ない……。
「あっ、式のことでも考えてた? もうすぐだもんね~お幸せっ」
ぼんやりしていると同僚がからかってきた。
「ん? いやいや……」
「それにしても、まさか長野さんに先越されるとはね~」
「え?」
「だってあなた、男の話とかノってこないし、いらないって感じだったもの。四年も付き合ってたなんてね~」
「ああ、あんまり話したくない方で……」
恋バナで盛り上がったり、彼氏のことを色々聞かれたりというのは面倒なだけだ。さすがに結婚は言わなきゃ仕方なかったが。
「ごめんごめん、いーのよ別に! ね、あれ見てよ、可愛いと思わない。エンジェルウィングスって言うんだって。名前まで可愛いよね」
ふと見ると、売り場の観葉植物の入れ替えをしている。白い、変わった葉だ。
「それ、何ですか?」
交換していた業者に尋ねると、
「はい、セネシオ エンジェルウィングスって言うんですよ。こう見えて菊科なんです。最近冬に人気なんですよ。雪みたいでしょ、肉厚のこの葉っぱ。タオルっぽいかな」
「本当ですね、ふわふわしてこれからの季節にも、うちの店にもピッタリだわ」
と同僚が笑った。
「本当ね……」
エンジェルウィングス、天使の羽か……。
十一月
しばらくして、露子の休みに菊と待ち合わせした。
歌の仕事はない、ウエイトレスの仕事だけの日だそうで上がりの二十時まで待って、初めて顔を合わせたカフェで会った。
菊は弱々しくも微笑みながら尋ねた。
「引っ越しお疲れ様。どう、新婚生活は?」
「うん別に普通よ、仕事忙しいしね。特に変わらないかな。それより前川さんとはどう?」
「うーん……」
菊はやはり他の女の影を疑っているようだ。
「これって人がいるわけじゃないんだけど、なんか、みんな怪しく見えちゃうかなあ。もうそんなことばかり考えちゃって……」
露子は聞き役に徹しながら、同時に菊の声に癒されていた。
「そう言えば、お店リニューアルするって聞いたけど。オーナーさんが交替するんだってね?」
菊の顔色が変わったので、露子も気付いた。やはり関係あるんだ。
「うん……。息子さんね。私はよく知らないんだけど、ヒロは、あまり好きじゃないみたい……ヒロは今のオーナーと付き合い長くて仲良いから。でももう七十過ぎてるしね。引退したいらしいから」
「なんで息子さん好きじゃないの?」
「うーんなんか……売り上げ重視の考え、みたいなこと聞いた」
それは仕方ないことだろうに。
「そうなの」
「うん。だから、今の店のスタイルから無駄を省くって……今のスタイルは、オーナーの趣味だから」
「無駄……?」
菊は不満そうに呟いた。
「お酒の種類が多いから……」
「ああ……」
前川は酒の担当だった。そうか、なんとなく見当がつき始めた。
「つまり前川さんの仕事が減るわけね」
菊の表情は固い。ストローでアイスティーの氷をカチャカチャと回して頷いた。
「……うん。バーテンだからね、ヒロは」
「それってつまり、クビがかかってるってこと?」
菊は激しく首を振った。
「それはないよ。今話し合いしてるんだって。ヒロはもう十年もあそこで働いてるもの。クビじゃなくて、ただ……バーテンらしい仕事は、カクテルはなくなるかもって……」
つまり単なるウェイターということか。
「今のお酒のメニューはほとんどオーナーとヒロが決めたのよ。二人とも好きだから……。息子さんはあんまりそういうの興味ないんだって。カクテルもそんなに売れてるわけじゃないから、ビールとサワーとかだけにしたいみたいで。オーナーが残すよう説得するってヒロに言ってたらしいんだけど……。ほらカクテルないと居酒屋メニューみたいじゃない? せっかくお洒落なのにね? 雑誌の取材受けたことだってあるのによ?」
「そうね、確かに……」
そうは言っても、売り上げが良くないんじゃカットされても仕方ない。露子の店でも普通にあることだった。
そうか、つまり前川は慣れ親しんだ店を辞めるかどうか悩んでいるのかも。
「ヒロも、やりがいが違うみたいだし……」
「そりゃそうよね。なら他の女とかよりそっちの心配じゃない? なんか考えこんでるって、それよね?」
「でもお店のことなら話してくれてもいいのに、ヒロは私には話してくれないの。この話も他の子から聞いて。だから私からヒロに聞いたんだけど、あんまり話したくないみたいで……なんでだろ」
「あ、他の子って、女の子に聞いたの?」
「うん……。でもね、来週のライブ、ヒロが演奏してくれることになったのよ。約束してた人が来れなくなって、相談したら出てもいいって……。久しぶりなんだ、二人でやるの」
菊は嬉しそうに言った。ちくりと露子の胸が鳴った。
「良かったね」
「うん、一緒にステージに立てるだけで嬉しいの。……露子さん、わざわざありがとう。おかげでちょっと気が楽になったよ。結婚前で忙しいだろうに……。ごめんね」
「いいのよ、菊ちゃんのこと心配だから」
それは本心だ。
「久しぶりなんだ、一緒にやるの?」
菊は頷くと
「ヒロも、プロ目指してた時期もあったみたいなんだけど、ね……。なんか、もういいみたいだから……」
とちょっと言いにくそうにした。
「ああ……」
そうか、大学を辞めたのはそういうことか。
「簡単じゃないよね、ミュージシャンなんて」
「うん、そりゃね。私は実家だからまだいいけど……。だから余計、今バーテンとしてのやりがいが大きいのは分かるんだけど、だからって、私を避けるのは分からなくて」
「そうねえ……。ね、慰めになるか分からないけど、これ……プレゼント」
露子は植木鉢を差し出した。
「あ、何だろうと思ってたの。私に?」
「うん。うちの店に同じのが飾ってあったの。これ見て菊ちゃん思い出したのよ。エンジェルウィングスって言うの。観葉植物でね、これでも菊の仲間なのよ。ほら、天使の羽みたいでしょ。ふわっとしていて」
「本当だ可愛いね。へー、こんなモコモコなのに菊なんだ? って、私みたいって?」
「天使みたいなイメージだから……」
ちょっと恥ずかしいが、本音だった。それに、何かプレゼントがしたかった。
「天使? 私が……?」
露子が微笑んで頷くと、菊も植木鉢を見つめて微笑んだ。
「……ありがとう露子さん、嬉しい」
「ただいま~」
例によってスタジオで前川と練習して来た恵介は、夜遅くに上機嫌で帰宅した。露子は丁度母からの電話を切ったところだ。
「お帰り、お疲れ様。練習楽しかった?」
「今日で練習最後なの残念だよ」
「そうね、何か食べる?」
「いやいいよ、前川と食べてきたから。電話またお母さん?」
「うん、式の準備はどうかって……しつこいのよね、大丈夫だって言ってるのに」
露子はコーヒーを淹れると、前川が店を辞めるかどうか悩んでいるようだと、恵介に話した。
「やっぱり新しいオーナーさんと合わないらしいのよ。恵介何か聞いた?」
「いや、俺が聞いたのはお袋さんがあまり具合良くないらしいって話だ。病気ってわけじゃないんだけど年だから。こないだ帰った時も心配してたよ」
「そうなの……?」
「お一人だからね。なに、あの店辞めるって? なんで?」
「お酒の種類が多いから減らすんだって。そしたら前川さんの仕事が減るから」
「ああ、なるほどなあ。酒好きだからなあ」
「前川さんも前は音楽で身を立てたかったの?」
「ああ、大学辞めたのは、そうだな。それもあるだろうけど、あそこのバイトが楽しかったってのと、とにかくギターをもっとやりたかったみたいだ。学費のこともちょっと気がかりだって言ってたな。でもさ、音楽やってたらみんな、一度はプロにって夢見るもんだよ。でも今はあの店でかなり頼られてるから……。そうか、どうするんだろ。気になるな」
「恵介もプロになりたいと思った時あった?」
恵介ははにかんで手を振ると笑い飛ばした。
「いや、俺はそこまで……。ただただ、楽しかった、それだけだから。でもそういえば、あいつ、最近店であんまり演奏してないかもな」
次の週になると、恵介も露子も新婚旅行でしばらく休みをもらう前なので忙しかった。
あの二人の演奏の日はスケジュール的に観に行くのは無理だったが、正直観たくなかったので都合が良かった。
菊が写メをsnsにアップしていた。露子はジュエリーショップからの帰り道にそれを見ていた。二人が楽しそうに演奏している写メだった。弾けるような笑顔の菊。
モヤモヤとジェラシーの炎が胸の内に燃えるのが分かる。幸せそうなツーショットを見ていると、どうしても、考えたくなくとも、二人が裸で睦み合っている姿が思い浮かんだ。
露子は受け取ったばかりの結婚指輪の袋を握りしめながら、淫らな妄想に悩まされた。
辛い……しかし、友人としてこの写真の感想を菊に送らなければ。三日後には式だし、話をしたかった。
翌日、幸い恵介の帰りは遅く、露子は菊に今いいか、と前置きしてから電話した。会いたかったが、会いに行く暇はなかった。
「菊ちゃん、写真見た……どうしたの?」
露子はびっくりしてつい大声をあげた。電話の向こうで、菊がしゃくりあげていたのだ。
「ごめん……露子さん、私……」
「どうしたの!」
「しばらく会わないって、言われたの、ヒロに……」
「あ……どうして?」
「詳しく言ってくれなくて……。お店も辞めるかもって……。うう……。ただ、他所でも働いてみたいとかなんか、ハッキリ言ってくれなくて……。一人にして欲しいとか……」
「そうなの……」
「露子さんたちの式が終わったらわけを話すって……言われた。それまで待ってくれって……」
心配し過ぎずゆっくり寝てとか、大したことは言えないまま電話を切った。露子は前川に対する怒りにかられた。どういうつもりなんだろう?
考えたって、何も分からない……。
一度話を聞きたいような……。しかし、恵介がいると話しにくい。明後日から休みに入る。明日しかない。
翌日の仕事帰りにレストランに寄った。もうすぐラストオーダーという時間だった。客もわずかだ。夜は特にカラフルな酒に囲まれたカウンターが目につく。
見覚えのあるポニーテールのウエイトレスが案内してくれた。
席に着くと、バーカウンターにいた前川が露子に気付いた。が、他の客と話していたので、チラッと見ただけで目を反らした。どうやら常連らしく、会話が弾んで楽しそうだ。
軽食をつまみながら恵介に残業で遅くなるとラインした。嘘ではなかった。実際遅くなり、この時間になったのだ。
「前川さんって、もう上がります?」
露子はラストオーダーを聞きに来たウエイトレスに尋ねた。
「はい、もうすぐですよ。お約束ですか? 伝えておきますね」
前川の元へ行き、伝言を聞いたポニーテールの彼女が戻って来た。
「あと二十分ほど待ってくれと」
「ありがとう」
時間を見計らって会計を先に済ませた。少しして、前川が着替えを済ませてやって来た。無表情に露子の姿を認めると歩き出し、露子も少し離れて後ろを歩く。短い秋ももう終わりだ、外の空気は涼しかった。会話はない。
店の駐車場まで来ると足を止めた。やっと前川が口を開いた。
「堅実な新妻さん、こんな夜中に一人でうろついてちゃいけないよ」
好きで前川と二人で会うわけでもない、どうせなら菊に会いたかった。こっちだって新居を整えたり、残業したり式の準備だなんだでクタクタだ。
「ごめんなさい、ちょっと……。気になって」
「今日は菊は他所で歌ってるよ」
そんなことはスケジュールを確認して分かっている。前川はタバコに火を点けた。コンクリートの壁に寄りかかり、車の横でタバコをふかす前川はなかなか絵になっている。
「あなたに聞きたいことがあって……」
「お節介だな、保護者気取りかい。教師みたいだよな、あんた」
教師ねえ……。そう言われるのは初めてではない。黒髪のせいなのか、お堅い雰囲気だとよく言われる。
グレることはできなかったから根が真面目と言えばそうかも知れないが、勝手に男を知らないように判断する輩がちょくちょくいる。
厳格な家庭だったのは確かだからその影響はあるだろうけど、冷たい家にいたくなくて、ほんの二、三回のことではあるが昔はナンパについて行ったことだってある。そうやって処女も適当に捨てた過去があった。セックスというもの、男というものがどんなものか知りたかったのだ。結果はどうということもなかったが。
しかし恵介も、女子校だったせいもあるだろうが、男は自分一人しか知らないと思っているようだった。確かにまともな付き合いは恵介一人だが、見た目が大人しそうだからって真面目一辺倒ってわけじゃない。
まあ、どうでもいいことだ……。
「この前、菊ちゃんが泣いて悩んでたのよ」
「ああ聞いたよ。世話かけてるみたいだな」
「菊ちゃんのことは好きよ、一生懸命で可愛い、応援したくなる。歌が本当に好きで、頑張ってるんだなって思う。でもあなたは、なんだか最初会った時から私を面白くない目で見てたでしょ」
「あんたもだろ? ガラの悪いバーテンがあんたの真面目な彼氏の友達で、驚いたんだろ? 最初から俺を軽蔑してたろ?」
まあ当たらずとも遠からずだ。
「軽蔑だなんて、なんでそう思うの? 確かに私はあなたみたいな人には慣れてないけど、ちょっと怖そうだから苦手ってだけよ、軽蔑なんて、どこからそんな言葉が出てくるの?」
前川は煙を吐くとイライラと言った。
「あんたの目だよ、首輪のついた飼い犬しかいないドッグランに野良犬が紛れ込んだみたいな、そんな目で俺を見たろ」
なかなかうまいことを言う。
「そう思うのは、あなたが自分を野良犬だと思ってるんじゃないの? 好きでやってる事なら、そんなこと……」
「もちろん好きでやってるさ。自分がネクタイして営業やら経理やら務まるなんて思ってないし、好きなギターも時々弾ける、音楽も楽しめる。酒も飲めるし色んなお客さんと知り合えて楽しいよ。任されてる仕事もあるしオーナーに感謝してる、この店が好きだ。他所を知らないし……。ただ……いい年して音楽にバーテンだなんてって、散々言われたからな。この先どうするんだって……」
「別に、ずっとバーテンでいいんじゃない? 何が悪いの? そうは思わないの? 私と恵介だってただの店員よ、将来はせいぜい店長になるとかその程度よ。友達で大企業でバリバリ活躍してる人だってそりゃいるけど、みんながみんなエリートなわけじゃないわ。趣味でバイクだのスキーだの旅行だのって、みんな何かしてるじゃない、あなたはギターが好きならやればいいじゃないの」
前川はおし黙った。将来に不安があって迷ってるのか。三十路となるとそれも分かる。私だって、だから結婚するのだ。まして彼はタトゥーを入れてチェーンをぶら下げているような男だ。
「菊ちゃんを泣かさないで欲しいの、それだけなのよ私は」
「……近いうちに、別れることになると思うよ」
「どうして? 彼女のこと、好きなんでしょ?」
「彼女を幸せにしてやれないんだ、俺は……」
「菊ちゃんはあなたが好きなのよ?」
「……俺には、眩しすぎる」
なんとなく分かる気がする。歌をやっていく、と決めている真っ直ぐな彼女は、努めて平凡に生きている露子にも眩しかった。
しかしそれは前川に対する想いも同じだろうに、何故受け止められないのか。露子には羨ましく、もどかしかった。
「彼女はただ一緒にいるだけでいいって……」
「やめてくれ、俺は……菊といると、可愛くて応援したくなると裏腹に、閉じ込めて縛りつけたくなるんだ。自由な彼女を傷めつけたくなって、どうしようもなくなるんだ。菊といると……こんな自分が嫌になるんだ」
それも何だか分かるような気がした。要するに彼のコンプレックス、人生の迷い、アイデンティティーの問題だ。そういう時期なんだ。
「今の俺には音楽も菊との付き合いも、ただ楽しむってことが出来ないんだ」
前川は携帯灰皿にタバコを押し潰した。……あまり他人が口出しするわけにもいかないし、正直前川の悩みなんて興味ない。
「そう……なら、せめて優しく別れて欲しい。余計なことを言ったのならごめんなさい」
「別に……菊を思ってのことだろ。俺があんたを苦手なだけだよ。なんか、お袋みたいでさ」
正直なやつだ。
「私もタトゥーしてる人苦手よ。見かけほど怖くないのは分かったけど、でも恵介も菊ちゃんもあなたが好きなの、お店の人たちも、みんなそうでしょ? もっと自信持ったら?」
前川はふいに苦笑いしてみせた。その笑顔にはまだ幼さが感じられる。思えばこれは、露子に向けられた初めての笑顔だった。
「同じことを菊にも言われたことがあったな……。天使だよ、本当に」
ポツリと呟いた前川は、寂しそうにも見える。好きで別れるわけじゃないのは分かった。そう、悪い人じゃないんだ……。
「……正直に話してくれてありがとう。じゃあ……行くわ。私も暇じゃないの。明後日よろしくね」
去りかけた背中に、前川が告げた。
「ずっとバーテンでいいって、ハッキリ言ってくれてありがとう」
自信満々なように見えて、前川も迷える子羊の一人なのか……。
帰宅してふっと力が抜けた。けどなんか、スッキリしたかも……。自分にできることはこれ以上ないと思った。菊のため? それよりは自分のためだったかも知れない。
その夜、久しぶりに恵介に抱かれた。
菊はどんな風にあの男に抱かれるのだろうか。あの男は、どんな風に菊を抱くのだろうか。きっと情熱的に……。そんなことを考えながら。
いつも通りあっさりした情事ではあったが、この新居では初めてのことだったせいか、少しばかり……。
「……どうしたの? なんか、いつもより感じてた?」
「……そう?」
「珍しいね……」
ちょっと照れくさそうに言うと、恵介はすぐに寝入ってしまった。露子はほっとした。深く追求することもなくさっさと終わる恵介の性欲は薄い。他の女だったら物足りないとなりそうだが、露子には安心をくれる。
露子にとってセックスは重要なものではないし、獣のように興奮する男の姿は気持ち悪いだけだ。それなのに、こんな自分が興奮するとは……。
菊にも恵介にも、前川と話した内容は話さなかった。ただちょっとお店に顔を出した、とだけ伝えておいた。話してどうなるものでもないし。
次の日は露子の両親が地方から出て来たので、区役所に行って無事入籍を済ませた。恵介の両親と、既に結婚している恵介の姉も駆けつけて勢揃いで食事をした。その後一度新居を見せてから露子の両親をホテルに送ったりと、忙しなく過ぎた。
翌日、とうとう私たちの結婚式の日が来た。朝からバタバタだ。それにしても見事な秋晴れだった。
自分で決めたウェディングドレスに荘厳なパイプオルガン、厳かな神父の言葉、美しい讃美歌。集まった周りの家族や親戚はみんな笑顔だった。まさに晴れの日、という感じだ。やっぱり嬉しいものだな。
昨日も思ったが、両親も年を取ってまるくなったということだろうか、昔ほど刺々しい空気は感じなかった。のほほんとした恵介の家族に当てられたのかも知れないが、少し柔らかくなった様子だ。
この間まで同じ信仰を持つ人の方が、とぐだぐだ言っていたが、恵介もその家族もいい人たちだと分かってくれたから? いや、もういい年だから売れ残るくらいならと、諦めたというのが本音かも知れない……。
とにもかくにも、今日から他家の人間となった私に、両親がアレコレ言うことはもうないだろう。良かった……。
露子はヴァージンロードを歩きながら、心底ほっとした。
私が選んだ道は、間違っていなかったと思えた。病める時も健やかなる時も……か。
これで私の人生は安泰なわけだ。
式を挙げるとみんなで車に分乗してレストランに移動した。その運転手を前川が引き受けてくれた。恐らく恵介の希望だろう。あとの車は親戚のだ。嬉しい誤算で、助手席には菊がいた。愛らしくお召かしして、その表情は明るかった。
「どうしても式見たくって覗かせてもらったの。神父さんの宣誓いいね! おめでとう、キレイよ露子さん」
「ありがと、嬉しい。菊ちゃんもキレイよ」
露子と菊ばかり話して、前川はろくに話さないうちに会場に着いた。恵介はずっとニコニコしている。
レストランに到着すると、花びらのシャワーを浴びせられた。
案内された新郎新婦の席には、以前菊にプレゼントしたエンジェルウィングスが飾られている。
店のみんなが、職場の仲間や友人たちが祝福してくれた。明るい空気に包まれ、花に囲まれ、露子も恵介も幸せだった。
店長が司会を務め、おしゃべりしながら会食したり、ゲームしたりと楽しくパーティーは進んだ。料理も美味しかった。
前川と恵介のバンド仲間だったという友人二人は、普通のサラリーマンだった。
「ようおめでとう、協力できなくてごめんな、忙しくて……」
恵介は笑顔で応えた。
「うん、いいよ。練習楽しかったし。なんかさ、学生の時にやり残したことをやり切れたようだったよ! もうすぐ演奏始まるから。楽しんでくれ」
前川はラメ入りスーツをピシッと着て現れた。確かにカッコいい。小柄な花婿は負けまくりだ。しかし当の恵介は、実に満足そうだった。主役は自分なのに、まるで前川に主役を喰われることを喜んでいるようだ。
三人は庭のステージに立ち、周りは拍手喝采、特に女たちはみんな前川を見てそわそわしていた。私でさえ、つい目が行ってしまう……。
華やかなピンクのワンピース姿の菊の歌声は優しく爽やかに、森林浴のようなイメージで会場に染み渡った。露子は惚れ惚れと聞き入った。
前川も恵介も、実に水を得た魚のように、パーティーと演奏を楽しんでいた。前川はともかく、恵介のこんな姿は新鮮だった。
露子と菊はあまり話せなかったが、旅行から帰ったら会おうと約束した。
パーティーは盛況のうちに終わり、新しい夫婦は新婚旅行にマルタへと旅立った。
美しい海と港町、沢山のヨットと古く立派な西洋建築の美術館。鎖帷子に鎧や剣等も見れて、初めてのヨーロッパは楽しめた。
「すごく天井が高いのね、キレイ……」
「あのでっかい石どうやって運んでんだろうなあ」
日本とは比べ物にならない造りのきらびやかな大聖堂や、ローマ法皇も訪ねたという地下墓所等も見て、四日間小さな島を巡り、行き帰りで二日、計六日の旅は無事終わった。
早く菊に会いたかった。海外だと携帯の連絡はほとんど出来ない。
帰国したのはもう夕方、明後日から仕事だから、明日しかない。ラインで待ち合わせの約束だけして、その日露子たちは早々に眠りについた。
次の日、菊はランチ上がりの予定と聞いていた。
昼間は恵介の実家にお土産を持って行ってお昼をご馳走になってから、露子は一人、十七時に待ち合わせのファミレスへ向かった。
もう十二月か……。街はすっかりクリスマス仕様に仕上がっている。
菊もすぐやって来た。表情は暗かったが、露子を見つけると笑ってくれた。
「お帰りなさい、旅行楽しかった?」
「うん、楽しかったよ……。建築物が良かった。食べ物はやっぱり日本の方がいいけど。式では演奏ありがとう。これ……」
露子は座るとまずお土産を渡した。菊は力なくそれを受け取った。
「菊ちゃんに似た天使の絵のタペストリーを見つけたの。それとお菓子……」
「ありがとう……」
「先にドリンクバー頼んどくね」
露子は慌ててオーダーのパネルを打った。菊は萎れた花のようだ。旅行の話なんていい。
「それで、なんだって? どうなったの? 前川さんは」
ラインで結局別れることになったのは聞いていたが、詳しい話は帰ってからということになっていた。菊は弱々しく答えた。
「お母さんが具合良くないんだって。母一人子一人だから……。バーテンくらいしか勤まらないけど、実家の近所で探すからって……。千葉だから、遠くはないんだけど近くもないし……」
なるほどそういうことか。
「……菊ちゃんは、行かないよね?」
行って欲しくなかった。
「……行けなくはないけど……。別れたくないけど、歌をやっていくには今のところから離れたらやりにくいし、ヒロも来るなって……」
当然だ。菊自身がこれまで広げたネットワークだってあるだろう。
「例えば、浦安とか、えーと船橋とか? その辺の中間地点に一緒に住むとか、ないの?」
菊は首を振った。
「別れるって、ハッキリ言われたから……。ついて来てくれって言ってもらえたら、違うんだけど……」
良かった。菊をあんな男に、田舎にかっさらわれてたまるか。
前川は内心、大切な歌よりも、自分を優先して欲しくて、自分だけを見て欲しくて、でもそんな自分に自己嫌悪していたのだ。それは好きだから、かも知れないが、菊に夢を諦めさせて自分の手伝いをやれだなんて! 離れたほうがいい。菊の翼をもぎ取るだなんて!
「仕方ないよね、菊ちゃん。前川さんも自分のことで手一杯なんだよ。分かってあげよう。菊ちゃんも実際、大変でしょ? 現実的には」
「うん……ヒロも私のためでもあるからって、言ってたし……分かる。でも……」
ホロホロと涙する菊は愛らしかった。
「好きだから、辛い……」
露子は向かいの席から菊の隣に移ると、ふらつく彼女を抱き止めた。周りから隠す形で泣きじゃくる菊を胸にすると、熱い喜びが沸き上がってくる。
「本当は、ヒロは、私の方からついて行くって、言って欲しかったんだと思う。でも言えなかった……。うう」
前川は身の程を弁えてくれたのだ。
「いいのよ、菊ちゃん、それでいいの。言ったらきっと後悔したから。大丈夫、前川さんも分かってくれるよ。それで本当に好きじゃないなんて思わないよ。だって、菊ちゃんがどれだけ歌を大事にしてるか知ってるもの」
露子は菊を抱きしめながら、優越感に浸った。花のような香りと柔らかい身体のぬくもり……。ああ、硬い男の身体とは全く違う。
ぞくぞくする……。
可愛い菊、私がずっと支えてあげる。
要するに前川は見かけより小物なのだ。そして恐らくだが、ギターもちょっと上手い、というレベルなのだろう。大学を辞めてもプロのミュージシャンにはなれず、しかしバーテンとしてのやりがいを持っていたのに……というわけだ。
だが菊を諦めてくれたことは評価できる。
「私は菊ちゃんの味方だからね、ずっと応援してるよ」
いつか見かけたシルバーの十字架のペンダントが思い浮かんだ。見せかけだけのクルス……。しかし、それは自分も偉そうなことは言えないということにも気付いていた。
私と前川は、正反対のようで、どこか似たところもあったのかも知れない……。
「お帰り……」
新居で恵介が神妙な面持ちで出迎えた。
「俺もう風呂入ったから、入る?」
「ちょっと待って、一息ついてから……」
ソファに座ると、恵介がお茶を淹れてくれた。
「……さっき前川と電話してたんだ。知ってた? 前川が店を辞めて実家の近くに引っ越すって、お袋さんが体調悪いからって」
「今菊ちゃんに聞いたばかりよ。別れたって、泣いてたよ」
「そうなの? 可哀想に……。でも別れなきゃいけないのかな? 千葉なんだから何とかなりそうだけど」
「そうよね、船橋辺りで一緒に暮らして菊ちゃんは今まで通り活動して、前川さんは成田のほうに仕事見つけて通うとか、やりようはあると思うんだけど、前川さんがキッパリ別れるって言ったらしいの。なんか、不器用なのね、前川さんって」
「そうだな、好きなことしか出来ないみたいな……。昔もさ、オーナーさんがギター弾かせてくれるんだって喜んでたなあ。ちゃんと助け船があるんだよ、人徳かな。真似できないよ」
しなくていい。確かに人を惹き付ける魅力はあるが、要するに甘ったれなのだ。
「菊ちゃんが心配なの、明日は休みって言ってたから、ちょっと明日も会いに行ってくるわ。私早番だしね。夕飯一人で済ませてね」
「そうか、うん。俺は前川に会いに行こうかな。今のうちに」
「そうね」
「せっかく近所に住めたのになあ」
次の日、菊とカラオケに行った露子は幸せだった。菊は所々悲壮感を漂わせはしたが、沢山歌い、喋り、飲み食いして少しスッキリしたと言って笑ってくれた。それだけで露子は満足だった。
恵介が帰宅したのは十一時を過ぎていた。レストランの閉店は十時だから、最後までいたのだろう。リビングで寛ぐ露子に恵介は教えてくれた。
「前川さ、地元でギター教室をやりたいんだって。勤めながら自宅で週一、二日だけとかから始めてみるって……」
「へーそうなの」
まあそれくらいが関の山だろう。
恵介が学生の頃の写メを見せてくれた。若い前川と恵介とが、心から楽しそうな、パーティーの時と同じ笑顔でギターを弾いている幾つかの写真。予想がつく……。
前川は最近まであのルックスにギターだタトゥーだ酒だと、いわゆるリア充という感じで、毎日楽しくやって来ていたのが三十近くなり、自分の足元を見てこれでいいのだろうか、となっていたところに年取った親が弱気になったり、オーナーが引退するという壁にあたり、現実を目の当たりにして悩んでしまった。
大体周りが昇進したり結婚したりし出す時期だ。恵介は単純に彼を好きで羨ましがっているが、前川は前川で、恵介に負けたような気になったのかも知れない。というところだろう……。
そのきっかけは露子なのかも知れないが……。
楽しいことしかしたくないなんて、まるで子供だ。大人になりきれていなかったのが、ならなきゃ仕方ない状況に直面した。人生の帰路だったのだろう。彼なりに悩んで出した結論なのだ。
学生の頃から同じ店でしか働いたことがなく十年、音楽に真剣に向き合う人たちに囲まれて楽しいだけではいられなくなった……と、まあ気持ちは分かる。菊とコンビを組むという選択肢もあったはずだが、覚悟がいるだろうし、難しいのだろう。
楽な道を取っていたツケが回ってきたのだ。
だが露子にはやはり、あまり興味の持てない人種だった。つまり彼は、みんながせっせと試験や就活していた時期にさぼっていただけの話なのだ。フリーターしながらも、菊は好きな歌を極めていくことに迷いがない。
「そういえば、この間の話なんだけど、あのバーカウンターを撤去するらしいよ。カクテルやめるんだって、新しいオーナーの意向で」
「つまり、バーテンはいらなくなるってことよね? ビールとかサワーとかだけになるってこと?」
「うん、ワインとかウイスキーもあるけど、種類は減らして少し残すだけにするんだって。でもカクテルはなくなるって。あんまり売れないらしいから。テーブルを増やしたいらしくて。その話がきっかけだって言ってたよ。メニューの見直しするみたいで。残念だよなあ、あの店、カクテル気楽に飲めたのに。前川も残念がってたよ。気取ったバーとか行きにくいよね。敷居が高いっていうかさ」
やはりそういうことだ……。彼はただのウェイターでは不満だったのだろう。あのカウンターが彼の聖域だったのかも知れない。それでどうせ他店に行くのならばいっそ、というわけだ。
菊に相談しても、恐らく答えはもうちょっと一緒に頑張って行こう、というものになるのは分かりきっている……。
ふと見ると、恵介がため息をついていた。
「寂しい? 恵介」
「うん、まあ……。でもそこまで遠くもないし。仕方ないよな。親も年取ってくし……。俺さ、あいつにはずっと音楽続けて欲しいんだ」
「そうね……」
恵介は風呂へ行き、露子は寝室へ向かった。ベッドに入り、菊のsnsを眺めた。これはすっかり毎日の習慣となっている。露子があげたエンジェルウィングスの鉢と一緒に微笑む菊の写真がお気に入りだった。
もう菊はあの男に抱かれることはないのだ。そう思うと、至極満足だった。
十二月
前川最後の出勤日は、リニューアル前の最後の営業日でもあった。明日から数日休みになるそうだ。
前川のお別れ会兼オーナーの引退式でもあるビュッフェパーティーが催されていた。
スタッフ全員と常連客、恵介と露子も招待された。その日新規のお客は断っていた。
大勢に囲まれてシェイカーを振る前川はバーテンらしく、サマになっていた。しかしあのカウンターももうなくなるのだ。
「よお、お疲れ様」
恵介の声にこちらを向いた前川は、一瞬露子を見たが、すぐに恵介に視線を戻した。
「ああ、楽しんでくれ。菊は今裏にいるんだ」
主役の前川は人に囲まれており、恵介も分かった、とすぐカウンターから離れた。庭ではタキシード姿の男性がバイオリンを弾いている。
バイキングの料理を取っていると、菊が奥から出て来た。制服ではなくグリーンの衣装を着ていて、歌うのだと分かった。
話しかけたかったが、他のスタッフや常連客たちに掴まっている。露子と恵介は遠巻きに眺める形で、話ができる感じではなかった。菊は愛想笑いを浮かべてはいたが、いつもより暗い表情だった。手を振り合うのが精一杯だ。
歌うのに、大丈夫かな……。はなむけのステージということなのだろう。健気なものだ……。
大人しく食事をしていると、引退するというオーナーが現れた。それは優しそうな、紳士的な老人。洒落た帽子をかぶり、杖をついてはいるが元気そうだ。前川がカウンターから親しげに話しかけている。
周りの会話から、どうやら息子とやらは来ないらしいと分かった。
「息子さんは、前川と合わないんだな。残念だよなあ……」
と恵介がこぼす。
「前川はあの通りだからさ、反感持つ人もいるんだよな。いい奴なんだけどな、本当に」
「そうかもね……」
かつて恵介たちが演奏した庭に、前川とオーナーが立った。店長と菊が横に立つ。菊はぼんやりと前川を見つめていた。しかし前川はオーナーを気遣っており、菊の方を見なかった。
乾杯のため、それぞれにグラスを持つよう指示があった。周りのざわめきが収まると、オーナーが言った。
「皆さん、今夜はお集まり頂きありがとうございます。この店を愛してくださる皆さんと、この日を迎えられたことを嬉しく思います。私の人生の大半は、この店と共にありました。たくさんの思い出が詰まっています。ここを去るのは残念ですが、私も年には勝てません。これまで永きに渡ってこの店を支えてくれた前川くんに感謝しながら、新しい門出を祝いたいと思います。みんな今までありがとう、乾杯」
オーナーの音頭でグラスがあちこちで鳴った。前川は固い笑顔を浮かべながら、たくさんの祝福のグラスを受けていた。
花に囲まれた前川が一人でギターを弾いた。ソロは初めて聴く。露子には上手いかどうかも分からなかったが、聞き苦しくはなかったので下手ではなさそうだ。
これが最後のステージか……。
次に菊がエキゾチックな衣装で庭のステージに立った。つい抱きしめた時の柔らかい腕の感触を思い出し、胸が熱くなる。
菊の歌声はいつになく美しく、店中に染み渡った。……透明とも違う、そう、まるで淡い雪のような優しい歌声だった。
どうやら前川と菊が別れることは店中の人間が知っているようだった。みんな菊のどこか悲しく、しかし暖かい歌に聞き入った。お別れなのだ、としみじみ感じさせられる。確かに歌はその時の感情を増幅させるものだ。
菊はいつしか涙し、それを聞いていた数人の女子も泣いていた。前川のファンだ。前川も神妙な面持ちで聞いていた。
歌が終わると、前川はそっと菊の肩に手を添えた。本当は抱きしめたかったのだろうけど、自重したようだった。二人が見つめ合う数秒、店内は静まり返った。
しかし二人は離れて、前川はオーナーのいる方へ戻った。残された菊はウエイトレス仲間に抱えられて泣きじゃくった。
露子は自分が抱きしめたかったが、距離的に無理だった。
もう前川はいなくなるんだ……。菊に駆け寄りたい衝動をぐっと抑えながら、露子は彼らを見守った。菊と出会えたのは、確かに前川のおかげだ。
「神の御加護を……」
この華やかで切ないステージに、どこか寂しげな前川の後ろ姿に、思わず露子は両手を握りしめて小さく呟いていた。
数日経ち、店はリニューアルを済ませて通常営業していたが、師走の忙しさに露子と菊もなかなか会えない日が続いた。菊も今月はウエイトレス業は休みがちで、あちこちで歌う機会があって落ち込んでる暇がないから丁度いい、とラインで語った。寂しいだろうに……。
心の整理をする時間も必要だろう。
クリスマスライブに行く約束をした。露子も何かとバタバタしていたので、それまでお預けだ。
「オーナーさんの知り合いがやってる店で雇ってくれたってさ。いずれ前川に任せたいらしいよ」
近況を夫が教えてくれた。
「そうなの」
「うん、丁度探してたんだって。ちょっと不便なとこだから、なかなかいい人が見つからなかったみたいで。前みたいなレストランの一角じゃなくて本格的なバーで、そのうち生演奏もやらせてもらえそうだって。あのオーナーさんと趣味が同じ人みたいだ。良かったよなあ。ちょっと遠いけど、もう少し落ち着いたら行ってみたいなあ。やっぱりちゃんと助け船があるんだよ、あいつは。そういう人間なんだよな」
「本当にそうね……」
嬉しそうに語る恵介の目はキラキラしていた。確かにその通りだ。そういう魅力が彼にはあるのだ。
「良かったわ……」
あっという間に年末が迫って来た。いつの間にか、吐く息もうっすら白い。
仕事帰り、マルタのお土産を持って教会に寄った。暖かい雰囲気の中人が集まっており、中からは讃美歌が聴こえてくる。明日はクリスマスだ。イブのミサか……。
教会の敷地はクリスマスらしく、美しく品良く装飾されていた。一年で最も盛り上がる夜だ。
扉を開けると、外の冷えた空気と夜の暗さが豪華な装飾を一段と輝かせているかのような、明るい空間が広がっている。たくさんの人たちが讃美歌を聴いていた。みんな明日の希望に満ちたような表情をしている。
こちらに気付いた神父に会釈してから、礼拝堂のはしっこに座り、露子も子供たちの讃美歌を聴いた。私も昔はああやって歌ったものだ……。
説教台の側にはクリスマスにお決まりのポインセチアがあった。一緒に飾られているエンジェルウィングスが目に入ると、露子もなんとなく暖かい気持ちになった。
傍らの天使像を眺めると、菊の歌う姿を思い出す。出会ってから三ヶ月が経った……。
前川は夢を諦め、別の道を行く。菊は夢を追いかける。恵介は自分の夢を前川を通じて描いていた。
私は夢を追いかけることすらできなかった。この想いは、墓場まで持っていくものなのだ。
美しいステンドグラスから、羽の羽ばたきが聴こえてきそうな気がする……ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤと。
翌日、都内の片隅の小さなライブハウスで、何組かのバンドと合同でクリスマスライブが行われていた。それに菊も毎年出ているそうだ。
ライブハウスは派手なイルミネーションに飾られ、ツリーに風船、スタッフはサンタ帽を被り、客はみんな個性を強調したような格好をしており、お祭り気分だ。
周りの賑わいは同じクリスマスでも昨日の厳かな教会とは全く違う雰囲気で、とにかく楽しもうよという雑多な感じが緊張感をほぐしてくれる。床には紙テープやら食べこぼしやら、色んなモノが落ちていた。
パイプオルガンではなく電子ピアノ、ステンドグラスではなくミラーボール。露子には馴染みのない場所ではあったが、これからは毎年来よう……。ここが菊の聖堂なのだから。
埃っぽいステージでは、ハロウィンじみた黒い衣装のバンドがロックかパンクかよく分からない演奏をしている。あれに比べたら、前川のギターの方がいいか……。
たくさんの人たちをかき分けてやっと菊を見つけた。お別れパーティーからもう三週間が経っていた。露子の胸がときめく。
「露子さん」
頼りない笑顔で、菊は露子を迎えた。少し痩せたかも……?
「出番次なんだ。こっちに……」
端の小さなテーブルに移動し、飲み物をもらうとやっと一息ついた。
「……元気そうね、良かった」
「うん、この大事な時期にくよくよしてらんないからねー。年末と夏休みが一番歌で忙しくなれるんだもん。しゃんとしなくちゃ」
「そっか」
思ったよりしっかりした話し方だった。
「うん……。まあ、吹っ切らなきゃ仕方ないというか……もうどうしようもないから……」
「え?」
聞くと、驚いたことにウエイトレスの一人が前川を追いかけて辞めていったという。以前、露子が一人で前川に会いに行った時に伝言してくれたポニーテールの彼女だった。菊は苦しそうに、しかし笑顔でそれを語った。
「あの子がヒロを好きだったなんて、気が付かなかった……。彼女は今の生活を捨ててヒロについていったの。私には、できない……」
「そうだったの……」
「でも、ヒロが孤独じゃないのはちょっと良かったかも……」
「うん……。そう思えるなんて偉いよ」
「あ、出番だ。ごめんね、行ってくる」
キッと前を見て輝くステージへと駆けて行く菊はキレイだった。きっと泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣いたのだろう。
「頑張って」
声をかけると、菊が振り向く。
「ありがとう、露子さんがいてくれて良かった」
純粋な笑みに、背中に羽が見えたような気がした。周りから拍手が起きる。菊のための拍手だ。
同じように拍手しながら少しばかり胸が痛む。後悔はなかったが、私は彼女がこんなにも好きだった人との別れを望み、喜んだわけだから。
追いかけてまで好いてくれる女性の存在と、ステップアップとも言える結果に、前川は救われたかも知れない。
そして菊も、本人はまだ気付いていないかも知れないが、一皮むけた歌手に成っている、と露子は思った。
狭いステージに立ち、スポットライトを浴びた菊から柔らかい歌声が響き渡る。この優しい声音は、以前聞いた歌より数段素敵だ。
ああ、天使のように、眩しい……。
私はこれからも、菊の最も近しいファンとして友人として、彼女の姿をずっと側で見守っていたい。前川のように自分を見失ったりしない。人生の福音のような彼女との出会いを、私は手放さない。
露子は知らず知らずのうちに真新しい結婚指輪をついと撫でながら、テーブルの下、そっと両手を組んでいた。
この気持ちを秘めたまま共にいさせて欲しい。このささやかな願いを、私の夢を、どうかお守りください。
柔らかい雪のような歌声に包まれながら、そう祈った。




