002 不幸の始まり
そこからどうやって自宅に帰ってきたか、まったく記憶がない。
気づけば自室のベッドで突っ伏し、夜になってしまっていた。
途中何度かメイドたちが声をかけに来てくれた気はする。
だけどどこまでも重い体を動かすことが出来ずに、夕飯も食べられなかった。
心が重いと、こんなにも体が重くなるなんて思わなかったわ。
やっとの思いで寝返りをうち、横を向く。
もう何時間、このベッドの上にいるのか分からないが、きっと父は私を心配しているだろう。
「困らせるつもりなんてなかったのにな」
父も、カインも。
だっていつかは婚約しなければいけないことだったから。
彼と結ばれるということは決してない以上、避けられない道だもの。
だけど母を亡くし、不安定な私のために父は私が十八を迎えるまで婚約者の件は我慢してくれていた。
「あーあ。もう少しまともな挨拶がしたかったのになぁ」
最後だからこそ、ちゃんとしたかった。
顔をしっかり見て笑って、いい思い出にしたかったのに。
いい思い出になんて、そんなに簡単に出来るものではなかったみたいね。
我が家は男爵家とはいえ、しがない地方貴族だ。
嫁ぎ先は同じ男爵家だけど、向こうは王都に住まう貴族。
立場的には、向こうの方が格上らしい。
だけど王都に住んでいるからこそ、うちよりは貧乏だとかなんだとか。
田舎の方が土地がたくさんあるから領地も広く、また特にうちは肥沃な大地と観光資源がある。
お金だけはあり都会と結びつきたい父と、都会だけど貧乏な貴族との結婚か。
言葉だけにしてしまえば、ちょっと難ありよね。
だけど父はちゃんと私を愛してくれていて、私が不自由なく暮らせるかだけを考えて相手を選んでくれたのも分かっている。
顔は絵姿でしか見たことはないけれど、歳は私の二つ上で優しそうな人ではあった。
「明日から向こうの屋敷で花嫁修業か……」
地方と向こうとでは、細かいマナーなどがまったく違うらしい。
結婚したら王宮に出入りすることもあるため、学び直しは必須。
だから婚約と同時に向こうの家に入るのだ。
いきなり厳しいことはないと思うけど、どこまでも体が重く感じる。
普段、休暇の時だけ別荘のあるこっちに戻ってくるカインとも距離が近くなるというのに、全然うれしくはないわね。
「愛し合うことなんて、本当に出来るのかな」
政略結婚でも、父と母がそうだったように。
いつかこの胸の痛みを忘れられる日が来るのかな。
窓の外がだんだんと白く明るくなってくる。
どこからか、鳥たちが羽ばたく音も聞こえた。
考えてもどうしようもないことは諦めよう。
気だるい体を起こし、体を引きずりながら鏡台へ向かった。
鏡の中の私は、青白い顔で、目の下には薄く隈が出来てしまっている。
泣きはらしたせいで瞼も腫れ上がり、元より薄い唇が血色をなくしていた。
「お化けみたいね」
そう呟けば、ほんの少しだけ笑えてくる。
母によく似たピンクブロンドの長い髪と、この薄紫の瞳だけは、なんとか自分でも可愛く思える。
メイドたちに頼んで、今日は目いっぱいお化粧をしてもらおう。
そうすれば、この惨めな顔もなんとかなるでしょう。
ドレスだって、一番いいやつにしなくちゃ。
去年、カインが一度だけ綺麗だと言ってくれたやつ。
大丈夫。なんの問題もない。
ただそう自分に言い聞かせながら、私は支度を始めた。
そして父との別れを済ませたあと、私は我が家の馬車に揺られ王都へ。
領地から王都までは半日ほどかかり、ようやく婚家となる屋敷につく頃には、お昼をとっくに過ぎてしまっていた。
「お腹空いた……」
感情とは裏腹に、空腹を訴える腹を擦った。
しかしいくら擦れど、昨日から何も口にしていない腹は鳴り止むことはない。
着いたら失礼かもしれないけど、お茶をもらえばいいわ。
なければメイドたちが鞄の中にお菓子を少し入れてくれたのがあったはず。
家から持ってきたのは、今手に持っている鞄と、荷物が二つほど。
そのほとんどが愛用している日用使いの物や服ばかり。
こっちに来たら買えばいいと、父からはお金を持たされてはいるけれど。
あくまで私の目的は花嫁修業なのだから、買い物に行く時間などあるのかな。
屋敷の前で横付けされた馬車。
御者が扉を開けてくれる。
本来ならば屋敷の者が迎えに出てくれるはずなのに、馬車を降りて見ても、待てど暮らせど誰も出ては来ない。
私は自分の背よりも高い玄関を見上げてみた。
玄関上の部屋は、カーテンが閉まっていて、中の様子を窺うことは出来ない。
そこは地方であっても都会であっても、人が来れば使用人か誰かがすぐに玄関まで駆けつけるはずなのに。
人の気配もしなければ、待っていても開く様子はない。
気づいていないなんてことはないと思うけれど……。
あまりいい予感がしない男爵家の玄関を、私はため息一つついたあと、一人叩いた。
中から聞こえてくる可愛らしくも涼やかな声は、ある意味残念な始まりを告げていた。




