第8話 清楚系委員長は、近すぎるふたりを見逃さない
白瀬凛香という女子は、教室の中で少しだけ空気の温度が違う。
派手ではない。声を張り上げるわけでもないし、誰かの輪の中心で笑っているタイプでもない。けれど、あいつが教室のどこかに立っていると、そこだけ妙にきちんとして見える。
姿勢がいいからかもしれない。制服の着方が整いすぎているからかもしれない。あるいは、視線の向け方そのものに“見ている”感じが強いからかもしれない。
とにかく、雑には扱えない雰囲気がある。
その白瀬凛香が、ここ数日、明らかに俺と朝倉ひよりを気にしていた。
いや、気にしているというより――観察している、が近い。
「……見られてる気がする」
朝のホームルーム前、後ろの席からひよりが小声で言った。
俺はノートを机に出しながら、なるべく普通の顔で答える。
「気のせいじゃないのか」
「いや、たぶん気のせいじゃない」
「何でわかる」
「女の子同士だと、なんとなく」
そう言いながら、ひよりがちらっと教室の斜め前を見る。
その先には白瀬凛香がいた。
今日も姿勢が良く、机の上の教科書とノートの位置すら妙に整っている。朝から何人かの女子に話しかけられてはいるが、必要以上にははしゃがず、落ち着いた調子で返している。いかにも“しっかりした人”という感じだ。
そして、今も確かに、こっちを一度見た。
「……ほんとだな」
「でしょ?」
「おまえ、何かしたのか」
「してないよ!?」
「じゃあ俺か」
「それはちょっとあるかも」
「何でだよ」
「柊くんの反応、たまにわかりやすすぎるんだもん」
「おまえにだけだろ」
「え」
言ったあとで、自分でも少し失敗した気がした。
ひよりが一瞬だけ目を瞬いて、それから妙に静かな顔になる。そういう間を作るな。こっちが落ち着かなくなる。
「……何だよ」
「今の、ちょっとずるい」
「何が」
「別に」
そう言って、ひよりは小さく笑った。
だがその笑い方は、いつもみたいにまっすぐではなく、少しだけ何かを意識している時のものだった。
だから困る。
そこで、斜め後ろから蓮が割り込んできた。
「おはよう諸君。朝から距離感やばいな」
「毎回出てくるな、おまえ」
「俺の席この辺だからな」
「ほんと邪魔」
「朝倉さん、ひどくない?」
「でもちょっとわかるかも」
「裏切った!?」
蓮は大げさに肩を落としてみせた。
こいつがいると話が散るから助かる部分もあるが、その代わり余計な茶化しも三倍になるので差し引きマイナスだと思う。
そんなやりとりをしている間に、白瀬が立ち上がった。
そのまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。
嫌な予感がした。
「朝から騒がしいですね」
予感は当たった。
白瀬凛香は俺たちの席の横で止まり、まず蓮に一瞥をくれ、それから俺とひよりを順に見た。
「藤崎くんはともかく」
「ともかくってひどくない?」
「朝倉さんと柊くんは、もう少し声量を抑えた方がいいと思います」
「え、そんなうるさかった?」
ひよりが首をかしげる。
「話し声そのものより、距離感です」
「……またそれか」
思わず小さく言うと、白瀬の視線がこっちへ向いた。
「何か問題がありますか?」
「いや別に」
「ならいいです」
冷たく切られる。
ひよりは困ったように笑ってから、「白瀬さん、私たちそんなに近いかな」と聞いた。
白瀬は一切表情を崩さずに答える。
「近いです」
「即答だ」
蓮が面白そうに言う。
「特に朝倉さんは、話しかける時の距離が近すぎます」
「う……」
「そして柊くんは、それに対してあまりにも不自然です」
「何で俺も刺されるんだよ」
「客観的事実を述べているだけです」
「言い方がもう刺してるだろ」
白瀬はそこで初めて、ほんの少しだけ眉を動かした。
「自覚があるなら改善してください」
「何をだよ」
「そこから説明が必要ですか?」
「必要ないけど腹立つな」
「それは知りません」
強い。
ひよりが、俺と白瀬を交互に見てから、少しだけ頬を膨らませた。
「白瀬さん、厳しくない?」
「厳しいのではなく、普通です」
「でも、話すくらいいいじゃん」
「話すこと自体に問題はありません」
「じゃあ何がだめなの?」
「その距離です」
ぴしゃりと言い切る。
ひよりはそこで言葉に詰まったが、少しだけむっとした顔になった。
ああ、まずい。
これは軽く火花が散るやつだ。
「別に、近づこうと思って近づいてるわけじゃないし」
「それが無自覚なら、なおさら気をつけた方がいいと思います」
「……」
「周囲が気まずくなることもありますから」
その“周囲”に蓮が含まれているのか、それとも俺なのか。
たぶん両方だろう。
ひよりは一瞬だけ言い返しかけたが、そこでチャイムが鳴った。担任が入ってくる気配がして、白瀬はそれ以上何も言わずに自分の席へ戻っていく。
「何あれ……」
ひよりが小さく呟く。
「怒ってる?」
「怒ってるっていうか」
「真面目なんだろ」
蓮がパンフレットみたいな口調で言う。
「でも真面目すぎない?」
「おまえと相性悪そうだな」
俺が言うと、ひよりはむっとしながら俺を見た。
「何それ」
「事実だろ」
「柊くん、たまに白瀬さん側だよね」
「誰が」
「そういう、言葉足りないけど正論っぽいとこ」
「やめろ。こっちまで一緒にするな」
「ちょっと似てる」
「似てない」
「似てるって」
「似てない」
「はいはい、夫婦喧嘩は授業終わってからなー」
蓮が笑う。
「違う!」
「違う」
俺とひよりの声がまた重なった。
その瞬間、前の席の白瀬が一度だけこちらを振り向いた。
その視線が「ほら見たことか」と言っているように見えて、俺はものすごく嫌な気分になった。
午前の授業はいつも通り進んだ。
ただ、いつも通りではなかったのは、白瀬の存在感だ。
こいつは授業中、本当に隙がない。姿勢、ノートの取り方、教師への反応、どれをとってもきっちりしている。委員長という肩書きはまだ決まっていないが、もう半分くらいそういうものとして扱われている気がする。
それだけならただの真面目な優等生だ。
だが、俺は途中で妙な違和感を覚え始めた。
白瀬凛香は、表面上はきちんとしている。だが、ほんの少しだけ無理をしている気配があった。
授業が二時間目に入った頃からだ。
ノートを取る手元は安定している。だが、呼吸が時々わずかに浅くなる。背筋は伸びているのに、力の入り方が均一じゃない。ときどき、ほんの少しだけ首筋に緊張が走る。
そして何より、顔色。
ぱっと見で青いというほどではない。けれど、白すぎる。血色の引き方が不自然だ。
朝の時点ではここまでじゃなかった気がする。
寝不足か、あるいは朝食を抜いたか。いや、もっと単純に体調が悪いのかもしれない。
俺は一度そう思うと、どうしても気になってしまった。
昼休みになり、教室がざわつき始める。
ひよりは今日も俺の席へ来ようとしたが、白瀬に牽制されたことを思い出したのか、一瞬だけ動きを迷わせた。だが結局、三秒後には普通にこっちへ来た。
「やっぱり来るのかよ」
「お腹すいたし」
「理由になってない」
「柊くんもお弁当でしょ?」
「だから何だ」
「隣で食べる」
「強いな」
「ありがと」
「褒めてない」
ひよりはいつものように隣へ座ったが、今日はほんの少しだけ距離を測っているように見えた。完全にいつも通りではない。白瀬の言葉を、気にしていないわけではないのだろう。
けれど、その不自然さが逆に可笑しくて、少しだけ笑いそうになる。
「何?」
「いや」
「今ちょっと笑った」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
そんなやりとりをしながら弁当を広げる。
ふと前を見ると、白瀬は自分の席で小さめの弁当箱を開けていた。誰かと群れて食べるでもなく、ひとりで静かに箸を動かしている。
その姿勢も相変わらずきれいだったが、やはり妙に危うい。
「……」
「柊くん?」
ひよりが不思議そうに俺を見る。
「どうしたの」
「いや」
「何か気になる?」
「……白瀬」
「え?」
俺がそう言ったタイミングで、ちょうど白瀬が立ち上がった。
空になった弁当箱を持って、教室後方のゴミ箱か流し台の方へ向かうつもりだったのだろう。だが、一歩目でわずかに足元が揺れた。
本当にわずかだった。
普通なら見逃す程度。だが俺には、その揺れと同時に空気が変わったのがわかった。
「白瀬」
気づいた時には、声が出ていた。
教室の何人かがこちらを見る。白瀬自身も、少しだけ驚いた顔で足を止めた。
「……何ですか」
「おまえ」
「はい?」
「ちょっと座った方がいい」
静まり返る、とはいかないが、周囲のざわめきが一段落ちた。
ひよりが目を丸くして俺を見る。蓮なんかは「お?」みたいな顔で完全に面白がっていたが、それどころじゃない。
白瀬は怪訝そうに眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「顔色悪い」
「……」
「たぶん、ちょっと貧血っぽい」
「は?」
白瀬の表情が、そこで初めて明確に崩れた。
きれいに整えられた無表情が、一瞬だけ空白になる。
「いや、だから」
「何でそんなことを」
「見ればわかるだろ」
「わかりません」
強く否定された。
だが、その声にいつもの張りがない。しかも否定しきるより先に、白瀬の指先が机の端へ触れた。支えを取るみたいに。
そこまで見えた時点で、確信に近かった。
「朝から顔色白いし」
「……」
「呼吸も浅い」
「……」
「朝飯抜いたか、体調悪いか、どっちかだろ」
「……っ」
白瀬が息を詰める。
その反応を見て、ひよりが慌てて立ち上がった。
「白瀬さん、大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
「全然大丈夫そうに見えないけど……」
「本当に」
「おまえ、その言い方してる時点で無理してるだろ」
俺が言うと、白瀬がきっとこちらを見た。
「柊くん」
「何だよ」
「どうして」
そこで、初めて白瀬の声が揺れた。
教室の窓から春の風が吹き込む。昼休みのざわつきの中、そこだけ時間が妙に止まったような感覚があった。
白瀬は机に手をついたまま、まっすぐ俺を見る。
驚きと、警戒と、ほんの少しの困惑が混ざった目だった。
「……どうしてわかったの?」
その問いが落ちたところで、俺はようやく、自分が少し言いすぎたことに気づいた。
だが、もう遅かった。




