第4話 俺だけが知ってしまった、彼女の小さな秘密
高校生活四日目ともなると、教室の空気は目に見えて変わってくる。
最初はみんな「ちゃんとしていなければ」という顔をしていたのに、今では休み時間になればあちこちで笑い声が上がり、席を立って話しかけるやつも増えた。まだクラス全体が一つの輪になっているわけではないが、少なくとも「完全に他人だらけ」という感じではなくなっている。
その変化は、朝倉ひよりにとって追い風らしかった。
もともと人と話すこと自体は得意なタイプなのだろう。ひよりは昨日までに何人かの女子と自然に話せるようになっていて、今朝も登校して早々、前の席の女子に笑顔で声をかけていた。
その様子を見た瞬間、俺の中に変な感情が湧いた。
……誰にでもこうなのか。
いや、別に不思議じゃない。むしろ当然だ。朝倉ひよりみたいなやつが、俺だけに話しかける方がおかしい。明るくて、感じがよくて、表情も豊かで、距離感は少しバグってるが、それも含めて人懐っこい。そういうやつはクラスに馴染むのが早い。
わかっている。
わかっているのに、なぜか少しだけ面白くない気がしてしまうのが腹立たしい。
「おい真央」
斜め後ろから、聞き慣れた声が小さく飛んできた。
「何だよ」
「顔」
「は?」
「なんか微妙に機嫌悪そう」
「気のせいだ」
「いや、わかるって。おまえ、中学からそういう時だけ口数さらに減るもん」
「うるさい」
藤崎蓮は、そう言うとにやっとした。
「朝倉さん、普通に他のやつとも喋ってるから?」
「殺すぞ」
「図星かよ」
「違う」
「じゃあ何で殺意出してんだよ」
こいつは本当に余計なところだけ察しがいい。
俺は蓮を睨んだが、当人は面白がるばかりでまるで効いていない。しかもひよりの方はこっちの会話に気づいておらず、隣の席の女子と「そのヘアピン可愛いね」だの「私も朝弱いんだよね」だの、どうでもいいけど妙に耳に残る話をしていた。
やがて一時間目が終わり、最初の休み時間が来た。
教師が出ていくと同時に教室の空気が一気にゆるみ、あちこちで椅子を引く音がする。誰かが購買の話をして、誰かが部活の勧誘どうする? と盛り上がっている。
俺はノートをしまいながら、小さく息を吐いた。
授業中はまだいい。何かに集中していれば、余計なことを考えずに済む。問題は休み時間だ。周りがざわつけばざわつくほど、匂いの情報量も増えるし、ひよりは高確率で話しかけてくる。
案の定だった。
「柊くん」
後ろから声がして、俺は振り向く。
ひよりが立っていた。今日は朝から何度も他の女子と喋っていたくせに、結局こうして俺のところにも来るらしい。
「次の授業って移動あるっけ?」
「ない」
「そっか、じゃあまだこのままでいいんだ」
「時間割見ろよ」
「見たけど、確認したかったの」
「誰に」
「柊くんに」
そう言って笑う顔は、相変わらず無防備で困る。
ひよりは俺の机の角に手を置き、また当然みたいに少し前へ身を寄せた。近い。もう今さらいちいち驚かないが、慣れたわけでは断じてない。
「何でわざわざ俺なんだ」
「だって、ちゃんと覚えてそうだし」
「それ、便利扱いしてるだけじゃないのか」
「ちょっとは頼りにしてるってことだよ?」
「……」
「今、黙った」
「普通の反応だろ」
ひよりはそんな俺を見て楽しそうに笑った。
やっぱり、誰にでもこうなのだろうか。
その疑問がまた頭をよぎり、少しだけ気分が複雑になる。だがその一方で、ひよりが俺には特別気を許しているようにも見える瞬間があって、余計にわからない。
自分でも面倒くさいことを考えている自覚はある。あるが、頭が勝手にそうなるのだから仕方ない。
そんなことを考えているうちに、二時間目、三時間目と進み、昼前の長めの休み時間になった。
教室はさっきまでより少しだけ熱を持っている。まだ春先だが、日差しが強い日は教室の中にじわっとした暖かさがこもる。新しい制服の布も、着ている人間の体温に馴染み始めていて、朝より匂いの輪郭がやわらかい。
こういう時間帯は危ない。
俺にとっても、たぶん朝倉ひよりにとっても。
「ちょっと飲み物買ってくる」
蓮がそう言って席を立ったので、俺もついでに立ち上がった。
「俺も行く」
「お、珍しい」
「喉乾いた」
「はいはい」
廊下へ出ると、教室の中とはまた違う匂いの流れがある。ワックスの床、外から吹き込む風、階段の金属、別のクラスのざわめき。少しだけ呼吸がしやすい。
自販機で水を買い、ついでに顔でも洗いたい気分になった俺は、廊下の奥にある洗面台の方へ足を向けた。
「先戻ってるわ」
蓮はそう言って階段の方へ曲がっていく。
俺はひとり、校舎の端の方へ向かった。
その時だった。
女子トイレの少し手前、廊下の死角になる曲がり角のところで、ひらりと見覚えのある紺のスカートが視界に入った。
朝倉ひよりだった。
だが、いつもの様子と少し違う。
周囲を気にするようにきょろっと目線を走らせ、それから急いだ手つきでポーチの中を探っている。あまり人に見られたくないことをしている時の動きだと、すぐにわかった。
俺は反射的に足を止めた。
別に覗くつもりはなかった。ただ、見知った顔だったから何となく止まってしまっただけだ。なのに、その一瞬の間に、ひよりはポーチから白いパッケージを取り出した。
制汗シート。
そう認識した次の瞬間には、ひよりはブレザーの前を少しだけ開き、慣れたような、でもどこか焦った手つきで首元や脇の辺りを拭こうとしていた。
俺の頭の中が、一拍遅れて真っ白になる。
まずい。
見た。
いや、見てしまった。
しかも最悪のタイミングで。
離れようと思ったが、床を踏んだ靴の音でひよりが顔を上げた。
「……っ!」
目が合った。
一秒もなかったと思う。だがその瞬間、ひよりの表情がぱっと強張るのが見えた。いつもの明るい顔じゃない。純粋な焦りと、わかりやすい動揺。
「み、見ないで!」
ひよりは慌ててシートを背中側へ隠すようにしながら、ほとんど悲鳴みたいな声を出した。
「っ、悪い!」
俺も反射的に目を逸らした。
何だこの地獄みたいな状況は。
廊下の端、女子トイレの近く、偶然見てしまった制汗シート、そして「見ないで!」。字面にすると完全に俺が悪いやつみたいじゃないか。いや実際、見た形にはなってしまっているから言い訳の余地は薄いが。
「ご、ごめん、通りかかっただけで……」
「~~~っ」
ひよりは真っ赤になったまま、背中を壁につけるようにして視線を泳がせていた。
その反応があまりにも切実で、俺の方も頭を抱えたくなる。
どうすればいい。ここで変に弁解しても怪しい。無言で去っても最低だ。何か言うべきなのはわかるが、最適解が見つからない。
「その、俺……」
「い、今のなし!」
「無理だろ」
「無理でも! 忘れて!」
ひよりは涙目になりかけた顔でそう言った。
いつもは笑ってばかりのやつが、ここまで露骨に焦るのを初めて見た。
ああ、そうか。
この子、本当に気にしてるんだ。
これまで袖口を触ったり、少しだけ距離を気にするような仕草を見せたりしていたのは、全部ただの癖じゃなかった。ちゃんと理由があったのだ。汗とか、匂いとか、そういうものに対して、自分なりにかなり敏感になっている。
わかってしまった瞬間、変な苦しさが胸の奥に沈んだ。
誤解されれば最悪だ。
俺みたいなやつがこの場面を見た、なんて、字面だけなら本当に最悪すぎる。しかもよりにもよって、俺は――そういう気配に人一倍弱い。だからこそ余計に、最低なことを考えているようで自分でも嫌になる。
でも実際のところ、俺は別にそれを汚いとも、おかしいとも思っていなかった。
むしろ。
いや、そこから先を考えるな。
「……朝倉」
何とか言葉を絞り出す。
「別に、変だと思ってない」
「……え」
ひよりが固まる。
俺はそこで、自分の言い方がひどくまずかったことに気づいた。
違う。そういう意味じゃない。何もおかしくないし、誰だって気になることはあるし、少なくとも俺はそんなことで引いたりしない、と言いたかっただけだ。
だが口から出たのは、あまりにも説明不足な一文だった。
「いや、そうじゃなくて」
「……」
「その、みんな使うだろ、そういうの」
「……うん」
「だから、別に」
「……」
「……変じゃない」
自分で言っていて、どんどん下手になっていくのがわかった。
何でこんなに不器用なんだ、俺は。
ひよりは視線を落とし、手に持ったシートの端を小さく握りしめていた。いつもの明るさが消えている。今のやりとりが地雷だったのか、それともまだ恥ずかしさが抜けていないのか、判断がつかない。
「ごめん」
結局、俺は一番無難そうな言葉を選んだ。
「見ようとしたわけじゃない」
「……それは、わかってる」
「本当に偶然で」
「うん」
「……悪かった」
そこでようやく、ひよりがほんの少しだけ顔を上げた。
「柊くんってさ」
「何だよ」
「変なとこ、真面目だよね」
「褒めてないだろ」
「今はちょっと褒めてる」
そう言って、ひよりは困ったように笑った。
まだ頬は赤い。耳まで少し熱を持っているのが、こっちからでもわかる。緊張と恥ずかしさが混じった、いつもより少し尖った空気も感じる。
でも、さっきの「見ないで!」よりはずっとましな顔だった。
「……誰にも言わないでね」
「言うわけないだろ」
「蓮くんにも」
「絶対言わない」
「ほんと?」
「ほんと」
そこは即答できた。
ひよりはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
沈黙が落ちる。
廊下の向こうから、別のクラスの笑い声が聞こえた。窓の外では春の風が吹いている。何でもない学校の昼休みなのに、ここだけ妙に空気が止まっていた。
先に口を開いたのは、ひよりだった。
「……引かなかった?」
その声は、小さかった。
いつもの明るさがほとんど抜けた、ほんの少しだけ震えるような聞き方だった。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
引く?
何に対してだ。制汗シートを使っていたことにか。汗を気にしていたことにか。あるいは、そんな自分を見られてあんなに焦ったことにか。
そんなことで引くわけがない。
引くわけがないのに、俺はその答えを一瞬で出せなかった。理由は簡単だ。俺にとってそれは「気にするほどのことじゃない」で済む話ではなかったからだ。
むしろ、意識してしまっている。
そのこと自体が、俺を言葉に詰まらせた。
最低だと思う。自覚はある。でも、だからこそ雑に答えたくなかった。
「……そんなことで引かない」
ようやく出た声は、自分でも思ったより低かった。
ひよりが目を瞬く。
俺は視線を逸らさないようにしながら、続けた。
「別に普通だろ。気になることくらいあるし」
「……うん」
「朝倉が気にしすぎてるだけだ」
「それ、慰めになってる?」
「なってないかもな」
「なってない」
小さく笑ったその声で、ようやく少しだけ空気がほどけた。
ひよりはまだ少し恥ずかしそうにしながらも、ポーチにシートをしまった。それから、制服の前を整え、いつもの表情に近い顔を作ろうとして――でも完全には戻りきらないまま、俺を見た。
「……ありがと」
「別に」
「またそれ言う」
「口癖みたいなもんだ」
「直した方がいいよ?」
「朝倉も距離感直した方がいい」
「う」
一瞬だけ言葉に詰まり、それからひよりは苦笑した。
「それは……がんばる」
「無理だろ」
「何でわかるの」
「見てれば」
「ひどいなあ」
でも、そのやりとりができるくらいには、さっきまでの焦りは薄れていた。
教室へ戻る途中、俺はずっと落ち着かないままだった。
朝倉ひよりが、自分の汗や匂いを気にしていること。
明るく笑っているくせに、見られたくないところはちゃんと隠していたこと。
そしてその秘密みたいなものを、偶然とはいえ俺だけが知ってしまったこと。
全部が妙に重く、妙に近かった。
教室の前で、ひよりが小さく立ち止まる。
「ほんとに誰にも言わないでね」
「言わない」
「絶対?」
「絶対」
「……なら、よかった」
その言い方だけ、少しだけ弱かった。
俺はその声を聞きながら、また胸の奥が変なふうにざわつくのを感じていた。
たぶん、今日のことは簡単には忘れられない。
いや、忘れないのは俺だけじゃないのかもしれない。
ひよりは一歩先に教室へ入り、いつもの顔に近い笑顔を作って席へ戻っていった。周りから見れば、きっと何も変わっていない。ただ少し明るい女子が、昼休みに席へ戻っただけだ。
けれど、俺にとっては違った。
朝倉ひよりは、ただ近くて明るくて無防備なだけの女子じゃない。
気にしていることがあって、それを隠して笑っていて、見られたくないものを抱えている。
その事実を知ってしまったせいで、俺はきっともう前みたいには見られない。
しかも最悪なことに、それを知った今の方が、前よりずっと意識してしまっているのだから救いがなかった。




