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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第3話 近い、明るい、無防備すぎる

 高校生活二日目の朝。


 たったそれだけのことなのに、昨日より少しだけ街の景色が現実味を帯びて見えた。入学式というイベントを一度通ったせいで、「白鷺高校の生徒になる」という事実がようやく体に馴染み始めたのかもしれない。


 ――などと、冷静に分析していられるのは校門に着くまでだった。


「……いる」


 校門の少し手前で、俺は思わず足を止めた。


 朝倉ひよりがいた。


 春の朝の光の中で、紺のブレザー姿がやけに目立つ。友達と待ち合わせしている様子もなく、一人で立って、校門の方を見ている。たぶん誰かを探しているのだろう。


 そしてその視線が、ぴたりと俺を捉えた。


「あ、おはよう!」


 すぐに表情が明るくなる。


 逃げ場がない。


「……おはよう」

「よかった、柊くんいた」

「何がよかったんだよ」

「だって、まだ教室であんまり話せる人いないし」


 そう言いながら、ひよりは自然に俺の隣まで歩いてくる。


 近い。


 昨日と同じ結論に、出会って三秒で到達した。


 今日の朝は少しだけ暖かい。制服の布地も、昨日より少し体に馴染んできた気がする。春の風、校門前の花壇の土、朝の洗剤、軽い整髪料。そんな匂いの中で、朝倉ひよりの気配だけが、やっぱり妙にはっきりわかる。


「一緒に行ってもいい?」

「もう並んでるだろ」

「じゃあいいってことだ」

「その理屈どうなんだ」


 俺が半ば呆れながら歩き出すと、ひよりも当然のようについてくる。


 校門をくぐり、昇降口で靴を履き替え、廊下を歩く。たったそれだけのことなのに、ひよりはよく喋る。天気の話、校舎が思ったより広い話、昨日の校長の話が長かったこと、リボンを結ぶのが少し苦手なこと。内容自体はどうでもいいのに、こいつはそのどうでもいいことを話すのが妙にうまい。


 たぶん、相手を一人にしない喋り方をする。


 そういうところも、強い。


「ねえ、柊くんって朝いつも早いの?」

「普通」

「私、今朝ちょっと早く出すぎたかも。緊張して」

「見えないけど」

「昨日も言ったよねそれ」


 ひよりは頬を少しふくらませたあと、でもすぐに笑った。


 この子は表情がよく動く。笑う、困る、すねる、また笑う。そのどれもがわかりやすくて、見ている側の気を削る。いや、正確には俺の気を削る。


 教室に着くと、昨日より少しだけざわめきが早くできていた。


 さすがに一日経つと、誰がどの席に座るか、誰がどんな空気を持っているかが少し見え始めるらしい。すでに隣同士で話しているやつもいるし、昨日のうちに連絡先を交換したのか、スマホ画面を見せ合っているやつもいる。


 俺は自分の席に鞄を置き、ひとつ息を吐いた。


 するとすぐ後ろから声が飛んでくる。


「おはよう、柊くん」

「さっきも言った」

「教室ではまだ言ってないよ?」


 ひよりはそう言って、椅子を引く前に俺の机の上を覗き込んだ。


「……何見てる」

「時間割。今日って何持ってくるんだっけって思って」

「昨日配られただろ」

「うん、でももう一回確認」

「自分のを見ろ」

「柊くんの方が見やすい」


 意味がわからない。


 しかも言いながら、ひよりは机に手をついて前へ身を乗り出してくる。視界の端に髪が落ちる。ブレザーの袖口が俺のノートに触れそうになる。


 近い。


 朝一番から、容赦がない。


「……朝倉」

「なに?」

「もうちょい下がれ」

「え、邪魔だった?」

「邪魔っていうか……近い」

「近い?」


 本当にわかっていない顔をするな。


 ひよりは一瞬きょとんとしたあと、「あ、ごめん」と素直に半歩下がった。だが、その半歩が半歩未満なので結局近いままだった。


「藤崎くーん」


 斜め後ろから、俺を面白がる声がした。


「朝から大変そうだな」

「おまえは静かにしてろ」

「いやでも、近いって言えるだけ進歩してるだろ」

「何の話だよ」

「青春の」

「黙れ」


 藤崎蓮は楽しそうにけらけら笑う。


 こいつの席は相変わらず少し離れているようで離れていない。すぐ口を挟める位置だ。俺にとっては最悪だが、ツッコミ役としては機能しているのかもしれない。認めたくないが。


 やがて担任が入ってきて、ホームルームが始まった。


 今日の内容は、自己紹介、提出物の回収、仮の係決め、それから校内見学の案内など。いかにもクラス初日らしい、まだお互いの様子を探り合う段階の空気だ。


 出席番号順に一人ずつ立って、簡単な自己紹介をしていく。


 部活を頑張りたいです。友達をたくさん作りたいです。勉強と両立したいです。中学でやっていた競技を続けたいです。ありがちな言葉が並ぶ中、蓮だけは「青春っぽいことを一通り経験したいです」と言って女子も男子も少し笑わせていた。腹立たしいが、こういう時の処世術はあいつの方が上手い。


 俺の番が来た時は、「柊真央です。よろしくお願いします」だけで終わらせた。


 短すぎたかもしれないが、余計なことを言っても仕方ない。


 席に座ると、すぐ後ろから小さな声が飛んでくる。


「柊くん、めっちゃ短かったね」

「何か問題あるか」

「もうちょっと何か言えばよかったのに」

「何を」

「好きな食べ物とか」

「自己紹介で言うか普通」

「言う人たまにいるよ?」

「じゃあ朝倉が言えばよかっただろ」

「私、緊張して飛んじゃったんだもん」

「十分喋ってただろ」

「ほんと?」

「ほんと」


 そう返すと、ひよりは「そっかあ」と小さく笑った。


 けれど、俺にはわかった。


 さっきより少しだけ、緊張している。


 表情は明るいままだし、声の調子も変わらない。たぶん周りのやつにはわからない。だが俺には、少しだけ体温が上がっているのが空気でわかる。緊張した時特有の、わずかに尖る気配もある。


 自己紹介で名前を呼ばれた時、少し力が入ったのだろう。


 この子、見えないようにしているだけで、わりとちゃんと緊張するタイプだ。


 その後も、ひよりは何かと俺に話しかけてきた。


 配られたプリントを見ながら、「これ提出いつだっけ?」と聞いてくる。ノートの端に時間割を書いていると、「それ真似してもいい?」と覗きこんでくる。校内見学の説明で先生が言った内容を聞き逃したらしく、「今どこって言った?」と小声で聞いてくる。


 そのたびに、近い。


「柊くん、ノートちょっと見せて」

「自分のに書けよ」

「書くから確認したいの」

「……ほら」


 俺がノートを少し傾けると、ひよりは机に肘をつきそうな勢いで顔を寄せてきた。


「わ、字きれい」

「またそれか」

「だってきれいなんだもん」

「近い」

「え?」

「いや……何でもない」


 言いかけてやめる。


 さっき一度言っても、ひよりは本気でピンときていなかった。それなら何度言っても同じだろう。むしろ意識しすぎているこっちが恥ずかしい。


 だが、近いものは近い。


 髪が揺れる。春の朝の空気に混じって、微細な熱が届く。新品の制服の匂いの下に、その子自身の体温が少しずつ馴染んできているのがわかる。


 こういうのがしんどいんだよ。


「おい真央」


 前方から小さく呼ばれて、顔を上げる。


 蓮がニヤニヤしながら、口だけで「頑張れ」と言ってきた。


 何をだよ。


 俺が無言で睨むと、あいつは肩を揺らして笑っていた。ほんとに腹立つな。


 ホームルームの途中、担任が提出物を回収し始めた頃だった。


 ひよりがペンケースから何かを出そうとして、手元を滑らせた。


「あっ」


 小さな音を立てて、消しゴムが床に落ちる。ころころと転がり、ちょうど俺の椅子の横まで来た。


 俺は反射的に身をかがめる。


 同時に、ひよりも身を乗り出した。


「ごめん、取る!」

「いや、俺が――」


 言い終わる前に、思いきり距離が詰まった。


 机と机の間、手を伸ばした先で、俺の指先とひよりの指先がほとんど同時に消しゴムへ触れる。


「っ」


 近い。近すぎる。


 顔の距離まで一気に縮まる。制服の袖が軽く触れ、前髪が揺れる。落とした物を拾うだけの一瞬なのに、こっちは無駄に心拍数が跳ね上がる。


「あ、ご、ごめん」

「……いや」

「取ってくれてありがとう」

「別に」


 ひよりは消しゴムを受け取りながら、少しだけ気まずそうに笑った。


 その時だった。


 ふと、彼女の視線が自分の袖口へ落ちる。


 ほんの一瞬だけ。だが確かに、気にした。


 袖を見て、少しだけ指先で整えるように触れて、それから何でもないふうに手を離す。


 俺はその仕草を見逃さなかった。


 そして、鼻も。


 別に強く何かが変わったわけじゃない。ただ、ごくわずかに、緊張に別の種類の気配が混じった。さっきまでの「初日で不安」というだけじゃない、もっと自分自身に向いた意識。


 ……汗、か。


 たぶん本人は、袖口とか脇とか、そういうところを少し気にしたのだ。


 もちろん、周りのやつにはわからないだろう。俺だって、見ていなければ気づかなかったかもしれない。だが、ひよりは今、何かを「見られていないか」と一瞬だけ確認した。


 それが妙に引っかかった。


 昼前になると、教室の空気は少しだけゆるんできた。


 最初は固かったクラスメイトたちも、隣近所では普通に話すようになっている。笑い声も増えた。まだ大きなグループはできていないが、「誰となら喋れそうか」を探る段階には入ったらしい。


 その流れの中でも、ひよりは相変わらず俺への話しかけ率が高かった。


「ねえ柊くん」

「何」

「次って移動教室だっけ」

「違う」

「え、違った?」

「次はまだここ」

「そっか。危なかったー」


 そう言って、ひよりは自分の机に置いたプリントを見たあと、またこっちを覗きこむ。


「ほんと助かる」

「自分でも確認しろ」

「してるよ? でも柊くんいたらつい聞いちゃう」

「何でだよ」

「ちゃんと覚えてそうだから」

「……」


 その評価はたぶん間違っていない。


 だが、それを悪びれもなく口にされると調子が狂う。


 この子、もしかして誰にでもこんな感じなのか?


 ふとそんな疑問がわいた。


 同じクラスになったばかりの男子にも、こんなふうに自然に話しかけるのか。距離を詰めるのか。笑うのか。


 もしそうなら、俺だけがいちいち動揺しているのが馬鹿みたいだ。


 だが、そう思うと少しだけ面白くなく感じる自分もいて、余計に腹が立った。


「どうしたの?」


 ひよりが首をかしげる。


「いや、別に」

「今ちょっと変な顔した」

「してない」

「したよ?」

「してない」


 押し問答みたいなやりとりに、蓮が横から笑いを噛み殺している気配がした。あとで覚えてろ。


 その日の最後のホームルームが終わり、帰り支度の空気が流れ始めた頃だった。


 みんなが鞄を開けたり、連絡事項をノートに写したりしている中で、ひよりは珍しく少し静かだった。さっきまでより声が少ない。机の中を整理しながら、何度か袖口を気にするように触れている。


 俺は何となく後ろを振り返った。


「朝倉」

「え?」

「……何かあったか」


 口にしてから、少しだけ後悔する。


 何でもないと言われたらそれまでだし、そもそも俺からそんなことを聞くのも変だ。


 だが、ひよりは一瞬だけ目を丸くしたあと、困ったように笑った。


「ううん、何でもない」

「そうか」

「……あのね」


 そこで、ひよりは少し言い淀んだ。


 いつもみたいにまっすぐ笑うのではなく、少しだけ視線を下げる。指先が制服の袖口をつまむ。声も、ほんの少しだけ小さい。


「私、近かったらごめんね」


 その一言は、思ったよりずっと不意打ちだった。


「……え」

「なんか私、人と話す時、たまに距離近いって言われることあって」

「……」

「嫌だったら言ってね」


 初めて見た表情だった。


 朝倉ひよりは、明るくて、よく笑って、誰とでも自然に話せるやつだと思っていた。実際それは間違っていないのだろう。けれど今のひよりは、明らかに少しだけ不安そうだった。


 もしかすると、ただ距離感の話だけじゃないのかもしれない。


 さっきから袖口を気にしていたこと。消しゴムを拾う時に一瞬だけ見せた視線。ほんのわずかな緊張の混じり方。


 全部が頭の中でつながりかける。


「……別に」


 結局、そんな返ししかできなかった。


「嫌じゃない」

「ほんと?」

「ほんと」


 俺がそう言うと、ひよりは少しだけほっとしたように笑った。


「よかった」


 その笑顔はいつも通り明るかったが、さっきまでより少しだけ力が抜けて見えた。


 俺はその表情を見ながら、なぜか落ち着かない気分になっていた。


 近いのが嫌かと聞かれれば、答えはたぶん違う。

 困る。しんどい。心臓に悪い。だが、嫌ではない。


 むしろ――と、そこまで考えて、俺は思考を止めた。


 だめだ。まだそこまで考えるな。


「じゃ、また明日ね、柊くん」

「……ああ」


 ひよりが鞄を持って立ち上がり、教室を出ていく。


 その後ろ姿を見送ってから、俺はようやく前を向いた。


「おまえさあ」


 すぐ横で蓮がにやにやしている。


「何だよ」

「もうだいぶ引きずってる顔してる」

「してない」

「してるって。わかりやす」

「うるさい」


 俺は鞄を乱暴に持ち上げた。


 だが、蓮の言葉を完全には否定できなかった。


 私、近かったらごめんね。


 たったそれだけの一言が、妙に頭に残っている。


 あの子はただ無邪気で距離が近いだけじゃない。たぶん、自分で少し気にしている。気にしているのに、笑って誤魔化している。


 その事実が、なぜか胸の奥に引っかかった。


 春の夕方の光が、教室の窓から斜めに差し込んでいる。


 まだ始まったばかりの高校生活の中で、朝倉ひよりという存在だけが、今日も少し近すぎた。

 そして俺は、その“近さ”の理由を、たぶんもう少し知りたくなってしまっていた。

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