第3話 近い、明るい、無防備すぎる
高校生活二日目の朝。
たったそれだけのことなのに、昨日より少しだけ街の景色が現実味を帯びて見えた。入学式というイベントを一度通ったせいで、「白鷺高校の生徒になる」という事実がようやく体に馴染み始めたのかもしれない。
――などと、冷静に分析していられるのは校門に着くまでだった。
「……いる」
校門の少し手前で、俺は思わず足を止めた。
朝倉ひよりがいた。
春の朝の光の中で、紺のブレザー姿がやけに目立つ。友達と待ち合わせしている様子もなく、一人で立って、校門の方を見ている。たぶん誰かを探しているのだろう。
そしてその視線が、ぴたりと俺を捉えた。
「あ、おはよう!」
すぐに表情が明るくなる。
逃げ場がない。
「……おはよう」
「よかった、柊くんいた」
「何がよかったんだよ」
「だって、まだ教室であんまり話せる人いないし」
そう言いながら、ひよりは自然に俺の隣まで歩いてくる。
近い。
昨日と同じ結論に、出会って三秒で到達した。
今日の朝は少しだけ暖かい。制服の布地も、昨日より少し体に馴染んできた気がする。春の風、校門前の花壇の土、朝の洗剤、軽い整髪料。そんな匂いの中で、朝倉ひよりの気配だけが、やっぱり妙にはっきりわかる。
「一緒に行ってもいい?」
「もう並んでるだろ」
「じゃあいいってことだ」
「その理屈どうなんだ」
俺が半ば呆れながら歩き出すと、ひよりも当然のようについてくる。
校門をくぐり、昇降口で靴を履き替え、廊下を歩く。たったそれだけのことなのに、ひよりはよく喋る。天気の話、校舎が思ったより広い話、昨日の校長の話が長かったこと、リボンを結ぶのが少し苦手なこと。内容自体はどうでもいいのに、こいつはそのどうでもいいことを話すのが妙にうまい。
たぶん、相手を一人にしない喋り方をする。
そういうところも、強い。
「ねえ、柊くんって朝いつも早いの?」
「普通」
「私、今朝ちょっと早く出すぎたかも。緊張して」
「見えないけど」
「昨日も言ったよねそれ」
ひよりは頬を少しふくらませたあと、でもすぐに笑った。
この子は表情がよく動く。笑う、困る、すねる、また笑う。そのどれもがわかりやすくて、見ている側の気を削る。いや、正確には俺の気を削る。
教室に着くと、昨日より少しだけざわめきが早くできていた。
さすがに一日経つと、誰がどの席に座るか、誰がどんな空気を持っているかが少し見え始めるらしい。すでに隣同士で話しているやつもいるし、昨日のうちに連絡先を交換したのか、スマホ画面を見せ合っているやつもいる。
俺は自分の席に鞄を置き、ひとつ息を吐いた。
するとすぐ後ろから声が飛んでくる。
「おはよう、柊くん」
「さっきも言った」
「教室ではまだ言ってないよ?」
ひよりはそう言って、椅子を引く前に俺の机の上を覗き込んだ。
「……何見てる」
「時間割。今日って何持ってくるんだっけって思って」
「昨日配られただろ」
「うん、でももう一回確認」
「自分のを見ろ」
「柊くんの方が見やすい」
意味がわからない。
しかも言いながら、ひよりは机に手をついて前へ身を乗り出してくる。視界の端に髪が落ちる。ブレザーの袖口が俺のノートに触れそうになる。
近い。
朝一番から、容赦がない。
「……朝倉」
「なに?」
「もうちょい下がれ」
「え、邪魔だった?」
「邪魔っていうか……近い」
「近い?」
本当にわかっていない顔をするな。
ひよりは一瞬きょとんとしたあと、「あ、ごめん」と素直に半歩下がった。だが、その半歩が半歩未満なので結局近いままだった。
「藤崎くーん」
斜め後ろから、俺を面白がる声がした。
「朝から大変そうだな」
「おまえは静かにしてろ」
「いやでも、近いって言えるだけ進歩してるだろ」
「何の話だよ」
「青春の」
「黙れ」
藤崎蓮は楽しそうにけらけら笑う。
こいつの席は相変わらず少し離れているようで離れていない。すぐ口を挟める位置だ。俺にとっては最悪だが、ツッコミ役としては機能しているのかもしれない。認めたくないが。
やがて担任が入ってきて、ホームルームが始まった。
今日の内容は、自己紹介、提出物の回収、仮の係決め、それから校内見学の案内など。いかにもクラス初日らしい、まだお互いの様子を探り合う段階の空気だ。
出席番号順に一人ずつ立って、簡単な自己紹介をしていく。
部活を頑張りたいです。友達をたくさん作りたいです。勉強と両立したいです。中学でやっていた競技を続けたいです。ありがちな言葉が並ぶ中、蓮だけは「青春っぽいことを一通り経験したいです」と言って女子も男子も少し笑わせていた。腹立たしいが、こういう時の処世術はあいつの方が上手い。
俺の番が来た時は、「柊真央です。よろしくお願いします」だけで終わらせた。
短すぎたかもしれないが、余計なことを言っても仕方ない。
席に座ると、すぐ後ろから小さな声が飛んでくる。
「柊くん、めっちゃ短かったね」
「何か問題あるか」
「もうちょっと何か言えばよかったのに」
「何を」
「好きな食べ物とか」
「自己紹介で言うか普通」
「言う人たまにいるよ?」
「じゃあ朝倉が言えばよかっただろ」
「私、緊張して飛んじゃったんだもん」
「十分喋ってただろ」
「ほんと?」
「ほんと」
そう返すと、ひよりは「そっかあ」と小さく笑った。
けれど、俺にはわかった。
さっきより少しだけ、緊張している。
表情は明るいままだし、声の調子も変わらない。たぶん周りのやつにはわからない。だが俺には、少しだけ体温が上がっているのが空気でわかる。緊張した時特有の、わずかに尖る気配もある。
自己紹介で名前を呼ばれた時、少し力が入ったのだろう。
この子、見えないようにしているだけで、わりとちゃんと緊張するタイプだ。
その後も、ひよりは何かと俺に話しかけてきた。
配られたプリントを見ながら、「これ提出いつだっけ?」と聞いてくる。ノートの端に時間割を書いていると、「それ真似してもいい?」と覗きこんでくる。校内見学の説明で先生が言った内容を聞き逃したらしく、「今どこって言った?」と小声で聞いてくる。
そのたびに、近い。
「柊くん、ノートちょっと見せて」
「自分のに書けよ」
「書くから確認したいの」
「……ほら」
俺がノートを少し傾けると、ひよりは机に肘をつきそうな勢いで顔を寄せてきた。
「わ、字きれい」
「またそれか」
「だってきれいなんだもん」
「近い」
「え?」
「いや……何でもない」
言いかけてやめる。
さっき一度言っても、ひよりは本気でピンときていなかった。それなら何度言っても同じだろう。むしろ意識しすぎているこっちが恥ずかしい。
だが、近いものは近い。
髪が揺れる。春の朝の空気に混じって、微細な熱が届く。新品の制服の匂いの下に、その子自身の体温が少しずつ馴染んできているのがわかる。
こういうのがしんどいんだよ。
「おい真央」
前方から小さく呼ばれて、顔を上げる。
蓮がニヤニヤしながら、口だけで「頑張れ」と言ってきた。
何をだよ。
俺が無言で睨むと、あいつは肩を揺らして笑っていた。ほんとに腹立つな。
ホームルームの途中、担任が提出物を回収し始めた頃だった。
ひよりがペンケースから何かを出そうとして、手元を滑らせた。
「あっ」
小さな音を立てて、消しゴムが床に落ちる。ころころと転がり、ちょうど俺の椅子の横まで来た。
俺は反射的に身をかがめる。
同時に、ひよりも身を乗り出した。
「ごめん、取る!」
「いや、俺が――」
言い終わる前に、思いきり距離が詰まった。
机と机の間、手を伸ばした先で、俺の指先とひよりの指先がほとんど同時に消しゴムへ触れる。
「っ」
近い。近すぎる。
顔の距離まで一気に縮まる。制服の袖が軽く触れ、前髪が揺れる。落とした物を拾うだけの一瞬なのに、こっちは無駄に心拍数が跳ね上がる。
「あ、ご、ごめん」
「……いや」
「取ってくれてありがとう」
「別に」
ひよりは消しゴムを受け取りながら、少しだけ気まずそうに笑った。
その時だった。
ふと、彼女の視線が自分の袖口へ落ちる。
ほんの一瞬だけ。だが確かに、気にした。
袖を見て、少しだけ指先で整えるように触れて、それから何でもないふうに手を離す。
俺はその仕草を見逃さなかった。
そして、鼻も。
別に強く何かが変わったわけじゃない。ただ、ごくわずかに、緊張に別の種類の気配が混じった。さっきまでの「初日で不安」というだけじゃない、もっと自分自身に向いた意識。
……汗、か。
たぶん本人は、袖口とか脇とか、そういうところを少し気にしたのだ。
もちろん、周りのやつにはわからないだろう。俺だって、見ていなければ気づかなかったかもしれない。だが、ひよりは今、何かを「見られていないか」と一瞬だけ確認した。
それが妙に引っかかった。
昼前になると、教室の空気は少しだけゆるんできた。
最初は固かったクラスメイトたちも、隣近所では普通に話すようになっている。笑い声も増えた。まだ大きなグループはできていないが、「誰となら喋れそうか」を探る段階には入ったらしい。
その流れの中でも、ひよりは相変わらず俺への話しかけ率が高かった。
「ねえ柊くん」
「何」
「次って移動教室だっけ」
「違う」
「え、違った?」
「次はまだここ」
「そっか。危なかったー」
そう言って、ひよりは自分の机に置いたプリントを見たあと、またこっちを覗きこむ。
「ほんと助かる」
「自分でも確認しろ」
「してるよ? でも柊くんいたらつい聞いちゃう」
「何でだよ」
「ちゃんと覚えてそうだから」
「……」
その評価はたぶん間違っていない。
だが、それを悪びれもなく口にされると調子が狂う。
この子、もしかして誰にでもこんな感じなのか?
ふとそんな疑問がわいた。
同じクラスになったばかりの男子にも、こんなふうに自然に話しかけるのか。距離を詰めるのか。笑うのか。
もしそうなら、俺だけがいちいち動揺しているのが馬鹿みたいだ。
だが、そう思うと少しだけ面白くなく感じる自分もいて、余計に腹が立った。
「どうしたの?」
ひよりが首をかしげる。
「いや、別に」
「今ちょっと変な顔した」
「してない」
「したよ?」
「してない」
押し問答みたいなやりとりに、蓮が横から笑いを噛み殺している気配がした。あとで覚えてろ。
その日の最後のホームルームが終わり、帰り支度の空気が流れ始めた頃だった。
みんなが鞄を開けたり、連絡事項をノートに写したりしている中で、ひよりは珍しく少し静かだった。さっきまでより声が少ない。机の中を整理しながら、何度か袖口を気にするように触れている。
俺は何となく後ろを振り返った。
「朝倉」
「え?」
「……何かあったか」
口にしてから、少しだけ後悔する。
何でもないと言われたらそれまでだし、そもそも俺からそんなことを聞くのも変だ。
だが、ひよりは一瞬だけ目を丸くしたあと、困ったように笑った。
「ううん、何でもない」
「そうか」
「……あのね」
そこで、ひよりは少し言い淀んだ。
いつもみたいにまっすぐ笑うのではなく、少しだけ視線を下げる。指先が制服の袖口をつまむ。声も、ほんの少しだけ小さい。
「私、近かったらごめんね」
その一言は、思ったよりずっと不意打ちだった。
「……え」
「なんか私、人と話す時、たまに距離近いって言われることあって」
「……」
「嫌だったら言ってね」
初めて見た表情だった。
朝倉ひよりは、明るくて、よく笑って、誰とでも自然に話せるやつだと思っていた。実際それは間違っていないのだろう。けれど今のひよりは、明らかに少しだけ不安そうだった。
もしかすると、ただ距離感の話だけじゃないのかもしれない。
さっきから袖口を気にしていたこと。消しゴムを拾う時に一瞬だけ見せた視線。ほんのわずかな緊張の混じり方。
全部が頭の中でつながりかける。
「……別に」
結局、そんな返ししかできなかった。
「嫌じゃない」
「ほんと?」
「ほんと」
俺がそう言うと、ひよりは少しだけほっとしたように笑った。
「よかった」
その笑顔はいつも通り明るかったが、さっきまでより少しだけ力が抜けて見えた。
俺はその表情を見ながら、なぜか落ち着かない気分になっていた。
近いのが嫌かと聞かれれば、答えはたぶん違う。
困る。しんどい。心臓に悪い。だが、嫌ではない。
むしろ――と、そこまで考えて、俺は思考を止めた。
だめだ。まだそこまで考えるな。
「じゃ、また明日ね、柊くん」
「……ああ」
ひよりが鞄を持って立ち上がり、教室を出ていく。
その後ろ姿を見送ってから、俺はようやく前を向いた。
「おまえさあ」
すぐ横で蓮がにやにやしている。
「何だよ」
「もうだいぶ引きずってる顔してる」
「してない」
「してるって。わかりやす」
「うるさい」
俺は鞄を乱暴に持ち上げた。
だが、蓮の言葉を完全には否定できなかった。
私、近かったらごめんね。
たったそれだけの一言が、妙に頭に残っている。
あの子はただ無邪気で距離が近いだけじゃない。たぶん、自分で少し気にしている。気にしているのに、笑って誤魔化している。
その事実が、なぜか胸の奥に引っかかった。
春の夕方の光が、教室の窓から斜めに差し込んでいる。
まだ始まったばかりの高校生活の中で、朝倉ひよりという存在だけが、今日も少し近すぎた。
そして俺は、その“近さ”の理由を、たぶんもう少し知りたくなってしまっていた。




