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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第2話 入学式、隣の席が近すぎる

 入学式の朝は、いつもより少しだけ世界が新しい。


 別に道路が塗り替えられているわけでも、空の色が劇的に変わっているわけでもない。ただ、昨日まで中学生だった人間が制服を着て歩いているというだけで、街の景色は妙に「それっぽく」見えるから不思議だ。


 俺――柊真央も、その「それっぽさ」の一部になっていた。


 鏡の前でネクタイを直し、紺のブレザーの襟を整え、どうにも落ち着かない気分のまま玄関を出る。新品の革靴はまだ足に馴染んでいなくて、歩くたびにわずかに硬い音を立てた。


 制服は、独特の匂いがする。


 新しい布地。アイロンの熱。店の奥に積まれていた時の、少し乾いた空気。そこに朝の洗剤の匂いと、自分の体温が混ざって、いかにも「今日から新品です」という顔をしている。


 それが、俺は嫌いじゃない。


 嫌いじゃないが――問題は今日、その匂いが校内中にあふれているだろうということだ。


「はあ……」


 家を出た瞬間から、もう気が重い。


 入学式。新しい教室。知らない人間だらけ。緊張している新入生。新品の制服。春の陽気で少し上がる体温。わくわくしてはしゃいでいるやつ。不安で胃が死んでるやつ。親と一緒に来ている家庭の気配。


 つまり、俺の鼻にとっては地獄である。


「せめてクラスだけでも別であってくれ……」


 誰にともなくつぶやいた。


 もちろん、何のことかと言えば、朝倉ひよりだ。


 合格発表の日、掲示板の前で出会ったあの女子。近かった。無防備だった。笑顔が強かった。そして、俺の記憶に妙に残った。


 あれから数日。


 会うはずもないのに、気づけば時々思い出してしまっていた。あの時の表情とか、声とか、名前とか。春の風に混じった、あの子の気配まで。


 そんな自分が気持ち悪いのはわかっている。


 だからせめて、クラスくらいは別であってほしい。学校が同じでも、三年間のうち一度も話さずに終わる可能性だってある。きっとある。あるはずだ。


 ……などと、現実逃避のような希望を抱きながら白鷺高校へ向かったのだが。


 校門をくぐった瞬間、その希望はだいたい半分死んだ。


 人、多すぎないか。


 新入生と保護者、在校生の案内役、職員。春の朝の光の中で、校門前はすでに小さな祭り会場みたいになっていた。新品の制服の匂い、ワックスのかかった廊下の匂い、花壇の湿った土、誰かの整髪料、微量の制汗スプレー、緊張で浅くなった呼吸。いろんなものが混ざって、鼻の奥を一気に押してくる。


 俺はなるべく息を浅くしながら、クラス発表の紙へ向かった。


 一年三組。


 自分の受験番号の横に印字されたそれを見つけた時、まず最初に思ったのは、「まだだ、まだわからない」ということだった。


 クラスが同じかどうかは、この紙だけではわからない。


 番号をざっと追う。受験番号。氏名。


 その中に、見覚えのある名前があった。


 朝倉ひより。


「……終わった」


 思わず口に出た。


「何が終わったんだよ」


 背後から聞こえた声に、心臓が少し跳ねた。振り返ると、案の定そこには藤崎蓮がいた。制服を着ると多少はまともに見えるかと思ったが、表情がいつも通りうるさいので結局いつもの蓮だった。


「おまえも三組か」

「おう。っていうか『終わった』って何だよ。クラス一緒で嬉しいだろ、親友的に」

「誰が親友だ」

「腐れ縁のがしっくりくるか?」

「まだマシ」

「で、何が終わったんだ?」


 問い詰める蓮に、俺はクラス表の一点を軽く顎で示した。


「……あー」


 一拍置いて、蓮が嫌な顔でにやつく。


「いたのか」

「いた」

「しかも同じクラス」

「同じクラス」

「うわー」

「その『うわー』は何なんだ」

「いや、合格発表の時に言ってたじゃん。『あの子は危ない』って」

「言ってない」

「目で言ってた」

「やめろ気持ち悪い」


 そう言いながらも、否定しきれないのが腹立たしい。


 俺はあの日のことを必要以上に意識していた。それは事実だ。そして、同じクラスだと知った今、その記憶は勝手に鮮明さを増している。


「まあ、同じクラスでも席遠ければセーフじゃね?」

「そう願う」

「願い弱っ」


 蓮はけらけら笑って、先に昇降口へ向かっていった。


 俺もその後を追う。廊下はまだ朝の光がよく入り、床のワックスがやけに反射していた。新品の上履きのゴムの匂い。教室へ急ぐ足音。名前を呼び合う声。どれもこれも新学期らしい。


 そして、その全部が少しうるさい。


 教室の前に着くと、入口に座席表が貼ってあった。出席番号順らしい。自分の名前を探し、席を確認する。


 窓側から二列目、前から三番目。


 悪くない。真ん中より少し前。程よく目立たず、程よく隠れられる位置だ。


 少しだけ安心しながら視線を横へ滑らせた、その時。


「――嘘だろ」


 席のひとつ後ろ。


 朝倉ひより。


 近い。近すぎる。


 前後だ。終わった。いや、今度こそ終わった。


「おはよう、また会えたね!」


 その声がしたのは、俺が現実を受け入れるより早かった。


 振り向く。


 いた。


 朝倉ひよりが、いかにも嬉しそうな顔で、そこに立っていた。


 紺のブレザー。白いブラウス。赤系のリボン。合格発表の時の私服姿と違って、今日は完全に白鷺高校の新入生だった。制服がよく似合っている。というか、たぶん何を着ても似合うタイプだ。


 そしてやっぱり、近い。


 廊下から教室へ入ったばかりだろうに、もう俺のすぐそばまで来ていた。


「……おはよう」

「よかったあ、同じクラスだったんだね」

「そうだな」

「しかも近い!」

「そうだな……」


 朝倉ひよりは、俺の反応の薄さなんて気にもしていないらしく、にこにこと席表を見比べている。


「柊くん、前なんだ」

「後ろだな、朝倉」

「うん。なんかちょっと安心しちゃった」

「安心?」

「だって、知ってる人が一人いるだけで全然違うでしょ?」

「……まあ」


 それはそうかもしれない。


 ただ、言われた方としては心臓に悪い。


 教室には他の新入生も次々入ってきていて、空気の密度がどんどん増していく。新品の制服の匂い、新しい鞄、まだ固い教科書の紙、緊張で少し高くなった体温。そこに混じって、朝倉ひよりの気配が妙にはっきりわかる。


 近いからだ。


 近いし、たぶんこの子は無意識に人との距離を詰める。


「あ、ねえねえ、これ合ってるかな」


 そう言って、ひよりは俺の肩越しに座席表をのぞきこんだ。


「……っ」


 顔が近い。


 視界の端で黒髪が揺れる。制服の布がこすれる音がする。朝の空気と一緒に、柔らかい匂いがふわっと届く。今日は新品の制服の匂いがまだ少し強い。その下に、急いで家を出てきた朝の気配と、緊張でわずかに上がった体温がある。


「柊くん?」

「……合ってる」

「ほんと? よかったー」


 本人は本当に、何も気づいていないらしい。


 この距離が人を殺せることを、たぶん知らない。


 俺がなんとか平静を保っていると、ひよりはくるりと自分の席へ戻り、机の上に鞄を置いた。そこから教室を見回して、少しだけ不安そうに眉を下げる。


「うわあ……知らない人ばっかりだ」

「入学式だからな」

「そうだけど! でも緊張するよね」

「まあ」

「柊くんはしないの?」

「してる」

「見えない」

「してるけど見せてないだけ」

「かっこつけ?」

「違う」


 即答すると、ひよりはくすっと笑った。


 その笑い方が妙に自然で、だからこそ余計に距離を縮めてくる感じがする。


 この子、危機感が足りないんじゃないだろうか。いや、危機感が足りないのは俺かもしれない。普通の男子なら、これくらいの距離でいちいち内心大騒ぎしたりしないのだろうか。


 ……いや、でも近いものは近いだろ。


「おーい真央」


 別方向から聞き慣れた声が飛んできた。


 藤崎蓮だ。席は通路を挟んだ斜め後ろらしい。なんでこいつまで近いんだ。


「おまえらもう仲良くなってんじゃん」

「うるさい」

「だって合格発表の時の子だろ?」

「えっ」


 ひよりがぱちぱちと目を瞬かせる。


「知り合い?」

「中学からの腐れ縁」

「腐れ縁って紹介ひどくない?」

「こいつはこういうやつだから」

「へえー、じゃあ藤崎くん?」

「そうそう。朝倉さんよろしく」

「よろしくお願いします」


 にこやかに挨拶を返すひよりに、蓮は露骨に「いい子だな」という顔をしたあと、すぐに俺へ向かって意味ありげな笑みを向けてきた。やめろ。何も言うな。


 案の定、こいつは言った。


「真央、朝倉さんいるなら高校生活安泰じゃん」

「どこが」

「知り合いいて安心するってさっき言ってたし」

「おまえは静かにしてろ」

「図星?」

「黙れ」


 ひよりはそんなやりとりを見て、また楽しそうに笑った。


「二人、仲いいんだね」

「どこが」

「息だけは合うな」

「最悪の意味でな」


 やれやれと肩をすくめながら、自分の席に鞄を置く。


 机はまだ新品に近く、木の匂いが少し残っていた。教室の黒板には白い文字で「入学おめでとうございます」と書かれている。窓の外では桜が少し揺れていた。いかにも「新しい生活の始まり」で、なんというか、逃げ場がない。


 やがて担任らしい教師が入ってきて、ホームルームが始まった。


 出席確認。書類の説明。保護者への案内。入学式の流れ。ありきたりな話ばかりなのに、教室全体がやけに張り詰めている。誰もが自分の立ち位置を探っている感じがする。


 俺はそういう空気が苦手だ。


 しかも今日に限っては、目の前の気配が妙に気になる。


 後ろの席から、紙の擦れる音がする。筆箱のファスナーが開く音。ノートを出す音。少し椅子を引く音。そんな小さな動きのひとつひとつに、朝倉ひよりがそこにいることを意識させられる。


「ねえ」


 小声が耳に届いたのは、書類の記入が始まって少しした頃だった。


 振り返ると、ひよりがノートを半分持ち上げたまま困った顔をしていた。


「住所ってここでいいんだよね?」

「……そこは保護者欄」

「あ、ほんとだ」

「こっち」

「助かったぁ」


 そう言いながら、ひよりは机越しにノートを少し寄せてきた。自然に、俺の机に手をついて覗き込む形になる。


 近い。


 近いし、本人はたぶん完全に無意識だ。


 さらりと髪が落ちる。制服の袖が俺の机の角に軽く触れる。朝の緊張がまだ抜けきっていないのか、呼吸も少しだけ浅い。新品の制服の匂いの下に、教室の熱気でほんの少しだけやわらいだ体温が混じっていた。


「ありがと、柊くん」

「……別に」

「柊くん、字きれいだね」

「普通だろ」

「私、こういうの苦手なんだよね。最初って何書けばいいか頭真っ白になっちゃうし」

「それで番号見えなくて焦ってたのか」

「う……それは言わないで」

「事実だろ」

「そうだけど!」


 唇を少し尖らせる。そういう表情までいちいち素直だ。


 ホームルームが終わり、体育館へ移動する時間になった。


 廊下へ出ると、今度はまた別の匂いが押し寄せてくる。ワックスの床、日差しで温まった窓枠、外から吹き込む風、列を作る新入生たちの緊張。体育館に入れば、さらにそこへ木の床、舞台幕、暖房の残り、人数の多さで上がる室温まで加わる。


 体育館は、最悪だった。


 熱い。人が多い。しかもみんな制服姿で、まだ着慣れない布地の匂いをまとっている。そこへ春の日差しまで入ってくるせいで、空気が少し蒸れていた。


「しんど……」


 思わず本音が漏れる。


「真央、顔死んでるぞ」


 横に並んだ蓮が小声で笑う。


「熱気がすごい」

「入学式だしそんなもんだろ」

「鼻がしんどい」

「またそれか」

「まただよ」


 蓮は慣れた様子で肩をすくめた。


 こいつには一応、俺が人より匂いに敏感なことは話してある。もちろん、「女子の汗や体温混じりの匂いに弱い」なんて核心までは言っていない。ただ「人混みの匂いが苦手」という程度にぼかしてある。


 それでも、少しは楽だ。


「大丈夫?」


 今度は後ろから声がした。


 ひよりだ。列が近いらしく、俺の肩越しに顔を出してくる。


「ちょっと顔色悪いかも」

「大丈夫」

「ほんとに?」

「ほんとに」


 大丈夫じゃないのは、あんたがそうやってすぐ近くに来るからでもある。


 とはいえ、そんなこと言えるわけがない。


「無理しないでね」

「……ああ」


 小さく返すと、ひよりはそれだけで少し安心したように笑った。


 入学式そのものは、わりとあっさり終わった。


 校長の話は長かった気がするが、たぶん毎年長いのだろう。新入生代表の挨拶はやけに立派で、在校生の歓迎の言葉はそつがなかった。俺はほとんど内容を覚えていない。気を抜くと周囲の匂いの情報量に呑まれそうだったから、なるべく「今は聞くことだけに集中しろ」と自分へ言い聞かせていた。


 教室へ戻ると、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。


 担任が簡単な連絡事項を終え、最後に「今日はもう解散です。気をつけて帰ってください」と告げた瞬間、教室の空気が一気にゆるんだ。


 ざわざわと声が増える。椅子が引かれる。スマホを出す音。隣の席と話し始める声。緊張がほどけると、それはそれでまた別の種類の匂いが広がるのだからやっかいだ。


「柊くん」


 後ろから軽く制服の袖を引かれて、振り向く。


 ひよりが立っていた。鞄を肩にかけ、いつもの明るい顔で、当たり前みたいに俺を見ている。


「今日、助かった。ありがとね」

「今日?」

「いろいろ。書類もそうだし、体育館でもちょっと心配してくれたし」

「別に心配はしてない」

「えー、そういうこと言う」

「……」

「でも、してくれたでしょ?」

「……してないとは言わない」


 そう答えると、ひよりは少し嬉しそうに目を細めた。


 距離が近い。


 さっきから何度も思っているが、本当に近い。


 話すたびに、自然に一歩入ってくる。人との間合いに遠慮がないというか、壁が薄いというか。しかもそれがあざとさではなく、本人の素らしいから余計に厄介だ。


「これからよろしくね、柊くん」


 ひよりはそう言って、春の光みたいにまっすぐ笑った。


 その笑顔に、一瞬だけ言葉が詰まる。


「……ああ、よろしく」


 なんとか返す。


 だが内心では、別の言葉がぐるぐるしていた。


 よろしくで済む距離じゃない。


 たぶん、これからこいつは俺の平穏を何度も奪う。


 新品の制服みたいにまだ硬いこの高校生活の中で、朝倉ひよりだけがやけに無防備で、やけに近くて、やけに鮮明だ。


 その事実に頭を抱えたくなりながら、俺は窓の外の桜を見た。


 春は始まったばかりだった。

 そしてたぶん、俺の「ギリギリ」は、ここからが本番なんだと思う。

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