第2話 入学式、隣の席が近すぎる
入学式の朝は、いつもより少しだけ世界が新しい。
別に道路が塗り替えられているわけでも、空の色が劇的に変わっているわけでもない。ただ、昨日まで中学生だった人間が制服を着て歩いているというだけで、街の景色は妙に「それっぽく」見えるから不思議だ。
俺――柊真央も、その「それっぽさ」の一部になっていた。
鏡の前でネクタイを直し、紺のブレザーの襟を整え、どうにも落ち着かない気分のまま玄関を出る。新品の革靴はまだ足に馴染んでいなくて、歩くたびにわずかに硬い音を立てた。
制服は、独特の匂いがする。
新しい布地。アイロンの熱。店の奥に積まれていた時の、少し乾いた空気。そこに朝の洗剤の匂いと、自分の体温が混ざって、いかにも「今日から新品です」という顔をしている。
それが、俺は嫌いじゃない。
嫌いじゃないが――問題は今日、その匂いが校内中にあふれているだろうということだ。
「はあ……」
家を出た瞬間から、もう気が重い。
入学式。新しい教室。知らない人間だらけ。緊張している新入生。新品の制服。春の陽気で少し上がる体温。わくわくしてはしゃいでいるやつ。不安で胃が死んでるやつ。親と一緒に来ている家庭の気配。
つまり、俺の鼻にとっては地獄である。
「せめてクラスだけでも別であってくれ……」
誰にともなくつぶやいた。
もちろん、何のことかと言えば、朝倉ひよりだ。
合格発表の日、掲示板の前で出会ったあの女子。近かった。無防備だった。笑顔が強かった。そして、俺の記憶に妙に残った。
あれから数日。
会うはずもないのに、気づけば時々思い出してしまっていた。あの時の表情とか、声とか、名前とか。春の風に混じった、あの子の気配まで。
そんな自分が気持ち悪いのはわかっている。
だからせめて、クラスくらいは別であってほしい。学校が同じでも、三年間のうち一度も話さずに終わる可能性だってある。きっとある。あるはずだ。
……などと、現実逃避のような希望を抱きながら白鷺高校へ向かったのだが。
校門をくぐった瞬間、その希望はだいたい半分死んだ。
人、多すぎないか。
新入生と保護者、在校生の案内役、職員。春の朝の光の中で、校門前はすでに小さな祭り会場みたいになっていた。新品の制服の匂い、ワックスのかかった廊下の匂い、花壇の湿った土、誰かの整髪料、微量の制汗スプレー、緊張で浅くなった呼吸。いろんなものが混ざって、鼻の奥を一気に押してくる。
俺はなるべく息を浅くしながら、クラス発表の紙へ向かった。
一年三組。
自分の受験番号の横に印字されたそれを見つけた時、まず最初に思ったのは、「まだだ、まだわからない」ということだった。
クラスが同じかどうかは、この紙だけではわからない。
番号をざっと追う。受験番号。氏名。
その中に、見覚えのある名前があった。
朝倉ひより。
「……終わった」
思わず口に出た。
「何が終わったんだよ」
背後から聞こえた声に、心臓が少し跳ねた。振り返ると、案の定そこには藤崎蓮がいた。制服を着ると多少はまともに見えるかと思ったが、表情がいつも通りうるさいので結局いつもの蓮だった。
「おまえも三組か」
「おう。っていうか『終わった』って何だよ。クラス一緒で嬉しいだろ、親友的に」
「誰が親友だ」
「腐れ縁のがしっくりくるか?」
「まだマシ」
「で、何が終わったんだ?」
問い詰める蓮に、俺はクラス表の一点を軽く顎で示した。
「……あー」
一拍置いて、蓮が嫌な顔でにやつく。
「いたのか」
「いた」
「しかも同じクラス」
「同じクラス」
「うわー」
「その『うわー』は何なんだ」
「いや、合格発表の時に言ってたじゃん。『あの子は危ない』って」
「言ってない」
「目で言ってた」
「やめろ気持ち悪い」
そう言いながらも、否定しきれないのが腹立たしい。
俺はあの日のことを必要以上に意識していた。それは事実だ。そして、同じクラスだと知った今、その記憶は勝手に鮮明さを増している。
「まあ、同じクラスでも席遠ければセーフじゃね?」
「そう願う」
「願い弱っ」
蓮はけらけら笑って、先に昇降口へ向かっていった。
俺もその後を追う。廊下はまだ朝の光がよく入り、床のワックスがやけに反射していた。新品の上履きのゴムの匂い。教室へ急ぐ足音。名前を呼び合う声。どれもこれも新学期らしい。
そして、その全部が少しうるさい。
教室の前に着くと、入口に座席表が貼ってあった。出席番号順らしい。自分の名前を探し、席を確認する。
窓側から二列目、前から三番目。
悪くない。真ん中より少し前。程よく目立たず、程よく隠れられる位置だ。
少しだけ安心しながら視線を横へ滑らせた、その時。
「――嘘だろ」
席のひとつ後ろ。
朝倉ひより。
近い。近すぎる。
前後だ。終わった。いや、今度こそ終わった。
「おはよう、また会えたね!」
その声がしたのは、俺が現実を受け入れるより早かった。
振り向く。
いた。
朝倉ひよりが、いかにも嬉しそうな顔で、そこに立っていた。
紺のブレザー。白いブラウス。赤系のリボン。合格発表の時の私服姿と違って、今日は完全に白鷺高校の新入生だった。制服がよく似合っている。というか、たぶん何を着ても似合うタイプだ。
そしてやっぱり、近い。
廊下から教室へ入ったばかりだろうに、もう俺のすぐそばまで来ていた。
「……おはよう」
「よかったあ、同じクラスだったんだね」
「そうだな」
「しかも近い!」
「そうだな……」
朝倉ひよりは、俺の反応の薄さなんて気にもしていないらしく、にこにこと席表を見比べている。
「柊くん、前なんだ」
「後ろだな、朝倉」
「うん。なんかちょっと安心しちゃった」
「安心?」
「だって、知ってる人が一人いるだけで全然違うでしょ?」
「……まあ」
それはそうかもしれない。
ただ、言われた方としては心臓に悪い。
教室には他の新入生も次々入ってきていて、空気の密度がどんどん増していく。新品の制服の匂い、新しい鞄、まだ固い教科書の紙、緊張で少し高くなった体温。そこに混じって、朝倉ひよりの気配が妙にはっきりわかる。
近いからだ。
近いし、たぶんこの子は無意識に人との距離を詰める。
「あ、ねえねえ、これ合ってるかな」
そう言って、ひよりは俺の肩越しに座席表をのぞきこんだ。
「……っ」
顔が近い。
視界の端で黒髪が揺れる。制服の布がこすれる音がする。朝の空気と一緒に、柔らかい匂いがふわっと届く。今日は新品の制服の匂いがまだ少し強い。その下に、急いで家を出てきた朝の気配と、緊張でわずかに上がった体温がある。
「柊くん?」
「……合ってる」
「ほんと? よかったー」
本人は本当に、何も気づいていないらしい。
この距離が人を殺せることを、たぶん知らない。
俺がなんとか平静を保っていると、ひよりはくるりと自分の席へ戻り、机の上に鞄を置いた。そこから教室を見回して、少しだけ不安そうに眉を下げる。
「うわあ……知らない人ばっかりだ」
「入学式だからな」
「そうだけど! でも緊張するよね」
「まあ」
「柊くんはしないの?」
「してる」
「見えない」
「してるけど見せてないだけ」
「かっこつけ?」
「違う」
即答すると、ひよりはくすっと笑った。
その笑い方が妙に自然で、だからこそ余計に距離を縮めてくる感じがする。
この子、危機感が足りないんじゃないだろうか。いや、危機感が足りないのは俺かもしれない。普通の男子なら、これくらいの距離でいちいち内心大騒ぎしたりしないのだろうか。
……いや、でも近いものは近いだろ。
「おーい真央」
別方向から聞き慣れた声が飛んできた。
藤崎蓮だ。席は通路を挟んだ斜め後ろらしい。なんでこいつまで近いんだ。
「おまえらもう仲良くなってんじゃん」
「うるさい」
「だって合格発表の時の子だろ?」
「えっ」
ひよりがぱちぱちと目を瞬かせる。
「知り合い?」
「中学からの腐れ縁」
「腐れ縁って紹介ひどくない?」
「こいつはこういうやつだから」
「へえー、じゃあ藤崎くん?」
「そうそう。朝倉さんよろしく」
「よろしくお願いします」
にこやかに挨拶を返すひよりに、蓮は露骨に「いい子だな」という顔をしたあと、すぐに俺へ向かって意味ありげな笑みを向けてきた。やめろ。何も言うな。
案の定、こいつは言った。
「真央、朝倉さんいるなら高校生活安泰じゃん」
「どこが」
「知り合いいて安心するってさっき言ってたし」
「おまえは静かにしてろ」
「図星?」
「黙れ」
ひよりはそんなやりとりを見て、また楽しそうに笑った。
「二人、仲いいんだね」
「どこが」
「息だけは合うな」
「最悪の意味でな」
やれやれと肩をすくめながら、自分の席に鞄を置く。
机はまだ新品に近く、木の匂いが少し残っていた。教室の黒板には白い文字で「入学おめでとうございます」と書かれている。窓の外では桜が少し揺れていた。いかにも「新しい生活の始まり」で、なんというか、逃げ場がない。
やがて担任らしい教師が入ってきて、ホームルームが始まった。
出席確認。書類の説明。保護者への案内。入学式の流れ。ありきたりな話ばかりなのに、教室全体がやけに張り詰めている。誰もが自分の立ち位置を探っている感じがする。
俺はそういう空気が苦手だ。
しかも今日に限っては、目の前の気配が妙に気になる。
後ろの席から、紙の擦れる音がする。筆箱のファスナーが開く音。ノートを出す音。少し椅子を引く音。そんな小さな動きのひとつひとつに、朝倉ひよりがそこにいることを意識させられる。
「ねえ」
小声が耳に届いたのは、書類の記入が始まって少しした頃だった。
振り返ると、ひよりがノートを半分持ち上げたまま困った顔をしていた。
「住所ってここでいいんだよね?」
「……そこは保護者欄」
「あ、ほんとだ」
「こっち」
「助かったぁ」
そう言いながら、ひよりは机越しにノートを少し寄せてきた。自然に、俺の机に手をついて覗き込む形になる。
近い。
近いし、本人はたぶん完全に無意識だ。
さらりと髪が落ちる。制服の袖が俺の机の角に軽く触れる。朝の緊張がまだ抜けきっていないのか、呼吸も少しだけ浅い。新品の制服の匂いの下に、教室の熱気でほんの少しだけやわらいだ体温が混じっていた。
「ありがと、柊くん」
「……別に」
「柊くん、字きれいだね」
「普通だろ」
「私、こういうの苦手なんだよね。最初って何書けばいいか頭真っ白になっちゃうし」
「それで番号見えなくて焦ってたのか」
「う……それは言わないで」
「事実だろ」
「そうだけど!」
唇を少し尖らせる。そういう表情までいちいち素直だ。
ホームルームが終わり、体育館へ移動する時間になった。
廊下へ出ると、今度はまた別の匂いが押し寄せてくる。ワックスの床、日差しで温まった窓枠、外から吹き込む風、列を作る新入生たちの緊張。体育館に入れば、さらにそこへ木の床、舞台幕、暖房の残り、人数の多さで上がる室温まで加わる。
体育館は、最悪だった。
熱い。人が多い。しかもみんな制服姿で、まだ着慣れない布地の匂いをまとっている。そこへ春の日差しまで入ってくるせいで、空気が少し蒸れていた。
「しんど……」
思わず本音が漏れる。
「真央、顔死んでるぞ」
横に並んだ蓮が小声で笑う。
「熱気がすごい」
「入学式だしそんなもんだろ」
「鼻がしんどい」
「またそれか」
「まただよ」
蓮は慣れた様子で肩をすくめた。
こいつには一応、俺が人より匂いに敏感なことは話してある。もちろん、「女子の汗や体温混じりの匂いに弱い」なんて核心までは言っていない。ただ「人混みの匂いが苦手」という程度にぼかしてある。
それでも、少しは楽だ。
「大丈夫?」
今度は後ろから声がした。
ひよりだ。列が近いらしく、俺の肩越しに顔を出してくる。
「ちょっと顔色悪いかも」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんとに」
大丈夫じゃないのは、あんたがそうやってすぐ近くに来るからでもある。
とはいえ、そんなこと言えるわけがない。
「無理しないでね」
「……ああ」
小さく返すと、ひよりはそれだけで少し安心したように笑った。
入学式そのものは、わりとあっさり終わった。
校長の話は長かった気がするが、たぶん毎年長いのだろう。新入生代表の挨拶はやけに立派で、在校生の歓迎の言葉はそつがなかった。俺はほとんど内容を覚えていない。気を抜くと周囲の匂いの情報量に呑まれそうだったから、なるべく「今は聞くことだけに集中しろ」と自分へ言い聞かせていた。
教室へ戻ると、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。
担任が簡単な連絡事項を終え、最後に「今日はもう解散です。気をつけて帰ってください」と告げた瞬間、教室の空気が一気にゆるんだ。
ざわざわと声が増える。椅子が引かれる。スマホを出す音。隣の席と話し始める声。緊張がほどけると、それはそれでまた別の種類の匂いが広がるのだからやっかいだ。
「柊くん」
後ろから軽く制服の袖を引かれて、振り向く。
ひよりが立っていた。鞄を肩にかけ、いつもの明るい顔で、当たり前みたいに俺を見ている。
「今日、助かった。ありがとね」
「今日?」
「いろいろ。書類もそうだし、体育館でもちょっと心配してくれたし」
「別に心配はしてない」
「えー、そういうこと言う」
「……」
「でも、してくれたでしょ?」
「……してないとは言わない」
そう答えると、ひよりは少し嬉しそうに目を細めた。
距離が近い。
さっきから何度も思っているが、本当に近い。
話すたびに、自然に一歩入ってくる。人との間合いに遠慮がないというか、壁が薄いというか。しかもそれがあざとさではなく、本人の素らしいから余計に厄介だ。
「これからよろしくね、柊くん」
ひよりはそう言って、春の光みたいにまっすぐ笑った。
その笑顔に、一瞬だけ言葉が詰まる。
「……ああ、よろしく」
なんとか返す。
だが内心では、別の言葉がぐるぐるしていた。
よろしくで済む距離じゃない。
たぶん、これからこいつは俺の平穏を何度も奪う。
新品の制服みたいにまだ硬いこの高校生活の中で、朝倉ひよりだけがやけに無防備で、やけに近くて、やけに鮮明だ。
その事実に頭を抱えたくなりながら、俺は窓の外の桜を見た。
春は始まったばかりだった。
そしてたぶん、俺の「ギリギリ」は、ここからが本番なんだと思う。




