第1話 合格発表の掲示板の前で、俺の青春はもうギリギリだった
春という季節は、どうしてこうも人の心を落ち着かなくさせるのだろう。
まだ少し冷たい風が吹いているくせに、日差しだけはやけにやわらかい。冬の終わりを惜しむ間もなく、街の空気はもう「新しい何かが始まります」とでも言いたげに浮き足立っている。道の端に並ぶ桜のつぼみは今にもほころびそうで、空は無駄に青く、朝の光は無駄にまぶしかった。
そんな、いかにも青春の開幕にぴったりな朝。
県立白鷺高校の正門前には、想像以上の人だかりができていた。
「うわ……」
思わず足が止まる。
校門の脇、壁面に設置された大きな掲示板の前には、受験番号の張り紙を見上げる人、人、人。受験生本人らしい中学生たち、その親らしき大人たち、友達同士で来たらしいグループ、すでに泣いているやつ、まだ見てもいないのに青ざめているやつ、なぜか妙に明るく笑っているやつ。いろんな種類の緊張がごちゃまぜになって、校門前の空気を分厚くしていた。
そして俺――柊真央は、その空気に気圧されるように、その場で立ち尽くしていた。
いや、正確に言うなら、人混みに気圧されているわけじゃない。
匂いだ。
俺は昔から、人よりずっと匂いに敏感だった。
洗いたての服の匂い。朝のシャンプー。制汗スプレー。コンビニの揚げ物。冷たいアスファルト。花壇の土。紙のインク。緊張で乾いた口の匂い。体温が上がった時にだけ、ふっと混じる汗の気配。そういうものが、全部、他の人よりはっきりわかってしまう。
たとえば今もそうだ。
校門前の風に乗って、いろんな匂いが流れ込んでくる。
母親の香水。父親の煙草の残り香。新品のコート。朝食のトースト。ミント系のタブレット。強すぎる柔軟剤。緊張で体温が上がった人の、ほんの少しだけ変わる空気の匂い。誰かの手に握られた受験票の紙の匂いまで、やたらくっきり感じてしまう。
こういう日は本当にしんどい。
「まだ入試終わっただけだろ……なんで合格発表でこんなラスボス感あるんだよ」
小さくつぶやくと、すぐ横から呆れた声が飛んできた。
「おまえ、朝からテンション低すぎない?」
振り向くと、ニヤニヤした顔がそこにある。
藤崎蓮。中学からの腐れ縁だ。背はそこそこ高くて、声はでかくて、無駄に明るい。こういうイベントになると妙に張り切るタイプで、今日も朝からやたら元気だった。
「テンションの問題じゃない。人が多い」
「受験日より人少ないだろ」
「種類が違うんだよ」
「何の?」
「圧の」
そう答えると、蓮は肩をすくめた。
「また始まったよ、真央の繊細っぽいこと言うやつ」
「っぽいじゃなくて実際繊細なんだよ」
「自分で言うな」
こいつには何を言っても無駄だ。
俺は一度大きく息を吐いて、胸ポケットに入れた受験票を軽く押さえた。番号は一一三七。昨夜から何度も確認した数字だ。風呂のあとに見た。寝る前にも見た。朝起きてまた見た。家を出る前にも見た。今さら変わるわけがないのに、数字だけは頭の中に焼き付いている。
なのに、掲示板の前へ踏み出す足が重い。
「おまえさ、落ちたら落ちたで仕方ないんだし、さっさと見ようぜ」
「おまえ、その言い方はもっと他にあるだろ」
「受かる前提で話してやる方が優しさだと思ったんだけど」
「雑なんだよ、優しさが」
そんなやりとりをしていた、その時だった。
人の流れが一気に動いた。
「すみません、ちょっと通してください!」
女の子の声が聞こえたのと、誰かに背中を押されたのはほぼ同時だった。
「うわっ」
よろける。反射的に踏ん張る。だが次の瞬間、別の誰かがぶつかってきて、今度は真正面から柔らかい感触が腕に当たった。
「きゃっ」
「えっ」
目の前に、女の子がいた。
肩までの黒髪。白い肌。大きめの目。クリーム色のカーディガンに、淡い青のスカート。派手ではないのに、なぜかやけに目を引く。顔立ちは整っているのに気取ったところがなくて、ぱっと見ただけで「感じのいい子だ」と思わせるタイプの美少女だった。
しかも――近い。
ものすごく近い。
「あっ、ご、ごめんなさい! 押されちゃって……!」
彼女は慌てて一歩下がろうとしたが、背後にも人がいてうまく下がれない。結果、距離はあまり変わらないまま、彼女は申し訳なさそうに俺を見上げた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫」
「ほんとに? 痛くなかったですか?」
その時だった。
ふわ、と。
風に紛れて、彼女の匂いが届いた。
強い香水みたいなものじゃない。甘すぎるシャンプーの匂いでもない。もっと自然で、もっとやわらかい、春の空気に溶けるような匂いだ。
洗いたての服の清潔さ。外を歩いてきた朝の空気。人混みをかき分けてきたせいか、ほんの少しだけ上がった体温。緊張でこわばった呼吸。そういうものが、ひとつに混ざって届く。
そして、その中に確かにあった。
ほんのわずかな、汗の気配。
嫌なものじゃない。ただ、「今ここにいる、この子の緊張」がそのまま形になったみたいな、そんな感じの匂いだった。
――だめだ、近い。
俺は反射的に視線を逸らした。
「……?」
「いや、なんでもない」
「え?」
「本当に大丈夫だから」
たぶん今の俺は、かなり不自然だったと思う。彼女は少しだけ首をかしげたが、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、手の中の受験票をぎゅっと握り直して、掲示板の方を見上げる。
「うう……見えない」
「まだ全然動かないな」
「あ、はい……人、すごくて……」
彼女は背伸びをした。だが前の人の肩越しでは見えないらしい。ぴょこん、と少しだけ踵が浮く。その仕草が妙に子どもっぽくて、でも可愛かった。
俺は思わず口を開いていた。
「番号、何番?」
「え?」
「見えるところまで行けたら、ついでに探せるかもしれない」
「ほんとですか!?」
ぱっと、顔が明るくなる。
そんなふうに目を輝かせるのは反則だと思う。
「あ、えっと、一一四二です!」
「……近いな」
「近いですね!」
「そうだな」
受験番号が近いだけだ。なのに彼女は、なぜかそれだけで少し嬉しそうだった。
俺が戸惑っていると、横で見ていた蓮がニヤニヤしながら肘で俺をつついてきた。
「何それ、もうイベント始まってんじゃん」
「うるさい」
「彼女?」
「違う」
「違います!」
俺たちの声がきれいに重なった。
一瞬だけ空気が止まり、それから蓮が吹き出した。
「息ぴったりだな、おまえら」
「蓮」
「はいはい、黙りますって」
絶対黙らない顔だ。
彼女は少し頬を赤くした後、小さく咳払いをした。
「えっと……私、朝倉ひよりっていいます」
「……柊真央」
「柊くん、ですね」
「まあ」
「じゃあ、柊くんが先に見えたら、私の番号もお願いします」
「……わかった」
「ありがとうございます!」
いちいち笑顔がまっすぐだ。
朝倉ひより。
名前を頭の中で繰り返すだけで、さっき風に乗ってきた匂いの印象まで一緒に残る気がした。
まずいな、と直感した。
この手の「印象が残る相手」は危ない。
俺の人生経験なんて大したものじゃないが、それでもわかる。こういうふうに、出会った瞬間から変に意識してしまう相手は、たいてい面倒ごとの中心になる。
しかもこの子は、距離感が近い。
そのうえ、無自覚っぽい。
さらに、笑顔が強い。
危険だ。
たぶん、俺みたいな人間にとっては特に危ない。
「行くか」
「お、ついに前進する気になったか」
「うるさいからついてくるな」
「無理あるだろ、同じ掲示板見に行くんだから」
「……」
俺は蓮の軽口を聞き流しながら、人の流れに合わせて少しずつ前へ進んだ。後ろから朝倉ひよりもついてくる。人混みのせいで離れすぎず、かといって触れ合うほどでもない、でも確かに近い距離だ。
「柊くん、見えそうですか?」
「もうちょっと」
「すみません、お願いします」
「別に」
掲示板が近づくにつれて、ざわめきが大きくなる。
受かったのだろう歓声。落ちたのだろう沈黙。安堵して泣く声。親の「よかった」という震えた声。いろんな感情が重なって、空気の密度がさらに増していく。
俺は呼吸を浅くして、紙に並ぶ数字へ意識を集中させた。
一一三〇。一一三二。一一三五――
「あ」
あった。
一一三七。
ほんの一瞬、頭が真っ白になる。
「あった」
「えっ、どっち!?」
「俺の」
「ほんとですか!?」
「ああ」
それだけ言うのがやっとだった。
胸の奥に張りつめていた何かが、ふっと緩む。足の力が少し抜けた。受かっていた。とりあえず、高校生にはなれるらしい。
その時、俺より先に喜んだのは本人ではなかった。
「よかったですね! おめでとうございます!」
朝倉ひよりが、本気で嬉しそうに笑った。
まだ自分の番号も確認していないくせに、人のことを先に祝うのかよ。
そう思ったのに、不思議と嫌じゃなかった。
「……ありがとう」
「で、私のは……!」
「探す」
すぐ横に視線をずらす。
一一三八。一一四〇。一一四一。
そして。
「一一四二、ある」
「えっ、ほんとに!?」
「ある」
「やったあ!」
その瞬間、朝倉ひよりは勢いのまま俺の腕を掴んだ。
「よかったぁ……!」
柔らかい手の感触が、制服越しに伝わる。
距離がまた一気に縮まる。
安堵で少し上がった体温。弾んだ呼吸。緊張がほどけたせいで、さっきよりも少しだけやわらかくなった空気。
それが全部、一度に近づいてきて――俺の思考は数秒ほど完全に止まった。
「……柊くん?」
「え、あ、いや」
「本当にありがとうございます! 一人だったら絶対見つけられなかったです!」
「いや……見つけられたと思うけど」
「たぶん無理でした! 私、こういう時すごい焦るので!」
そう言って、彼女はえへへ、と照れくさそうに笑った。
たぶん、この子は自分がどれだけ無防備か、わかっていない。
距離が近い。感情が顔に出る。声も表情もまっすぐで、人の懐に入るのが早い。そういう相手は、教室でもわりとすぐ人気者になる。
でも、同時に、無神経な誰かに傷つけられやすいタイプでもある。
なんとなく、そんなことを思った。
そしてそれと同時に、別の考えも頭をよぎる。
――この子は危ない。
もちろん、何か悪いことをするという意味じゃない。
俺にとって危ないのだ。
人より匂いに敏感で、近い距離が苦手で、しかもこういう何気ない気配に必要以上に意識を向けてしまう俺にとって、この子はたぶん相性が悪い。いや、悪いというか、心臓に悪い。
なのに。
「入学式も、たぶん同じ学校ですよね」
「そうなるな」
「また会えるかもしれないですね」
「……まあ」
「あ、でも“かもしれない”じゃないか。受かってるんだから、絶対会えますよね」
彼女はそう言って、まるで当たり前のことみたいに笑った。
絶対会える。
その言葉が妙に頭に残った。
「じゃあ」
朝倉ひよりは胸の前で受験票を握りしめたまま、少しだけはにかんで言う。
「入学式の日、会えるといいね」
会えるといいね。
たったそれだけの一言だった。
特別な意味なんて、たぶんない。社交辞令に毛が生えたようなものだ。今日ここで少し話した相手への、感じのいい締めくくり。それだけのはずなのに。
その言葉だけが、妙に胸の内側に引っかかった。
「ああ」
返事は、驚くほどそっけなくなった。
だが彼女は気にした様子もなく、「じゃあ、また!」と小さく手を振って、人混みの向こうへ駆けていく。たぶん親か誰かを探しに行ったのだろう。
その後ろ姿を、俺はなんとなく目で追ってしまった。
「おいおい」
すぐ横で、蓮がにやにやしながら声をかけてくる。
「何だよ」
「いやー、合格発表の日から青春してるやつ初めて見た」
「してない」
「してたって。知らない美少女とぶつかる、番号探してやる、笑顔で『また会えるといいね』。テンプレじゃん」
「どこがだよ」
「ラブコメの一話」
「やかましい」
俺は蓮の言葉を切り捨てるように言ったが、内心ではまったく切り捨てられていなかった。
会えるといいね。
あの一言が、変に頭の中で反復する。
たぶん、今日のことなんてすぐ忘れる。入学式になれば新しいクラスや新しい人間関係でそれどころじゃなくなる。そう思うのに、春の風に紛れて届いた朝倉ひよりの気配だけは、やけにはっきり思い出せた。
「帰るぞ、真央」
「……ああ」
蓮に促され、俺はようやく校門から離れた。
空は相変わらず青い。桜のつぼみは相変わらず今にも咲きそうで、校門前にはまだ歓声やため息が渦巻いている。
今日から何かが始まるのだろうという予感だけが、春の光みたいにじわじわと胸の内へ差し込んでくる。
その正体が何なのか、まだ俺にはわからない。
ただ、ひとつだけ確かなのは――
もし本当に、入学式の日にまたあの子と会うのだとしたら。
俺の高校生活は、想像していたよりずっと落ち着かないものになるかもしれない、ということだった。
そんな予感を振り払えないまま、俺は受験票の入ったポケットを押さえ、春の街へと足を踏み出した。




