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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一
第一章 春の距離感は、たぶん校則で制限できない

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第9話 ただの変態では終われない

 人には、絶対に知られたくないことがある。


 たとえば昔の黒歴史とか、小学生の頃に本気で信じていた妙な迷信とか、そういう笑って済ませられる類のものもあるだろう。だが俺――柊真央にとって、それはもっと根深くて、もっと笑えない。


 女子の匂いに弱い。


 文字にすると最低だ。


 いや、文字にしなくても最低かもしれない。少なくとも自分ではそう思っている。


 人より嗅覚が鋭い。体温や緊張の変化が匂いでわかる。そこまでは、まだ「少し特殊な体質」で済ませられるかもしれない。だがその先がだめだ。汗とか、近い距離とか、そういうものにいちいち過剰に反応してしまう自分を、俺は昔からまともだとは思えなかった。


 だから誰にも言わない。


 言えるわけがない。


 墓まで持っていく秘密ランキングがあるなら、殿堂入りレベルで一位だ。


 なのに――


「どうしてわかったの?」


 昨日の昼休み、白瀬凛香にそう聞かれた時、俺は言葉に詰まった。


 どうしてわかったのか。


 それは、見たからでもあるし、空気の変化を感じたからでもある。顔色が妙に白くて、呼吸が浅くて、立ち上がる時にわずかに体が揺れた。その全部をまとめて、俺は「あ、こいつ少し貧血気味だ」と察した。


 でもそれを、そのまま説明できるわけがない。


 俺はたぶん、普通の人間よりずっと人の変化に敏感だ。特に、近くにいる相手ほどそうだ。


 それ自体は役に立つこともある。実際、白瀬の体調の悪さは当たっていた。教師に保健室へ行くよう勧められた白瀬は、最初こそ渋ったが、最終的には素直に席を外した。


 ただ、その事実が俺を少しも誇らしい気分にはしなかった。


 むしろ逆だ。


 もしこれが、俺の“変な体質”の延長にあるものなら。


 俺は、やっぱりまともじゃないんじゃないか。


 そういう考えが、夜になっても頭から離れなかった。


 翌朝。


 登校中の空気は少しひんやりしていたが、俺の気分はそれ以上に重かった。


 校門へ向かう途中、聞き慣れた声が横から飛んでくる。


「おはよ、顔暗」


 藤崎蓮だ。


「挨拶が失礼すぎるだろ」

「いや、事実だし。どうした? 昨日の白瀬さんの件、そんなに引きずってる?」

「……別に」

「その“別に”は九割引きずってる時のやつ」


 こいつは変なところだけ勘がいい。


 俺は小さく舌打ちしたくなったが、さすがに朝からそこまで機嫌が悪いわけでもない。ただ、考え込んでいるのは事実だった。


「おまえ、昨日さ」

 蓮が少しだけ声のトーンを変える。

「白瀬さんの体調、普通に当ててたよな」

「……まあ」

「前からそういうの、わりとわかる方だったけど」

「何だよ」

「いや、改めて見るとすごいなって」


 その言い方には、茶化しが少なかった。


 だから逆に、俺は返しづらくなる。


「すごくないだろ」

「え?」

「別に、勝手にわかるだけだし」

「いや、それがすごいって話なんだけど」

「……」


 校門が近づく。


 朝の光、新品の教科書を入れた鞄、眠そうな生徒、花壇の土。いろんな匂いが流れてくる中で、俺は少しだけ歩幅を緩めた。


「なあ蓮」

「ん?」

「たとえばだけど」

「うん」

「人より変なところに敏感なのって、普通に気持ち悪くないか」

「何その相談」


 蓮は一瞬だけ目を丸くして、それから妙に真面目な顔になった。


「誰目線で?」

「は?」

「おまえ目線か、他人目線かで違うだろ」

「……両方」

「ふーん」


 こいつにしては珍しく、すぐには答えなかった。


「まあ、おまえが自分で面倒くさがってんのは知ってる」

「……」

「でも、気持ち悪いかって言われると、俺はそうは思わんかな」

「簡単に言うなよ」

「簡単じゃないって。だって実際、おまえそれで困ってるやつ助けたりしてるだろ」


 昨日の白瀬のことを言っているのだろう。


 けれど俺は、そこに素直に頷けなかった。


「でも、それだけじゃない」

「ん?」

「……何でもない」


 言えるはずがなかった。


 おまえ、女子の汗とかそういうのに普通に弱いんだろ、なんて。

 そんな本音を口にしたら、いくら蓮でも引くかもしれない。いや、引かなくても困る。どっちにしろ言いたくない。


 蓮はしばらく俺を見ていたが、やがて肩をすくめた。


「まあ、おまえが勝手に自己嫌悪してるのは昔からだし」

「ひどいな」

「でも結局、気にする相手の方はそこまで気にしてなかったりするだろ」

「……そうでもない」

「何かあった?」

「別に」


 またそれか、と蓮が笑った。


 だが今回は、それで助かった気もした。これ以上突っ込まれると、たぶんうまく隠せない。


 教室へ入ると、いつも通りの朝が始まる。


 前方で誰かが宿題の話をしていて、窓際では女子が髪型の話で盛り上がっている。白瀬凛香ももう登校していて、何事もなかったような顔で席についていた。昨日の保健室の件を引きずっている様子はない。むしろ少しだけ俺を見る目が増えた気がするが、それは考えないことにする。


 そして、朝倉ひよりもいた。


「おはよう、柊くん」

「……おはよう」


 今日もやっぱり、最初にこっちへ来る。


 そのことに少しだけ安心してしまう自分がいて、また面倒くさい気分になった。


 ひよりはいつも通り明るかった。明るいが、前より少しだけ、周りを気にしている感じもある。俺の席へ来る時に一度視線を流すとか、机に手をつく位置を少しだけ遠慮するとか。ほんの小さな違いだが、気にして見ていればわかる。


 白瀬に「距離が近い」と言われたことを、たぶんまだ引っかかっているのだろう。


 そういうところを見ると、余計に落ち着かない。


 昼休み。


 今日はひよりが他の女子たちに呼ばれて、俺の席ではなく教室の少し前方で弁当を広げていた。


 それ自体は珍しくない。むしろ普通だ。普通なのに、俺は弁当箱の蓋を開けながら妙に手持ち無沙汰な気分になっていた。


「何だよその顔」

 蓮が購買パンを持って隣に座る。

「別に」

「朝倉さん、今日は女子グループの方行ったな」

「だから何だ」

「いや、おまえが今すげえ“だから何だ”って顔してるから」

「黙って食え」


 前方からは女子たちの笑い声が聞こえる。


 ひよりもその中で笑っていた。たぶんちゃんと楽しいのだろう。無理しているわけではなさそうだ。


 ただ、少し経ってから、その笑い声の中に混じる一言が耳に引っかかった。


「ひよりって、すぐ汗かくタイプだよね」


 何気ない口調だった。


 悪意のある言い方じゃない。ただの雑談。体育の話の流れか何かで出た言葉なのだろう。実際、そのあとに「わかるー、私も」「今日ちょっと暑いしね」みたいな軽い声も続いた。


 普通なら、それで終わる。


 でも、俺にはわかった。


 ひよりの空気が、一瞬だけ止まった。


 笑い声は続いている。話も止まっていない。ひより自身も「えー、やだそれー」みたいに返している。たぶん周りから見れば、何も問題ないやりとりだ。


 なのに。


 ほんのわずかに呼吸が浅くなった。体の力の入り方が変わった。明るく返している声の奥に、小さな引っかかりが混じった。


 俺は箸を持つ手を止めた。


 昨日までの俺なら、たぶんここで「気にしすぎだろ」で終わらせていたかもしれない。運動すれば汗くらいかく。別に珍しくもない。そういう正論で、全部片づけていたかもしれない。


 でも、今は違った。


 制汗シートを隠すみたいに使っていたひよりの顔を知っている。

 「見ないで!」と焦った声を知っている。

 「引かなかった?」と小さく聞いた時の、あの表情を知っている。


 だから、今の何気ない一言が、ひよりにとっては何気なくないこともわかってしまった。


「……おい」

 蓮が小声で言う。

「何だよ」

「顔」

「だから何だ」

「今、そっち見すぎ」

「……」

「そんな気になる?」


 その問いに、俺は答えられなかった。


 気になる。


 たしかに気になる。


 でもそれは、単に俺がそういう匂いとか気配に敏感だからか。

 それとも、朝倉ひよりだからなのか。


 そこを考え始めると、自分でも足元が危うくなる。


「ちょっと飲み物買ってくるね」


 少しして、ひよりが立ち上がった。


 笑顔は保っていたが、いつもよりほんの少しだけ早足だった。女子たちは特に気にせず「いってらー」と見送っている。


 俺は無意識に立ち上がりかけて、自分で止まった。


 何してるんだ、俺は。


 追いかけてどうする。慰めるのか? 励ますのか? 何て言うつもりだ。「気にするな」とでも? それはたぶん一番だめな言葉だ。


「真央」

 蓮の声がする。

「……何だよ」

「行きたいなら行けば」

「違う」

「違わんだろ」


 軽口みたいな口調だったが、蓮はちゃんと俺を見ていた。


「おまえさ」

「……」

「前なら、もっと“面倒だから関わらない”って顔してた」

「何が言いたい」

「今はそうじゃないんだろ」


 言われて、返せなかった。


 俺は昔から、自分の体質を面倒だと思ってきた。人より敏感で、人より気づいてしまって、人より余計なことを考える。だから、なるべく深く関わらない方が楽だと思っていた。


 なのに今は、その“楽な方”を選べていない。


 朝倉ひよりが少し傷ついたかもしれないと思うだけで、気になって仕方ない。


 それが単なる“フェチ”で説明できるものなのかと考えた時、胸の内側に、妙な反発が生まれた。


 違う。


 少なくとも、それだけじゃない。


 たしかに俺は匂いや気配に弱い。汗とか体温とか、そういうものに意識が引っ張られる。そこは否定しようがないし、自分でも最低だと思う。


 でも、朝倉ひよりに関しては、それだけじゃなくなっている。


 あいつが笑っているかどうか。

 無理していないか。

 気にして傷ついていないか。

 そういうことの方が、前よりずっと気になる。


 それって、たぶん。


「……やばいな」


 思わず小さく漏れた。


「何が?」

 蓮が聞く。

「何でもない」

「今日はその“何でもない”多いな」

「うるさい」


 ひよりが戻ってきたのは、それから数分後だった。


 手には小さな紙パックの飲み物。表情はちゃんといつもの明るさに戻してある。戻してあるが、俺にはわかる。完全ではない。少しだけ目元が静かで、笑い方もいつもより丁寧だ。


 女子グループの席へ戻る前に、一瞬だけこちらを見た。


 俺と目が合う。


 ひよりは少しだけ笑って、でもすぐに視線を逸らした。


 その一瞬だけで、胸の奥がやたらとうるさくなった。


 放課後まで、その感じは消えなかった。


 授業中も、ノートを取りながら何度か前方のひよりを目で追いそうになる。追いそうになって、気づいてやめる。その繰り返しだ。


 こんなの、前の俺ならありえない。


 ただ近くて、ただ明るくて、ただ気になる匂いのする相手。そういうので終わるなら、もっと単純だったはずだ。自分を軽蔑して終わりにできたはずだ。


 でも今はできない。


 あいつが気にしていることを、俺は知ってしまった。

 そのせいで傷つくところを見てしまった。

 そして、それを放っておくと、こっちまで落ち着かなくなる。


 放課後、教室の窓から春の風が入る。


 帰り支度をする生徒たちのざわめきの中で、俺は鞄を持ちながら小さく目を伏せた。


「……朝倉のこと、放っておけない」


 口に出したつもりはなかった。


 でも、言葉になりかけたその感情は、もうごまかしきれないところまで来ていた。


 ただの変態で終わるなら、どれだけ楽だっただろう。


 けれどたぶん、もう違う。


 俺は朝倉ひよりというひとりの女子を、前よりずっと個別に見始めている。

 そのことだけは、どうやっても否定できなかった。

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