プロローグ・汗ばんだ春は、合格発表の掲示板の前から
春の風は、いつだって少しだけ意地が悪い。
まだ肌寒さが残っているくせに、昼前の陽射しだけは妙にやわらかくて、人の気を緩ませる。桜は満開一歩手前。校門の脇に植えられた並木が、今にも咲き切りそうな薄桃色を揺らしていた。
そんな、いかにも「青春が始まりそうです」と言わんばかりの朝。
県立白鷺高校の正門前には、信じられないほどの人だかりができていた。
「うわ……多すぎだろ」
思わず漏れた独り言は、ざわめきの中に吸い込まれて消えた。
合格発表。
校舎の外壁に設置された大きな掲示板の前には、すでに受験番号を探す中学生と、その保護者たちが黒山の人だかりを作っている。背伸びしているやつ。友達と手を握り合ってるやつ。もう泣いてるやつ。まだ結果を見てもいないのに顔色の悪いやつ。いろいろいる。
そして、俺――柊真央は、そのど真ん中に突っ込んでいく気になれず、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
いや、正確に言うなら。
人混みが苦手なのではない。匂いが苦手なのだ。
もっと言えば、苦手という表現は少し違う。
俺は、人よりもずっと匂いに敏感だ。
柔軟剤。整髪料。新品の紙。朝のコーヒー。緊張で乾いた口。冷たい空気の中でこもる体温。ほんの少しの汗。春先の土。校舎の古いコンクリート。そういうものが、全部わかる。
いや、わかってしまう。
そのせいで、こういう場所は本当にしんどい。
緊張しているやつの匂いは少し尖る。焦っているやつは体温が上がる。親のほうが胃を痛めている家庭も、だいたい近づけばわかる。わかりたくもないのに、鼻が勝手に拾ってくる。
俺は深く息を吸わないように気をつけながら、受験票をポケットの中で握りしめた。
番号は、一一三七。
覚えている。忘れるわけがない。昨夜は三回確認した。朝も二回見た。家を出る前にも見た。今もポケットの中に折れないように入れてある。
なのに、掲示板の前に行く勇気だけが出ない。
「おい真央、何してんだよ。行くぞ」
横から肩を叩かれ、俺は小さく跳ねた。
振り向くと、見慣れた顔がニヤニヤしていた。
「……驚かすなよ、蓮」
「おまえが勝手にビビりすぎなんだよ。合格発表だぞ? テンション上げろって」
「上がってるよ。内側で静かに」
「わかりにくっ」
こいつは藤崎蓮。中学からの腐れ縁で、俺の数少ない友人だ。
緊張を緊張で打ち消すタイプらしく、朝からやたら声がでかい。ついでに制汗スプレーの匂いもでかい。たぶん一本半くらい使ってる。そういうところが雑だ。
「おまえなあ、せっかく受かったら高校デビューできるかもしれないんだから、もっと前に出ろよ」
「受かってから言え」
「受かるって。真央、成績は悪くなかったし」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何の問題だよ」
「……人が多い」
「おまえ、ほんと繊細そうな顔してめんどくさいよな」
失礼なやつだ。
だが否定もできない。
俺は昔からこうだ。音や光より、匂いの情報量が多すぎる。小さい頃から、母親には「犬みたいな鼻ね」と半分呆れられていたし、医者には「嗅覚が人一倍鋭い体質かもしれませんね」とふわっと言われたこともある。
ただ、問題はそれだけじゃない。
この鼻は、単純に鋭いだけじゃない。
俺は――女子の匂いに、かなり弱い。
最悪だと思う。
最低だとも思う。
でも事実だから仕方ない。
シャンプーの甘い匂いとか、そういう作られたものより、もっと生っぽい、体温の近い匂い。走った後とか、緊張した時とか、春先の日差しで少しだけ汗ばんだ時とか。そういうのに、どうしようもなく意識を持っていかれる。
誰にも言えるわけがない。
墓まで持っていく秘密ランキングがあるなら、ぶっちぎりで一位だ。
「……はあ」
俺が重たい息をこぼした、その時だった。
「すみません、ちょっと通してください!」
女の子の声。
それだけならよかった。
問題は、その直後。
ぐい、と人の流れが動き、誰かの肩が俺の背中にぶつかり、その反動で――
「わっ」
「え」
柔らかい感触が、俺の腕に当たった。
反射的に視線を落とすと、制服ではなく私服姿の女の子が、俺のすぐ目の前によろけていた。クリーム色のカーディガンに、淡い青のスカート。肩につくくらいの黒髪。大きめの目。薄い唇。顔立ちははっきりしているのに、どこか親しみやすい。
そして近い。
近すぎる。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
その子は慌てて体を離した。けれど、人混みのせいで完全には距離が取れない。肩と肩が触れそうなくらいの近さのまま、彼女は俺を見上げてきた。
「押されちゃって……大丈夫でした?」
「だ、大丈夫」
「ほんとですか? すみません、ぶつかっちゃって……」
その瞬間。
ふわっと、匂いがした。
強い香水なんかじゃない。むしろそういうものは一切つけていないような、やわらかい匂いだ。
洗いたての服の清潔さ。春の外気。緊張で少し上がった体温。人混みをかき分けてきたせいか、ほんの少しだけ混じる汗の気配。まだ不快というほどじゃない。けれど、確かにそこにある、生きている人間の匂い。
近い。
だめだ、近すぎる。
「……?」
「いや、なんでもない」
俺はたぶん、かなり変な顔をしていたと思う。彼女は不思議そうに首をかしげたあと、手の中の受験票をぎゅっと握り直した。
「えっと、掲示板……見えます?」
「まだ」
「ですよね……人すごくて」
彼女は背伸びした。けれど前の人の頭に阻まれて見えないらしい。ぴょこん、と少しだけ跳ねるように伸びる姿が妙に小動物っぽい。
「……番号、何番?」
「えっ」
「いや、見える位置まで行けたら、ついでに探せるかも」
「ほんとですか!?」
ぱっと顔が明るくなる。
やめてほしい。その笑顔は心臓に悪い。
「あ、えっと、私、一一四二です!」
「近いな」
「ほんとだ!」
そのたった一言で、彼女はなんだか嬉しそうに笑った。
近いから何だという話なのに、なぜか俺まで少しだけ気が抜ける。いや、抜けるな。落ち着け。
すると横から蓮が面白そうに口を挟んできた。
「おー、何それ運命じゃん」
「うるさい」
「彼女さん?」
「違う」
「違います!」
「息ぴったりだなー」
「蓮」
「はいはい」
こいつ、あとで殴る。
彼女は少し頬を赤くしてから、小さく咳払いした。
「えっと……私、朝倉ひよりっていいます」
「……柊真央」
「柊くん、ですね」
「まあ」
「じゃあ、柊くんが先に見えたら、私の番号も――」
「見る」
「ありがとうございます!」
こんなに素直に礼を言われると調子が狂う。
朝倉ひより。
名前を頭の中で反芻しただけで、なぜかその子の匂いまで一緒に残る気がした。
まずい。
こういうのは、あまり良くない。
第一印象で変に意識すると、あとが面倒なのは経験で知っている。知っているのに。
「……行くか」
「お、ついに男を見せる気になったか」
「うるさい」
「朝倉さんの前だから?」
「黙れ」
俺は蓮の脇腹を軽く肘で小突きつつ、人混みへ足を踏み出した。
ざわめきが一段大きくなる。いろんな匂いが一気に押し寄せてくる。緊張。期待。不安。香水。コート。春の風。陽射し。紙。呼吸。体温。
その中で、なぜか。
すぐ後ろにいる朝倉ひよりの気配だけは、変にはっきりわかった。
「柊くん、見えそうですか?」
「もうちょっと」
「すみません、お願いしますっ」
「いや……別に」
掲示板が近づく。
白い紙に、ずらりと並んだ番号。
心臓が一気に速くなった。
視線が走る。列を追う。数字を探す。
一一三〇。一一三三。一一三五。
そして。
「あった」
思わず声が出た。
「えっ、どっち!?」
「俺の」
「おお! おめでとうございます!」
「……ありがとう」
本人より先に喜ぶなよ。
でも、その声の明るさで、胸の奥に張りつめていたものが少しだけほどけた。
それから、すぐ隣へ視線を滑らせる。
一一三八。一一四〇。
一一四二。
「あ」
「えっ、ありました!?」
「あった」
「ほんとに!?」
「一一四二、ある」
「うそ、やったぁ!」
その瞬間、朝倉ひよりは勢いよく俺の腕を掴んだ。
「よかったぁ……! ほんとによかった……!」
柔らかい手の感触。
近すぎる距離。
弾んだ息。
ほっとしたせいで上がった体温。
そして、さっきより少しだけ濃くなった、春の陽射しと汗の混じった匂い。
――だめだ。
俺の青春、たぶん入学前からもうギリギリかもしれない。
そんな予感がした。
いや、予感じゃなかった。
これはきっと、あとから思い返せば全部、ここから始まっていたのだ。
汗ばんだ制服よりも少し早く。
名前を呼ぶ距離よりも少し近く。
俺のどうしようもなく面倒で、たぶんちょっとだけ幸せな高校生活は、合格発表の掲示板の前で、静かに幕を開けた。




