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『汗ばんだ制服の距離が近すぎるせいで、俺の青春は毎日ギリギリです』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
プロローグ

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1/7

プロローグ・汗ばんだ春は、合格発表の掲示板の前から

 春の風は、いつだって少しだけ意地が悪い。


 まだ肌寒さが残っているくせに、昼前の陽射しだけは妙にやわらかくて、人の気を緩ませる。桜は満開一歩手前。校門の脇に植えられた並木が、今にも咲き切りそうな薄桃色を揺らしていた。


 そんな、いかにも「青春が始まりそうです」と言わんばかりの朝。


 県立白鷺高校の正門前には、信じられないほどの人だかりができていた。


「うわ……多すぎだろ」


 思わず漏れた独り言は、ざわめきの中に吸い込まれて消えた。


 合格発表。


 校舎の外壁に設置された大きな掲示板の前には、すでに受験番号を探す中学生と、その保護者たちが黒山の人だかりを作っている。背伸びしているやつ。友達と手を握り合ってるやつ。もう泣いてるやつ。まだ結果を見てもいないのに顔色の悪いやつ。いろいろいる。


 そして、俺――柊真央は、そのど真ん中に突っ込んでいく気になれず、少し離れた場所で立ち尽くしていた。


 いや、正確に言うなら。


 人混みが苦手なのではない。匂いが苦手なのだ。


 もっと言えば、苦手という表現は少し違う。


 俺は、人よりもずっと匂いに敏感だ。


 柔軟剤。整髪料。新品の紙。朝のコーヒー。緊張で乾いた口。冷たい空気の中でこもる体温。ほんの少しの汗。春先の土。校舎の古いコンクリート。そういうものが、全部わかる。


 いや、わかってしまう。


 そのせいで、こういう場所は本当にしんどい。


 緊張しているやつの匂いは少し尖る。焦っているやつは体温が上がる。親のほうが胃を痛めている家庭も、だいたい近づけばわかる。わかりたくもないのに、鼻が勝手に拾ってくる。


 俺は深く息を吸わないように気をつけながら、受験票をポケットの中で握りしめた。


 番号は、一一三七。


 覚えている。忘れるわけがない。昨夜は三回確認した。朝も二回見た。家を出る前にも見た。今もポケットの中に折れないように入れてある。


 なのに、掲示板の前に行く勇気だけが出ない。


「おい真央、何してんだよ。行くぞ」


 横から肩を叩かれ、俺は小さく跳ねた。


 振り向くと、見慣れた顔がニヤニヤしていた。


「……驚かすなよ、蓮」

「おまえが勝手にビビりすぎなんだよ。合格発表だぞ? テンション上げろって」

「上がってるよ。内側で静かに」

「わかりにくっ」


 こいつは藤崎蓮。中学からの腐れ縁で、俺の数少ない友人だ。


 緊張を緊張で打ち消すタイプらしく、朝からやたら声がでかい。ついでに制汗スプレーの匂いもでかい。たぶん一本半くらい使ってる。そういうところが雑だ。


「おまえなあ、せっかく受かったら高校デビューできるかもしれないんだから、もっと前に出ろよ」

「受かってから言え」

「受かるって。真央、成績は悪くなかったし」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ何の問題だよ」

「……人が多い」

「おまえ、ほんと繊細そうな顔してめんどくさいよな」


 失礼なやつだ。


 だが否定もできない。


 俺は昔からこうだ。音や光より、匂いの情報量が多すぎる。小さい頃から、母親には「犬みたいな鼻ね」と半分呆れられていたし、医者には「嗅覚が人一倍鋭い体質かもしれませんね」とふわっと言われたこともある。


 ただ、問題はそれだけじゃない。


 この鼻は、単純に鋭いだけじゃない。


 俺は――女子の匂いに、かなり弱い。


 最悪だと思う。


 最低だとも思う。


 でも事実だから仕方ない。


 シャンプーの甘い匂いとか、そういう作られたものより、もっと生っぽい、体温の近い匂い。走った後とか、緊張した時とか、春先の日差しで少しだけ汗ばんだ時とか。そういうのに、どうしようもなく意識を持っていかれる。


 誰にも言えるわけがない。


 墓まで持っていく秘密ランキングがあるなら、ぶっちぎりで一位だ。


「……はあ」


 俺が重たい息をこぼした、その時だった。


「すみません、ちょっと通してください!」


 女の子の声。


 それだけならよかった。


 問題は、その直後。


 ぐい、と人の流れが動き、誰かの肩が俺の背中にぶつかり、その反動で――


「わっ」

「え」


 柔らかい感触が、俺の腕に当たった。


 反射的に視線を落とすと、制服ではなく私服姿の女の子が、俺のすぐ目の前によろけていた。クリーム色のカーディガンに、淡い青のスカート。肩につくくらいの黒髪。大きめの目。薄い唇。顔立ちははっきりしているのに、どこか親しみやすい。


 そして近い。


 近すぎる。


「あっ、ご、ごめんなさい!」


 その子は慌てて体を離した。けれど、人混みのせいで完全には距離が取れない。肩と肩が触れそうなくらいの近さのまま、彼女は俺を見上げてきた。


「押されちゃって……大丈夫でした?」

「だ、大丈夫」

「ほんとですか? すみません、ぶつかっちゃって……」


 その瞬間。


 ふわっと、匂いがした。


 強い香水なんかじゃない。むしろそういうものは一切つけていないような、やわらかい匂いだ。


 洗いたての服の清潔さ。春の外気。緊張で少し上がった体温。人混みをかき分けてきたせいか、ほんの少しだけ混じる汗の気配。まだ不快というほどじゃない。けれど、確かにそこにある、生きている人間の匂い。


 近い。


 だめだ、近すぎる。


「……?」

「いや、なんでもない」


 俺はたぶん、かなり変な顔をしていたと思う。彼女は不思議そうに首をかしげたあと、手の中の受験票をぎゅっと握り直した。


「えっと、掲示板……見えます?」

「まだ」

「ですよね……人すごくて」


 彼女は背伸びした。けれど前の人の頭に阻まれて見えないらしい。ぴょこん、と少しだけ跳ねるように伸びる姿が妙に小動物っぽい。


「……番号、何番?」

「えっ」

「いや、見える位置まで行けたら、ついでに探せるかも」

「ほんとですか!?」


 ぱっと顔が明るくなる。


 やめてほしい。その笑顔は心臓に悪い。


「あ、えっと、私、一一四二です!」

「近いな」

「ほんとだ!」


 そのたった一言で、彼女はなんだか嬉しそうに笑った。


 近いから何だという話なのに、なぜか俺まで少しだけ気が抜ける。いや、抜けるな。落ち着け。


 すると横から蓮が面白そうに口を挟んできた。


「おー、何それ運命じゃん」

「うるさい」

「彼女さん?」

「違う」

「違います!」

「息ぴったりだなー」

「蓮」

「はいはい」


 こいつ、あとで殴る。


 彼女は少し頬を赤くしてから、小さく咳払いした。


「えっと……私、朝倉ひよりっていいます」

「……柊真央」

「柊くん、ですね」

「まあ」

「じゃあ、柊くんが先に見えたら、私の番号も――」

「見る」

「ありがとうございます!」


 こんなに素直に礼を言われると調子が狂う。


 朝倉ひより。


 名前を頭の中で反芻しただけで、なぜかその子の匂いまで一緒に残る気がした。


 まずい。


 こういうのは、あまり良くない。


 第一印象で変に意識すると、あとが面倒なのは経験で知っている。知っているのに。


「……行くか」

「お、ついに男を見せる気になったか」

「うるさい」

「朝倉さんの前だから?」

「黙れ」


 俺は蓮の脇腹を軽く肘で小突きつつ、人混みへ足を踏み出した。


 ざわめきが一段大きくなる。いろんな匂いが一気に押し寄せてくる。緊張。期待。不安。香水。コート。春の風。陽射し。紙。呼吸。体温。


 その中で、なぜか。


 すぐ後ろにいる朝倉ひよりの気配だけは、変にはっきりわかった。


「柊くん、見えそうですか?」

「もうちょっと」

「すみません、お願いしますっ」

「いや……別に」


 掲示板が近づく。


 白い紙に、ずらりと並んだ番号。


 心臓が一気に速くなった。


 視線が走る。列を追う。数字を探す。


 一一三〇。一一三三。一一三五。


 そして。


「あった」


 思わず声が出た。


「えっ、どっち!?」

「俺の」

「おお! おめでとうございます!」

「……ありがとう」


 本人より先に喜ぶなよ。


 でも、その声の明るさで、胸の奥に張りつめていたものが少しだけほどけた。


 それから、すぐ隣へ視線を滑らせる。


 一一三八。一一四〇。


 一一四二。


「あ」

「えっ、ありました!?」

「あった」

「ほんとに!?」

「一一四二、ある」

「うそ、やったぁ!」


 その瞬間、朝倉ひよりは勢いよく俺の腕を掴んだ。


「よかったぁ……! ほんとによかった……!」


 柔らかい手の感触。


 近すぎる距離。


 弾んだ息。


 ほっとしたせいで上がった体温。


 そして、さっきより少しだけ濃くなった、春の陽射しと汗の混じった匂い。


 ――だめだ。


 俺の青春、たぶん入学前からもうギリギリかもしれない。


 そんな予感がした。


 いや、予感じゃなかった。


 これはきっと、あとから思い返せば全部、ここから始まっていたのだ。


 汗ばんだ制服よりも少し早く。

 名前を呼ぶ距離よりも少し近く。

 俺のどうしようもなく面倒で、たぶんちょっとだけ幸せな高校生活は、合格発表の掲示板の前で、静かに幕を開けた。

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