夏ホラー第十二弾『真夜中のランニング』
僕はいま、京都にある大学病院に入院している。
消毒液の匂いが漂う白い廊下を、車椅子に乗ったまま進むたび、どこか水底を這うような感覚に囚われる。後悔の念は、水滴のように天井からぽたぽたと落ち続け、心を濡らしてやまない。
あの日、あの時、あの場所でランニングをしなければよかったと。
僕の右足は病気や怪我と呼ぶべきものではない。医師はそれを「劇症型溶血性レンサ球菌感染症」と説明した。いわゆる人食いバクテリア。侵された肉は次第に黒く干からび、水気を奪われるように壊死し、やがて全身に広がり、死に至る病。
けれど僕は、違うと知っている。 あの冷たい流れに呑まれて以来、僕の右足には水に棲む何かが張り付いているのだ。
あの日の夜。 いつものように桂川沿いを走っていた。冬の川は底冷えして、月明かりが波紋に砕けては黒々とした影を作る。足音が石畳に響くたび、水面からぽちゃん、と遅れて音が返ってきた。まるで僕の背後で、もう一人が走っているかのように。
立ち止まって振り返ると、誰もいない。ただ川岸の泥に、濡れた裸足の足跡がいくつも並んでいた。僕のものではない、細く小さな足跡。だがそれは水に溶けることなく、じわりじわりとこちらに近づいてきた。
その瞬間、右足に鋭い痛みが走った。水が冷たく皮膚の下に染み込んでいく感覚。僕は叫び声を上げ、暗い川面に視線を落とした。そこには、泡立つ水の中から伸びる手のような影が蠢いていたのだ。
……だから僕は知っている。 右足を蝕んでいるのはバクテリアなんかじゃない。あの夜、水底から追いかけてきたものの仕業だ。
家族も、友人も、医師でさえも信じてくれなかった。けれど僕は語らずにはいられない。
あの深夜のランニングで起こった、恐怖の出来事を──。
■
僕が車椅子生活を送るはめになったその日は、2月初旬に行われるマラソン大会に向けて、そろそろ本格的なトレーニングに励まなければならないと胸をざわつかせていた矢先の出来事だった。
ランニングが好きな人なら理解できるだろう。走って汗を流した後に訪れるあの爽快感は、日常の重苦しさを一瞬で吹き払ってくれる。だがその感覚は麻薬のように心を支配し、走れない日が続けば苛立ちが募り、心の奥に不安がじわりと広がっていく。
まして僕は几帳面な性格だ。日課のランニングが途切れることは、心の均衡が崩れ、落ち着きを失ってしまうようで耐え難かった。
その日も、仕事の忙しさに追われ、何日も走れないまま過ごしていた。焦りと苛立ちが限界に達し、帰宅した夜、とうとう我慢できずにシューズを履き、闇に沈む街へと飛び出した。
僕のランニングコースは決まっている。嵐山の渡月橋──京都を訪れる者なら一度は目にするであろうその景勝地を駆け抜ける瞬間が、僕にとって最大の悦びだった。
桂川の河川敷に沿って伸びる自転車道は、四季折々の顔を見せる。春は花びらが舞い、夏は蛍が漂い、秋は紅葉が川を染め、冬は靄が白く立ちこめる。昼と夜でまるで異なる顔を持つその道は、僕にとって特別な場所だった。
僕の家は、渡月橋から二キロ下流の松尾にあった。昼夜を問わず走りに行けるその環境を誇りに思っていたが、今にして思えばそれも皮肉な運命だったのかもしれない。
その夜ばかりは、悪条件が重なった。仕事の疲労、日々の停滞、迫り来る大会への焦燥。普段なら決して走らない時刻、午前零時を少し回った真夜中に、僕は走り出してしまったのだ。
ウォームアップ用のトレーニングウェアを着込み、スポーツウォッチのタイマーを押す。闇の中、額のヘッドライトだけが頼りで、照らされたアスファルトの凹凸は不規則に浮かび上がり、昼間よりも速く走っているような錯覚を生んだ。だが走り始めてすぐ、最初の一キロのタイムが思うように出ていないことに気づき、胸の奥に小さな不快感が芽生えた。
それでも、上野橋に差しかかる頃、ラップタイムは一キロ四分を切っていた。計算上、十キロを五十分前後で帰れるとわかり、ようやく胸のつかえが少し和らいだ。
僕は次のラップポイント、松尾橋を目指して走った。
渡月橋から三キロほど下流のそのあたりは、河川敷沿いに建つマンションや町工場の灯りが夜気を押し返し、比較的明るく賑やかに見える場所だ。だが川面は不気味に静まり返り、時折吹く冷たい風が頬を撫で、どこか得体の知れない気配を運んでくる。
その時はまだ知らなかった。あの夜の選択が、やがて僕の右足を、そして人生そのものを変えてしまうことになるなどとは──。
さすがに時間が時間なだけに、深夜に散歩やランニングをしているような奇特な人影は見当たらなかった。それでも視界に灯りがあるだけで、心の底に冷え込んだ不安が少し和らぎ、ほんのわずかだが温もりを覚える。暗闇の中に浮かぶ灯火は、まるで水面に揺れる頼りない行灯のように心を支えていた。
だが、嵐山の渡月橋に近づくにつれ、景観保護のためか集合住宅の影は消え、代わりに松や桜の木々、軒の低い土産物店や旅館、料亭など観光地特有の建物がぽつりぽつりと現れるようになった。夜の帳に沈むその姿は、昼間の賑やかさを失い、まるで忘れ去られた舞台装置のように不気味な沈黙を漂わせていた。
さぞ店舗が開いている時間なら観光客で賑わっているのだろうと頭に浮かべながら走っていると、ちょうどランニングの中間点である渡月橋が視界に現れた。橋は闇の中で黒々と影を落とし、欄干の向こうに広がる川面が月明かりを飲み込んでいた。
僕は吐く息が白く煙るのを感じながら、春になればこの辺りの桜を見上げて走れるのだと一瞬だけ心を躍らせた。だがその淡い期待は、背筋を撫でる冷気にすぐかき消された。
渡月橋を渡り始めると、不思議な感覚にとらわれた。ゾーン──いわゆるランナーズハイ。全身が羽のように軽く、残りの距離も容易に走り切れる気がした。だが、その高揚感はどこか異様に研ぎ澄まされすぎていて、むしろ不気味に思えた。
普段なら人で溢れる渡月橋も、深夜は僕ひとりきり。誰もいない橋を独り占めし、全速力で駆け抜ける。その四百メートルの橋の終わりにある中ノ島公園へと足を踏み入れたとき、脳内はエンドルフィンに満たされ、奇妙な幸福感に包まれていた。だが同時に、背後から見えない視線が突き刺さるような感覚がぬめりついて離れなかった。
橋を離れ、再び自転車道へ戻り、残り三キロを切ったところで、いよいよラストスパートをかけようとした。まさにその時だった──恐怖が忍び寄ったのは。
最初の異変は、腕にはめていたGPS付きスポーツウォッチからだった。突然、甲高いアラームが鳴り響き、闇夜に不釣り合いな電子音がこだました。
慌てて目を落とすと、液晶画面には不気味な文字列が浮かび上がっていた。「衛星をロストしました」。
建物に囲まれているわけでもない、人気のない開けた夜道で、なぜ位置情報を失うのか。理解できない異常に、思わず舌打ちが漏れた。「ちぇっ、使えない時計だな……」と呟いた声は、夜気に吸い込まれて震えて返ってきた。
せっかく調子よく走っていたのに足を止めざるを得ず、苛立ちが募る。「やっぱり海外製は信用ならないな」と小さく吐き捨てた。だが同時に、高額だったこの時計が壊れたのではないかという不安もじわりと広がっていった。
僕は走るのをやめ、冷たい息を吐きながら立ち尽くした。そしてエラーが消えることを願い、電源を切って再起動を試みた──その時、夜の静寂が一層濃くなった気がした。まるで川も風も呼吸を止め、僕の動作を見守っているかのように。
すると今度は、スポーツウォッチの機能の一つである方位計が、狂ったように半時計回りにぐるぐると回転を始めた。さらにデジタルの時間を表すドット表示も、数字の形を保てずに崩れ落ち、判読不可能な歪んだ光の点滅へと変わってしまったのだ。
「あぁ……壊れてしまった。ついてないな」 先ほどまで身体を駆け巡っていた高揚感は、凍り付いたように消え失せ、胸の奥にじんと冷えが広がった。自然と足は止まり、意気消沈した僕の体はクールダウンに入ってしまっていた。
その場所は、本来なら川の中州だった地を造成して作られた遊歩道と公園である。堤防沿いの道路より五メートルほど低い位置にあり、周囲を覆うのはただ暗闇のみ。街路灯は一本もなく、もし額に着けたヘッドライトがなければ、そこは完全な闇に呑み込まれていた。
僕はすっかり気力を奪われ、ただヘッドライトが照らす細い光の筋だけを頼りに走路を見つめていた。明かりの先は終わりなく続くかのように錯覚し、心は急速に沈み込んでいく。全身が怠く重く、逃げ場のない闇に囚われたようだった。
それでも、このまま歩いて帰れば小一時間はかかる。気を取り直し、再び走ろうと息を整えたその時だった。
──ガサ、ゴソ。
不意に、遊歩道と河川敷を隔てるガードレールの辺りから物音がした。草を踏み分けるような気配。慌ててヘッドライトを向けると、河川敷の雑草が風もないのに揺れていた。中で何かが動いている。
イタチか何かの小動物だろうか……そう思ったが、野犬であれば噛まれる危険もある。緊張で喉がひりつき、自然と体は身構えていた。
すると──茂みをかき分け、現れたのは人影だった。
ガードレールの下を這うようにして姿を見せたのは、一人の少年。ヘッドライトの直射を受けたその顔は影を濃くし、無表情のまま虚ろな瞳でじっと僕を見つめてきた。
背丈や背負っているランドセルからして、小学校高学年ほどだろう。だがその姿は真冬だというのに半袖半ズボン。いくら「子供は風の子」とはいえ、説明のつかない異様さだった。
加えて、少年の顔は泥に塗れており、今にも拭き取ってやりたくなるほど汚れていた。その不自然さに寒気が背を這い上がる。
何よりも不可解だったのは──「なぜ、この深夜に少年がこんな場所にいるのか」。
事件に巻き込まれているのでは……そんな考えが頭をよぎる。息が浅くなるのを感じながら、僕は疑問を解消するために声をかけた。
「僕、どうしたの?」と問いかけると、少年は小さな声で「お腹がすいてたから虫とってた」と答えた。
冬場に虫取り……? しかも深夜に? 食べるために? 次々と疑問が頭に浮かんだが、子供は時に意味不明なことを口にするものだと、自分に言い聞かせて深く考えないようにした。
少なくとも誘拐や物騒な事件ではないことに安堵した僕は、「今何時か分かるか? 親御さんも心配しているはずだ。早く帰りなさい。迷子じゃないよな?」と声をかけた。
その瞬間、少年は突如「うわー」と叫び、僕の両足にしがみついてきた。小さな体が震えながら泣き声を上げ、「迷子じゃないよ。お腹すいたよ」と嗚咽混じりに繰り返す。
おそらく遊んでいて遅くなり、帰れば親に叱られると思い、戻れなくなってしまったのだろう。 僕自身、似たような経験が全くないわけでもなく、妙に親近感が湧いた。放っておくわけにはいかない──そう思った。
「とりあえず、おうちに帰ろうか。一緒に行ってあげるから」 僕がなだめると、少年はやがて泣き止み、代わりに僕の手を強く握った。そして「こっちだよ」と言いながら、先ほど走ってきた道の方へ歩き出した。
少年の家は渡月橋の近くなのだろうと考えながら、正直帰り道と逆方向に気が重くなったが、「乗りかかった舟だ」と自分に言い聞かせ、手を引かれるように歩を進めた。
少年と手を繋ぎ、十分ほど歩くと、中ノ島公園の中州あたりに立ち並ぶ土産物店や料亭の一角へ戻ってきた。
そこで少年は、看板も灯りもない店舗の前で立ち止まり、「おうちだよ」と呟いた。
確かにこの辺りの店は閉店後は人の気配がなく、真っ暗なはずだ。だが最近は住み込みで営む者もいるのかもしれない。そう自分に言い聞かせようとした。
それでも、明かりひとつ灯っていない光景に強い違和感を覚えた。もし自分の子が深夜になっても帰らなければ、親なら探しに出るか、少なくとも帰宅を待っているはずだ。独身の僕ですら、そう考えるのは当然だった。
いや、もしかすると親はこの少年を探しに出て、家を空けているのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。
その間に、少年は店舗の引き戸をガラガラと音を立てて開け、「ただいまー」と声を張り上げた。
すると、中から女性の声で「おかえりー」と返事があった。だが、不気味なほどに室内の灯りは点かない。
少年は一旦中へ入り、すぐに戻ってきて僕の手を引いた。「お母さんが会いたいって」
暗闇に沈む店内へ、僕は誘われるように足を踏み入れた。
店舗の中は薄暗く、頼れる光といえば僕の額のヘッドライトだけだった。光の筋に照らし出された店内は泥にまみれ、壁も床も黒ずみ、どこか生臭い匂いが漂っていた。少年の顔と同じく、不潔で澱んだ気配を放っている。
最初は「よくもこんな場所で客商売ができるものだ」と呆れていた。だが、その思いは次の瞬間、完全に吹き飛んだ。
光の中に立っていた──母親の姿を見たからだ。
彼女は薄いベージュの長襦袢をまとっていたが、だらしなくはだけ、その下から白い肌が露わになっていた。細身の体に、異様に艶めいた目と唇。夜気に溶け込むその姿は、淫靡でありながらどこか背筋を冷やすものを纏っていた。
理性では近寄ってはならないと分かっていながら、心の奥から熱が立ちのぼり、視線はどうしても逸らせなかった。
母親はゆっくりと手を差し伸べ、闇の奥で妖しく招いた。
「来なさい」と言われているように。
行ってはいけないと分かっていながらも、僕の足は勝手に一歩、また一歩と前へ進んでいた。
気が付くと、彼女の吐息を間近に感じ、僕の手は禁断の場所へと伸びていた。甘い香りが鼻腔をくすぐり、頭が痺れるような高揚感に包まれる。次の瞬間、口に含んだものは、説明のつかない甘ったるい液体──母性を偽装した何かだった。
背筋を悪寒が走ると同時に、夢のような感覚に溺れかけていた。
──その時だった。
少年が、僕の右足に牙を立てた。鋭い痛みが脳天を突き抜ける。
「こいつ、食べていいでしょう」
その声は無垢さを失い、異様に冷たい響きを持っていた。
「食べる……?」意味が理解できずに母親を見やると、そこにあったのは先ほどの艶やかな女ではなかった。
顔の半分は腐り落ち、眼球は飛び出し、骨がのぞく。妖艶な笑みは仮面にすぎず、正体は人の形を装った怪異だった。
「母さんにも残しておくのよ」
腐乱した唇がそう囁いた瞬間、少年はさらに強く歯を食い込ませた。激痛に思わず叫び声をあげる。
そうだ──この母子は人間ではない。僕を喰らおうとする怪物だ。
絶望の中で本能が動いた。もう一方の足で、必死に少年の頭を蹴りつける。何度も、何度も。鈍い衝撃が響き、少年が怯んだ隙を逃さず右足を引き抜くと、全力で戸口へと体当たりした。
木が裂ける音とともに引き戸が砕け、僕は転がるように夜の外へ飛び出した。
そこから先は無我夢中だった。全力で走り、必死で逃げた。気がつけば自転車遊歩道の草むらに身を潜め、夜が明けるまで震えながら隠れていた。耳に残るのは自分の荒い呼吸と、闇に潜む気配の幻聴ばかりだった。
夜が明け、恐る恐る足を見下ろすと、少年に噛まれた右足にはくっきりと歯形が残り、そこから膿が滲み出ていた。その異様な痕跡を見た瞬間、再び背筋に冷たいものが走った。
そのまま僕は足を引きずりながら自宅近くの交番に駆け込んだ。しかし当然のごとく、僕の話を信じる者はいなかった。警察官は一応、中ノ島の中洲にある店舗を探してくれたが、僕が目にしたような店はどこにもなく、空き店舗すら存在しなかったという。
──そうして今に至る。これが僕の身に降りかかった、恐怖の体験だ。
あの夜以来、病院ではなるべく一人にならないようにしている。独りでいると、あの忌まわしい母子の姿がまざまざと蘇ってくるからだ。だからこそ、今日だけは勇気を振り絞り、皆にこの体験を語ることにした。僕が生きた証を残さなければ、単なる「人食いバクテリアで死んだ患者」として片づけられてしまう──その悔しさが、筆を取らせた。
語っている場所は病院のエントランス。人の姿が絶えないはずの場所を選んだ。だが、外来診察が終わる時間が近づくにつれ、ロビーは急速に静まり返っていった。心細さに耐えきれず、病室へ戻る決心をする。
車椅子のロックを外し、手をかけた瞬間──動き出した。自分の意思ではない。背後から、誰かが押している。
最初は看護師かと思った。だが、押し方は乱暴で、背筋を走る寒気が「違う」と告げた。恐る恐る振り返った僕の視線の先には、泥だらけの顔をした少年が満面の笑みで立っていた。黒いランドセルを背負い、半ズボン姿のまま。
「キャッ、キャキャッ」 少年は楽しげに声をあげながら車椅子を押し続ける。必死に体を揺らして抵抗するが、止めることはできない。「誰か助けて!」と叫んでも、周囲の人々はまるで耳に届かぬかのように無反応だった。
速度を上げながら、少年は車椅子を人気のない方向へ進めていく。辿り着いたのは行き止まりの壁。その前で車椅子を止め、壁に向かって声をかけた。
「お母さん、お腹すいたよ」
その声に呼応するように、壁から母親が滲み出るように現れた。 「しょうがない坊やねぇ……しっかり噛んで食べるのよ」
「うん、わかった。わーい」 少年は小躍りしながら「じゃあ、いただきまーす」と叫び、僕の右腕に噛みついた。「ぶちぃ」という肉が裂ける音が、骨にまで響いた。
「お母さんも食べなよ。こいつ意外と美味しいよ!」 少年が興奮して言うと、母親も「じゃあ、私もいただくわね」と答え、僕の左腕に歯を立てた。
「ぐちゃ、ぴちゅ」──嫌悪を極める音が病院の静寂にこだまする。だが、不思議と痛みはもう感じなかった。暗闇が全てを覆い尽くし、僕の感覚は遠のいていった。
少年に食いちぎられていた右腕の肘から下が、無惨にも床に落下した。その瞬間、粘つく音を立てて転がる自分の腕を見て、現実感が霧散していくのを感じた。そこに残されたのは、血と恐怖だけ。
そして気づいた。少年の口元が、ゆっくりと僕の首筋へと迫ってきているのを。生温い吐息が皮膚に触れ、ぞわりと鳥肌が立つ。子供のはずの小さな口が、飢えた獣のように大きく開かれていた。
逃げようにも、身体は痺れたように動かない。母親の影が背後で揺れ、耳元に湿った声が忍び寄る。
「さあ……坊や、首筋は柔らかいわ。しっかり噛んで──」
全てが暗転していく中で、僕は悟った。 ──そうして僕は、この母子によって……。