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第9話「環状線の朝顔観察」

金曜日の朝7時。いつもより早い時間に、智也は環状線に乗り込んでいた。今日から新しい連載企画「朝の表情コレクション」の取材を始めるためだ。


「一週間通して同じ時間に乗って、乗客の表情の変化を観察する...」


智也はスマホのメモアプリを開き、企画の概要を再確認した。この企画は先日の編集会議で井上編集長に提案し、即座に承認されたものだ。


「月曜から金曜まで、朝7時の環状線。同じ車両、同じ区間で乗客の『朝顔』を観察し、曜日による変化を記録する」


写真撮影は乗客のプライバシーを考慮して行わず、言葉だけで表情や雰囲気を表現するという挑戦的な企画だ。


「さて、今日は金曜日。週の最終日の朝顔はどんな感じかな」


環状線は徐々に混雑し始めていた。サラリーマン、OL、学生たち...様々な人々が乗り込んでくる。智也は観察眼を研ぎ澄まし、乗客の表情を細かく記録していく。


「金曜の朝顔...全体的に表情が明るい。週末を意識しているのか、会話も多め。スーツ姿の男性二人組、昨夜の飲み会の話をしながら笑っている。学生たちは部活の話で盛り上がっている。化粧が少し派手めの女性が多い気がする...」


智也は熱心にメモを取りながら、一駅一駅と移動していく。


「次は中央東口駅です。中央東口駅」


アナウンスが流れ、ドアが開く。乗客が入れ替わる中、智也の目に見覚えのある姿が飛び込んできた。


「あれは...井上さん?」


編集長の井上真琴が乗り込んでくるのが見えた。いつものビジネススーツ姿だが、少し疲れた表情をしている。智也は手を挙げて挨拶しようとしたが、井上は智也に気づかず、空いた席に座ってスマホを取り出した。


「声をかけるべきか...」


智也は少し迷ったが、井上の疲れた表情を見て、仕事の話を持ち出すのは避けたほうがいいと判断した。代わりに、編集長の「朝顔」も観察対象に加えることにした。


「金曜朝の井上編集長...肩の力が抜けているようで、いつもの鋭さが少し和らいでいる。画面を見る目は真剣だが、時々窓の外を見て深呼吸している。週末を前に一息つこうとしているのかも...」


***


次の月曜日。朝7時の環状線は、金曜日とは明らかに異なる雰囲気に包まれていた。


「月曜の朝顔...全体的に表情が硬い。無表情でスマホを見つめる人が多く、会話は少なめ。コーヒーを持っている人の割合が高い。目の下にクマがある人も目立つ。スーツのシワが目立つ男性、化粧が薄めの女性...週末の疲れが残っているようだ」


智也は観察を続けながら、金曜日との違いを細かくメモしていく。


「次は中央東口駅です。中央東口駅」


今日も井上編集長が乗り込んできた。金曜日とは打って変わって、キリッとした表情で、背筋をピンと伸ばしている。


「月曜朝の井上編集長...完全に仕事モード。歩き方にも力強さがあり、視線も鋭い。スマホを操作する指の動きも素早く、効率を重視しているよう。週の始まりに向けて全神経を集中させている印象...」


智也が観察を続けていると、井上が顔を上げ、二人の視線が合った。井上は少し驚いたような表情をした後、微笑んで会釈した。智也も笑顔で頭を下げた。


***


水曜日の朝。智也は月曜と火曜の観察結果を整理しながら、今日の「朝顔」を記録していた。


「水曜の朝顔...月曜よりは表情が和らいでいるが、まだ疲れが見える。『週の真ん中』という感覚からか、どこか中途半端な雰囲気。ただ、会話は増えてきており、特に同僚同士と思われるグループの交流が活発。コンビニの袋を持っている人が多く、朝食を買ってきた様子...」


智也はさらに細かい観察を続けた。女子高生グループの髪型の変化、サラリーマンのネクタイの色の傾向、お年寄りの乗車時間帯...様々な角度から「朝」という時間を切り取っていく。


「次は中央東口駅です。中央東口駅」


今日も井上編集長が乗り込んできた。水曜日の井上は、月曜とも金曜とも異なる表情をしていた。


「水曜朝の井上編集長...少し余裕が出てきた様子。歩き方にもリズム感があり、周囲を見渡す余裕もある。スマホだけでなく、小さな文庫本も取り出している。仕事とプライベートのバランスを取り始めているのかも...」


井上は智也に気づくと、今度は自然に近づいてきた。


「おはようございます、相沢さん」井上は微笑んだ。「朝の取材、順調ですか?」


「はい、面白い発見がたくさんあります」智也は嬉しそうに答えた。「実は井上さんも観察対象になっていますよ」


「私が?」井上は少し驚いた様子だった。


「はい。曜日による表情の変化が顕著で、とても興味深いんです」


井上は少し照れたように笑った。「そうですか...私自身は意識していませんでしたが」


「それが自然な観察の良いところです」


二人は少しの間、仕事の話をした。井上は智也の「朝顔観察」企画に大きな期待を寄せているという。


「読者は共感できる内容に惹かれます。誰もが経験する『朝の通勤』という日常を、新しい視点で切り取る試みは価値があります」


井上の言葉に、智也は自信を深めた。


***


金曜日。一週間の観察が終わる日だ。智也は月曜から木曜までの記録を見直しながら、最後の観察を行っていた。


「金曜の朝顔、再確認...やはり表情が明るい。週末を意識しているのか、服装も少しカジュアル寄りの人が増える。化粧が華やかな女性、髪型に凝っている男性も目立つ。会話の内容も仕事よりプライベートの話題が多い...」


一週間通して観察を続けると、曜日による変化だけでなく、天候や気温による影響も見えてきた。水曜日は雨だったため、全体的に表情が暗く、木曜日は気温が上がったため、服装が軽やかになっていた。


「次は中央東口駅です。中央東口駅」


最後の観察日、井上編集長も予想通り乗り込んできた。今日の井上は先週の金曜日よりもさらにリラックスした表情をしている。


「金曜朝の井上編集長...完全に週末モード。肩の力が抜け、表情も柔らかい。いつもの鋭い目つきが穏やかになり、周囲を見る視線にも余裕がある。スマホではなく雑誌を読んでおり、時々微笑んでいる...」


井上は智也を見つけると、隣の席に座った。


「一週間お疲れ様でした」井上は穏やかな声で言った。「観察、終わりましたか?」


「はい、これで一通り完了です」智也は満足げに答えた。「曜日による変化が思った以上に明確で驚きました」


「記事、楽しみにしています」井上は微笑んだ。「ところで、今週末、時間ありますか?」


「はい、特に予定は...」


「実は明日、『Urban Taste』の読者イベントがあるんです。『都市の朝』をテーマにした写真展なんですが、相沢さんの『朝顔観察』と関連していて...」


「ぜひ行きたいです!」智也は即答した。


「良かった」井上は嬉しそうに頷いた。「それと、もう一人誘ってもいいですか?例えば、あのブックカフェの...」


「篠原さんですか?」


「はい。彼女も創作活動をしているなら、きっと興味があると思って」


智也は少し考えた。確かに結衣は様々な体験に興味を持ちそうだ。


「分かりました、声をかけてみます」


***


その日の午後、智也はブックカフェ・サークルを訪れた。


「写真展ですか?いいですね!」


結衣は智也の誘いに目を輝かせた。


「ぜひ行きたいです。小説の参考にもなりそう...」


「じゃあ、明日の午後2時に中央公園前駅で待ち合わせましょうか」


約束を交わし、智也はカフェでコーヒーを飲みながら、一週間の観察記録をまとめ始めた。


「環状線の朝顔観察...月曜日の憂鬱から金曜日の解放感まで」


スマホのメモアプリに記事の構成を書き出していく。写真なしで表情を伝えるという挑戦は難しいが、言葉の力で読者に情景を想像させることができるはずだ。


「人々の表情は、都市の鼓動を映す鏡...」


智也は満足げに書き進めた。環状線オフィスでの一週間の観察は、彼自身の視点も変えてくれた。同じ電車、同じ時間でも、日によって見える風景は違う。それは乗客の表情だけでなく、自分自身の心の状態も影響しているのだろう。


カフェの窓から見える夕暮れの街並みが、オレンジ色に染まっていく。明日は写真展。そして井上編集長、結衣との新たな交流。環状線から広がる人間関係の輪が、智也の世界をどんどん豊かにしていく。


環状線は今日も回り続け、そこには無数の「朝顔」が行き交っている。それらを言葉で切り取る作業は、フリーライターとしての智也の新たな挑戦だった。


(第9話 終)



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