第7話「ノートの老紳士」
木曜日の朝7時30分。環状線はまだ通勤ラッシュの前で、比較的空いていた。智也は読者交流会の疲れを引きずりながらも、いつもの「環状線オフィス」に出勤していた。
「昨日は遅くまでお疲れ様」
スマホに井上編集長からのメッセージが届いている。「読者の反応も上々でした。次回の連載も楽しみにしています」
智也は微笑みながらメッセージに返信した。読者交流会は予想以上の盛り上がりで、終了後も何人かの読者と話し込んでしまった。結衣も最後まで残り、帰りは同じ環状線に乗って別れた。
「次の連載は...」
智也は考え込みながら、車窓の外を眺めた。これまでに「環状線オフィス」と「赤いマフラーの謎」、そして「中央市場の朝」という記事を書いた。次は何を書こうか。
「次は中央公園前駅です。中央公園前駅」
アナウンスが流れ、ドアが開く。乗客が入れ替わる中、智也の目に見覚えのある姿が飛び込んできた。
革のノートを持つ老紳士。
毎朝この時間帯に同じ車両に乗り、同じ席に座り、革張りのノートに何かを書き続けている70代くらいの男性だ。背筋をピンと伸ばした姿勢、きちんとした三つ揃いのスーツ、白髪の整った頭髪。まるで昔の映画から抜け出してきたような風格がある。
「今日も来た」
智也は密かに老紳士を観察していた。彼が書いているのは日記だろうか、それとも小説か。いつも集中して書いているため、周囲の騒がしさにも全く動じない。
「今日こそ声をかけてみよう」
智也は決心した。環状線の常連たちを取材するなら、この謎めいた老紳士も外せない。しかし、どう声をかければいいのか。失礼にならないように...
智也が考えていると、突然電車が大きく揺れた。急ブレーキだ。
「!」
老紳士の手からペンが滑り落ち、智也の足元に転がってきた。
「あの、これを」
智也はペンを拾い上げ、老紳士に差し出した。
「ありがとう」
老紳士は丁寧な口調で礼を言った。声は低く、穏やかだ。
「いえ、どういたしまして」
智也はこの機会を逃すまいと続けた。「毎朝、同じ電車に乗っていらっしゃいますね」
老紳士は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「君も毎朝見かける顔だ。いつもスマホで何か書いているね」
「気づいていらっしゃったんですか」智也は少し照れた。「実は、フリーライターをしていまして」
「ほう、ライターか」老紳士は興味深そうに頷いた。「私も昔は文章を書く仕事をしていたよ」
「そうだったんですか」
会話のきっかけができ、智也は勇気を出して自己紹介した。
「相沢智也と申します。Urban Tasteという雑誌で『環状線からの風景』という連載を担当しています」
「私は高橋正一だ」老紳士は丁寧に会釈した。「退職した歴史教師だよ」
「高橋先生、もしよろしければ...」智也は少し躊躇いながら続けた。「いつも書いていらっしゃるノートについて、お聞きしてもいいですか?」
高橋は少し考えてから、革のノートを開いて見せてくれた。そこには美しい筆跡で、日付と時間、そして環状線の様子が詳細に記録されていた。
「これは...環状線の記録ですか?」
「そうだよ」高橋は穏やかに微笑んだ。「私は50年以上、この環状線に乗り続けている。そして30年前から、毎日の観察記録をつけているんだ」
智也は驚きのあまり言葉を失った。30年間の環状線の記録。それはまさに都市の歴史そのものだ。
「次は東林寺前駅です。東林寺前駅」
アナウンスが流れ、高橋は立ち上がった。
「私はここで降りる」高橋はポケットから一枚の名刺を取り出した。「もし興味があれば、今度うちに来なさい。もっと詳しい話をしよう」
智也は名刺を受け取り、頭を下げた。
「ぜひお伺いします!」
高橋は微笑んで電車を降りていった。
***
その日の午後、智也は高橋の名刺を見つめていた。住所は東林寺前駅から徒歩10分ほどの場所だ。名刺には「高橋正一 郷土史研究家」と印刷されている。
「郷土史研究家...」
智也はスマホで高橋正一の名前を検索してみた。すると、いくつかの地域史に関する書籍や論文が見つかった。特に「環状線と都市の変遷」という論文は、地域研究の分野で高く評価されているようだ。
「これは絶対に取材すべき人物だ」
智也は井上編集長にメールを送った。「環状線の歴史を50年以上記録している郷土史研究家に出会いました。次回の連載はこの方を取り上げたいと思います」
すぐに返信が来た。「素晴らしい!ぜひ詳しく取材してください。歴史的な視点は連載に深みを与えてくれるでしょう」
***
翌日の午後、智也は高橋の自宅を訪れた。東林寺前駅から少し離れた住宅街の中にある、古い日本家屋だ。
「よく来たね、相沢君」
高橋が出迎えてくれた。昨日と同じく端正な身なりだが、スーツではなく、きちんとした和服姿だ。
「お邪魔します」
智也は緊張しながら家に入った。玄関を抜けると、広い和室があり、その奥には書斎らしき部屋が見える。
「どうぞ、こちらへ」
高橋は智也を書斎に案内した。部屋の壁一面には本棚が並び、古い地図や写真が飾られている。そして一角には、同じ革張りのノートが何十冊も整然と並んでいた。
「これが...全部環状線の記録ですか?」
「そうだよ」高橋は誇らしげに頷いた。「1993年から毎日書き続けている。その前は不定期だったが」
智也は圧倒された。目の前にあるのは、一人の男が見つめ続けた都市の記録。環状線という窓から覗いた、時代の変遷だ。
「なぜ、こんなことを始められたんですか?」
高橋はゆっくりと椅子に座り、話し始めた。
「私が初めて環状線に乗ったのは、高校生の時だった。1960年代のことだ」
当時、高橋は郊外から都心の高校に通っていた。環状線は彼の日常の一部だった。大学で歴史を学び、教師になった後も、環状線は彼の生活の中心にあった。
「都市は生き物のように変化する。特に環状線沿線は、その変化が顕著だった。新しいビルが建ち、古い建物が壊され、人々の服装や表情も変わっていく」
退職後、高橋は本格的に郷土史研究を始めた。そして環状線の記録は、彼のライフワークとなった。
「これは単なる趣味ではない。都市の記憶を残す作業なんだ」
高橋は何冊かのノートを取り出し、智也に見せてくれた。そこには日々の環状線の様子だけでなく、沿線の開発や店の移り変わり、時には乗客の服装や流行まで細かく記録されていた。
「これは素晴らしい...」
智也は感嘆の声を上げた。これは単なる記録ではなく、都市の生きた歴史だ。
「高橋先生、この記録をぜひ記事にさせてください」
「構わないよ」高橋は穏やかに微笑んだ。「私の記録が多くの人の目に触れるのは嬉しいことだ」
二人は夕方まで話し込んだ。高橋は環状線にまつわる数々の逸話を語ってくれた。駅の名前の由来、沿線の歴史的建造物、かつての風景...。
「そういえば」高橋は突然思い出したように言った。「君が取材した『ブックカフェ・サークル』、あの建物は元々私の教え子の実家だったんだよ」
「え?本当ですか?」
「ああ、篠原家の洋館だ。篠原健太郎は私の教え子でね。彼が本屋を開くと聞いた時は驚いたよ。彼は数学が得意な生徒だったからね」
智也は驚きのあまり言葉を失った。世界は思った以上に狭い。環状線を通じて、人々は繋がっている。
***
夕方、智也は高橋の家を後にした。バッグには高橋から借りた古い環状線の写真と、彼の著書「環状線物語」が入っている。
環状線に乗りながら、智也はスマホのメモアプリを開いた。今日の取材内容を整理する。
「ノートの老紳士...50年の環状線記録...都市の記憶...」
そして、記事の構想が浮かんできた。単なる老人の趣味ではなく、都市の記憶を守る静かな闘いとしての記録。高橋の目を通して見た環状線の変遷と、変わらないもの。
「これは良い記事になりそうだ」
智也は窓の外を見た。高橋が50年前に見た風景と、今自分が見ている風景。同じ環状線でも、時代によって見える景色は変わる。しかし、人々の日常の営みは続いている。
環状線は今日も回り続け、高橋のノートには新たな一ページが加わる。そして智也の記事にも、また一つの物語が紡がれていく。
(第7話 終)