第6話「スマホひとつでどこまでも」
水曜日の朝8時。智也は普段より早い時間に環状線に乗り込んでいた。今日は特別な日だ。「Urban Taste」の読者交流会が夕方6時から開催される。その前に、連載記事の取材と原稿執筆を済ませなければならない。
「さて、今日はどんな出会いがあるかな」
スマホを手に、智也は車窓の外を眺めた。朝の光を浴びて輝く街並み。通勤・通学の人々で賑わうホーム。すべてが記事のネタになる可能性を秘めている。
「次は中央市場前駅です。中央市場前駅」
アナウンスが流れ、智也は思わず身を乗り出した。中央市場は環状線沿線の名所の一つだ。以前から取材したいと思っていた場所だった。
「よし、降りてみよう」
智也は勢いよく立ち上がり、ドアに向かった。
***
中央市場は想像以上の活気に満ちていた。威勢の良い掛け声、新鮮な魚介類の匂い、色とりどりの野菜や果物。智也はスマホのカメラを構えながら、市場を歩き回った。
「すみません、写真を撮ってもいいですか?」
ある八百屋の前で、智也は店主に声をかけた。
「ああ、いいよ。でも何に使うんだい?」
「実は、環状線沿線の名所を紹介する記事を書いていまして...」
店主の田中さん(62歳)は、智也の説明を聞くと興味深そうな表情を浮かべた。
「環状線か...そういえば、昔はここまで線路が来てたんだよ」
「え?本当ですか?」
田中さんは市場の歴史を語り始めた。かつて、この市場には貨物線が直接乗り入れており、全国から新鮮な食材が運ばれてきたという。しかし、モータリゼーションの進展とともに線路は撤去され、今では環状線の駅から少し離れた場所になっている。
「でもな、この市場の魂は今も変わらないんだ。毎日新鮮な食材を届けるってのがな」
智也は熱心にメモを取った。スマホのメモアプリには、田中さんの言葉や市場の様子が刻々と記録されていく。
***
昼過ぎ、智也は市場を後にした。取材の成果に満足しながら、近くのカフェに入る。ここで記事の構成を練り、できれば下書きまで終わらせたい。
「アイスコーヒーをお願いします」
注文を済ませ、智也はスマホを取り出した。クラウド上に保存された取材メモを開き、写真を確認する。画面上で指を滑らせながら、記事の組み立てをイメージしていく。
「市場の歴史、現在の活気、そして未来への展望...」
智也は没頭して作業を続けた。気がつけば2時間が経過している。
「やばい、もう3時か」
急いで下書きを終わらせ、智也は環状線の駅に向かった。読者交流会までにはまだ時間があるが、その前に編集部に寄って原稿のチェックを受けたい。
***
「青葉台駅です。青葉台駅」
智也は慌ただしく電車を降り、Urban Tasteの編集部に向かった。
「お疲れさま、相沢さん」
井上編集長が笑顔で迎えてくれる。
「原稿、見ていただけますか?」
智也はスマホの画面を井上に見せた。クラウド上に保存された原稿データだ。
「うん、なかなか良いじゃないですか」井上は満足げに頷いた。「特に市場の歴史と現在を対比させている部分が面白い。でも...」
井上は少し考え込むような表情を見せた。
「でも?」
「もう少し、"食"にフォーカスを当てられないかな。Urban Tasteの読者は、美味しいものに目がないんだ」
智也は急いでメモを取る。
「分かりました。市場で扱っている特産品や、地元の人おすすめの逸品なんかも紹介してみます」
「そうそう、それがいいね。写真も忘れずに」
編集部を後にした智也は、時計を確認した。読者交流会まであと1時間。
「よし、もう一度市場に行こう」
智也は再び環状線に乗り込んだ。
***
夕方5時半、智也は息を切らせながら会場に到着した。ギリギリまで取材と原稿の修正に時間を費やしたが、なんとか間に合った。
会場には既に何人かの参加者が集まっていた。そして、受付で見覚えのある赤いマフラーを見つけた。
「結衣さん!」
篠原結衣が振り返る。
「相沢さん、お疲れさま」結衣は柔らかな笑顔を見せた。「今日は朝から大忙しだったんですって?」
「ええ、まさに八面六臂の活躍でした」智也は冗談めかして答えた。
「でも、楽しそう」結衣の目が輝いていた。「私も、いつかああやって取材して回れたらいいな」
「きっとできますよ。それに、小説家としての経験は、きっとライターの仕事にも活きるはずです」
二人が話している間に、会場はどんどん人で埋まっていった。
「では、読者交流会を始めさせていただきます」
井上編集長の声が響き、会場が静まり返る。
「本日は特別ゲストとして、『環状線からの風景』連載でおなじみの相沢智也さんをお迎えしています」
拍手が沸き起こる中、智也は少し緊張しながら壇上に上がった。
「みなさん、こんばんは。相沢智也です」
そして智也は、環状線をオフィスにした経緯や、そこで出会った人々の話を始めた。聴衆の反応は上々だ。質問も次々と飛び交う。
「相沢さんにとって、環状線の魅力とは何ですか?」
「それは...」智也は少し考えてから答えた。「人々の日常と非日常が交差する場所だということですね。誰もが通り過ぎるだけの空間に、無数の物語が隠れている。それを発見できる喜びが、環状線の最大の魅力だと思います」
会場から大きな拍手が起こった。
交流会が終わり、智也は充実感に包まれていた。参加者から直接感想を聞けたことは、大きな励みになった。
「お疲れさま」
結衣が近づいてきた。
「結衣さんも、いつか一緒に壇上に立てたらいいですね」
「えっ?」結衣は驚いた表情を見せた。
「だって、結衣さんの小説が出版されたら、きっとここで出版記念会が開かれるはずですから」
結衣は照れくさそうに笑った。
「夢みたいです...でも、頑張ります」
二人は会場を後にし、夜の環状線に乗り込んだ。車窓に映る街の明かりが、まるで二人の未来を照らしているかのようだった。
智也はスマホを取り出し、今日一日の出来事をメモし始めた。環状線は回り続け、新たな物語を紡ぎ出していく。
そして智也は確信していた。このスマホひとつあれば、どこまでも物語を追いかけていける。それが、環状線オフィスで働くフリーライターの醍醐味なのだ。
(第6話 終)
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