第5話「ブックカフェ・サークルとの出会い」
金曜日の午後3時。智也は「Urban Taste」の編集部がある青葉台駅に向かっていた。環状線の車窓から見える街並みは、雨上がりの柔らかな光に包まれている。
「初めての編集会議か...」
スマホを見ながら、智也は少し緊張していた。先週提出した「環状線オフィス、始めました」という記事が好評で、井上編集長から編集部に呼ばれたのだ。
「次は青葉台駅です。青葉台駅」
アナウンスが流れ、智也は立ち上がった。バッグには「赤いマフラーの謎」と題した新しい原稿が入っている。火曜日に出会った篠原結衣とブックカフェ・サークルについての記事だ。もちろん、結衣の了承を得て書いている。
***
「Urban Taste」の編集部は、駅から徒歩5分ほどのオフィスビルの8階にあった。エレベーターを降り、ドアを開けると、予想以上に小さなオフィスが広がっていた。
「あ、相沢さん、いらっしゃい」
井上真琴が笑顔で迎えてくれた。黒縁メガネと知的な雰囲気は変わらないが、今日はカジュアルなブラウスにジーンズという装いだ。
「お邪魔します」
智也が挨拶すると、オフィスにいた数人のスタッフが振り向いた。
「みなさん、前回の『環状線オフィス』の記事を書いた相沢智也さんです」井上が紹介する。「これから『環状線からの風景』を連載してもらいます」
スタッフたちから拍手があり、智也は少し照れながら頭を下げた。
「前回の記事、すごく良かったですよ」若い女性スタッフが言った。「私も通勤電車の中で人間観察してしまいました」
「ありがとうございます」
井上は智也を小さな会議室に案内した。テーブルの上には、プリントアウトされた智也の記事があった。
「さて、今回の原稿を見せてもらえますか?」
智也はバッグから「赤いマフラーの謎」の原稿データが入ったUSBメモリを取り出した。井上はそれをノートPCに差し込み、読み始める。
数分間の沈黙。智也は少し落ち着かない気持ちで井上の表情を窺っていた。
「素晴らしいですね」井上が顔を上げた。「特に、赤いマフラーの女性が本の表紙を隠す理由を探る過程が、読者の好奇心をくすぐります」
「ありがとうございます」
「ただ、もう少し彼女の小説家としての夢や葛藤についても掘り下げられるといいですね。読者は『同じ創作者として智也さんがどう感じたか』という部分にも興味があると思います」
智也は井上のアドバイスをメモした。確かに、結衣の創作への思いについては、もう少し深く聞いてみたいと思っていた。
「あと、このブックカフェ・サークルという場所も魅力的です。環状線沿線の隠れた名所として、もう少し詳しく紹介してもいいかもしれません」
「はい、次回訪問する時に、もっと取材してみます」
会議は1時間ほど続き、連載の方向性や今後のテーマについても話し合った。井上からは「環状線の常連たち」というアイデアも高評価を受けた。
「では、修正した原稿を月曜日までにメールでください。写真も数枚あるといいですね」
「分かりました」
会議を終え、編集部を後にする時、井上が智也を呼び止めた。
「相沢さん、実はもう一つ提案があるんです」
「はい?」
「Urban Tasteでは月に一度、読者との交流会を開いています。次回のテーマは『都市の隠れた物語』なんですが、ぜひあなたにも参加してほしいんです」
「読者との...交流会ですか?」
「はい。あなたの『環状線オフィス』の記事に興味を持った読者も多いんですよ」
智也は少し考えた。人前で話すのは得意ではないが、フリーライターとして活動するなら、こういう機会も大切だろう。
「分かりました、参加します」
「ありがとうございます。それと...」井上は少し声を落とした。「あのブックカフェの女性も誘ってみてはどうですか?小説を書いているなら、きっと参考になると思いますよ」
***
環状線に戻った智也は、井上の提案を考えていた。結衣を読者交流会に誘うか。まだ二人は知り合ったばかりだが、彼女はUrban Tasteの愛読者だと言っていた。
「よし、明日行ってみよう」
智也は東林寺前駅で下車することに決めた。ブックカフェ・サークルは土曜日も営業しているはずだ。
***
翌日の午後、智也はブックカフェ・サークルを訪れた。店内は土曜日ということもあり、前回より賑わっていた。カフェスペースには学生らしき若者たちが本を読みながら談笑している。
「あ、相沢さん!」
結衣が笑顔で迎えてくれた。今日も赤いマフラーを首に巻いている。
「こんにちは。お忙しいところすみません」
「いえいえ、どうぞ」結衣はカウンター近くの席に智也を案内した。「コーヒーをお持ちします」
コーヒーが運ばれてくると、智也は原稿のことと読者交流会について話した。
「Urban Tasteの読者交流会ですか?」結衣の目が輝いた。「行ってみたいです!でも...私のような者が参加しても...」
「もちろん大丈夫ですよ。井上編集長も、結衣さんのような小説を書いている方にぜひ来てほしいと」
「井上真琴編集長が...私のことを?」結衣は驚いた様子だった。
「はい。僕の記事を読んで興味を持ったみたいです」
結衣は少し考え込んだ後、決心したように顔を上げた。
「行きます。ありがとうございます」
話が弾み、智也は店の歴史についても詳しく聞いた。このブックカフェは結衣の叔父が10年前に開業したもので、最初は古本屋だったが、徐々にカフェスペースを拡大していったという。
「叔父は本が大好きで、特に古い文学作品を集めていたんです。でも、単に本を売るだけでなく、本を通じて人と人が繋がる場所を作りたかったんだと思います」
結衣が店内を案内してくれると、奥の小部屋に「読書会スペース」があることが分かった。月に数回、テーマ別の読書会が開かれているという。
「今度の読書会は村上春樹特集なんです。よかったら参加しませんか?」
「ぜひ参加したいです」
会話の途中、結衣の叔父である店主の篠原健太郎さん(58歳)も加わった。温厚な印象の男性で、智也の連載の話を聞くと、とても喜んでくれた。
「うちの店を記事にしてくれるなんて、ありがとう。実は最近、若い客が減ってきて悩んでいたところなんだ」
健太郎さんは店の苦労話も聞かせてくれた。大型書店やネット書店との競争、若者の活字離れ...。それでも本への愛情を失わず、この場所を守り続けている。
「結衣も大きな助けになってくれてるよ。彼女のおかげで、若い人たちも少しずつ戻ってきてるんだ」
結衣は少し照れた様子で、「そんなことないですよ」と言った。
***
夕方、智也はブックカフェを後にした。バッグには健太郎さんから勧められた古い詩集と、結衣が選んでくれた小説が入っている。
環状線のホームで電車を待ちながら、智也はスマホのメモアプリを開いた。今日の取材で得た情報を整理する。
「ブックカフェ・サークル...本を通じて人と人が繋がる場所...」
そして、記事の新しい方向性が見えてきた。単なる書店紹介ではなく、本という媒体を通じて生まれるコミュニティの物語。結衣の小説家としての夢と、叔父の本への愛情が交差する場所としてのブックカフェ。
「これなら、もっと深い記事になりそうだ」
電車が到着し、智也は乗り込んだ。窓から見える夕暮れの街並みが、オレンジ色に染まっている。
スマホに井上からのメールが届いた。「原稿の修正、楽しみにしています。読者交流会の件、どうなりましたか?」
智也は笑顔で返信を始めた。「篠原さんも参加してくれることになりました。それと、記事の方向性について新しいアイデアがあります...」
環状線は次の駅へと向かっていく。智也の周りには、まだ見ぬ物語がたくさん眠っている。そして今日、また一つの物語との出会いがあった。
(第5話 終)
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