第1話 「環状線オフィス、始めました」
朝の7時45分。地下鉄環状線の中央東口駅のホームは、すでに通勤客でごった返していた。スーツ姿の会社員、制服に身を包んだ学生たち。みんな同じような無表情で、同じような足取りで、電車を待っている。
その中に、少し場違いな雰囲気の男がいた。
「よし、今日から新しい生活の始まりだ」
相沢智也(28歳)は、少し緊張した面持ちで環状線のホームに立っていた。彼の服装は、会社員にしては少しカジュアルすぎる。紺のジャケットにチノパン、首にはヘッドフォン。そして何より、彼の表情が周囲と違っていた。不安と期待が入り混じった、どこか浮ついた表情。
先週まで、智也はIT企業の営業部で働いていた。いわゆるブラック企業だ。毎日終電まで働き、休日出勤は当たり前。上司からのノルマプレッシャーで胃炎になり、ついに先月、医者から「このままでは胃に穴が開きますよ」と警告されたのを機に退職を決意した。
「次は中央東口行きの電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」
アナウンスとともに、電車が滑り込んでくる。ドアが開くと、智也は深呼吸して一歩踏み出した。
***
「自宅作業、三日目にして挫折」
智也はため息をつきながら、スマホのメモアプリを見つめていた。退職後、自宅で仕事をしようとしたが、集中できなかった。テレビやベッドの誘惑が強すぎる。昨日は一日中Netflixを見て終わってしまった。
趣味で始めたブログのレビュー記事が評判になり、いくつかのウェブメディアから仕事の依頼が来るようになっていた。今日は、カフェ紹介サイトからの最初の仕事。環状線沿線のカフェを3軒取材する予定だ。
「カフェで仕事するのも考えたけど...」
先週、試しにカフェで作業をしてみたが、長居すると気まずい。コーヒー一杯で三時間も席を占領するのは申し訳ない。かといって、コワーキングスペースは月額料金が高すぎる。フリーランスになったばかりの彼には、まだ贅沢できない。
電車が揺れ、智也の思考も揺れた。窓の外を流れる景色を眺めていると、ふと気づいた。
「そういえば...」
環状線は一周およそ60分。座れれば快適な空間。Wi-Fiスポットもあり、スマホさえあれば仕事ができる。何より、人間観察には最適の場所だった。
「これって...オフィスになるんじゃないか?」
思いついた瞬間、智也は自分のアイデアに興奮した。環状線をぐるぐる回りながら仕事をする。気になるカフェがあれば途中下車して取材する。また乗って、記事を書く。
「よし、試してみよう」
智也はスマホのメモアプリを開き、タイピングを始めた。電車が揺れるたびに、画面をタップする指がずれる。慣れない作業に少しイライラしながらも、彼は黙々と作業を続けた。
***
「あと20%か...」
スマホのバッテリー残量を確認して、智也は眉をひそめた。まだ最初のカフェにも行っていないのに、このままではバッテリーが持たない。
「環状線オフィスの盲点だったか...」
そう呟いた瞬間、隣の席から声がかかった。
「これ、使いますか?」
振り向くと、スーツ姿の女性が小さなモバイルバッテリーを差し出していた。30代前半だろうか。知的な印象のする黒縁メガネに、きちんとまとめられた髪。
「え、あ、ありがとうございます」
智也が戸惑いながら受け取ると、女性は微笑んだ。
「締切に追われているライターの顔は見慣れてるので」
「え?どうして分かったんですか?」
女性は智也のスマホ画面を軽くあごでしゃくった。
「その必死な表情と、メモアプリの使い方。それに」彼女は少し声を落として「時々周りの人を観察してメモを取る仕草。典型的なライターの習性ですよ」
智也は思わず笑った。「見抜かれましたか。実は今日から環状線をオフィスにしようと思って...」
「環状線をオフィスに?」女性は興味深そうに言った。「面白い試みですね。私も昔、カフェを転々としながら原稿を書いていました。でも環状線は思いつかなかった」
二人は少しの間、仕事の話をした。彼女は「井上」と名乗り、ウェブマガジンの編集の仕事をしているという。智也が趣味で書いていたブログの話をすると、彼女は熱心に聞いてくれた。
「次は青葉台駅です。青葉台駅」
アナウンスが流れ、井上さんは立ち上がった。
「あ、モバイルバッテリー、お返しします」
智也が慌てて差し出すと、彼女は首を振った。
「次会ったときでいいですよ。環状線なら、また会えるでしょう」
そう言い残して、井上さんは降りていった。ドアが閉まる直前、彼女が振り返って微笑むのが見えた。
***
その日、智也は環状線を三周した。
最初のカフェでは、店主から聞いた豆の焙煎方法についてメモを取り、二軒目では常連客にインタビューした。三軒目は閉店していて取材できなかったが、代わりに近くの古書店で思いがけない発見があった。
夕方、最後の原稿を書き終えたとき、智也は不思議な充実感に包まれていた。会社にいた頃は感じなかった、自分の仕事への手応え。電車の窓に映る自分の顔が、少し誇らしげに見えた。
「環状線オフィス、悪くないな」
智也はポケットに入っている井上さんのモバイルバッテリーに触れた。不思議な縁を感じる。また会えるだろうか。
電車は次の駅に滑り込んでいく。窓の外では、夕暮れの街が徐々に明かりをともし始めていた。
智也の新しい日常が、ゆっくりと動き出した。環状線は、今日も回り続ける。
(第1話 終)
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