魔女の家と来客
王都を出て《魔領域》にある[帰らずの森]に入ると、中心部に向かった10日ほどであっけなくそれは見つかった。
[帰らずの森]最強種にまで成長した ゲッコウ と ニコ が居るおかげで、森での生活はなんの問題も無く快適なものだったが「あぁ、風呂に浸かってベットで眠りたい」ルリィがそう思ったその瞬間、不意にそれは目の前に現れた。
《魔領域》の[帰らずの森]にある《魔女の家》
それは神秘の魔力で護られ、悪意外敵を拒み、望む者が認められると招かれる、森の奥深くにある隠れ家で、《聖領域》で暮らす人間達にとっては、御伽話にもなっている憧れの終の住家。
ルリィが望んだその空間は、鬱蒼とした森の樹々茂みに、ぽっかりと穴をあけたような広場に小川が流れ、大きくも小さくも無いロッジ風の家屋を囲むように、腰丈の柵が建っていて、ガラスで作られた温室と畑まで設えられていた。
「・・・さすが魔法の世界」
森から続くウッドランドガーデンのような庭に、これは薔薇だろうか? 花は咲いていないが、葉の形からそう判断すると、花が咲いたらさぞかしメルヘンチックになりそうなエクステリアデザインに照れつつも、門扉のついていない蔦が絡まるゲート状の支柱に触れて魔力を通す。
すると、ルリィの足元に魔法陣が現れ筒状の青白い光りが立ち上がり、その身を包むとコレでこの家は自分だけの住まいになった。となぜか解る。実感できる。
「さすが、魔法の世界・・・」
今更ながら、感覚や記憶までよくわからない何かに一瞬で納得させられる《大いなる者の力》にゾッとしつつ、いやそれが魔法だ。と気持ちを落ち着け整えながらも、ワクワクしながら蔦のゲートに足を踏み入れた。
そんなルリィの身体に、尻尾を絡めながら横を通り抜けたニコは、早速ウッドデッキに上がると、日当たりの良い場所を探して歩き回り、ゲッコウもフンフンと匂いを嗅ぎながら、ウロウロと忙しそうだ。
ルリィは、どっしりとした扉を開けて家の中に入ると、ブーツを脱いで上り框にあがる。
浄化の魔法をかけるべく、全ての戸や窓を開け放ちつつ、とりあえず家の中をざっと見て回る事にした。
どうやらこちらは勝手口だったか?
使い勝手の良さそうな見るからに広い台所には、重厚な引き扉が二つあるが、おそらく食糧庫と地下室だろうから扉を開けるのは後回しにして、同じくこの世界でよく見る魔道具の、大きな3口コンロと、煉瓦造りのパン焼き窯、調理器具の棚を兼ねた作業テーブルがあった。
「おぉ、夢のアイランドキッチン・・・」
キッチンから続くこれまた広い居間には、暖炉の前に敷かれたラグの上に、鋳物脚のローテーブルと厳つい革製のソファー。
天井から吊られた、薄ら茶色がかったぶ厚いガラスランプの照明が、インダストリアル風インテリアに説得力を持たせている。
そこはあくまで中世ヨーロッパ風であって、モダンでチグハグな、映画のセットのような部屋だった。
そのまま向かいの壁にある一見動かせそうにない分厚い引き戸の前に立ち、魔石のついた金具取手に触れると、音も無く横にスライドし扉は開かれ、現れた部屋は住居部分のそれとは違い、床まで石ブロック造りの作業部屋で、用意されていたローファーに足を入れ、コツ と靴音をさせて一歩踏み込めば、馴染みのある道具が揃った[師匠の調剤室]そのものだった。
さらにその先の造りを同じくした扉を開けると、壁一面の薬箪笥の前にはL字型に一枚板のカウンターの先、落ち着いた色の無垢板の床には、柔らかな木漏れ日が窓から差し込み、こぢんまりとしつつも居心地の良さそうな店舗になっていた。
「あぁ、私、薬師を辞める気ないんだなぁ」
ルリィは、物憂げにカウンターを つるり と撫で歩くが、「ん? こんな森の奥にどうやってお客さん来るの?」と、続けて独りごちつつ、カウンターの向かい側にある、窓と扉を開けると、開閉を知らせる リリン! と言う高いベル音の他に、何かが当たって ガチャガチャ と鳴った。
みると、飾りかと思っていたそれは鍵束で、大きなリングにアンティーク調の鍵が何個もまとめられている。
真鍮だろうか? 色の違う石のチャームがついた可愛らしいデザインだが、鍵先を見るとみな同じ形をしているじゃないか。
ルリィは、家の中にこの鍵を使うような鍵穴などあっただろうか? と店の中を振り返り見回した。
「やっぱり飾り? それとも何かのスペアキー?」
そこはかとなく感じる違和感に首を捻りながらも、詳しい検証は後にしよう! と、鍵束を懐中に蔵って、居住スペースに戻る。
台所にあった重厚な扉の先は、思った通り食糧庫だったが、壁一面に作り付けられているそのひんやりとした、おそらく魔道具の棚いっぱいには、様々な食材が蓄えられていた。
「米!? 米があるじゃん!」
下段に積み上げられた穀物袋を確認すると、うるち米の他にも、もち米、インディカ米に、各種小麦の粉に、片栗粉、そば粉、日本にいた時、白米と一緒に炊いていた、はくばくの[おいしさ味わう一六穀ごはん]まである。
葉物野菜や果実類は庭に植っていたが、ナッツ類に豆やカボチャ、その他追熟が必要な根菜類も箱や袋いっぱいに並び、ガラス扉のついた棚の中は保冷庫になっていて、牛肉、豚肉、鶏肉、と、おそらく見慣れた鶏卵に、バターや牛乳まである。そして、そして!
「ギャー!! キューピーマヨネーズ!?」
その赤いキャップと独特のパッケージに歓喜の声を上げつつ、手当たり次第に見回せば、味噌まで日本で使っていた物そのままだった。
もしや、これは、いやでも期待し過ぎはいけない。と、ドキドキしながら移動した寝室には、天蓋付きのベットがどっしりと鎮座している。
「え、まって、これエアウィーブのマットじゃ無い!?」
それは、せめて寝具だけはいい物を。と奮発して買った高級マットレスで、震えながら歩み寄ったウォークインクローゼットの中には、愛用の羽毛布団がしまってあった。
まさか、まさかっ、と、もつれる足取りで駆け込んだトイレの戸を開けると、まごう事なき水洗洋式便器! そしてメイドインジャパンのトイレットペーパー!! これは!ひょっとして!? と焦る気持ちを抑えつつ、すり足で風呂場に向かう。
「温泉じゃん!!」
猫足の琺瑯と思しき浴槽に、なみなみと湯が張られ溢れ出ている。常にお湯が流れてこんでいるこれは、全日本人憧れの源泉掛け流し。
「最高かよっ!!」
期待以上のもてなしに、ルリィはガッツポーズを決めながら悲鳴さながら雄叫びをあげ、服を脱ぎ散らかすと、身も清めぬまま、その湯に ドボン! と身を沈めた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!」
この世界は風呂場に浴槽が無く、湯に浸かる習慣の無い世界だっただけに、身体中に染み渡る42℃の温もり、というには少し熱い湯を、数十年ぶりに掻喰らった。
「あ゙〜・・・なんでもっと早く探さなかったんだろうぅぅ〜」
力の強い幻獣達との森での暮らしは、他の魔獣の脅威がない分キャンプの様で楽しかったのだが、いまや記憶の中とは言え現代日本での暮らしの方が長い脆弱なこの身にとって、この世界でも人間社会での暮らしを当たり前。と思ってしまった己の馬鹿さ加減が悔やまれる。
日本とは比べ物にならない文明度合いでは、到底快適とは言い難く、しかも民度も低いときて、《魔女の家》の御伽話を耳にした時の憧れ具合に、自分はここの人間社会に馴染め無いのだと、十数年社畜のように過ごした日々を捨て去って、やっと、ようやく、自覚したのだ。
幸い孤独が苦にならない性格なのは、日本にいた時からの筋金入りだったので、《魔女の家》の存在を知ってからと言うもの「仕事を辞めたらいくらでも」「仕事を辞めた時のご褒美に」と、半ば意地になって、与えられた仕事を黙々とこなしていた過去の自分をぶん殴ってやりたい。
「はぁ〜2度も間違うところだった・・・」
ため息のように吐き出した息と共に漏れる独り言に、思わず笑ってしまう。
持って生まれた気質と言うのは中々に変え難いものらしい。
せっかく手に入れた2度目の人生なんだ。今度こそ自分の思うままに生きて良いのだと、この風呂の湯のように骨身に染みる。
ゲッコウじゃ無いけどこれからは楽しむことを優先させよう。今後の《魔女の家》での生活について考える。
居住スペースは、広々としたLDKと、寝室が別室になっていて、間取り的には1LDK。
キッチンには地下室の食物庫と、ちょっとしたパントリーの扉があって、リビングからは洗面所、トイレ、風呂と、廊下は無く、壁と扉を隔てて全ての部屋が続いている。
居間には暖炉があり、材質は石と木材だが、家全体の印象が、どことなく昔ちょっとだけ憧れた茨城の住宅展示場にあったロッジ風の展示家屋に似ている。
そして、食器棚の食器には茶碗と箸があった。
台所の調理器具、寝室の寝具は日本で使っていた物だったし、ブレットケースの中に入っていたパン達は、日本のあのお店で毎週買っていたものだとすぐにわかった。
一度試しに。と、近所の小売店のパン屋の食パンに手を出してしまったら、市販の食パンに戻れなくなってしまったあの食べ慣れた雑穀食パンと、バタール、胡桃の入ったカンパーニュ、このクロワッサンには大いに見覚えがある。香りもそのままにどうやら全て焼きたてのようだ。
流石に電気を使う炊飯器はないが、まさかと思って目の前にある大きな土鍋の蓋を開けると、炊き立て艶々の白米が湯気と香りを振り撒いて現れた。
他にも、各種パスタ乾麺、調味料のチョイスや、ハーブ類の品揃えも、生前日本で暮らしていたあの35年ローン購入したマンションのキッチンに常備してあった物と同じだった。
そう言えば、この家に入る時、なんの違和感もなくブーツを脱いだけど、上り框がある玄関など、この世界に来てから出会った事がないはずなのに。
ルリィは、水音だけが響く気持ちの良い空間で、一通り見て回った《魔女の家》を反芻した。
鑑定するとこのお湯の効能は、美肌と保湿。素晴らしい。
排水溝に流れていくお湯がどうしても勿体無いような気がするが、この湯がどこから来てどこへ流れているのかなんて、もはや考える意味すら無いのかもしれない。
「《魔女の家》って言うか、強欲の家だなこりゃ」
怖くなるほどの至れり尽くせりの設備に、なにか良くない事があるのでは? と、悪い癖が出てきてしまう。
「馬鹿だなぁ。世のため人のためになんて、なんの意味もない世界だったじゃないか。今度こそ、自分自身のためだけに生きようって決めたのに・・・」
風呂から上がり、リネンの布で綺麗に水滴を拭き取ってから、肌触りの良いモスリンの寝巻きに着替える。
この世界には電気がない。電気がないから家電もないが、代わりに魔道具があるので、金さえ稼げていればそれほど生活が不便な訳ではない。なのに布生地や料理などの発展が遅れている。これが結構地味に痛い。
平織り以外の布生地や、タオル素材の布がまだ無いんだ。
あわよくば、あちらの衣類布地はないかと期待したが、生前興味が無かったものは流石に具現化されなかったらしい。布物は寝具以外には見当たらず、食べ物に全振りしている残念な食いしん坊丸出しだ。
生活魔法で髪を乾かしながら、床に脱ぎ散らかされたこちらの世界で購入した服を拾い撫で、浄化してからきちんとクローゼットにかける。
こちらの世界には洗濯機どころか、電化製品が無い。代わりに魔道具や生活魔法で家事や身つくろいをこなすので、湯に浸かる風呂も概念自体が無い。
つまり、最初から湯船の作り付けられているこの《魔女の家》は、私の記憶から作られている、私だけの家だということがよくわかった。
数十年ぶりに風呂を満喫したルリィは、居間の暖炉の前の柔らかいラグの上に寝そべるゲッコウの腹に寄りかかり、胸の上でゴロゴロと喉を鳴らすニコを撫でながら、このふたりが今一緒に居てくれる僥倖に感謝する。
「コレからは自分のために生きるよ。やっと憧れてたスローライフ生活だ」
ルリィの、独り言の様な宣言に、ゲッコウが片目を開けて食事の用意を催促する。
「のんびりするのも良いが、俺は腹が減った」
「私はスイーツが食べたいわ」
ニコも、胸から降りて台所の方にルリィを誘導する。
「ハイハイ。まったく。私より食いしん坊なんだから」
ルリィは「よっこらしょ」と口に出して立ち上がると、「今日こそ約束していた異世界料理をご馳走するよ」と腕まくりをした。
ルリィが腕によりをかけたすき焼きとプリンを堪能したゲッコウとニコが、ヘソ天で各々の寝床でくつろいているのを横目に、リビングからつながる調剤室をすりぬけ店舗へ移動する。
魔道具のランプに明かりを灯し、カウンター内の椅子に座った。
椅子は ギィ と、小さく音を鳴らし、柔らかにしなる。そう言えば椅子はこちらの椅子なのだな。と思ったら可笑しくなったが、良い椅子を買ったのは“家”ではなくオフィスにだったと思い出して、あまりの社畜さに凹んだ。
今後の衣食住に困らなくなったとは言え、どうやら私は薬師を辞める気はないらしい。
自分の願い通りに作られる《魔女の家》に、調剤室付きの店舗があるのが何よりの証拠。
それはそのまま、以前自分を育ててくれた師匠のポーション屋と同じ作りをしていたが、1つだけ大きな違いがある。
店舗のカウンター内には[コンティネス]ほどでは無いが、大きな薬箪笥が設えられているのだ。
ルリィは、ドキドキとしながらその引き出しの一つを開けてみた。
そこには、ラベル通りに、正しく下処理された薬草が入っていた。
引き出しからそっと乾燥した薬草を取り出し、引き出しを閉める。
カウンター下から出したパラピン紙の上に、取り出した薬草を置いて、再び同じ引き出しを開けると、中にはまた最初の開けた時と同じだけ、薬草が満たされた状態で現れた。
「おわあぁ・・・マジか・・・」
ルリィは、全ての引き出しを開け中身を確認する。
全ての引き出しに、正しく下処理された薬材がたっぷりと入っていた。
滅多に手に入らない希少な薬材さえも。
「これは、なかなか・・・ヤベェな・・・」
庭にあった温室はおそらく薬草園、生の状態で使わなければならない薬材が、それこそ全て備えられているのだろう。それも採ったら採っただけ生え代わりそうだ。
「《魔女の家》・・・夢のよう」
薬師の為の《魔女の家》を、人との関わりを捨てた事により手に入れた。この歳になって、ある意味やっと異世界チートを与えられたと言う事か。
「・・・でもこれ、人に売らなきゃ意味ないのなぁ〜」
まだまだ人の為に働けって事なのかな。と、やはり、異世界転生はなんらかの役目に縛られるのだ。と、何某かの神の思惑にため息をつきつつも、これでやっと、自分のやりたかった研究に専念できるのかも。と、気持ちを切り替える。
薬師になったルリィは、この世界のパッケージの拙さに辟易していた。
ただのガラス瓶を封蝋して市販されているポーションだが、いかんせん保存が効かないただのガラス瓶だ。もっと工夫の余地があると、ずっと考えていたのだ。
問題の全てを《魔法》で解決してしまう世界で、日々の仕事に忙殺され、品質保存の技術が圧倒的に遅れている。
本来病気や怪我も、治療魔法で治してしまう世界だ。
ただしそこには必ず治癒魔法師の存在が必須で、その殆どが神殿などの聖職者として存在し、独占されているとなると、湯水のようにとは言わないまでも、金を落とせる特権階級者だけに与えられた贅沢な施術で、一般の民草の者になど回ってくるはずもない。
その代案に作られた ポーション と言う御光は、そもそも多くの民草の物のはずなのに、その力すらも貴族階級が私服を肥やす為に独占しようとした挙句がこの始末である。
世を憂いた先人達が、それなりに策を練って《薬師の誓い》だ《神聖制約》だと、研鑽したレシピを伝え遺してきたのかもしれないが、あまり上手くいってないように感じる。
「・・・本当に必要な人にだけ売れると良いんだけど・・・」
「その願いが叶うのが《魔女の家》なのでしょう?」
カウンターで頬杖をつきながらもらしたルリィの独り言に、いつの間にかそばに来ていたニコの尻尾が スルリ と顔を撫でるようにまとわりついた。
「あぁ、なるほど。私がここでポーション屋を開けば、お客さんは勝手に選別されるのか!」
ここは 心からそれを欲した者だけが訪れる事ができる《魔女の家》 必要な人の前にだけ道が開かれるのだ。
「やれやれ。それじゃぁ私はこれまで通り、ポーションを作る事にしましょうかね」
ニヤニヤと顔を緩ませたルリィに、ニコはまた スルリ とそのご機嫌な尻尾を擦り付けた。
いつにも増して爽快な朝を迎えたルリィは、サンドイッチとコーヒーで簡単に朝食を済ますと、さて。と家の外に出る。
気になっていた温室の中に入って、地方寒暖差の無い薬草の生育具合に驚愕しながらも、おおよそ想像通りだった事を確認すると、森を探索していたらしいウチの警備隊長殿がちょうど戻ってきた。
ゲッコウは、身を低くして蔦のゲートをくぐりぬけ、ルリィの目の前まで来ると、背に乗せた少女を振るい落とし、口に咥えていたさらに小さな少年を ペッ と投げるように吐き出した。
「ゲッコウ・・・もっとこう、優しく」
水場で口を濯いでいるゲッコウを嗜めつつも、地面で目を白黒させている少女を抱え起こすと、その震える手の細さと、汚れボロのような装いに、ただ事では無い事にすぐに気づいた。
「いらっしゃいませ。[魔女の薬屋]へようこそ。どんなポーションをお求めで?」
ルリィは、胡散臭いほどに優しく少女に話しかけるが、少女はそのまま気を失って倒れ込んでしまうのだった。
甘い香りでマルリが目覚めると、フカフカな毛布に包まれ温かい。
見慣れぬ天井と壁に目をやると、レースのカーテンの隙間から、ガラスの窓を通した柔らかい陽射しが差し込んでくるのが見えた。
隣では、弟のシャルが親指を咥えて眠っていて、その口からチュクチュクと音を立てている。
マルリはシャルの親指を口からはがし、その頭と落ち窪んだ頬を撫でた。
最後にまともな食事をしたのはいつだっただろう? 母親が病に倒れてから、具材の少ない薄いスープと、村長から配られたブロートを削ってと、なんとか家にあるものでやりくりしていたが、最後のパンのカケラを食い尽くしてから数日、とうとう食べ物を探して森に入ったは良いが、ついてきてしまった幼い弟を魔獣から逃げ守りつつ森を彷徨い歩いて、大型の犬の魔獣に捕まって、命が尽きてしまったのだと気づいた。
そうするとここが天国なのかしら。そう思った時、お腹が ぐうぅぅ と悲鳴をあげた。
「あら? 起きた? ホットケーキがあるよ。食べる?」
見知らぬご婦人の声に、マリルは慌てて身を起こした。
「誰ですか!? ここはっどこですか!? お母さんはっ!?」
急に引き戻された現実に驚いて声をあげると、目覚めマリルにギュッとしがみついたシャルの身体を抱き込む。
「私は薬師のルリィ。ここはポーション屋さんです」
「まずは温かいミルクでもいかが?」と、本を閉じ、歩み寄ってきたご婦人に促されるまま、テーブルにつくと、目の前にある暖かな何かを、あっという間に手で掴み、シャルがむしゃぶり食いついた。
一緒に卓についたご婦人が、皿の横にあった銀色の食器を使ってそれを食す。
マルリはそれを真似て、ナイフで一口大に切り取ったそれを、フォークで刺して口の中に入れた。
ジュワリ と、甘く、暖かな何かが口に広がる。
マルリはボロボロと涙をこぼしながら夢中で咀嚼した。
「おかわりもあるからね。ホットミルクも飲んで。たくさんあるからゆっくりお食べ」
ご婦人に差し出された真っ白なリネンで顔を拭いながらも、溢れる涙を止める事ができずに泣きながら無心に食べた。
「私はカズル村のマルリ、コレは弟のシャル。森に、勝手に入ってごめんなさい」
皿を空にすると、再びうつらうつらと、船をこぎ始めたシャルを膝に乗せ横にさせて、さっきまで寝ていたソファーの上で、自分の事を語り始めたマルリに、ルリィはすっかり同情していた。
どうやら村ではそう致死率の高くない流行病が蔓延し、母親も病床に着きしばらくして子等が飢え、食べるものを求めて森に入って彷徨っていたところを、ゲッコウに拾われたようだ。
聞くとマルリは12歳と言う事だが、見た目は10にも見た無いほど痩せ衰え、そうなる前から貧困していた事が窺える。
この子達が何かの病に罹っている事は無さそうだが、このまま村に戻せばそれも時間の問題だろう。
「お母さんは長く患っているの?」
「冬になるちょっと前から寝込むようになっちゃったの」
ルリィの質問に短く答えたマルリも、眠たそうに目を擦っている。
1ヶ月ほどか? と目安をつけて、流行病と言っても、早急性なものでは無いらしい。
「村には何人ぐらい大人がいるの? みんな寝込んでる?」
「数はわからない。家に寝込んでいる大人がいると友達みんなが言ってた」
カズル村、王都から北に10日ほどの集落ではなかったか? 確か辺境伯爵邸がある町からは3日。薬師のいない集落だ。辺境伯爵邸がある町に監査に行く事のある薬師が帰りのついでに見回ってくる街道の集落だ。そこに頼よざるを得ない小さな集落だろうが、村全体が飢えているというのはどうゆう事だろう? 辺境伯領は比較的富んでいたはずだ。
「しばらく戦争の話はなかったはずだけど?」
「街道に盗賊が出たって隣の家のミジュが言ってた。でもそれはずっと前」
あぁ、去年の冬の前、北の国境で少々規模の大きな諍いがあったと新聞でみたな。
他国の挑発と見たようだけど、そうゆう諍いの後は、集められた兵士の中で、必ずその後野盗集団ができる。多かれ少なかれ、負けた方も勝った方も関係無く、人の営みからあぶれた兵士が野に落ちるのだ。
なんとかその争いは収めたが、短期の争いと、食うに困らぬ土地で、仕事にあぶれその後になって思いの外多くの野盗が途中の街道に居座ったか。
そのせいで流通が滞り、1年かけて飢えがのっぴきならないところまできてしまったと言うところか。
王都からは遠く、辺境伯爵府はとりあえず国境のことで精一杯。その皺寄せに、間にある弱い集落が割を食ったわけだ。
それにしても、自分は反対側の南から[帰らずの森]に入って見つけたこの《魔女の家》だが、子供の足で森を突っ切ることなど不可能だ。ここは確かに求める者のために開かれるようだ。
「飢え。かぁ、薬師の出番あるかなぁ」
眠ってしまったマリルに毛布をかけ直し、とりあえず炊き出しの準備をすると、たっぷりと寝て明日の朝、カズル村に向かう事にした。