鳴り止まないで、そばにいて⑧
「た、ただいま……」
目まぐるしい1日を終えて自宅に戻ったら、時計はてっぺんを越えていた。
詰めている仕事も今は無さそうだし、ユキさんは既に寝ているだろう。
静かにリビングダイニングを通り抜けて、自室に入る。
取り敢えず風呂に入りたい。明日も早いし、とっととシャワーで済ませてしまおうと考えて、着替えを手に取り部屋を出たら。
静まり返ったリビングの窓の外で、白い煙が細く伸びるのが、うっかり目に止まってしまった。
天敵だと思っていたのに、最近は何故だかちょっと、絆されている自分がいる。
「タバコ、多くないですか?」
ガラス戸を開けて、小声で隣のバルコニーに声をかけた。
「おー、お疲れ。今帰ってきたのか?」
「はい」
「忙しそうだな」
龍臣さんは俺の姿を確認すると、長く紫煙を吐きながらタバコを灰皿に押し付けた。
そんな気遣いができる人だったんだな、と少し認識を改める。
「忙しいですけど、楽しくやってます」
「そうか。ま、それが一番だわな」
あの頃とは違う笑い方。タバコの、香り。
憑き物でも落ちたのかと思わせるくらい、今は軽やかに生きているように見える。
持ち込んでいたらしい缶ビールを一つこちらへ差し出して、龍臣さんはもう一本のプルタブを開けた。
「ありがとうございます」
「……あいつ、大丈夫そうか?」
「昨日は……少し沈んでましたね。今日は朝、出がけに顔見たくらいなんで、話できてないです」
冷えたビールが、帰ったばかりでまだ暑さの残る体に染み渡る。
「ユキは結構図太いけど、過度のストレスは自分でもわかってないだけだったりするからな」
「元カレムーブやめてもらっていいですか不愉快なんで」
「これは幼馴染としての発言ですう」
「ユキさんのことよく知ってますマウントじゃないですか」
「まぁ実際綾瀬より、よーく知ってるしなあ?」
「くっっそムカつく」
腹は立つけど事実なので、唇を噛み締めるしかない。
龍臣さんはくつくつと楽しそうに笑って、手をひらひら振りながら謝意を見せた。
「マジな話するけど、あの人には気をつけろよ」
「あの人って……ユキさんのお母さんですか?」
「そ。話通じる人じゃねーから。万が一会いに来たり、ここを突き止められたりしたら、門前払いですぐ逃げろ」
「そ、んなヤバい人なんです?」
そんな恐ろしい人には見えなかったけど。
頬を引き攣らせて聞くと、龍臣さんは厭悪に歪む瞳を隠すこともなく、口元だけで弧を描く。
「毒親ってやつだよ。所謂な」
「……家族仲は、いいと思ってました」
「おー、はちゃめちゃ円満よ。あの人を除けば。つか離婚してるし、ずっと会ってもないみてーだし、今更家族でもないだろ」
「俺、詳しくは聞けてないんですよ」
「じゃあ俺とユキの出会いの話をしてやろう」
「要らねーですね!」
「即答ー」
この人、ふざけてるのか真面目なのかわかんないな。
俺を揶揄って遊んでいるだけの気もするし、ちゃんと話してくれているような気もするし。
「作曲にも使ってるし、ピアノが弾けるのは知ってるよな?」
「はい。ヴァイオリンも」
「護身術は仕方なくだったみてーだけど、その2つと学習塾と、書道教室と、あとなんだっけ、英会話? とかは母親が習わせてたな」
「……うわ、習い事祭りですね」
「本人は今役に立ってるからいいって言うけどな。あいつに、自由な時間なんかほぼ無かった。まあ、そういうことだ」
龍臣さんはビールをまた一口呷って、ガコッと少しだけ缶を凹ませた。
「俺が一番気持ちわりぃと思ったあの女のセリフ、“私の完璧な雪仁”ってやつなんだけど」
「……」
「マジで吐くかと思ったわ」
「今更ですけど、これ、聞いちゃっていいやつですか?」
龍臣さんの嫌悪感が伝播するように、自分の中でもグルグルと鈍色の感情が渦巻いて、思わず話を止めた。
人伝に聞いていい話でも無いと思ったのも、確かなのだけど。
「はは、今更だな。大丈夫だよ、そういう人間だから気をつけろってだけ」
「はぁ」
「間違っても、話し合えばわかってくれるとか、子供を愛してるがゆえだとか考えるなよ」
「そこまでは……」
「変わらねーんだよ、ああいう奴らは」
「……」
もう一度缶を呷って、今度はグシャリと握り潰す。彼の怒りが、そこに全て込められていた。
複数系のそれが何を指すのかはわからなかったけれど、彼もまた、家族に苦しんだ過去があるのかも知れない。
「あの、すっごい聞くの癪なんですけど」
「おう、素直でよろしい」
「ユキさんが落ち込んでる時って、何が1番効きますか?」
こんなこと聞きたくない。聞きたく無いけど、曲がりなりにもユキさんと長年幼馴染なわけだし。
「いつも通りでいい」
「え、」
「あいつは、それが1番安心する。特に、お前が相手なら」
酷く穏やかな顔で優しい声色を奏でた彼を、まじまじと見つめてしまった。
「で、も」
「それでもどうにもなんなかったら……」
「かったら?」
聞き返すと、龍臣さんはちょっと間を空けて押し黙った。なに、なんで。
「あーー、いや……」
「なんスか!」
「たらふくいい肉でも食わせとけ」
「絶対違う! 今絶対別のこと言おうとしてましたよね!?」
「まぁまぁ、ほら、聞かねー方がいいこともあるぞ?」
焦って誤魔化してる辺りが怪しい。
じとりと睨むと、彼は苦笑を溢して潰した缶を振った。
「あーあと、話戻すんだけど」
「え、はい」
「もしなんかあったら、晴一さん、ユキの親父さんと姉ちゃんに相談しろ。それが手っ取り早い」
「……は、はい」
「連絡先なら俺が知ってるから、俺に言ってくれたらいい」
「わかりました」
そんな事態にならないことを願っているけど。
もらったビールを自分も一息に呷って、先ほどの彼を真似るように缶を振る。
「ご馳走様でした。あと、」
「おう」
「あーのー……」
「なに」
「あー、りがとう……ございます」
「ぶはっ、そんな嫌そうに!」
「癪なことに変わりはないんで!」
「お前いい奴だなあ」
「今のどの辺が!?」
カラカラと楽しそうに笑う龍臣さんは、ちょっとよくわからない感想を漏らして戻って行った。
「付き合ってもらって悪かったな。おやすみ」
「おやすみなさい」
シャワーを浴びてリビングに戻ったら、寝ていると思っていたユキさんがソファでクッションを抱えていた。
「ユキさん? ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
「いや、起きてた。おかえり」
「ただいま」
朝はバタバタ出てきてしまったから分からなかったけど、いつものユキさんとはやっぱりちょっと違う気がする。
隣にゆっくり腰を下ろして、頬に触れようとしたら、ユキさんは抱えていたクッションを脇に置いて俺に抱きついた。
「……珍しい。どうしたんですか?」
「甘えてる」
「えー、可愛いなぁもう」
「明日、早いのか?」
「うーん、5時には出なきゃですかね」
「……3時間くらいしか寝れないじゃん」
愕然とした表情のユキさんに、社畜精神が徐々に解消されてきたなと笑う。
前は自分がこのくらいの睡眠時間だったのに。
「現場で寝るから大丈夫ですよ」
「なら、いいけど」
「ユキさんも仕事でしょ。もう寝よ?」
「……うん」
手を引いて自分の部屋へ招くと、何も言わずについて来てくれた。
いつものようにおやすみのキスをして、抱きしめて眠る。
感じた少しの違和感には、気づかないフリをした。




